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大飯原発 運転停止の却下は当然だ

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大飯原発 運転停止の却下は当然だ
産経新聞2013.4.22 03:10 [主張]
 ようやく良識に接した思いである。
 関西電力大飯原子力発電所(福井県おおい町)3、4号機の運転差し止めを求めた地元住民らの仮処分申請が、大阪地裁で却下された。
 原発を動かさないための理由付けばかりが探し求められている風潮の中で、司法が示した健全な判断として歓迎したい。
 大飯原発の3、4号機は、国内で唯一、稼働している施設である。両機は民主党政権下の昨年7月、暫定的な安全基準に適合しているとして再稼働が認められた。昨夏以降の電力危機の克服に貢献し、現在も運転中だ。
 裁判では、若狭湾などにある3つの断層が連動した場合の地震動により、原子炉への制御棒の挿入に遅れが生じて重大事故になるかどうかなどが争われた。
 地裁は、両機について「合理性が認められる安全上の基準を満たしている」として、住民側の主張を退けたのだ。
 今回の地裁判断が、大飯原発敷地内の「F−6破砕帯」という地層のずれについて触れていることに注目したい。
 この地層のずれは、原子力規制委員会が昨秋から現地調査をしているが、専門家の間で活断層説と地滑り説が対立し、結論が出ないままとなっている。
 地裁は、「地層のずれは地滑りによる可能性が高く(中略)断層運動によるものと認めるには足りない」と明快に断じた。
 ゼロリスクに固執して、活断層の有無のみにこだわり続ける規制委の姿勢を批判するかのような響きがある。規制委には、科学と工学の双方に立脚した、現実的な安全性の追求を望みたい。
 福島事故以来、国内には原発を極度に危険視し、全面否定する空気が満ちている。だが、いつまでも後ろ向きの姿勢でよいのだろうか。原発が止まっているために、二酸化炭素の排出量は再び増加し、液化天然ガスの輸入で国富の流出が止まらない。
 この裁判とは別に関電は大飯3、4号機を9月の定期検査まで動かせるようにするため、7月施行の新規制基準に適合させる旨の報告書を規制委に提出した。
 規制委は先月、両機の夏場の運転を受け入れる方針を表明している。今回の地裁の判断を、自らの背中を押す声として受け止めてもらいたい。
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『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著 2012-08-31 | 読書 
第4部 なぜ福島原発事故の処理は世界で評判が悪いのか
p245〜
 日本の人々は、日本が世界唯一の核爆弾による被害者である事実に甘えている。そのことをはっきりさせたのが、4月初めの『ニューヨーク・タイムズ』の論説で、日本が原子力発電をやめると決めたことに対して「地球温暖化の問題を考えれば、賢明ではない」と日本の態度を批判するものだった。
 全米商工会議所やエネルギー省の私の知り合いも、エネルギーの将来については可能性を大きく残すべきで、福島原発事故があったからといって、原発をすべてやめるのは行き過ぎであるという見方をしている。
 日本にはもともと、原爆を投下されたことから核エネルギーに対する恐れが強い。原子力発電についても用心深いほうが正しいと信じて、福島原発を契機にやめてしまうことについて、世界で称賛されると思った人が多いようである。だが世界の専門家は、福島原発事故のあと日本が行うべきは「いかに原子力発電を、より安全にするか」という努力であると考えている。今度の失敗をもとに、さらに安全な仕組みを考えて世界に提示してほしいと思っている。
p246〜
 世界の人々は広島と長崎に投下された原爆を原点として、核エネルギーの危険性を十分に理解している。だが原子力発電が世界の現実になっている現在、地下資源のない日本が、資源のある国々と同じように、簡単に核エネルギーを捨て去ることについて、世界の人々は決して日本を尊敬してはいない。
