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【習近平研究】胡氏と決別「薄煕来の亡霊が現れた」〜対日強硬引き継いだ「弟子」

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【習近平研究】胡氏と決別「薄煕来の亡霊が現れた」
産経ニュース2012.11.16 14:08
 中国内外のメディア関係者約500人が、北京市中心部の人民大会堂1階の記者会見場を埋め尽くしていた。予定時間を約1時間過ぎた正午ごろ、閉会したばかりの共産党中央委員会総会で選出された7人の政治局常務委員が、党内の序列順に連なって登場した。
 先頭を歩くのは、13億人超の国民を率いる最高指導者のポストに上りつめた習近平総書記だ。濃紺のスーツに赤のネクタイ姿。笑みをたたえながら会場の中央に立ち、指導部メンバーを1人ずつ紹介し始めた。
 共産党の政治局常務委員の任期は5年だが、全員がそろって国内外メディアと会見に臨むのは選出直後のこの1回しかない。会見といっても、総書記が一方的に話をするだけで、質問は受け付けない。
 前総書記の胡錦濤国家主席と同様、習氏もそれほど演説はうまくない。ただ、約5分間の決意表明は、胡主席ら過去の指導者の就任スピーチとは明らかに違っていた。
 「私たちの民族は偉大な民族だ」。こう切り出した習氏は、貧しく弱い中国が共産党政権の正しい指導によって富強かつ繁栄国家になったと強調。近年、“死語”になりつつある毛沢東時代の流行語「為人民服務(人民に奉仕する)」を2度繰り返した。
 そして、次に習氏の口から発せられたのは「共同富裕の道を歩み続ける」という言葉だった。「先に豊かになれる地域と人々から豊かになろう」という?小平氏が唱える「先富論」に否定的なニュアンスをもつ「共同富裕」は実は、今春、失脚した薄煕来・前重慶市党委書記が最も好んで使っていた政治スローガンだった。
 習氏は薄氏と同じく太子党(高級幹部子弟)グループに属している。ただ、2人は少年時代からのライバルで、個人的な関係は決して良くないと複数の関係者が証言しているが、支持基盤と人脈の多くは重なっている。経歴も似ているため政治的スタンスも近い。
 その一方で、習氏は結局、胡政権の政策理念である「科学的発展観」や「和諧(調和)社会」には触れなかった。政権を引き継いだ直後の指導者が、いきなり前任者を無視するような演説をすることは珍しい。
 この日のスピーチは、「胡錦濤政権への決別宣言」にも聞こえる。北京の改革派知識人はこう感想を漏らした。
 「習近平氏の保守派としての本性が、ついに見えてきた。薄煕来の亡霊が現れた−」。
     ◇
 4歳違いの習近平氏と薄煕来氏は、これまでほとんど同じような人生を歩んできた。共産革命を戦った軍指導者を父親に持ち、新中国の政府高官の家庭で育った。
 “共同富裕”とは、2人の父親が共産革命に参加したときに実現しようとした理想である。「父親が命を懸けて作った共産党政権を守らなければならない」。2人に共通する思いだ。
 2人の裕福な生活は長く続かなかった。少年時代にいずれの父親も権力闘争に敗れて失脚し、習氏は15歳から約7年間、農村部に下放され、薄氏は投獄された経験を持つ。その後、父親の名誉が回復されたため、2人は社会に出てから官僚として出世を果たすことができた。文化大革命という共産党独裁政権の被害を受けたものの、今では最大の既得権益者となっている。
 失脚した薄氏には2千万元(約2億4千万円)の汚職疑惑が明らかになりつつあるが、習氏の親族による巨額な不正蓄財も欧米メディアに報じられている。薄氏は子息を米ハーバード大学に留学させており、その授業料は薄氏の収入を超えたものだと指摘された。習氏の一人娘も現在同じ大学に留学している。
 薄氏が更迭される直前、温家宝首相は「文革の歴史的悲劇を繰り返してはならない」と薄氏の保守的政治路線に警鐘を鳴らした。結局、薄氏は党籍を剥奪され政治的に抹殺された。
 にもかかわらず、温首相の懸念をも無視するように保守色を前面に打ち出す就任演説を行ったのが、他ならぬ文革の悲劇を味わった習氏だったのは皮肉というほかない。
 新体制のもと政治改革の進展を期待する国内外の民主活動家らは発足早々、“薄煕来の亡霊”に遭遇し失望を禁じ得なかっただろう。
     ◇
 15日に中国の最高指導者である共産党総書記に就任した習近平氏については謎が多い。彼の性格や家族、政治的スタンス、内政・外交政策などを報告する。(北京 矢板明夫)
