■尾形英紀死刑囚「死を受け入れるかわりに反省の心をすてました。将来のない死刑囚には反省など無意味」2010-12-25 | 死刑/重刑/生命犯 問題
7月28日に千葉景子法務大臣に死刑執行された二人
2010年7月29日 7月28日に千葉景子法務大臣に死刑執行された二人が、2008年にフォーラム90のアンケートに答えた原稿を掲載します。(『命の灯を消さないで』インパクト出版会刊より)
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篠澤一男さん(東京拘置所)
宇都宮宝石店6人放火殺人事件(2000.6.11)
1951年3月13日生まれ
2002年3月19日 宇都宮地裁(肥留間健一)にて死刑判決
2003年4月23日 東京高裁(高橋省吾)にて死刑判決
2007年2月20日 最高裁(那須弘平)にて上告棄却、死刑確定
いつ死刑になるのか、きもちのせいりがつきません。死刑とはざんこくなものです。
死刑とは死刑の判決をもらった人しかわからない重いものがあります。まい年、確定の日などはねむれません。
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尾形英紀さん(東京拘置所)
熊谷男女4人拉致殺傷事件(2003.8.18)
1977年7月20日生まれ
2007年4月26日 さいたま地裁(飯田喜信)にて死刑判決
2007年7月18日 控訴取下げにより死刑確定
死刑囚の気持ちや考えを聞いてもらえる機会を与えてくれてありがとうございます。
事件を起こしてから現在に至るまで、考える事や納得のいかない事が数多くありすぎて、それをすべて書いていたのでは、何十枚も書くことになってしまうので簡単に書きます。
まず、事件についてですが、見張り程度しかしていない共犯が2人います。
すべて俺のやった事ですが、4人を殺そうとして2人を殺害、2人は殺人未遂の事件です。
事件当時の俺は、かなりの酒を飲んでいたためと、あまりにも興奮していたので、ほとんど記憶がありません。ただ、あまりにも強烈な印象がある部分だけが、はっきりと記憶に残っています。
しかし、それでは警察も検事も都合が悪いので、事件当日の行動の大まかな所は、共犯の記憶などを総合して作り、もっとも大事な部分は刑事と検事が作りあげたストーリーが裁判で認められてしまいました。それは最初から殺害の話し合いをしてから殺しに行ったというのですが、全くのウソなのです。
裁判では、不利になるのは分かっていましたが、殺意を持った事を認め、いつの時点で殺意を持ったかも証言しました。
実際には暴行している時に被害者が死にそうになった時にはじめて「それなら殺してしまえ」と思ったのです(その時の精神状態では、そのようにしか考えられなかったのです)。それ以前は殺意はもちろん、死ぬ可能性すら考えもしませんでした。
しかし、検事と刑事の調書にははじめから殺意を持って行動したとなっていました。何でその様な調書になったのかと言うと共犯も証言していますが、共犯2人が事実と違うのは分かっていたけど無理やりにサイン・指印をされ、俺の調書は最後のページのサインがある所以外を差し換えられました。警察と検事はあたり前の様に不正をしているのが現状で、不正をかくすためには裁判の証人尋問で平気でウソをついています。しかも裁判も全くの茶番で検事の言う事をすべて認定してしまいました。
殺意についての証人尋問で刑事と検事の言っている事がくい違い、苦しまぎれに少しだけ、俺の言っている事が正しいと刑事が証言したにも関わらず、俺の言っている真実は都合が悪いからはじめから聞く気がありませんでした。完全に結果ありきの裁判です。
一審で2度にわたり精神鑑定を受けました。一度目は裁判所が認定した先生でした。その先生はよく調べてくれ、調書よりも俺の証言の方が信用できると証言してくれました。それは俺の言っている方が精神医学上もふくめ自然であり、しかも俺の証言は自分にとって不利になる事まですべてを言っているからです。その結果、部分的ではあるが(1人目殺害)、責任能力がいちじるしく低下していたと判断されました。
その為に検事が納得せずに2度目の鑑定となったのです。2度目の先生は検事の推薦した人であり、検事の犬になり下がった人でした。当時の俺の考えなどは1度も聞く事もなく、ただ事件の経過を聞いただけで、すべて検事や刑事の調書を参考に鑑定書を作ったのです。
はじめからやる気のない鑑定士を採用し、驚くことに裁判では、一度目に真面目にやった先生の鑑定を棄却し、やる気のない検事の犬の鑑定を採用したのです。
俺は責任を逃れたいのではなく、今の日本の裁判や刑事や検事のやっている事が許せないのです。一般の人は信じないと思うけど、今の刑事は事件のでっちあげも日常的にやっているし、まして調書の改ざんなんてあたり前にやっているのです。だけど無実を訴えても今の裁判では無罪になる事はないし、たとえ無罪を勝ち取っても年月がかかりすぎるから、懲役に行った方が早く出れるので皆、我慢しているのです。俺の殺人などは事実は変わりませんが、事件の内容はかなりでっち上げなのです。だから俺は100%無罪の死刑囚は何人もいると思っています。