 世界中の専門家が、福島原発の処理にあたって日本政府が秘密主義をとったことを厳しく批判したが、原発停止についても、日本が専制国家のように国民的な議論をすることもなく決めたことに驚いている。
 東北地方太平洋沖地震と大津波によって事故が起きたとき、アメリカの友人たちは、日本に同情的だった。だが、現在は批判に変わり、日本の後ろ向きの姿勢に失望して世界の経済人が日本を見放そうとしているが、日本の人々は注意を払おうとしない。
 原爆の被害者である日本人はもともと、核の問題については自分たちだけに通用する理屈と行動を押し通してきているが、本人はそのことに気がついていない。(略)
p247〜
 こういった同情的な見方が静かにではあるが徐々に変わり、日本に対する不信の念がワシントンでは強まってきた。その最大の原因は、アメリカのマスコミだった。現地にいた新聞記者たちは、日本政府や東電が詳しい情報をまったく提供しないと伝え、「日本政府や関係者は大丈夫だ、大丈夫だと言うばかりだ」と厳しく非難した。
p249〜
 アメリカでは、原発事故は戦争と同じ扱いである。したがって、中心になるのは軍隊である。警察や消防は補助的な存在で、軍隊が事故現場を取り仕切り、先頭に立って地域と住民の安全を確保する。ところが、我が国には軍隊がない。自衛隊は自衛隊に過ぎず、世界の常識で言う軍隊としての行動をとれなかった。もともと、そうした体制もできていなかった。(略)
 福島原発の事故で最も致命的だったのは、「原発は安全である」という宣伝のもとで、政府も地域の人々も事故が起きた場合の訓練を行っていなかったことである。つまり、備えがまったくなかった。
p250〜
 私はアメリカの原子力発電所をいくつか取材したが、「原発は安全である」と宣伝する一方で、定期的に事故に備える訓練を行っている。すでに触れたが、使用済みの核燃料が大量に保管されているワシントン州のハンフォードでは、毎週金曜日の午後に、地域の人々を含めて訓練が実施される。(略)
 このことを東京電力の関係者に言ったところ、次のように反論された。
「訓練をしなければならないというと、ただちに原発反対の声につながってしまうのです」
 スウェーデンの海岸近くにあるフォルクマルク原子力発電所を訪問したとき、海岸に背を向けて厚さ数メートルの堅牢な壁を持つ新しい発電所があった。発電所の壁はいくつかに区切られ、地震があった場合には、揺れを吸収する材料が使われていた。地震がほとんどないスウェーデンでも、こうした対応策がとられている。地震と津波の国の原子力発電所は、「想定」のレベルを極端なほど高くして備えておくべきだった。
 広島と長崎に原爆を落とされた日本では、核兵器に対する反対が、そのまま原子力発電に対する反対になっている。原子力発電所では放射性物質を使うが、原子力エネルギーと原子爆弾はまったく違う。原爆を初めて製造したアメリカが最も苦労したのは、兵器として核爆発を起こさせるための引き金だった。この引き金がないかぎり、原子爆弾はできない。ところが日本では、原爆も原子力発電も同じように捉えられている。
 原子力発電は、人類が手にした核エネルギーを平和的に利用する目的で始まった。原爆は兵器だが、原子力発電は大切なエネルギー獲得の手段である。だが日本では、原爆と原発をひっくるめて反対している人がほとんどである。
p253〜
 そこで私は東京電力に依頼して柏崎刈羽原子力発電所を見に行ったが、案内してくれた人はお題目のように「安全です」と繰り返していた。緊急事態に備え、地域ぐるみの訓練を実施することなどは思いもよらないという雰囲気だった。
 冒頭に述べたように、原子力発電について日本の人々がやるべきは、短絡的にやめることではない。すでに世界が最新鋭と認めている技術を、さらに高めていくことである。
 日本にはエネルギー資源がほとんどない。石炭はあるが炭鉱はなくなってしまった。石油はもともとない。その石油は中東情勢によって価格が高騰するだけでなく、手に入らなくなるおそれがある。モノを製造し輸出によって経済を発展させてきた日本が原子力発電をやめるのは、自殺行為に等しいと知るべきだ。
