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宮本慎也と稲葉篤紀「男たちの生き方---清原でも、落合でもなく」 光はたまに当たればいい 

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2012年05月23日(水)週刊現代 特別読み物
宮本慎也と稲葉篤紀「男たちの生き方---清原でも、落合でもなく」 光はたまに当たればいい 他人の意見をひとつも無駄にしない 間違えた努力はしない
 18年間、それはまるで終わりなき旅のようだった。2000本という偉業を達成して尚、二人がまとう空気は、先達らのカリスマ性とは何かが違う。やれる仕事を地道に探し生きてきた、男たちの進む道。
■「プロになれるか」と笑われた
「あのドラフトの日、この二人が2000本打者になるなんて、誰もが夢にも思ってなかったはずだよ」
 ヤクルト宮本慎也(41歳)と日本ハム稲葉篤紀(39歳)---同期入団の彼らが、ヤクルトからドラフト指名を受けた'94年当時、スカウト部長を務めていた片岡宏雄氏はこう言って笑う。
 王貞治、野村克也、落合博満、清原和博・・・・・・歴代の2000安打達成者には、時代を彩った4番打者が名を連ねる。そんな「天才」と「怪物」がずらりと並ぶ中にあって、宮本と稲葉の名は、少なからず異彩を放っている。
「宮本は守備の一点買いだし、稲葉も決して『ずば抜けた打者』ではなかった」(前出・片岡氏)
 決して「特別」ではなかった二人は、いつの間にか大打者への道を歩いていた。
 その原点は、同期として過ごしたヤクルトでの新人時代にある。
 PL学園から同志社大、プリンスホテルと、名門チームで社会人まで経験して入団してきた宮本には、
「独特の雰囲気があった」
 と、当時、野村克也監督の要請でヘッドコーチに就任したばかりだった松井優典氏(現ヤクルト二軍育成コーチ)は言う。
 '95年の春季キャンプ初日。ベテランに交じっての練習に緊張があったのか、宮本をはじめ若手選手から覇気を感じられなかった松井氏は、彼らに檄を飛ばした。
 その次の日のことだ。
「ノックが終わった直後に宮本が私のところに、『今日は元気よかったでしょう』と言いにきたんです。もちろん嫌味のない言い方でね。そもそも我々コーチに、彼ほど屈託なく話しかけてくるルーキーも珍しいので、少し驚きました。
 礼儀を守りながら、言いたいことはしっかり言う。『ああ、こいつはこうして生き残ってきたんだな』と思いました」
 高校時代から、宮本にとっての野球は、まるで縄張り争いのようなものでもあった。
「どうすれば試合に出られるか」
「僕たちは事あるごとに野村監督から『間違った努力は、努力ではない』と言われていました。それは、『選手としての身の丈を見誤るな』とも言い換えられる。
 スラッガーだった高校時代の自分を捨て、極端なまでにバットを短く持ちなおした土橋さんは、監督の言葉を象徴するような選手。そしてその系譜を受け継いでいるのが、宮本さんであり稲葉なんです」
 3番?池山でも5番?古田でもなく、自らのアイドルに、「土橋」を選ぶ。その選択が後の2000本打者を生んだ。
 '98年にトレードでヤクルトを離れた野口氏は、対戦相手としてぶつかることで、改めて宮本の凄さを知ったという。
「正直、チームメイトだったときは、宮本さんの打撃は目立つものではなかった。それが、僕が日本ハムから阪神に移籍('03年)した頃には、本当にイヤな打者になっていた。ミーティングの議題は常に、『宮本をどうするか』。岩村(明憲)でも青木(宣親)でもなくね。
 大抵のバッターには『こう攻めれば大丈夫』という正攻法があるんですが、宮本さんには結局それが最後まで見つからなかったんです」
 かつて、守ることしかできないという意味で、「自衛隊」と呼ばれた男は、相手投手から最も嫌われる存在になっていた。
 松井氏も続ける。
「1〜2年目に野村監督に叩きこまれたものが、技術が追いついてきたことで体現できるようになった。
 絶対に振るはずの球をあっさり見逃されたら不気味でしょ。そういう打者になったということです」
■スッと現れ、何気なく聞く
 野口氏には、稲葉にもひとつ、忘れられない思い出がある。
 1年目、キャンプから一軍に抜擢されていた稲葉が、開幕直前に二軍行きを命じられてしまう。
「野口さん、オレ明日からファームです」
 野口のもとに現れた稲葉は、この世の終わりのような顔をしていた。
「こういうときは肉だ」
 あまりの落ち込み様に心配になった野口は、稲葉を焼き肉屋へ連れて行った。
