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木曽川・長良川リンチ殺人事件 週刊誌の写真掲載「驚いたが、記事に悪意を感じない」=死刑囚

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週刊誌の写真掲載「不服ない」 リンチ殺人死刑囚
2011年5月13日 08時58分
 写真週刊誌「フライデー」が名古屋拘置所内で撮影したとする、連続リンチ殺人事件で死刑が確定した大阪府松原市出身の死刑囚(35)の写真を掲載した問題で、死刑囚は12日、弁護人の村上満宏弁護士に「記事の内容に不服はない」との感想を伝えた。拘置所で接見した弁護士が明らかにした。
 弁護人によると、死刑囚は12日、刑務官から見せられ、記事を知った。死刑執行に反対する内容だったが、死刑囚は撮影や掲載を事前に知らされていなかったという。
 死刑囚は弁護人に「驚いたが、記事に悪意を感じない」と話した。一方、「この件で迷惑をかける人がいるだろうから心配」と戸惑いもみせたという。
 名古屋拘置所は一般面会者のカメラや携帯電話などをロッカーに保管させる上、金属探知機でも確認し面会室への持ち込みを認めていない。拘置所は「所持品検査や、面会時の刑務官の立ち会いのあり方を含め調査している」と話している。(中日新聞)
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〈来栖の独白〉
 凶悪犯人の実名を知りたい、顔を見て見たいという人びとの卑しい興味がある。それに応えることで出版物をより多く売らんとするジャーナリズムの商魂がある。
 本件によって、行刑施設の被収容者への管理は一段と厳しくなるのではないか。これ以上劣悪な処遇を強いられなければよいが。各地の刑務所では面会制限等、処遇の後退がすすんでいる。
確定死刑囚の処遇の実際と問題点---新法制定5年後の見直しに向けて 明治大学名誉教授・弁護士菊田幸一『年報 死刑廃止2010』インパクト出版会
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「木曽川・長良川 リンチ殺人事件」死刑囚の写真2011-05-12 | 死刑/重刑/生命犯 問題
 <連続リンチ殺人>元少年の死刑囚の写真掲載 フライデー
毎日新聞 5月12日(木)19時29分配信
 12日発売の写真週刊誌「フライデー」(発行元・講談社)は、94年に大阪、愛知、岐阜の3府県で男性4人が殺害された連続リンチ殺人事件で死刑が確定した元少年(35)を名古屋拘置所で面会した際に撮影したとする写真を掲載した。
 記事によると、写真は死刑確定前の3月11日に撮影。面会したジャーナリストの青木理(おさむ)氏の記事とともに、元少年がアクリル板越しに涙をぬぐう様子など3枚を掲載した。フライデー編集部は「報道に意義があると考え、編集部独自の判断で掲載した。撮影方法についてはコメントしない」と話している。
 名古屋拘置所によると、面会時の撮影を禁じる法律はないが、拘置所の規定で撮影や録音を禁じている。同拘置所は「面会前にカメラなどはロッカーに預けるよう求めている。拘置所内で本人を撮影したものなのかは確認中だが、もし事実だとすれば遺憾だ」としている。【岡大介】 *記事中のリンクは来栖
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木曽川・長良川リンチ殺人事件 償いの言葉響かない
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◆「木曽川・長良川殺人事件」 “「凶悪犯罪」とは何か”「三人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決」 

加藤幸雄(かとうさちお)日本福祉大学
平川宗信(ひらかわむねのぶ)中京大学
村上満宏(むらかみみちひろ)弁護士
安田好弘(やすだよしひろ)弁護士、FORUM 90

1、3人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決 
 司会 昨2005年10月14日に木曽川・長良川事件という少年による事件の控訴審判決がありました。01年の名古屋地裁判決では1人死刑、2人無期判決だったのが高裁では3人とも死刑判決が出て非常に驚いたのですが、この弁護人だった村上さんからこの事件について話していただけませんか。
 村上 名古屋の事件というのは、いわゆる木曽川・長良川事件といわれるリンチ殺傷事件(1994年)で、19歳前後の少年たちが、大阪で1人の若者を死に至らしめ、その後愛知に移って、愛知の木曽川で、1人の若者を死に至らしめ、そして長良川河川敷で2人の若者を死に至らしめた事件であります。
 その前に、名古屋では大高緑地アベック殺人事件(1988年)というのがあり、当時、少年または少女たちによる凶悪犯罪として大きく報道され、それに続くものとして、この木曽川・長良川事件が起きましたので、名古屋では相当衝撃的な事件として報道されていたわけです。
