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〈オウム:平田信被告の公判〉井上嘉浩・中川智正・小池(旧姓 林)泰男死刑囚の証人尋問 公開か非公開か

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奪還も懸念…オウム死刑囚尋問、公開か非公開か
2013年4月12日09時07分  読売新聞
 オウム真理教の目黒公証役場事務長拉致事件などで、起訴された平田信被告(48)の公判で行われることが決まった教団元幹部の3死刑囚の証人尋問が、公開の法廷で実施されるかが注目されている。
 検察側は「死刑囚には特別の配慮が必要」として非公開を求める意向だが、裁判の「公開の原則」を守るべきだとの意見もある。東京地裁の判断はどうなるのか――。
 *「心情の安定」 証人尋問されるのは、井上嘉浩(43)、中川智正(50)、小池(旧姓・林)泰男(55)の3死刑囚。地下鉄サリン事件などで、2008〜11年に死刑が確定し、東京拘置所に収容されている。 法務省によると、死刑囚の処遇は「心情の安定」が大前提。外部との交流については、面会はもちろん、手紙なども制限される。同省幹部は「外の世界に触れると、諦めていた“生”への執着が生まれる可能性もある」として、「重い病気で搬送される以外、拘置所の外に出すことはあり得ない」と話す。
 また、裁判所への移送や公判中に、教団による奪還が起こり得るとする意見もあり、大がかりな警備が必要となる。
 検察側は、こうした事情から、地裁から意見を求められた場合、傍聴人は入れない拘置所での「出張尋問」にすべきだと強く主張する考えだ。
 *公開の原則 一方で、刑事被告人は憲法で、公開裁判を受ける権利を保障されている。入院中の病人や性犯罪の被害者らが証人になる場合、裁判所が必要だと認めれば、証人尋問が裁判所外で非公開で行われることもあるが、あるベテラン刑事裁判官は「死刑囚の心情の安定に配慮することが該当するかどうか、非公開の理由としては抽象的で、説得力に欠ける」とくぎを刺す。
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オウム:平田信被告の公判 井上嘉浩・中川智正・小池(旧姓 林)泰男死刑囚の証人尋問決定 東京地裁 2013-03-29 | 死刑/重刑/生命犯 問題 

オウム裁判終結と「1963年矯正局長通達」/ 死刑について、他人事とせず、自分のこととして考える 2011-11-25 | 死刑/重刑/生命犯 問題 
  〈来栖の独白 2011/11/25 〉
 オウム裁判終結と「1963年矯正局長通達」を考える
 今月11月18日、21日、オウム事件の上告審判決があり、オウム裁判は終結した。
 裁判終結に伴って、オウム関連の報道記事が氾濫した。私の心に掛かったのは、被告の母親の姿であった。例えば次のような記事。

弁護士一家殺害審理終了:募るやり切れない思い
カナロコ(神奈川新聞)2011年11月19日
 判決が言い渡された最高裁第2小法廷には中川智正被告の母(76)の姿があった。
 傍聴席の最前列、死刑を告げる判決をじっと目を閉じて聞き、閉廷の際には小さな体を折り曲げ、正面におじぎをした。
 覚悟して久しいことを示すように開口一番、「当然の結果です」と言った。
 遠く西日本の地方都市から拘置所の息子への接見に向かい、その際には鎌倉・円覚寺の坂本弁護士一家の墓に参ることもあった。それでも救われない心。
 この日も「たった一人の命ですが、少しでも償いになれば。でも、大勢の命を奪い、償いにはなりませんが」。自らに向けるように「わが子を(死刑で)失い、少しでもご遺族の気持ちに近づくことができれば」と静かに話し、タクシーに乗り込んだ。
 オウム真理教家族の会代表の永岡弘行さん(73)は、1カ月前に中川被告と接見したことを明かした。「太ったなあ、表情が穏やかになったなあ、と声を掛けると、笑みを浮かべていた」
 かつて自身の長男も入信。わが子を教団から取り戻す親たちの運動の先頭に立ち、中川被告の母とも行動を共にした。やがて母は「加害者の母」に。一方の永岡さんはVXガスで教団に殺されかかった。この日、目に涙をため「一連の事件を食い止められなかったわれわれ大人の責任。死刑判決に申し訳ない気持ちだ。お母さんにも掛ける言葉がない」とやり切れなさを募らせていた。

 今回初めて、中川被告が私と同郷であると知った。岡山大学付属小中から名門朝日高校、そして京都府立の医学部へ進んだ。中川氏入信から逮捕・起訴、上告棄却と、中川氏のお母上には心の休まる日はなかったであろう。わが子が人を殺め、裁判にかけられ、死刑判決を受ける。これほど辛い母は、いない。遠く岡山の地から、わが子を案じて東京小菅へ通う。裁判は、人の心身を根こそぎ疲弊させる。
>「たった一人の命ですが、少しでも償いになれば。でも、大勢の命を奪い、償いにはなりませんが」
 胸、裂ける思いで、このように云われたに違いない。これほどに悲しい母を私はこの世で知らない。
 オウムの裁判が終結した今、メディアが旗振り役となって、国民の関心は死刑執行へと移った。これまでは、死刑確定しているといえども、未決の被告人と大差なかった。全員が確定するまでは死刑の執行はない。しかし全員が確定者となれば、死刑執行に対して完全に無防備となる。
 加賀乙彦著『死刑囚の記録』から抜粋したい。少し古くて、1980年12月に書かれた<あとがき>である。

