『アメリカとともに沈みゆく自由世界』カレル・ヴァン・ウォルフレン著 徳間文庫 2012年4月15日 初版(2010年10月 徳間書店より刊行)
第5章 銃砲が告げる真実
p345〜
隷属状態に置かれる日本
日米の極めて興味深い関係は、本書で論じるにきわめて適切なテーマである。それがなぜか、大半のアメリカ人やヨーロッパ人にはわからないだろう。手短に言って、日米関係には、世界におけるアメリカの役割を物語る病状があらわれているからである。そしてそれはヨーロッパ人たちにとっては、もしアメリカとの「同盟関係」を長引かせたならば、将来、何が起きかねないかを示すものでもある。アメリカ海兵隊の沖縄・普天間基地問題をめぐる日米のいさかいで明らかになったように、アメリカ政府は日本をまともな同盟国、もしくは友人として扱ってはこなかった。
p346〜
普通ならアメリカ政府は、関係が悪化した他国に対してでさえ、日本の安全保障問題や、東アジア地域における重要な戦略的問題について、アメリカと正面きって議論をしたいという鳩山元首相の求めを叱りつけるという、オバマ政権が見せたような無礼な扱いはしない。これは最初の民主党内閣の終わりを意味していたのみならず、日米関係について日本の新聞が報じた以上のことを示唆していた。
ここで大いなる疑問が生じる。日本はこのような取り決めをなぜ受け入れ続けるのか、ということだ。なぜかくも従属的な立場に甘んじなければならないのであろうか? なぜこれほど譲歩しなければならないのか? なぜ巨大なアメリカ軍隊を、日本の納税者の金で支えなければならないのか? 自国政府の長が明らかに侮辱された機に乗じて、なぜ日本の新聞は声を上げようとしないのか? 以前にはあれほど大きな問題として扱われた日本のナショナリズムはどうなったのか? こうした点についてもし海外の国際政治の専門家たちに尋ねたのであれば、彼らはまず北朝鮮を、それから中国の台頭を理由に挙げることだろう。もちろんそうした国々の影響力があることは疑いない。だが実はもっとわかりにくく、しかも厄介で、強力な理由がある。
日本は国際情勢のなかで、実効を生む参加国としてみずからが自国を運営できるなどとは考えていなかったらしい。なぜならそのような国家となるには強力な中央政府が必要になるからで、1930年代に帝国陸軍が国を乗っ取り、それがやがて敗戦にいたった時期を除いて、日本にはそのような政治権力が存在したことはなかった。
p347〜
敗戦という結末を迎えた日本では、誰しも同じような事態が繰り返されることを望まなかった。これこそ私がこれまで本書のなかでしばしば論じてきた、第2次世界大戦後の日本の政治の実態であった。すなわち通常の意味での政府というものを日本は有していないのである。つまり日本社会に分散する権力を調整することのできる、政治的な責任所在の中枢としての政府が、日本には存在しないのである。日本にあるのは管轄する領域によってコントロールの度合いの異なる、省庁からなる行政的中枢である。だがそれは権力や、権威、政策にかかわる真に重要な決定を行う能力や命令権のそなわった実体ではない。要するに重大な政策決定を行うことは出来ないのである。民主党のリーダーたちには、こうした弱点を是正しなければならないことがわかっていた。だからこそ彼らは内閣中心の政府を確立することが重要であると強く主張したのだ。そして日本のアメリカに対する姿勢にも、この同じ弱点が大きく影響している。
誰もが当然のように日米両国は同盟関係にあると口にする。だがそれは実情を正確に表現しているとは言いがたい。そもそも同盟関係とは、独立した国家が自発的に加わる関係である。ところが日米同盟なるものがはじまった時点で、日本にはそれ以外に選択の余地はなかった。第2次世界大戦後の占領期に、アメリカ政府は日本を一般的には認められないような存在にしてしまった。その結果、日本は実質的にはアメリカの保護国(注:保護を名分とする条約に基づいて、内政や外交に干渉や制限を受ける、国際上の判断主権国)に近いものになった。
p348〜
以来、アメリカは一貫して日本を保護国扱いしてきた。ただしこうした保護国まがいの立場には大いに利点があった。日本が貿易大国へと驚異的な成長を遂げることができたのは、アメリカの戦略、外交という傘に守られていたためだ。だが一番重要な点は、日本が根本的な政治決定能力を有する強力な政府として、他国とわたり合う必要がなかったことだろう。日本が他の国々の仲裁や、経済外交を手がけることが少ないのは、こうした外交行動に出て、国内的に大幅な調整を余儀なくされることになった場合、国内の利害関係団体は決してそれを受け入れようとしないからだ。捕鯨問題などその典型例である。
彼らはそれ以外の状況を知らない。そのため強大な軍事大国によって自国が守られるという、日米関係の構図をおかしいとは思わないのである。歴史的に見て、戦後の日米関係がどんなに奇妙なものであったかを、大半の日本人は認識していない。世界史上、いまだかつて日米同盟のような関係は一度として存在したことがない。世界最大の経済大国とそれに次いで重要な大国が、成人に達してなおも息子を自宅に住まわせる親のようにかかわり合っているのである。民主党幹部たちはこの点についても明確に理解していた。だからこそ鳩山元首相は、日本は「より対等な」立場を望むと表明したのだ。