 この事件は、少年たちが出会って集団になってから20日前後から1ヵ月半程度しか経っていない段階でこの犯罪が起きているというのが特徴的です。
 この木曽川・長良川事件は、1審で1人が死刑で、2人が無期となりました。そして、そこで、死刑と無期に分かれた論理は、主犯格か従属的な立場だったかが主な形で区別されたわけです。その後、控訴され、検察官は3人ともに死刑を求刑し、名古屋高裁におきまして3人とも死刑判決が下されたのです。
 裁判をやっていくなかで、私が一番感じたことですが、この木曽川・長良川事件以外の他の事件の中で被害者の方の意見陳述という制度が導入されてきまして、被害者感情が裁判にそのまま導入されてきているなぁというイメージがありました。でもそれは、犯罪事実の認定だとかそういうことには影響しないと言っているんですけれども、被害者遺族が被害感情を強く法廷で言うことによって、裁判官は、被告人にとって一番シビアな犯罪事実の認定を選ぶというような効果があるのではないかという危惧感をもっておりました。
 当時、この木曽川・長良川事件で自分が担当している被告人に対して死刑判決はないと確信しておりました。証拠調べが終わった最後に、4人の遺族の代表的な方が、被害者意見陳述で痛烈に被告人3人を非難しました。そこでは、死刑という言葉は使われてはいません。ただ、この3人は絶対許せないという形で、法廷にそのままの形で感情が入ってきました。そのときに、この被害者意見陳述が裁判所にどういう影響を与えるんだろうと危惧感を感じました。実際、判決を聞いたときに、被害者意見陳述の内容がそのまま判決の構成になっているというのを感じました。つまりその被害者遺族の方は、1審から2審までずっと法廷を傍聴していて、かたや裁判官は1審と2審で変わりますので、ずっと法廷を傍聴している被害者遺族のおっしゃられることが非常に重いものになる。その状況の中で被害者意見陳述という形でその被害者の方が、この3人は絶対許せない、そしてその根拠を、裁判の中での事実認定を引用しながらお話しをされますと、裁判官の心証に強烈に影響を与えないわけがないと思われるんですね。後から判決を見たときも、ほとんど同じじゃないかというのを感じました。
 その後、僕はいろんな大学で学者の先生とお話しする機会がありまして、裁判実務では、被害者の意見陳述というのは死刑にとって大きな影響を与えるんだということを話させていただきました。実務をわかってらっしゃる学者の方はそれはそうだとおっしゃってくれるんですけれど、そうではない学者の方たちは、死刑か無期かという量刑を判断するときに被害者の意見は、量刑を根拠づける理論的なものはそれほどないはずだとおっしゃっていました。でも、いま実務では非常に被害者意見陳述というのは怖い、被害者の感情は怖いと、それを私が肌で体験したのがこの木曽川・長良川事件だったわけです。

 2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの 
安田 木曽川・長良川事件の1審判決はかなり杜撰だったけれども、事件をそれなりに見ようとする態度が見られたと思います。というのは、木曽川の事件については殺人罪を認定しなかった。裁判所は、子供たちの曖昧模糊とした意思とバラバラな意思疎通の中で、解決策も歯止めもないまま事態だけがどんどん悪い方向に進行していくという事案の実相をそれなりに見ていたんだろうと思うんです。しかし、それにもかかわらず一人だけを死刑にしたというのは、やっぱりあの被害者の数との関係で、ものすごい政策的な辻褄合わせをしたんだろうと思うんです。ですからあの判決はたいへん中途半端な判決で、それが、高裁につけいるスキを与えてしまったんだと思います。検察官にとっては大変批判しやすかったんだと思うんです。
 高裁は、それぞれの子供たちが細胞としては別々かも知れないけれど、3つ、4つ集まってからまると1つの生物となるとでも考えたのか、3人をまとめて故意を認定し、それをテコに3人を死刑にしてしまうという、ものすごく荒っぽいことをしてしまいました。あの判決のどこを読んだって、法適用の厳粛さ、つまり3人に死刑を適用しなければならない必然性は出てこない。もちろん、熟慮の痕跡などもまったくない。ましてや教訓的でもない。単なる決算書とほとんど変わらないような中身だったですね。僕は、あれを見てやはり司法の危機というのをすごく感じたわけです。
 それに比べ、アベック殺人の高裁のときは、裁判官は悩んだですね。思いっきり悩んで、しかも、子供たちを死刑にするのは自分たちとして、大人たちの社会として許されるだろうかという問いかけがその中にありましたね。苦渋の選択が判決の中から読みとれたけど、今回ははっきり申し上げて何一つなかったわけです。真面目さが欠如していますね。