検事の主張ばかり聞く裁判は不公平ですが、一般の人から見れば刑事や検事の言ってる事は無条件で信じられるのだから、来年から始まる裁判員制度では冤罪も今まで以上に多くなると思います。
事件に関して長くなってしまいましたが、死刑囚が考える死刑制度について、一般市民の考えているものとは違う所もあるかと思うので書かせてもらいます。
収容者と話す事はありませんが、他の死刑囚を見ると本当に殺人をやった人なのかと疑えるほど普通の人です。俺はぐれ始めてから、ヤクザやその他のアウトローを社会や少年院、刑務所で数多く見てきましたが、それらの人達と比べてもかなり気の弱くおとなしい印象です。きっと心から反省しているので、そう見えるのかもしれませんが、俺はそれだけでなく、本当に普通の人達なのだと思います。
どの様な事件を起こしたのか知りませんが、色々な理由により精神状態が乱れ、普段ならまともに判断できる事が出来なかっただけなのだと思います。だから、誰にでも死刑囚になる可能性はあると思います。
自分の気持ちは後で書きますが、本当に心から反省している死刑囚を執行する事で本当に罪を償う事になるのでしょうか? 罪を背負って生きていく事が、本当の意味での償いになるのではないかと思います。日本人の美徳として死者に対して悪く言ったり思ったりしない所がありますが、何か問題を起こしたり、犯罪を犯した後に自殺をする人達に対して、一般の人の中には責任を感じての自殺、アウトローの人の中にはケジメをつけたという考えをする人がいます。本当に自分自身でケジメをつけたと思える人もいるので、すべてを否定はしませんが、俺には、つらい事から逃げただけにしか思えない事のほうが多いと思います。被害者や遺族の感情は自分で犯人を殺したいと思うのが普通だと思います。今は連絡を取っていませんが、両親・姉・元妻との間に二人の娘がいます。俺だって家族が殺されたら犯人を許すことはないし、殺したいと思うのがあたり前です。
しかし、それでは、やられたらやり返すという俺が生きてきた世界と同じです。死刑という名の殺人を国家権力がやっているにもかかわらず、国民にどんな理由があろうと殺人を禁ずるのはどういうわけだ。世界では色々な所で国家による虐殺があったようだが、それと日本の死刑とどこが違うのか?日本の法律にのっとり死刑があるように、虐殺のあった国にもその国の法律(権力者)にのって死刑にしただけだろう。
色々と考えながら書いているので、ちょっと興奮してしまいました。
死刑囚を助ける活動をしている先生に対して言う事ではないし、やつあたりの様な事を書いてしまったので、書きなおそうとなやみましたが、俺の考えでもあるので、失礼は承知のうえ、このまま続けさせて頂きます。話を戻します。
俺の考えでは死刑執行しても、遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変わりませんし、償いにもなりません。
俺個人の価値観からすれば、死んだほうが楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。死を覚悟している人からすれば、死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、つらい生活から逃してくれているだけです。だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。
死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました。
なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。
もちろん他の死刑囚は日々反省していることと思います。俺は、ただでさえ東拘には人権など全くないし、24時間カメラで監視され独居にいて、執行されるのを待っている中で、事件や遺族・自分の家族の事を考えていたのでは気がおかしくなるし、ストレスだらけで、そんな余裕すら1秒もありません。
俺のように反省する気がない死刑囚もいる中で、ほとんどの死刑囚は日々反省し、被害者の事も真剣に考えていると思います。そういう人達を抵抗できないように縛りつけて殺すのは、死刑囚がやった殺人と同等か、それ以上に残酷な行為ではないのですか?
俺が執行されたくないのではありませんが、その様な事などを考えれば、死刑制度は廃止するべきです。
言いたい事が色々と多く長くなってしまいましたが、切りがないので、この辺で失礼します。今の気持ちを伝える機会を頂き、ありがとうございました。
追伸
最近、執行が多くなりましたが、執行について意見があります。
執行時に求刑・判決を出した検事・裁判官それに法務大臣らが自ら刑を執行するべきです。それが奴らの責任だと思います。
それと執行時・その後に死刑囚の希望があった場合、絶対に経をあげてはいけないようにして下さい。俺は宗教が嫌いだし、経は死者に対してではなく、生きている人達の気やすめでしかありません。俺の執行時・執行後は絶対に宗教関係の事はやらないようにお願いします。
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■視座「後世の人たちにお詫びを」 内山 節(立教大学大学院教授 哲学者)
中日新聞2012/01/29 Sun.