日本が国際政治の舞台で積極的な役割を果たせないことに、多くの国々は驚きをあらわにしたが、やがて世界はそれに慣れていった。
p349〜
日本は政治的な役割ではなく、純粋に経済的な役割を果たすことを望んでいるのだ、と誰もが思うようになった。1945年以降、本来、国家がなすべき仕事を、基本的にはアメリカが肩代わりしてくれたので、日本は国際政治の舞台では不在でいることができた。日本の防衛、また長期にわたる戦略的保護のみならず、いかなる重要な外交問題についてもそうだった。(略)
そのようなユニークな関係は、日本がアメリカに従属することで成り立っていた。(略)昭和天皇がアメリカ大使館公邸にマッカーサー最高司令官を訪れた瞬間から、日本の国際関係を担当した役人たちは、以後、日本がアメリカの路線からはずれぬよう腐心した。(略)
アメリカ政府に対する外交姿勢が間違っていると鳩山を批判する人々は、日米関係においてまともな外交など不可能であるという事実を見過ごしている。
p350〜
なぜならアメリカは真の意味で日本が独立国であるなどとは認めていないからだ。相手の主権を認めないような国との間に、外交など成立しない。鳩山政権は、自民党の前任者たちが一度として取り組もうとしなかった戦後の課題に着手しなければならなかった。この問題を理解するには、日本がアメリカに依存する一方、現在に至るまで政治的舵取りを欠いているという、ふたつの事柄の関連性について認識する必要がある。1945年以降、日本の政治システム内に、さまざまな官僚たちの集団を支配するような機関が創設されることはなかった。もし日米関係が決裂するようなことがあれば、日本は直ちにそうした中枢組織を築く必要があった。なぜなら政治責任の所在たる中枢を欠いていては、独立国として国際社会で他国と伍していくことはできないからである。日本の政治以外の世界を知らない人にとって、このことは理解しにくいことかもしれない。民主党のおもだった政治家たち、そして当然のことながら小沢一郎には、前述したふたつの要因が相互依存関係にあることがわかっていた、と私は見ている。大がかりな日本の真の外交活動や、戦略的な措置を、アメリカがが日本に代わって肩代わりしてくれるかぎり、日本政府が自力でそれを行う必要はなかった。そして保護国扱いされることに、日本の公式な政権が当惑することがないのであれば、アメリカ政府は今回のアメリカ海兵隊施設の移転問題で見せたような、軽蔑的な態度を日本に対して示すことができるのである。
いま私が述べたことこそ、効率的な政治の舵取りを確立しようとする、日本の新政権が味わった経験に他ならない。
p351〜
対中国、対ロシア政策とは違って、アメリカ政府の対日政策は、大統領にとって重要な関心事ではない。まずヒラリー・クリントンとロバート・ゲーツが東京にやってきて、どんな党が政権を担うのであれ、我々の命令に従えと命じた。その後、アメリカ政府内で対日政策を担当したのはすべて、世界での日本の役割についてはきわめて狭い視野しか持たないペンタゴンの出身者であった。こうした役人たちは、オバマは日本の首相にわざわざ会うべきではなく、もし会うにしても10分以上の時間を割く必要はないと考えていることを隠そうともしないのだ。
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『誰が小沢一郎を殺すのか?』カレル・ヴァン・ウォルフレン著 角川書店 2011年3月1日 初版発行
p47〜
歴史が示すように、日本では政党政治は発展しなかった。しかも1世紀以上を経たいまなお、それはこの国にとって大きな問題であり続けている。だからこそ民主党は与党となっても悪戦苦闘を続けているのだ。政党政治が発展しなかったからこそ、軍事官僚が、当時の日本の10倍にも達する産業基盤を有する国アメリカを相手に戦争をはじめても、それに対して日本はなんら対処することができなかったのだ。
p48〜
小沢氏をはじめとする改革派政治家たちはみな、彼らにこそ国家を運営する権利があり、義務があると信じている。官僚が国に滅私奉公する善なる存在であるなどと、彼らはもちろん考えてはいない。我々が一歩退いてみるとき、小沢氏のような政治家をつぶそうとするメカニズムは、近代国家の道を歩みはじめたばかりの当時の日本で、すでに機能していたことがわかる。つまり日本の近代化が推し進められるのとときを同じくして、政治家に対する陰謀も進行していったということだ。そして小沢氏こそ、この百数十年もの長きにわたり、連綿と続けられてきた陰謀の犠牲者にほかならないのである。
p50〜
そして体制の現状維持を危うくする存在であると睨んだ人物に対して、その政治生命を抹殺しようと、日本の検察と大新聞が徒党を組んで展開するキャンペーンもまた、画策者なき陰謀にほかならない。検察や編集者たちがそれにかかわるのは、日本の秩序を維持することこそみずからの使命だと固く信じているからである。そして政治秩序の維持とは旧来の方式を守ることにほかならない。そんな彼らにとって、従来のやり方、慣習を変えようとすることはなんであれ許しがたい行為なのである。この種の画策者なき陰謀で効果を発揮するツールこそがスキャンダルである。そして検察や編集者たちは、そのような人物があらわれたと見るや、まるで自動装置が作動しているのではないかと思えるほどに、予想に少しも違(たが)わない反応を見せる。
p60〜
