「高木仁三郎という希望」中里英章
2011/6/22 中日新聞夕刊
"市民科学"思想の温かさ
3・11の原発震災後、高木仁三郎さんの著書を新装版として出版しました。『チェルノブイリ原発事故』『食卓にあがった放射能』『反原発、出前します』の三冊ですが、20年も前に出版されたとは思うないほど、みずみずしい文章が語りかけてくるのに驚かされました。
高木さんとであったのは1969年のことです。この年、大学闘争が盛んで国立大学2校で入試がなかったので、東京都立大学の化学科に進んだのですが、そこへ高木さんが新任の助教授として赴任してきたのです。31歳の気鋭の科学者でした。師と呼ぶには若く、兄貴のようでした。当時の教官と学生は、一緒にデモもすれば集会にも参加し、議論は対等(のつもり)にやっていました。
1971年3月のある夜、高木さんの家へ向かうバスの座席に二人並んで座っていました。この頃、成田空港建設のための第1次強制執行が行われていて、連日たくさんの逮捕者を出していました。私は三里塚現地の闘争に参加するのを躊躇していましたが、時期が煮詰まってきたので、高木さんの研究室で相談しました。そして、「三里塚へ行きます。逮捕は覚悟です」と、やっとのことで言いました。すると「もう少し話さないか。今夜、家にお出でよ」といってくれたのです。
「逮捕なんか覚悟すると、だいたい逮捕されるんだよね」。さすがに兄貴のいうことには、説得力があります。「でもね、自分が楽になる方を選んじゃいけないね。苦しくなる方へ進むと道がひらけるんじゃないかな」。ほかに何を話したかよく覚えていませんが、夜道を走るバスの中の会話は鮮明に記憶に残っています。その言葉通り、高木さんは、72年に三里塚の岩山大鉄塔ができた後、ドイツのマックス・プランク核物理研究所へ留学。帰国後、都立大学を辞したのです。そして、原子力資料情報室の世話人となり、原子力推進を根源的に批判し、「平和で持続的な未来」を展望する“市民科学”という思想に至りました。その思想を伝えるのが原子力資料情報室のほか、高木学校と高木仁三郎市民科学基金です。
1987年に『あきらめから希望へ』(花崎皋平との対論)を出版しました。社会は重苦しい雰囲気に包まれていました。未曾有の大災害となったチェルノブイリ原発事故から一年を経ていましたが、ヨーロッパやウクライナの悲惨な被害の実態が次々に報じられていたからです。日本でも、ジェット気流にのって飛んできた放射能で食品が汚染されるなど、原発を推進する側にも反対する側にもやりきれない気持ちがただよっていました。日比谷公園に二万人もの人々が集まった脱原発大集会は翌年です。
そうした状況のなかで、市民からの問い合わせや事故の原因究明に忙殺されながら、高木さんは次のような発言をしています。原発技術者や体制内に蔓延する「組織されたあきらめ」を批判したあとに、「私は、あきらめに対置して『希望をこそ組織しよう』と言いたい。かのパンドラの箱にひとつだけ残っていたのは希望で、ギリシャ神話によれば、それこそが私たちを生かし続けて来たものだった。かの技術者は『甘い』というだろう。だが、『冷めたあきらめ』より『甘い希望』を選ぶしかあるまい」(「朝日新聞」1987年4月23日)。
2000年10月8日、道半ばでガンで倒れたのは残念なことでした。高木仁三郎について語るとき、透明なあたたかさを感じるのは希望を抱くからではないでしょうか。
(なかざと・ひであき=編集者、七つ森書館代表)
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高木仁三郎という希望
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