 それは司法そのものが、裁判官も含めてですけれど、思想とか哲学とかそういうものを持ってこなかったことの結果だろうと思います。すでに司法のメルトダウン現象が起こっているんですね。それはどういうことかというと、司法が担うべき役割、その重要な要員である裁判官・弁護士・検察官が、自分たちが果たすべき職責を完全に忘れてしまって、一般世論、あるいはメディアと完全にシンクロしてしまっているんですね。それは、時の権力や勢力に一切支配や影響をうけることなく、超然として、法にのみ支配されてその職責を遂行する、つまり、刑事司法の場面では、違法捜査を抑止し、事実を徹底して解明し、有罪の場合はなぜこのような事件が起こったのかというところまで事案を掘りさげ、公正に刑を量定すると同時に今後、被告人が生きていくすべを指し示す、そういう職責を司法は担っているんですね。ところが、このような職責を全部放棄して、世間相場で物事を見切って事件を処理してきた。司法のメルトダウン現象は、司法全体の怠慢の必然的な結果なんだろうと思います。
 木曽川・長良川の事件の判決は光市の事件の判決と軌を一にしていますね。それは、事実解明の努力の欠如と世論への徹底した迎合です。それで、凶悪ということが今日のテーマになっているんですけど、僕は凶悪とは、見る人のイメージがそのまま反映されて凶悪という表現をとっているものであって、結局、自己の価値観というか自己の傾向をそのまま表現したものだと思うんですね。マスコミは、いろいろな事実がある中で、視聴者や読者の凶悪のイメージと合致する事実だけをつまみあげて強調していく。捜査官も検察官もそうだと思うんですよ。数ある事実の中で被告人が有罪だという事実と凶悪だという事実だけを取り上げて事件を構成していく。時には事実をねつ造したりします。そして弁護人も裁判所もまったくそれに汚染されてしまって、何らそれに抗するだけのものを持っていない。ですから、よってたかってみんながこれでもか、これでもかと、被告人に凶悪というイメージを叩きつけていく。叩きつけるのは事実ではなくイメージなんですね。もはや司法はリンチの世界になってしまっていると思いますよ。
 有罪・無罪だけでなく、量刑も被告人にとって重大なことです。ましてや、死刑か否かは決定的です。平川先生がいらっしゃるので僕は苦言を呈したいんですけど、被害者感情が刑の重さを決める上でどういう位置を占めるのか、あるいはどういう位置を占めるべきかということについて、刑法学の中で、まったく議論がされてこなかったんですね。犯罪の成立とかそういうことについては、熱心に議論がなされてきた。そして、それが刑が無限定に拡大していくことへの歯止めになってきた。しかし、被害者感情についての議論は皆無なんですね。そういう中にあって、被害者の意見陳述や被害者の訴訟参加など、被害者感情が一気に刑事司法になだれ込んでこようとしている。今のままでは、量刑だけでなく犯罪の成否についても、被害者感情に支配されるという刑事司法の総崩れ現象が起こるのではないかと危惧しています。現に、光市の事件では、最高裁をはじめ、1,2審も、全て量刑の議論だけに終始し、事実の解明がまったくなおざりにされているんです。
 本来、司法は冷静で、客観的で、そして理性的でなければならない。司法の誕生は、政治的思惑や私的制裁あるいは被害者感情からの分化の歴史だったと思うんですよ。ところが司法の側にこれを守りきるだけの力がないから、その垣根が総崩れになっている。司法は時の政権におもねり、世論や感情に同調し、もう手がつけられない状態になっている。弁護士、検察、裁判所、司法全体の暴走状態が始まっているという気がするんです。木曽川・長良川の高裁判決、光市の最高裁判決は、そのはしりだと思うんです。
平川 今まで刑法学が量刑の問題をやってきていないではないかというご批判は、その通りだと思います。今までの刑法学は、犯罪成立要件、いわゆる犯罪論のところばかりやってきた。量刑の問題は、刑法学の隅っこで、ほんのわずかしかやられてきていないということは、おっしゃる通りです。そして、量刑の理論的研究と実際の量刑問題が、なかなか結びついてこない。一方でいわゆる量刑相場の分析が行われ、それとは別のところで量刑責任論などの形でまったく理論的な研究がされていて、両者が結びついていない。理論と実際の量刑を結びつけるような量刑理論がなければいけないのですが、実際の量刑の場面で有効性を持つような研究がないことは、おっしゃるとおりです。最近は、量刑研究も徐々に進みつつありますが、まだまだこれからの課題です。そういう意味では、刑法研究者は怠慢だったし、今でも怠慢だろうと思います。
安田 平川先生を非難しているわけじゃなくて(笑)
平川 それから、裁判所が悩まなくなっているということは、最近の判決を見ていると、私もそう感じます。しばらく前までの判決は、それなりに悩んだ形跡がうかがえるようなものが多かったと思います。
 永山判決がその後の判決の流れを作っているわけですが、あれも、よく読んでみると、それなりに悩んでいますね。しかし、最近は、永山判決の悩みのようなところもすっ飛ばして、永山判決に挙げられている基準だけを形式的な一覧表にして、それにポコポコあてはめて結論の正当化の理由にしているような判決が少なくないように感じます。中には、永山判決に依拠した場合に本当にこういう結論になるんですか、と言いたくなるようなものもある。今回の光市事件の判決もそうですが、判決文をよく読んでみると、実質的には永山判決の基準の変更になっているのではないか、少なくとも永山判決はそういうことを言っていないのではないかという気がするのです。最高裁は、そこまで来てしまっているということだと思います。