欧米諸国を参考とした大日本帝国憲法もほかの法律も、専制的な権力から国民を守ることを想定したものではなかった。つまり日本の当局は欧米の法律を参考にしはしても、その「精神」を真似ることはなかったというわけだ。そして今日、もちろん不当なあつかいから国民を守るべきだという理念はあり、それが過去数十年で強められてきてはいても、現実には、それはいまなおきわめて曖昧模糊とした感情の領域に押しとどめられている。そのため大抵の日本人はいまだに、法律というのは単に政府が人々の行動を抑制するための手段なのだ、と見なしている。これに関して忘れてはならない事実がある。東京大学法学部というのは、日本の政治システムの最上部を占める高官を輩出することで知られているわけだが、その教授陣はいまだに法律を官僚が統治に利用する手段にすぎないととらえている。そして彼らはそうした視点に立って、学生に教え続けているのである。要するに、時代が変わったとはいえ、法律は権力エリートが用いるツールであるとする見方は、日本では以前とまったく変わっていないということなのだ。
また日本の官僚たちの間では、自分の目的を達成するために、法律のなかから適切なものを選び出すという習慣が長いこと続いてきた。そして自分たちの計画が法律の文言に抵触しかねない場合は、実に巧に新しい解釈を考え出す。このように日本では、法律というのは当局にとって、あくまでも秩序を維持するためのツールでしかない。そのため、国民みずからが与えられているはずの権利を政治システムの上層部に対して主張する目的で、法律を利用するよう奨励されているなどということは決してないのである。
p64〜
1960年代と70年代に日本の政治、そして権力構造について研究していた時期、私はそのようなやり方が繰り返し行われていることに気づいた。だからこそ日本の政治・経済について初めて執筆した著書〔『日本/権力構造の謎』〕のなかで、「法を支配下におく」という1章を設けたのだ。
私はそのなかで、権力者の独り歩きを可能にするような方法で、日本では法律は支配するのではなく、支配されているのであって、この国の権力システムにおいて、法律は政治に関して許容すべきこととそうでないことを決定づける基準にはなっていない、と説いた。すなわち独り歩きをする日本の権力システムに対して、異議を唱え、改革を加えようとする者を阻止するような仕組みがある、ということだ。本書のテーマに当てはめて解説するならば、小沢氏のような野心的な政治家、あるいは彼のように改革を志す政治家が将来何人あらわれようと、現体制はあくまでそれを拒むというわけだ。
いま、小沢氏の政治生命を抹殺しようと盛んにキャンペーンが繰り広げられているのも、これによって説明がつく。
p65〜
99・9%という「無謬」
中立的な権威としての法律を日本の政治システムから遠ざけておくやり方はそのほかにもいくつかある。法律が非公式な政治システムに対して、なんら影響をおよぼすことが許されないとしたら、ではなにがシステムをつかさどっているのか?。それは暗黙の了解事項、つまり不文律であり、記憶のなかで受け継がれる古い習慣だ。裁判官もまた体制に大きく依存している。最高裁事務総局に気に入られるような判決を下さなければ、地方に左遷されかねないことを、彼らは考えないわけにはいかない。戦前、戦後を通じて日本の裁判官たちは、法務省のトップクラスの検察官を恐れてきた。これが99・9%という人間の検察の有罪判決率を可能にした理由の一つである。
つまり、みずから裁判にかけたケースで99・9%の勝利をおさめるに日本の検察は、事実上、裁判官の役割を果たしているということになる。つまり、日本ではわずか0・1%、あるいはそれ以下に相当するケースを除いては、法廷に裁判官がいようといまいと、その結果に大した違いはないということだ。
p68〜
しかし日本に関してもうひとつ気づいたことがある。それは社会秩序を傷つけかねないどんなものをも未然に防ぐという検察の任務が、政治システムにおいても重視されているという事実だ。当然、そのためにはシステムの現状を維持することが必要となる。問題は、現状をわずかでも変える可能性があると見れば、どんな人間であっても既存の体制に対する脅威と見なしてしまうことである。そのような姿勢は当然のことながら、小沢氏のみならず、日本という国家そのものにとっても望ましいものではない。なぜならば多くの日本人は長い間、権力システムの改革が必要だと考えてきたからだ。後述するが、自民党と日本の秩序をつかさどる人々との間には、一種、暗黙の了解のようなものがあり、それが50年にわたって保たれてきたのだろう。そして自民党が政権の座を追われたいま、単に自民党とは行動の仕方が違うという理由で、体制側は民主党を、小沢氏という個人とともに、脅威を与える存在と見ているのだ。
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◆ 『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と小沢一郎氏が対談〈全文書き起こし〉 2011-07-30 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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