小沢一郎・元代表と和子夫人 「離婚報道」に至るまでの経緯
NEWSポストセブン 2012.06.25 07:00
民主党の小沢一郎元代表と和子夫人の離婚騒動がメディアを賑わせている。週刊文春は6月21日号で「小沢一郎 妻からの『離縁状』」というタイトルで和子夫人が後援会関係者に書いたとされる手紙を掲載した。一体、小沢に何が起きているのか、本誌がレポートする。(文中敬称略)
和子の変調は小沢の地元や支持者の間では早くから知られていた。
それまでの和子は、永田町での活動に集中する小沢の代わりに、文字通り「金帰火来(きんきからい)」で毎週のように選挙区に帰って、いわゆる「票田の草刈り」に没頭した。後援会を切り盛りし、有権者の声を聴き、それを小沢に伝えた。小沢も和子を政治的にもかけがえのないパートナーと頼り、和子が岩手から戻ってくる日には、いつも利用していた夜10時着の新幹線を東京駅で迎えることが習いとなった。
一方で、これも多くの家族が抱える問題として、小沢の母・みちと和子の微妙な関係も存在した。みちは夫・佐重喜、そして息子・一郎を支えた鉄壁の後援会を築き上げた原動力だった。その自負と小沢への愛が、あるいは和子を嫁として迎える心のハードルになっていたのかもしれない。
やがて、みちが病に倒れてからは、後援会を支える重責は和子の双肩にかかり、和子はその役目を見事に果たしたが、病床のみちは和子を完全に受け入れはしなかった。その献身的な看護を拒否することもあったという。時には医療スタッフの世話さえ善しとしない頑迷さを見せたとされる。
当時、若き自民党幹事長として飛ぶ鳥落とす勢いだった小沢は、妻と母の確執の間で、母の介護という難題も抱えることになった。時には、小沢自ら母の口に食事を運ぶこともあった。
みちは1995年に他界した。
それからの和子は、小沢王国の大黒柱として駆け回ったが、その頃から政界、マスコミ界の絨毯爆撃のような小沢への人物破壊が激しさを増し、和子の使命感や誇りにも影響を与え、心身の屈折を生じさせたようだ。
和子の言動に変化が生じてきたことは、家族だけでなく、後援会でも心配の種になった。日に日に変わっていく姿に周囲の心痛は大きかったに違いない。小沢にも悔恨が沈殿していった。時にはありもしないことを口走り、根も葉もない中傷と知る噂で小沢を激しくなじることもあったという。
自分の内面、ましてや家庭の“阿鼻叫喚(あびきょうかん)”の様を語ることなどありえない。内なる葛藤を抱えながら小沢は政権奪取にひた走った。それを止めることは誰にもできない。それこそ小沢における政治家の摂理なのだ。夫婦の関係は難しくなるばかりだった。
やがて和子は世田谷区にある小沢邸の敷地内に別棟を建て、そこで生活するようになった。それが「別居」と報じられたこともある。
和子は、あんなに心血を注いできた後援会活動にも、実弟が亡くなった10年ほど前から、ぷっつりと姿を見せなくなって家に閉じこもるようになった。これは後援会関係者なら誰もが知る事実だ。「小沢家の問題」を取材するマスコミも、きちんと地元に行けば簡単に確認できるはずである。
その頃でも小沢は、毎夜9時過ぎには自宅に帰ることを決め事にしていた。和子との会話はほとんどできなくなっていたが、それでも、指呼の間(しこのかん)にいる和子が昔日のように「パパ!」と声を掛けてくるかもしれない。そんな期待も秘めていたのだろう。
しかし現実の和子は、ますます猜疑心や妄想にとらわれるようになり、最も信頼している次男以外の言葉は受け入れないほどに憔悴を見せるようになった。いきなり秘書に小沢のスケジュールを詳細に報告させ、その立ち寄り先に片端から連絡して、「小沢は本当にそこに行ったのか」と詰め寄る異常な行動が周囲を驚かせる“事件”も起きた。
次男と小沢の関係にも暗雲が立ち込めた。和子の心を救いたいと、実家である福田家の関係者が話し相手になって支えた時期もあったが、そうした努力は誰の目にも不毛で、和子を訪れる人は少なくなっていった。
父と母、父と弟の間に立って辛苦を引き受けてきた長男も、ついに家を出る決心をした。
そして小沢は、求められるまま和子に離婚のフリーハンドを与えた。家族の絆を取り戻すことはますます難しくなった。
※週刊ポスト2012年7月6日号
===========================================
<来栖の独白2012/6/25 Mon.>
一読し、理解できた。強烈な小沢支持者たちは文春の記事を捏造だとか直筆ではないといった次元で否定し、また文春側は記事内容を真実であると主張してきたが、私には双方に疑問を感じざるを得なかった。まず、手(筆跡)は夫人によるものであろうと感じられた。一方、小沢氏ほどの人物の夫人が、あのような痴話喧嘩の類のことを支援者とはいえ他人にあからさまにするだろうかと不可解であった。
和子夫人は病んでいたのだ。ひたすら家族のために生きてきた真面目一途な女性が、力尽きた。破綻した。病んだ。そうしてあの手紙を書いた。そういう処だろう。ならば、私には理解できる。
それにしても小沢一郎という政治家。なんという温かな崇高な人格であることだろう。小沢氏の父親佐重喜氏は一郎氏に「人の悪口は言うな」と養育した、と何かの文脈で読んだ記憶がある。その躾けよろしく、自分は辛くとも、じっと自分の裡に留めて人を誹謗しない、それが小沢氏の生き方だった。ここ(離婚騒ぎ)でも、小沢氏はそのようにした。夫人への感謝と労り、詫び(母の面倒を看させたという)といった、人間らしい温かな思いが小沢氏に刻印されてあるのだろうか。憐れでならない。
松田という似非ジャーナリスト、卑しく非情なごろつきである。人の涙の意味がわかっていない。
いまあらためて「週刊ポスト」誌に敬意と謝意を表したい。
-------------------------------------------
◆小沢氏の地元・奥州で30年間選挙支援 「水和会」解散へ 2012-04-17 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
小沢氏の地元・奥州で30年間選挙支援 「水和会」解散へ
河北新報ニュース2012年04月17日火曜日
民主党の小沢一郎元代表の地元・奥州市で、小沢氏の選挙を長年支援してきた女性組織「水和会」が、活動目的が薄れてきたとして、解散する方針を決めたことが16日、分かった。
水和会によると、会は小沢氏の妻和子さん(67)を支えようと、約30年前に結成した。市町村合併前の旧水沢市の「水」と和子夫人の「和」にちなんで名付けた。
会員は、小沢氏が立候補する衆院選のほか、各種選挙に備えて活動を展開。和子さんとともに地元を精力的に回り、女性を中心に支持者を拡大し、強力な地盤をつくり上げた。
この十数年は、和子さんが地元に入ることがなくなったという。水和会幹部は和子さんが地元に来なければ、活動を続けられないと判断。及川幸子会長(岩手県議)によると、和子さんに電話で確認したところ「もう地元に行くことはないです」との返事があり、解散の了承が得られたという。
メンバーは解散しても、小沢氏を後援会内で支える方針。及川会長は「メンバーも高齢化が進み、当時の勢いはなくなっていた。(選挙全体の)態勢には全く影響はない」と強調している。
-------------------------------------
↧
小沢一郎氏と和子夫人の真実/今あらためて『週刊ポスト』誌に敬意と感謝を表したい
↧