 私は、この背後には、裁判員制度が影を落としているように思います。裁判員制度になれば、一般の人たちの処罰感情が量刑にもろに反映していく可能性があるわけです。どうせそうなるのだから、ここで自分たちが頑張ってもはじまらないというような意識が、裁判官の中に生まれはじめているのかなと思うのです。
 しかし、むしろ、この際、裁判員制度をにらみながら、量刑はどうあるべきかをもう一度きちんと考えなおして、裁判や判決の中できちんと押さえておくことが必要だと思います。そうでないと、裁判員制度になったら本当に量刑が一般の人の処罰感情に流されていってしまうのではないか、という危惧があります。
村上 裁判員の問題については、確かに一般の人々の感情がもろに裁判に反映されるという部分もありますし、逆に裁判員の市民の方が裁判に参加されることによって、死刑というものを判断することが非常に勇気のいることであり、むしろ市民の人たちも躊躇するかもしれないという見方も一方ではあるわけですね。そういう場合に、今回の光市の判決はある意味では先頭に立って、こういう時はこうするんだというのを国民みんなに知らしめたという役割があるんだとおっしゃる弁護士もいます。
安田 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
 ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。
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光市事件 加害者側に焦点 東海テレビが制作「光と影」
中日新聞夕刊 2008/06/04
 「ほぼすべての番組が、被害者遺族に共感する内容で感情的だった」。山口県光市の母子殺害事件の差戻し控訴審で、広島高裁が元少年の被告に死刑を下した4月。判決前に放送倫理・番組向上機構(BPO)がテレビ報道に苦言を呈したのは、記憶に新しい。そんな中、唯一、加害者側にアプローチしていた局があった。
 東海テレビの報道陣が、「鬼畜」と言われた弁護団に1年近く密着。事件の真実に迫る姿を、ドキュメンタリー「光と影」(7日午後2時)にまとめた。(千万勲)
 制作の出発点は、名張毒ぶどう酒事件だった。「もうからない弁護を、なぜやるか」。こんなテーマで準備を始めたところ、弁護士の二人が山口の裁判に携わっていることが分かった。対象を変更。昨年7月に取材を申し込んだ。
 *世論に違和感
 「悪い奴を弁護するのはけしからん、という世論に、違和感があった」。取材を進めた斉藤潤一ディレクターが振り返るように、すでにバッシングの嵐が吹き荒れていた。
 一昨年、最高裁が無期判決を差し戻したため、全国から21人が集まって新弁護団を結成、事件の再調査を始めた。そこへ、被告が「殺意はなかった」と告白する。世論は「死刑回避の荒唐無稽な言い逃れ」と非難。弁護団にまで「鬼畜」「悪魔」の言葉が浴びせられた。
 斉藤ディレクターは弁護団の一人、名古屋市の村上満宏弁護士に「違和感」を説明した。
毒ぶどう酒事件で築いた信頼関係もあり、意外に「取材OK」が出た。普通なら冒頭の撮影だけの会議も、カメラを回し続けることができた。
 事務所の看板が壊され、脅迫の手紙が届く中、弁護士たちは広島に通った。「被告の言葉が本当なのか、どうか」。被害者の首に残った指の跡から、犯行時の心理を推測する。事件当時の足取りも丹念にたどった。
 被告が体験した父親からの虐待と母親の自殺。それにより、精神年齢が幼くして止ったという鑑定。多くの材料を突き合わせ、白熱した議論が続く。荒唐無稽な供述が、実は事件の本質ではないか----。やがて結論に至る様子を、カメラは淡々と追い掛ける。
 売名なら中止
 阿武野勝彦プロデューサーは「もし、事件を利用して『人権派』の名を売るものだったら、そこで制作をやめるつもりだった」と明かす。「でも、違った。真実を明らかにする姿があった」
 当初は番組スタッフにさえ逆風が吹いた。「妻が拒否反応を示した」と斉藤さん。ナレーションを務める女優の寺島しのぶも「初め、お受けしたくないと思った」という。番組を見て「弁護団が、何をしていたのか、初めて知った感じです」。
「憎い」という感情だけで白黒をつけ、真実の解明にふたをする風潮。このまま来年5月に裁判員制度が始まったら、どうなるか。現代日本に、番組は一石を投じている。⇒ http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kage.htm
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木曽川・長良川リンチ殺人事件「少年法が求める配慮の必要性から、中日新聞は3被告を匿名で報道します」2011-03-11 | 死刑/重刑/生命犯 問題


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