 中公新書『死刑囚の記録』
 ただ、私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は禁止すべきだということである。
 死刑の方法は絞首刑である。刑場の構造は、いわゆる“地下絞架式”であって、死刑囚を刑壇の上に立たせ、絞縄を首にかけ、ハンドルをひくと、刑壇が落下し、身体が垂れさがる仕掛けになっている。つまり、死刑囚は、穴から床の下に落下しながら首を絞められて殺されるわけである。
 死刑が残虐な刑罰ではないかという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。
 たとえば1948年3月12日の最高裁判所大法廷の、例の「生命は尊貴である。一人の生命は全地球より重い」と大上段に振りあげた判決は、「その執行の方法などがその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ」として、絞首刑は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などとちがうから、残虐ではないと結論している。すなわち、絞首の方法だけにしか注目していない。
 また、1959年11月25日の古畑種基鑑定は、絞首刑は、頸をしめられたとき直ちに意識を失っていると思われるので苦痛を感じないと推定している。これは苦痛がない以上、残虐な刑罰ではないという論旨へと発展する結論であった。
 しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。

 加賀氏は「死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。」と言う。
 それに呼応するように(?)、行刑施設の管理運営上の指針ともいわれる1963年矯正局長通達「死刑確定者の接見及び信書の発受について」(「63年通達」)は、確定死刑囚処遇の基本を次のように言っている。

 「罪の自覚と精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるように配慮すべきであるので処遇に当たり、心情の安定を害するおそれとなる交通も制限される」

 死刑制度とは、施設(東京拘置所)職員にも、苦難を強いる制度といえる。
 「罪の自覚と精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるように配慮」するのは、並大抵ではない。管理能力には限界がある。「精神の安静」という大前提のために外部との交通が狭めざるを得ないかもしれない。死刑囚への来信に精神の安静を損なうようなこと(情報)が書かれてあれば施設は困るであろうし、接見においても然りであろう。そうなれば、拘置所は外部との扉を徐々に閉ざしてゆくのではないか。
 罪の自覚と精神の安静裡に死刑の執行を受けるために、人(死刑囚といえども、人)が人との交わりなしに、外界と隔離されて生きる・・・。
 日々、そのような死刑囚に接し、挙句、死刑執行に直接手を下さねばならない刑務官の「精神」も苛酷であるに違いない。死刑存置賛成が大半を占めるこの国の国民は今や「オウムに死刑執行を」と口々に求めるが、次の意見から考えてみたい。

絞首刑は憲法36条の禁止する残虐な刑罰か/死刑の苦痛(残虐性)とは、死刑執行前に独房のなかで感じるもの
論壇時評【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】(抜粋)
 日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。(大澤真幸 京都大学大学院教授)

 オウム真理教の事件は多くの問題を国民に提起し、裁判では解明しきれず、司法の限界も感じさせた。加えて、死刑制度を存置するこの国の国民一人一人に、死刑について、他人事とせず、自分のこととして考えることを要請しているように思えてならない。裁判員・法務大臣・刑務官に丸投げするのではなく、自らが「判決」し、死刑執行命令書に「サイン」し、刑場に赴いて「執行」する。そうすることで初めて、死刑を自らのこととして考えうるのではないだろうか。

【63年法務省矯正局長通達】
法務省矯正甲第96号
昭和38年3月15日
死刑確定者の接見及び信書の発受について
 接見及び信書に関する監獄法第9章の規定は、在監者一般につき接見及び信書の発受の許されることを認めているが、これは在監者の接見及び信書の発受を無制限に許すことを認めた趣旨ではなく、条理上各種の在監者につきそれぞれその拘禁の目的に応じてその制限の行われるべきことを基本的な趣旨としているものと解すべきである。
 ところで、死刑確定者には監獄法上被告人に関する特別の規定が存する場合、その準用があるものとされているものの接見又は信書の発受については、同法上被告人に関する特別の規定は存在せず、かつ、この点に関する限り、刑事訴訟法上、当事者たる地位を有する被告人とは全くその性格を異にするものというべきであるから、その制限は専らこれを監獄に拘置する目的に照らして行われるべきものと考えられる。
 いうまでもなく、死刑確定者は死刑判決の確定力の効果として、その執行を確保するために拘置され、一般社会とは厳に隔離されるべきものであり、拘置所等における身柄の確保及び社会不安の防止等の見地からする交通の制約は、その当然に受忍すべき義務であるとしなければならない。更に拘置中、死刑確定者が罪を自覚し、精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるよう配慮さるべきことは刑政上当然の要請であるから、その処遇に当たり、心情の安定を害するおそれのある交通も、また、制約されなければならないところである。
 よって、死刑確定者の接見及び信書の発受につきその許否を判断するに当たって、左記に該当する場合は、概ね許可を与えないことが相当と思料されるので、右趣旨に則り自今その取扱いに遺憾なきを期せられたい。
    記
一、本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合
二、本人の心情の安定を害するおそれのある場合
三、その他施設の管理運営上支障を生ずる場合


   

確定死刑囚の処遇の実際と問題点---新法制定5年後の見直しに向けて(明治大学名誉教授・弁護士 菊田幸一)
死刑とは何か〜刑場の周縁から
「神的暴力」とは何か(上)  死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い
絞首刑は憲法36条の禁止する残虐な刑罰か/死刑の苦痛(残虐性)とは、死刑執行前に独房のなかで感じるもの 2011-11-11 | 死刑/重刑/生命犯 問題 
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