「さっきまで泣きそうになっていたくせに、少し食べだすと、みるみる表情が晴れていくものだから拍子抜けしましたよ(笑)」
 開幕を二軍で迎えた稲葉だったが、ファームでは打ちまくり、6月には一軍に昇格。プロ初打席で本塁打を放つ。
 野口が言う。
「正直、稲葉は宮本さんに比べ、気弱で優しすぎるのではないかと心配していましたが、あの切り替えの早さには、驚かされましたね」
 '07年まで日本ハムで打撃コーチを務めたヤクルトの淡口憲治二軍打撃コーチは、稲葉の凄さを、
「他人の意見をひとつも無駄にしないこと」
 と表現する。
 日本ハムでは、試合後に必ず宿舎の屋上などにコーチと若手が集まり、素振りが行われる。そんな場に、稲葉はスッと現れる。
「2年目や3年目の若手に交じって、自分のスイングを丁寧にチェックしているんです。それで合間に我々に『今日の僕、どうでしたか?』と何気なく聞いてくる。聞く耳があるというか、コーチを利用するのが本当にうまい」
 淡口氏が続ける。
「プロのスポーツ選手はみんなプライドが高い。だから助言といっても、聞く側も聞かれる側も、厚いオブラートに包んだ会話をすることになる。でも稲葉君なんかは、それをギリギリまで薄くして聞いてきてくれる。そうすると、こちらもひとつ奥まで踏み込んだ話ができるんです」
 幼少時代の稲葉が気弱ないじめられっ子だったことは、有名な話だ。
 父・昌弘氏が言う。
「ちょっと大きな声で叱るだけで大泣きするような子でしたから(笑)。目を見て話すとか、先輩への礼儀とか、全部野球を通じて教えてもらったんです」
 プロの世界で生きていくための術も、アマチュア時代に学んだものだ。
 今でこそ球界随一の「練習の虫」と言われる稲葉だが、法政大学時代までは、そんなことはなかった。
 監督として、法大時代の稲葉を3年生まで指導した山本泰氏(現シアトル・マリナーズ国際スカウト)が語る。
「3年生に上がる前でした。昼ごろに僕が寮に行くと、稲葉がまだ寝ていた。それまでは将来のことに口出しはしなかったんですが、辛抱たまらず、『プロに行きたいから学校に行かないってやつが、昼まで寝てたらアカンだろ』と咎めたんです」
■合言葉は「打たれ強くなろう」
 そのころの稲葉は、いわば拗ねた状態にいた。
 直前に閉幕していた六大学の秋季リーグ。勝てばリーグ優勝が確実になる東大戦で、法大は4番の稲葉が打てずに負けてしまった。
「こういう時こそ振れ。こういう時こそ挑戦しろ」
「プロに行って一塁だけじゃ、毎年外国人と戦わんとダメになる。外野もできればチャンス増えるやろ」
 山本氏は、それまで一塁専任だった稲葉に、全体練習後に毎日200~300本もの外野ノックを受けさせた。
 今持っているものに安住せず、新しいものを手に入れる姿勢—山本氏の叱責は稲葉にとって、プロ野球選手になるための通過儀礼だったのかもしれない。
 法大監督を辞した後、稲葉がヤクルトにドラフト指名される瞬間を、山本氏は近鉄のスカウトとして、同じ会場で聞いていた。
「本当は3位でうちが指名する予定だったんだが、隣(指名権がひとつ先)のテーブルのヤクルトが指名してしまった。
 でも近鉄に入っていたら、今のような選手になれていたかどうか。苦手だった内角打ちは、(当時ヤクルト二軍監督の)若松(勉)さんに教わったわけだしな(笑)」
 稲葉の元日本ハムの同僚で、友人の岩本勉氏(現解説者)が語る。
「春のキャンプ、日本ハムのスタッフにはとても大変な仕事があるんです」
 笑いながら岩本氏が続ける。
「全体練習の終わりに稲葉に声をかけられることです。日が暮れるまで打撃練習に付き合わされますから(笑)」
 年長の稲葉が残れば、糸井嘉男や中田翔は帰れない。「やれ」とは言わない。黙して語らず、背中で示す。
 ヤクルトの投手・村中恭兵は、
「試合中の宮本さんは投手コーチのようだ」
 と語っている。
「次のバッター投手だぞ。先を見ろ、先を」
「この場面は三振狙え」
 テレビ中継には映らない部分で、宮本は何度もチームを救ってきた。
 目立たず、地味に、粛々と、入団18年目、出場1976試合。
 同期入団の二人の打者が、同試合数で偉業を達成したのは、ただの偶然ではない。1年目のころ、野村監督にボロクソに怒られる度、宮本と稲葉は、
「強くならなアカン。打たれ強くなろう」
 と、何度となく励ましあった。18年後、スポットライトは二人同時に当てられた。
 そして彼らはまた、脇役へと戻っていった---。
「週刊現代」2012年5月26日号より
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