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安部龍太郎著『等伯』378〜400回/すべての芸術も、この感応力を基礎としている/孤独である

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安部龍太郎著『等伯』378回
日本経済新聞2012/02/14 Tue.
 等伯の体が総毛立った。怒りと哀しみと絶望とがないまぜになった激しい感情が突き上げ、泳ぐように人をかき分けて前に出た。
 頭が白熱して何も聞こえない。時間が止まったように、すべてのものが静止している。
 等伯には、胴丸に毘の文字を大書した上杉家の兵しか見えなかった。鶴翼(かくよく)の陣形をとった50人ばかりが、いっせいにこちらに向かってくる。
 等伯はその真ん中を打ち破ろうと、右手を大きく振り上げて突進しようとした。
 と、その手をしっかりとつかむ者がいた。はっと現実にもどると、袖なし羽織を着た茶人風の男がぐっと体を寄せてきた。
「やめときなはれ。こんなことをするようでは、治部も豊臣も運の末や。殺されるだけ損でっせ」
 言葉は諧謔に満ちているが、目が泣いている。利休の死を深く悲しむ者だということは一目で分かった。
 等伯は見知らぬ男に群衆の中から引き出され、いつの間にか一人で都大路を歩いていた。何も思わず何も感じず、茫然としたままよろめきながら歩いている。
 五感のすべてを利休の側に置き忘れてきたようで、ここがどこかも分からないまま大徳寺の三門をくぐった。足が無意識のうちに、等伯を三玄院につれていったのだった。
 やがて田舎くさい顔をした老僧が応対に出た。利休の死を悼み、白装束に身をつつんだ春屋宗園だった。
 等伯は宗園をじっと見つめた。(略)
「喝(か)--っ」
 宗園が天地を切り裂く声をあげた。
 等伯は目が覚めたように自分を取り戻した。その瞬間、首筋に激痛が走った。
「ああ、ああ・・・」
 等伯は両手で首を押さえて庭に転げ落ち、美しく掃き目を入れた砂を掻いてもがき苦しんだ。
 人には感応力がある。愛する人が痛み苦しむのを見れば、我身にも同じ痛みを感じるものだ。
 多忙をきわめ雑事に追われていると忘れがちだが、自然に近い生き方をしている人ほど、この感覚を豊かにそなえている。
 そしてすべての芸術も、実はこの感応力を基礎としているのである。

安部龍太郎著『等伯』379回
日本経済新聞2012/02/15 Wed.
〈前段略〉
「相変わらずの未熟さよ。どうやら禅には縁がなかったようじゃな」
 修行ができていれば、生首を見たくらいであんなに動揺はしない。師に会っては師を殺し、仏にあっては仏を殺す。何物にもとらわれず、その奥にある普遍に通じるのが悟りというものだと、落胆したようにつぶやいた。
〈略〉
「ならば宗匠の肖像を描け。生首を想い、切腹や打首の苦しみを想い、これまでの苦しみを想って、あのお方と向き合うのじゃ」
 利休がすべての責めを負って自決したおかげで、大徳寺に関わりのある多くの者が救われた。絵が出来上がったなら賛(さん)をするので持ってこいと、宗園は淋しげな遠い目をした。
〈略〉
 利休の処刑の二日前、洛中には秀吉を痛烈に批判する次のような落首がはり出された。
   十分になればこぼるる世の中を
      御存知なきは運の末かな

安部龍太郎著『等伯』380回
   おしつけて言えば言わるる十楽(じゅうらく 聚楽)の
      都の内は一楽もなし
   末世とは別にはあらじ木の下の
      さる関白を見るにつけても
 他七首。いずれも現政権への怨念がこもったものばかりである。
〈略〉
 生首となって木像に踏まれていた印象があまりに強烈で、生前の健やかな姿を思い出せない。その残像をふり切って絵を描くことを、体が頑強に拒否していた。
 それでも等伯は画帳の前から離れようとしなかった。逃げることなく利休の生首と対峙しなければならぬ。それを真っ正面から乗りこえて肖像画を描かなければ、非業の死をとげた利休を背負って生きることにはならない。そう覚悟をさだめていた。
 釈迦は六年、達磨は九年。直面した問題を乗りこえようとする愚直なばかりの正直さは、等伯の持ち味である。
 その間にさまざまの思いが去来していった。

安部龍太郎著『等伯』400回
 三日たち四日が過ぎると、清子(せいこ)が次第に気を揉みはじめた。
「お前さま。久蔵さんを捜しに行かなくていいのですか」
「どこへ捜しに行くのだ」
「どこって、親しい人の所とか心当たりの場所とか」
「そんなものはない」
 等伯は突き放した。
 表現者は孤独である。誰ともちがう、誰にも真似のできない境地をめざして、たった一人で求道の道を歩きつづけなければならない。
 久蔵はその境地をめざして、自分と向き合う旅に出たのだ。絵師にとって一番大事な切所(せっしょ)にさしかかっている。黙って見守ってやるしかないのだった。
〈以下略〉
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〈来栖の独白2012/3/14Wed.〉
 毎日、日本経済新聞連載の『等伯』を読む。絵師という芸術家の内面、宗教および宗教者のありかた、そして等伯の生きた時代と群像など、幅広く深く描き出されていて、安部龍太郎という作家の力量に圧倒される。
 378回は、実家に帰省していて、近くの銀行で待ち時間に読んだ。
>人には感応力がある。愛する人が痛み苦しむのを見れば、我身にも同じ痛みを感じるものだ。
>そしてすべての芸術も、実はこの感応力を基礎としているのである。
 実に、実に、そうである。そのために、人は生まれた。体が熱くなった。そこが銀行であることを忘れた。
 「400回」も、人間というものの核心を言っている。
>「どこって、親しい人の所とか心当たりの場所とか」
>「そんなものはない」
>表現者は孤独である。誰ともちがう、誰にも真似のできない境地をめざして、たった一人で
 私は表現者でもなく能力の何一つも持ち合わせていないものであるが、「孤独」を在処としてきた。いや、表現者・芸術家でなくとも、人はおしなべて「孤独」である、と考える。私は殊更この「孤独」をまもりたいと思いつつ生きてきた。「切所」も、相応にあった。「切所」で、だいじなものと出会った。
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安部龍太郎著『等伯』2012-02-08 | 読書


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