永田町異聞 2012年11月17日(土)
石原という苦労を背負い込んだ橋下維新
都知事としての功罪はさまざま見方があろう。日中関係悪化の張本人ということも、さておこう。確かなのは、国会議員時代に、これといった実績がないことだ。
その石原慎太郎が、どうやら首相の座をねらっているらしい。それも「橋下さんは義経、私は弁慶だ」と大阪市長を持ち上げ、すり寄って。
万が一、日本維新の会が選挙で大躍進し、石原が首相にでもなれば、弁慶が頼朝に豹変するのではないか。選挙目的でにわかにくっついた烏合の衆は権力を与えられると同時に主導権争いをはじめるだろう。
平家との戦いの立役者でありながら、のちに頼朝に疎まれ、自刃へと追い込まれた悲劇の武将、源義経に橋下がなるとすれば気の毒なことだ。
ところで、息子の伸晃が「明智光秀」呼ばわりされて自民党総裁になれなかった仇討ちか、腹いせか、それとも積年の夢をかなえる最後のチャンスと興奮したのかはしらないが、石原に国政で何ができるというのだろう。
国会議員をつとめた25年間。環境庁長官や運輸大臣はつとめた。中川一郎、渡辺美智雄らと青嵐会をつくり、極右、タカ派のイメージでならした。『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版し話題を呼んだこともあった。
しかし、その活動の多くは緻密な戦略を欠くパフォーマンスの色濃いものだった。第1作目「太陽の季節」で華々しく作家デビューし、石原裕次郎の兄としてスター性を兼ね備えていながら、彼に心酔して集まってくる政治家は少なかった。大きな政治勢力をつくりえなかった。
それでも1989年、平沼赳夫、亀井静香、園田博之らに推されて自民党総裁選に出馬したが、わずか48票しか取れず、最大派閥竹下派が推す海部俊樹に敗れた。
石原が小沢一郎を毛嫌いするのは、当時の竹下派(経世会)の事務総長として、海部政権誕生に辣腕をふるったのが小沢であるからに他ならない。
このときの怨念がいつまでも石原の心中にくすぶっているのか、海部政権時代、湾岸戦争にのぞむ米国に130億ドルの資金を小沢幹事長の一存で提供したかのごとく言いふらす。そればかりか「そのカネの一部が日本にキックバックされた」という噂まで持ち出して、小沢のフトコロに入ったと言わんばかりの話をする。
130億ドルもの巨額資金が小沢一人の指図で出せるはずがない。当時、橋本大蔵大臣らが米側の要求に苦悩し、資金拠出に同意するまでの経過は手嶋龍一著「外交敗戦」に詳しい。
それにしても、いとも軽々と他人の名誉にかかわる悪口を言える品性の粗雑さこそが、政治家としての石原慎太郎という人物の限界であろう。
ただし、彼が唯我独尊、傲岸不遜な言動を続けるのは、才能と自尊心に満ちた心の底に、激しい“コンプレックス”もまた存在するからではないかとかねがね筆者は思っている。若くして時代の寵児になったゆえにこそ、人知れず抱き続ける苦悩があるのではないか。
とりわけ小沢のように常に政界の中心に居つづける存在は、石原の嫉妬の対象とはなっても、手を握る相手にはならないだろう。たとえ、官僚支配、中央集権の解体で一致できるとしても。
橋下徹は、「石原慎太郎」という苦労を背負うことになった。超有名人の甘言に幻惑された自業自得ではあるが…。
新 恭(ツイッターアカウント:aratakyo)
=========================================
◆石原慎太郎著『新・堕落論』 新潮選書2011/7/20発行
p32〜
アメリカ議会における、かつて占領時代の統治者マッカーサー元帥の重要な証言は、東京裁判を行わしめた当事者としての画期的な認識を示したものなのに、なぜか日本の政府、特に文部省はその重要な史実を教科書に載せることは禁止してきました。これは敗者の卑屈とか弱腰などというよりもまさに売国的な指導でしかありはしない。
日本は売られた喧嘩をやむなく買ったのに、有色人種ゆえに野放図な侵略者として位置づけられ、それを一方的に断定した東京裁判のトラウマから未だに抜けきれずにいるのです。自らのことながら、情けないというより哀れといわざるを得ない。