p260〜
  中東の国々は、19世紀の初め、民族国家への歩みを始めるとともに、経済的な発展の道をたどろうとした。それを遮ったのが、ヨーロッパ諸国である。植民地主義によって中東の国々を収奪し、近代化を大きく阻害してしまった。
  中東諸国は、ヨーロッパに対する報復としてエジプトのナセル中佐など若い軍人を中心にソビエトに頼ったが、結局はアメリカの力に押しつぶされてしまった。
  2011年から「アラブの春」と呼ばれる民主主義運動が中東や北アフリカ諸国に広がっているが、その根元にあるのは反米主義である。近代化を西欧諸国の植民地主義に妨害された国々が報復を始めたのである。そのために核兵器を持って、アメリカに対抗しようとしている。
  アジア極東で、核兵器とミサイルを開発してアメリカを追い出そうとしている中国、北朝鮮と歩調を合わせ、中東やアフリカでも旧植民地勢力に対する反発としての新しい動きが始まっているのである。
  中東やアジアに広がっている反米主義の動きについて、アメリカの指導者たちは楽観的な見方をしているが、アメリカの看板である核に対抗する力をアラブの人々が持ち始めれば、アメリカは軍事力とともに、国際的な政治力の基本になってきた、石油を支配する力も失うことになる。アメリカの核の抑止力がなくなることは、歴史的な大転換が始まることを意味する。新しい世界が始まろうとしているのである。
 P261〜
  私がこの本で提示しようとしたのは、核爆弾という兵器を日本に落としたアメリカの指導者が、日本を滅ぼし、日本に勝つという明確な意図を持って行動したことである。無慈悲で冷酷な行動であったが、日米の戦争がなければ起きないことであった。
  原爆を投下された日本は、そうした現実をすべて置き去りにして、惨劇を忘れるために現実離れした「二度と原爆の過ちは犯しません」という祈りに集中するすることによって、生きつづけようとした。国民が一つになって祈ることによって、歴史に前例のない悲惨な状態から立ち上がったのは、日本民族の英知であった。
  だがいまわれわれにとって必要なのは、原爆投下という行為を祈りによってやめさせることはできない、という国際社会の現実を見つめることである。すでに見てきたように、世界では同じことが繰り返されようとしている。
  我々に必要なのは、祈りではない。知恵を出し合って、日本と日本民族を守るために何をしなければならないかを考えることである。それにはまず、現実と向かい合う必要がある。「原爆を日本に投下する」という過ちを、二度と繰り返させないために、日本の人々は知恵を出し合う時に来ている。
p263〜
あとがきに代えて--日本は何をすべきか
 アメリカは核兵器で日本帝国を滅ぼし、そのあと日本を助けたが、いまやアメリカ帝国自身が衰退しつつある。歴史と世界は常に変わる。日本では、昨日の敵は今日の友と言うが、その逆もありうる。いま日本の人々が行うべきは、国を自分の力で守るという、当たり前のことである。そのためには、まず日本周辺の中国や北朝鮮をはじめとする非人道的な国家や、日本に恨みを持つ韓国などを含めて、常に日本という国家が狙われていることを自覚し、日本を守る力を持たなければならない。(略)
p264〜
 軍事同盟というのは、対等な力を持った国同士が協力して脅威に当たらねばならない。これまでの日米関係を見ると、アメリカは原爆で日本を破壊したあと、善意の協力者、悪く言えば善意の支配者として存在してきた。具体的に言えば、日本の円高や外交政策は紛れもなくアメリカの力によって動かされている。日本の政治力のなさが、円高という危機を日本にもたらしている。その背後にあるのは、同盟国とは言いながら、アメリカが軍事的に日本を支配しているという事実である。