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【習近平研究】(2)共産党の恐ろしさを知る男
産経ニュース2012.11.17 08:04
 中国共産党の習近平新総書記(59)が15日の就任演説で繰り返し口にした言葉、それは共産党の偉大性についてだった。
 「共産党は創設以降、人民を結集し、貧しく立ち遅れた中国を、繁栄した富強国家に変えた」
 「世界がうらやむ成果を共産党が挙げたことを誇りに思う」
 党のトップだから、党の偉大さを強調するのは当然かもしれない。だが、習家をよく知る人は、こう明かすのだ。
 「習近平ほど、共産党の恐ろしさを骨の髄まで知っている人間はいない−」
 きっかけは、副首相まで務めた父親の習仲勲氏(1913〜2002年)が1960年代に党内の権力闘争に敗れ、投獄されたことだった。
 文化大革命当時、多くの知識青年たちは農村に下放され、肉体労働に従事させられた。習氏も69年1月、陝西省の寒村、延川県梁家河に送られている。
 下放青年の数は1700万人にのぼったが、そのほとんどは18歳以上。15歳だった習氏が下放されたのは異例中の異例といえた。父親の失脚が関係していたことは想像に難くない。
    □ □
 梁家河村は、40年代の国共内戦時、共産党が本拠地を置いた陝西省延安から北東へ約70キロ離れた山あいにある。習氏は、15歳から22歳までの約7年間をそこで過ごした。
 習氏は、村民が「暗くてボロボロだった」と述懐する窯洞(ヤオトン)=山を掘って作る横穴式住居=で寝起きし、農民と同じように重労働に明け暮れた。
 当時を知る50代の村民によると、習氏は「農作業のない雨の日など、よく窯洞に若者を集めて三国志の故事を聞かせてくれた」。そのうち、「温厚な人柄で、人の話をよく聞く」と評判になり、特に老人と子供に好かれたという。
 農村生活に順応していった習氏だったが、18歳になって共産党への入党資格を得たとき、党の執拗(しつよう)さを思い知らされる出来事が起きた。反革命分子に指定されていた父親が原因で、延川県の党委員会が、習氏の入党申請書を10回以上も拒否したのだ。ひどく落ち込んだ習氏は窯洞にこもる日々が続いたという。
 しかし、村の若手党員と党の下部組織、共産主義青年団員たちが県に直訴。そのとき、新任の県党委員会書記が「父親の事件は子供と関係ない」と決断して入党を認めていなかったら、習近平総書記が誕生することはなかっただろう。
    □ □
 89年の天安門事件の際、仲勲氏は民主化運動に同情的な立場をとったため、最高実力者の?小平の不評を買い、失脚こそ免れたが党中央から実質追放された。
 90年代末、党最高指導部の政治局常務委員会メンバーだった喬石氏が見舞いに訪れたとき、仲勲氏は突然泣き崩れ、「私は反革命ではない」「逮捕しないでくれ」などと叫んだ。立ち会っていた習近平氏ら家族を慌てさせたという。
 子供の成長期に父親としての責任を果たせなかった仲勲氏の晩年の最大の願いは、息子を自分以上の政治家に育てることだった。
 習氏が官僚として順調に出世を重ねたのは、父親の人脈や影響力によるところが大きい。そして習氏に共産党の恐ろしさを刻み込んだのも、父の姿だった。(矢板明夫)
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【習近平研究】(3)自粛が解けた一族ビジネス
zakzak2012.11.19
 北京市の西郊に、清朝末期の教会跡地がある。昨年夏からマンションの建設工事が進められていたが、今春、騒がしかったそのつち音が突然やんだ。市当局から「安全基準に問題あり」と横やりが入ったのだ。
 この開発業者の社長は、中国共産党の習近平総書記の中学時代の同級生だった。毛沢東時代の閣僚を父親に持つ、「太子党」(高級幹部の子弟)でもある。
 社長が憤慨し市当局に掛け合ったところ、ある幹部が声を潜めて打ち明けた。
 「この土地を、(党最高指導部の)政治局常務委員会メンバーの子弟という『大物太子党』がほしいと言っているんだ」
 困った社長は習氏の周辺を通じ、「大物太子党」と食事する機会を設けた。社長の素性を知った「大物太子党」は宴席で、手打ちに同意した。「あなたが太子党で、しかも習さんの同級生とは知らなかった−」。工事が再開されたのはそのすぐ後だ。
 習総書記を代表格とする太子党は、胡錦濤前総書記(国家主席)を中心とする共産主義青年団(共青団)グループとは大きく異なる。組織というより、政財界における巨大な人間関係のネットワークのようなもので、構成メンバーさえはっきりしないのだ。