p37〜
そしてその巻き添えで日本はアメリカに強要され、実質金丸信と小沢一郎の支配下にあった日本政府は何と130億?の戦争援助金を拠出させられ、その一部はそれをとりもった日本の有力政治家たちにキックバックされたという噂もアメリカにあります。現にアメリカの公式発表では、日本の拠出金額はなぜか100億?とされている。その差額の30億?についてアメリカはどう解釈しているのだろうか。その金はどこの誰にいってしまったのか。日本の臆病、或いは無能なメディアは国民のためにそれを探索することは無さそうです。
つまりイラクでのアメリカの失敗は、所詮自業自得でしかない。そうした積み重ねの上に、かつて彼等を植民地支配した欧米は歴史の報復を受け混乱沈滞するでしょう。そうした大きな流れの中でこの日本はどうするかということですが、今の日本にはそうした世界の大きな流れの中での国の大計を想う人材は枯渇してしまいました。
p61〜
アメリカによる先端技術の一方的な収奪の事例にはこと欠かず、その典型的、歴史的事例は、以前私の著書、アメリカでは悪名高い『「NO」と言える日本』に記したことですが、日本から強引に130億?という戦費を調達して行った、前述のように自ら仕組んで行った湾岸戦争で、アメリカが勝利できたのは日本からの戦費調達だけではなく当時の日本の先端技術が多大な貢献をしたからです。
p63〜
しかしその癖アメリカ政府は戦争直後、日本だけは兵隊も送らず一緒に血を流して戦うことはなかったと非難し、ブッシュ大統領は約束していた日本での首脳会談には行かないなどといいだし、海部総理はサンフランシスコまで謝りに出かける始末だった。馬鹿な話だ。
ことほど左様に、日本の技術に関してアメリカの抑圧と収奪は続いているのです。
p47〜
しかし我々が敗戦から65年という長きにわたって享受してきた平和は、他国が願い追求努力して獲得してきた平和とはあくまで異質なものでしかありません。それは敗戦の後、この国の歴史にとって未曽有の他者として到来したアメリカという為政者が、あのニューヨークタイムズの漫画に描かれていたように、彼等にとっては異形異端な有色人種の造形した日本という、危険な軍事力を備えた怪物の解体作業の代償としてあてがったいびつな平和でしかありません。
ドイツは敗戦後連合軍の統治下、国是として2つのことを決めました。1つは新生再建のための国家規範となる憲法はドイツ人自身が決める。2つは戦後のどいつにおける教育はドイツ人自身が決めて行う、と。我々に人がやったことはドイツと正反対のものでしかなかった。
我々は、他人が彼等の目的遂行のために造成しあてがった国家の新しい規範としての(〜p47)憲法と引き換えに、自らの手で造成に努めることなしに、いや、努めることを禁じられた囲われ者へのお手当としての平和を拝受してきたのでしかありません。
p48〜
平和は自ら払うさまざまな代償によって初めて獲得されるもので、何もかもあなたまかせという姿勢は真の平和の獲得には繋がり得ない。(以下略)
p49〜
戦後から今日までつづいた平和の中で顕在したものや、江藤淳の指摘したアメリカの手によって『閉ざされた言語空間』のように隠匿されたものを含めて、今日まで毎年つづいてアメリカからつきつけられている「年次改革要望書」なるものの実態を見れば、この国がアメリカに隷属しつづけてきた、つまりアメリカの「妾」にも似た存在だったことは疑いありません。その間我々は囲われ者として、当然のこととしていかなる自主をも喪失しつづけていたのです。
未だにつづいてアメリカから突きつけられる「年次改革要望書」なるものは、かつて自民党が金丸信支配の元で小沢一郎が幹事長を務めていた時代に始まりました。
p51〜
あれ以来連綿とつづいているアメリカからの日本に対する改革要望書なるものの現今の実態はつまびらかにしないが、ならばそれに対して日本からその相手にどのような改革要望が今出されているのだろうか。国際経済機関に属している先進国で、こうした主従関係にも似た関わりをアメリカと構えている国が他にある訳がない。