私たちは誰でもお詫びをしなければならないときがある。それは自分の失敗やミスで迷惑をかけてしまったときで、一度もお詫びをしたことのない人は、この世にはいないだろう。
失敗やミスは誰にでもある。大事なことはそれに気づいたとき、ごまかしたり逃げたりしないで、率直にお詫びし、そういうことが二度と起きないように努力することだと、かつて私たちは教わっていた。
そんなことを思い出したのは、現在の私たちは、お詫びしなければならない時代を生きているように思えてならないからである。私たちは自由気ままに生きているうちに、八方ふさがりの未来をつくりだしてしまった。
経済の成長だけを追い求めている間に、国債は破たん寸前になってしまった。破綻すれば猛烈なインフレや不況が社会を破壊していく可能性が高い。それを回避しようとすれば、展望のない増税が待っている。増税によって未来の展望が開けるというのならまだよいが、それは過去の負債を処理するだけの増税であり、いま私たちに迫られているのは、国債の破綻と増税のどちらの方が、よりましか、という苦しい選択である。
若い人たちが働くことに夢をもてないような時代をつくりだしてしまったのも、私たちがつくりあげた経済社会の結果であった。誰もが自分だけの自由を追い求め、それは社会のつながりを崩壊させてしまった。高度成長以降の歴史のなかで発生していた失敗やミスが、隠すことができないほどに露呈してきた時代、それが現在なのである。しかもそれらは、後世の人々にまでさまざまな負担を強いることになるだろう。ちょうど原発の処理を、後世の人々にまで背負わせざるをえないように、である。
こんな現実をみていると、私たちはまずまずの社会をつくってきたとか、それなりにうまくやってきたという思いを捨てなければならないと私には思えてくる。むしろ経済や国家、社会のつくり方にどんな失敗があったのか、私たちの労働や消費、生活のあり方にどんなミスがあったのかを、真剣に考えていかなければいけない時代が今日だという気がする。そしてそれらのことに、まずはお詫びしなければいけない。また、率直に失敗やミスを認めて、それを繰り返さない方法を考えなければならない。いま私たちはそういう時代に生きているのではないかという思いを私に抱かせる。
政治家も官僚も経済界の人たちも、この八方ふさがりの未来をつくりだしたことをまずはお詫びしてほしい。そして私たちもこのツケを渡さざるをえない後世の人たちにお詫びをしなければならないだろう。このけじめがつけられなければ、誰もが他者の犠牲を顧みないで、自分の都合だけで生きようとする相互不信に満ちた社会をつくりだしてしまう。
哲学や倫理は、それが壊れた社会の破綻が明らかになったとき、その必要性が広く意識されるものである。だからそれらは、不幸な時代の学問だということもできる。自分たちの社会にどんな「不幸な問題」が隠されているのかにいち早く気づいた人たちが、新しい哲学や倫理をつくりだしてきたのである。
今日もまたそんな時代なのであろう。だから私自身も、この時代をつくりだした責任と、真剣に向き合える人間でありたいと思っている。
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〈来栖の独白2012/01/30 Mon.〉
>私たちは誰でもお詫びをしなければならないときがある。
共鳴する。自分の失敗やミスで苦しめたり希望を失わせたりしたことを悔やみ、心から悼む。人間らしい感情だ。この行為は、心中を見透かすことのできぬ外部(裁判官・メディア・世間)の評価や自利とは無縁である。この瞬間、人は、人間たりえる。「明日」のことは論外である。
*Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy『カラマーゾフの兄弟』より
地上の静寂は天上の静寂と合し、地上の神秘は星の神秘と相触れているように思われた・・・アリョーシャはたたずみながらながめていたが・・・ふいに足でも薙がれたように、地上へがばと身を投じた。
彼はなんのために大地を抱擁したか、自分でも知らない。またどういうわけで、大地を残るくまなく接吻したいという、おさえがたい欲望を感じたか、自分でもその理由を説明することができなかった。しかし、彼はなきながら接吻した、大地を涙でうるおした。そして、自分は大地を愛する、永久に愛すると、夢中になって誓うのであった。『おのが喜悦の涙をもってうるおし、かつその涙を愛すべし・・・』という声が彼の魂の中で響き渡った。いったい彼は何を泣いているのだろう? おお、彼は無限の中より輝くこれらの星を見てさえ、感激のあまりに泣きたくなった。そうして『自分の興奮を恥ようともしなかった』ちょうどこれら無数の神の世界から投げられた糸が、いっせいに彼の魂へ集まった思いであり、その魂は『他界との接触に』ふるえているのであった。彼はいっさいにたいしてすべての人をゆるし、それと同時に、自分のほうからもゆるしをこいたくなった。おお!それは決して自分のためでなく、いっさいにたいし、すべての人のためにゆるしをこうのである。『自分の代わりには、またほかの人がゆるしをこうてくれるであろう』という声が、ふたたび彼の心に響いた。しかし、ちょうどあの蒼穹のように毅然としてゆるぎのないあるものが、彼の魂の中に忍び入るのが、一刻一刻と明らかにまざまざと感じられるようになった。何かある観念が、彼の知性を領せんとしているような心持ちがする、----しかしそれは一生涯、いな、永久に失われることのないものであった。
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尾形英紀氏「将来のない死刑囚には反省など無意味」/私たちは誰でもお詫びをしなければならない時がある
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