 そんな太子党に共通する関心事があるとすれば、それは、自分たちの既得権益をいかに維持、拡大するかということになるだろう。
 当然、太子党同士でトラブルが起きることもある。その場合、太子党ネットワークの人脈を使って解決するのが一般的だ。関係者によれば、温厚な人柄で顔が広い習氏は太子党の当事者双方から信頼され、地方時代から仲介役の依頼が多かったという。その積み重ねが習氏の党内基盤を固めることにもつながっていく。
 党内にコネをもつ太子党の周りには、怪しげなカネもまた集まりやすい。
 習氏が福建省長を務めていた2000年ごろ、省内の貿易会社「遠華集団」による総額500億元(約6500億円)の密輸が発覚、高官ら300人以上が逮捕された。「建国後最大の密輸・汚職事件」と呼ばれたものの、習氏にはついに捜査の手が伸びなかった。
 当時、「父親(習仲勲・元副首相)の元部下たちが守ったのだ」とささやかれたが、党中央入りを目指していた習氏自身、経歴に傷がつかないよう先手を打っていた。こうした贈収賄事件を警戒し、地元の実業界と距離を置いていたのだ。
 多くの太子党と同様、習氏の親族もネットワークを活用し、富を築いてきた。2人の姉は夫らとともにそれぞれ不動産と通信業で財を成し、弟も環境関連ビジネスを展開している。
 しかし07年秋、習氏が政治局常務委員に抜擢(ばってき)され、ポスト胡錦濤の最有力候補に躍り出たとき、母親の斉心氏が北京の自宅に子や孫たちを集めて、こうクギを刺したのだという。
 「今は近平にとって一番重要な時期だ。家族の力を合わせて支えていく。経済問題で足を引っ張るようなことがあれば縁を切る!」
 その後、姉弟たちはビジネスを控え、複数の会社の役員名簿から習氏の家族の名前が消えた。それでも、米メディアは7月、習氏の親族の資産を3億7600万ドル(約305億円)規模だと報じた。習氏のイメージダウンを狙った政敵によるリークとみられている。
 習近平総書記が誕生したことで、母親の命じた“自粛期間”は過ぎた。今後、姉弟の子供たちも次々と成人になる。権益を拡大しようとする太子党のDNAが増殖していく中で、習氏は再び先手を打てるのだろうか。(矢板明夫)
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習近平研究】(4)謎多き最高指導者 実績もなく選ばれた男
2012.11.20 07:01
 北京市中心部の高級中華料理店の個室。中国共産党の習近平総書記(59)が誕生してから2日後の17日の夜、40代の党中堅幹部3人が杯を重ねていた。この日の宴席の“主菜”は、発表されたばかりの党中央人事だった。
 テーブルに並ぶ上海ガニやアワビの蒸し焼きを頬張りながら話す声が、次第に大きくなっていった。「陳希が中央委員になったことが、一番のサプライズだったね」。一人がそう言うと、皆がうなずいた。
 今回、党の指導機関と位置づけられる中央委員会のメンバーに当選したのは205人。政府の閣僚、各省の書記、省長らと一緒に名簿に名を連ねた陳希氏(59)は、科学技術省の外郭団体である科学技術協会の副主席にすぎないのだ。
 この“大出世”について、ある幹部が「新総書記の意向が反映された人事だろう」「10年前に博士号をくれたお礼じゃないのか」と言って、笑いを誘った。
 習氏は福建省長だった2002年に、名門、清華大学の法学博士号を取得している。省長として多忙な日々を過ごす習氏が、千キロ以上離れた北京の大学で授業を受けられるはずもなく、香港メディアなどが「学生時代、化学を学んだ習氏がわずか3年余りで法律の論文を書き上げるのは不自然だ」と疑問の声を上げた。
 中国の指導者の間では、地位を利用して高学歴を手に入れるケースも多い。陳希氏は当時、大学の最高責任者である清華大党委員会書記を務めていた。
 習氏の学歴詐称疑惑に関する情報は今、インターネット上で遮断されている。
 学歴だけではない。習氏ほど、さまざまなコンプレックスを抱いてきた中国指導者も珍しいだろう。
 習氏の知人によれば、習氏は若い頃から「習仲勲の息子」と紹介されることを最も嫌がっていた。
 習仲勲氏(1913〜2002年)は副首相まで務めた政治家だ。文化大革命時代は、失脚した父親のせいで地方への下放も味わった習氏だったが、父親が復権した後は「習仲勲の息子」というだけで出世していったのも事実。やはり習氏にとって父親は頭の上がらない偉大な存在だった。
 そして、再婚相手の彭麗媛夫人(50)。人民解放軍所属の国民的人気歌手だ。1990年代以降、習氏は地方指導者としてそれなりの地位を得たものの、「彭麗媛の旦那」と呼ばれることが多かったという。
                  □ □