トインビーはその著書『歴史の研究』の中で歴史の原理について明快に述べています。「いかなる大国も必ず衰微するし、滅亡もする。その要因はさまざまあるが、それに気づくことですみやかに対処すれば、多くの要因は克服され得る。しかしもっとも厄介な、滅亡に繋がりかねぬ衰微の要因は、自らに関わる重要な事項について自らが決定できぬようになることだ」と。
これはそのまま今日の日本の姿に当てはまります。果たして日本は日本自身の重要な事柄についてアメリカの意向を伺わずに、あくまで自らの判断でことを決めてきたことがあったのだろうか。これは国家の堕落に他ならない。そんな国家の中で、国民もまた堕落したのです。(〜p51)
=========================================
◆『アメリカに潰された政治家たち』孫崎亨著(小学館刊)2012年9月29日初版第1刷発行
p94〜
明確にアメリカのターゲットに据えられている小沢一郎とはどんな人物なのか、簡単におさらいしておきましょう。
小沢一郎は27歳という若さで衆議員議員に初当選した後、田中派に所属し、田中角栄の薫陶を受けて政界を歩んできました。しかし、1985年に田中角栄とは袂を分かち、竹下登、金丸信らと創政会を結成。のちに経世会(竹下派)として独立しました。
1989年に成立した海部俊樹内閣では、47歳で自民党幹事長に就任しています。おそらく小沢一郎という人物をアメリカが捕択、意識し始めたのはこの頃だと考えられます。1990年にサダム・フセインがクウェートに軍事侵攻し、国連が多国籍軍の派遣を決定して翌年1月に湾岸戦争が始まりました。
ここでブッシュ(父)大統領は日本に対して、湾岸戦争に対する支援を求めてきます。
アメリカ側は非武装に近い形でもいいので自衛隊を出すことを求めましたが、日本の憲法の規定では、海外への派兵は認められないとする解釈が一般的で、これを拒否します。アメリカは人を出せないのなら金を出せとばかり、資金提供を要請し、日本は言われるまま、計130億ドル(紛争周辺国に対する20億?の経済援助を含む)もの巨額の資金提供を行うことになります。
p95〜
当時の外務次官、栗山尚一の証言(『栗山尚一オーラルヒストリー』)では、この資金要請について「これは橋本大蔵大臣とブレディ財務長官の間で決まった。積算根拠はとくになかった」とされています。何に使うかも限定せず、言われるまま130億?ものお金を出しているのです。
橋本は渡米前に小沢に相談していました。小沢は2001年10月16日の毎日新聞のインタビューでそのときのやりとりを明かしております。
「出し渋ったら日米関係は大変なことになる。いくらでも引き受けてこい。責任は私が持つ」
この莫大な資金負担を決定したのが、実は小沢一郎でした。当時、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣する方法を模索し、実際に「国連平和協力法案」も提出しています(審議未了で廃案)。
“ミスター外圧”との異名をもつ対日強硬派のマイケル・アマコスト駐日大使は、お飾りに近かった海部俊樹首相を飛び越して、小沢一郎と直接協議することも多かったのです。小沢一郎が「剛腕」と呼ばれるようになったのはこの頃からです。
p96〜
この時代の小沢一郎は、はっきり言えば“アメリカの走狗”と呼んでもいい状態で、アメリカ側も小沢を高く評価していたはずです。ニコラス・ブレディ財務長官の130億?もの資金要請に、あっさりと応じただけでなく、日米構造協議でも日本の公共投資を10年間で430兆円とすることで妥結させ、その“剛腕”ぶりはアメリカにとっても頼もしく映ったことでしょう。
-------------------------------------------
↧
石原という苦労を背負い込んだ橋下維新/米国に130億?の資金提供を小沢一郎幹事長の一存で・・・
↧