 「習氏は“他人の関係者”として生きてきた。自分を取り戻したのは国家副主席になった54歳からだ」
 習氏の知人はこう指摘する。しかし習氏がポスト胡錦濤の国家副主席に選ばれたのは、温厚で敵を作らない性格、さらには父親が元党幹部という“赤い子孫”であることが、江沢民元総書記ら長老に都合がよかったためだ。自分で自分を取り戻したわけではない。
 政治家としての実績も目立ったものがない。習氏が地方指導者として約17年過ごした福建省は、広東省に経済発展で水をあけられた。その後、指揮を執った浙江省と上海市でも業績と呼べるものは残していない。行く先々で、大きな汚職事件さえ起きている。
 15日に行われた習氏ら党最高指導部7人の記者会見。「隣に並ぶ6人の男たちは実績も能力も習近平を上回っている。ちゃんとかじ取りができるのか−」
 老幹部が漏らした言葉は、習氏を知る誰もが抱く懸念でもある。(矢板明夫)
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【習近平研究】(5)対日強硬引き継いだ「弟子」
産経ニュース2012.11.21 11:28
 中国・湖南省に醴陵(れいりょう)市という地方都市がある。そこに最近、中国共産党の元幹部、耿(こう)飈(ひょう)氏(1909〜2000年)の記念館が完成した。採算が取れないことなどを理由に、長らく地元政府の許可が下りなかった記念館開設にゴーサインが出たのは、習近平総書記(59)が漏らした一言のおかげだった。
 「私の老領導(元上司)の故郷は最近、どうですか。機会があれば行ってみたい−」
 昨年3月、湖南省を訪れた習氏は韶山(しょうざん)市の毛沢東の生家で献花をした後、同行の周強・省党委員会書記に突然、こう語ったのだ。
 習氏は若いころ、醴陵市出身の耿氏の秘書を3年間務めていた。北京に戻る習氏を見送った後、周氏はすぐに、「耿氏の生家を急いで改修し、記念館をつくれ」と指示した。
 人格形成において父、習仲勲氏(1913〜2002年)の影響を受けてきた習氏だが、現在うかがえる対日強硬派としての基礎をたたき込んだのが、仲勲氏の革命時代の親友で、1970年代末から80年代前半にかけて副首相や国防相などを歴任した耿氏だった。
    □ □
 党や人民解放軍で大きな影響力を持っていた耿氏は、対日強硬派として知られる政治家だった。それを如実に示す内部情報がある。
 78年4月に、140隻を超す中国漁船が沖縄県・尖閣諸島周辺の日本領海を侵犯し、不法操業する行為が繰り返されたことがある。党の古参幹部によれば、漁民の実態は軍指揮下の民兵で、この作戦の最高責任者が耿氏だったというのだ。
 当時、清華大在学中だった習氏は毎日、耿氏の執務室に出入りしていたという。習氏の知人は「まるで付き人のような存在だった」と述懐している。
 耿氏が指揮した作戦は、日中平和友好条約締結をめぐる対日外交交渉を有利に進めようという思惑と同時に、強硬策をとることで対日融和路線に不満を持つ軍や保守派の“ガス抜き”を図る側面もあったという。
 今年9月、日本政府による尖閣諸島国有化を受け、中国国内で展開された反日デモや日本製品の不買運動を主導したのが習近平氏だったことは、複数の党関係者が認めている。
 ある党幹部は、習氏の対日強硬姿勢についてこんな感想を口にした。
 「いかにも耿飈の弟子らしいではないか」
    □ □
 「調和の取れた社会」の実現というスローガンを掲げる胡錦濤前総書記(国家主席)は、対外協調路線を進めてきた。近年の国防予算の膨張を背景に、海洋権益の拡大をもくろむ多くの軍関係者は特に、尖閣諸島をめぐる胡氏の対応を「弱腰」と批判していた。
 習氏はこれまで、政治家として目立った実績がない。軍のこうした不満を吸い上げ、自らの求心力を高めるのに利用しようと考えても不思議ではない。
 今回、総書記と同時に、中央軍事委員会主席の座も胡氏から受け継いだ習氏は16日、中央軍事委拡大会議に出席し、軍幹部に向けて「国家の主権、安全、そして、発展のための利益を徹底的に守れ」と訓話した。
 「主権と安全を守る」とは、胡氏もよく強調していた。だが、「発展のための利益」を取り上げた軍事委主席はあまりいない。習氏の念頭に、中国の“覇権”を支える石油・天然ガスなどの資源エネルギーの確保があるのは間違いない。
 尖閣諸島、そしてフィリピンやベトナムと領有権を争う南シナ海を舞台に、習近平指導部の強硬外交が始まろうとしている。(矢板明夫)=おわり 
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