 いまこの本のまとめとして私が言いたいのは、日本は敵性国家だけでなく、同盟国に対しても同じような兵器体系を持たねばならないということである。アメリカの衛星システムやミサイル体制を攻撃できる能力を持って、初めてアメリカと対等な軍事同盟を結ぶことができる。もっとも、これには複雑な問題が絡み合ってくるが、くにをまもるということは、同盟国に保護されることではない。自らの力と努力で身を守ることなのである。そのために、日本が被った原爆という歴史上類のない惨事について、あらためて考えてみる必要がある。
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『帝国の終焉 「スーパーパワー」でなくなった同盟国・アメリカ』日高義樹著 2012/2/13第1刷発行 2012-10-02 | 読書 
p166〜
 日本では左翼の学者や政治家たちが、核をことさら特別なものとして扱い、核兵器を投下された場所で祈ることが戦争をなくすことにつながる、と主張している。私は、こういった考え方を持つ進歩派の政治家の発言に驚いたことがある。
 福島原発の事故の担当になった民主党政権の若い政治家が、「これからどのような対策をとるのか」という私の質問に、「原子力は神の火で、軽々しくは取り扱えない」と答えた。「神の火」とは恐れ入った表現である。核エネルギーは石油や石炭と同じエネルギーの1つである。核爆弾も破壊兵器の1つに過ぎない。
 日本に関するかぎり、核爆弾を特殊扱いする政治的な狙いは的を射た。日本人の多くが、核を「神の火」であると恐れおののき、手を触れてはならないものと思い込み、決して核兵器を持ってはならないという考えにとりつかれている。この状況が続く限り、日本人は核を持たないであろうとアメリカの政治家は考え、日本の指導者に圧力を加え続けてきた。だがその状況は大きく変わり、シュレジンジャー博士のように「持つも持たないも日本の勝手」ということになりつつある。
p168〜
第4部 日本はどこまで軍事力を増強すべきか
 日本はいま、歴史的な危機に直面している。ごく近くの隣国である中国は、核兵器を中心に強大な軍事体制をつくりあげ、西欧とは違う独自の倫理に基づく国家体制をつくりあげ、世界に広げようとしている。すでに述べたように、中国は人類の進歩が封建主義や専制主義から民主主義へ向かうという流れを信用していない。中央集権的な共産党一党独裁体制を最上とする国家を維持しながら軍事力を増強している。そのような国の隣に位置している日本が、このまま安全でいられるはずがない。
 日本はいまや、同じ民主主義と人道主義、国際主義に基づく資本主義体制を持つアメリカの支援をこれまでのようには、あてにできなくなっている。アメリカは、歴史的な額の財政赤字を抱えて混乱しているだけでなく、アメリカの外のことに全く関心のない大統領が政権に就いている。こうした危機のもとで、日本は第2次大戦に敗れて以来、初めて自らの力で自らを守り、自らの利益を擁護しなければならなくなった。
 第2次大戦が終わって以来、日本人が信奉してきた平和主義は、確かに人類の歴史上に存在する理念である。だが、これほど実現の難しい理念もない。
p170〜
 国家という異質なもの同士が混在する国際社会には、絶対的な管理システムがない。対立は避けられないのである。人間の習性として、争いを避けることはきわめて難しい。大げさに言えば、人類は発生した時から戦っている。突然変異でもないかぎり、その習性はなくならない。
 国連をはじめとする国際機関は、世界平和という理想を掲げているものの、強制力はない。理想と現実の世界のあいだには深く大きなギャップがあることは、あらゆる人が知っていることだ。
 日本はこれまで、アメリカの核の傘のもとに通常兵力を整備することによって安全保障体制を確保していたが、その体制は不安定になりつつある。今後は、普遍的な原則に基づいた軍事力を整備していかなければならない。普遍的な原則というのは、どのような軍事力をどう展開するかということである。(略)
p171〜
 日本は、「自分の利益を守るために、戦わねばならなくなった時にどのような備えをするか」ということにも、「その戦争に勝つためには、どのような兵器がどれだけ必要か」ということにも無縁なまま、半世紀以上を過ごしてきた。アメリカが日本の後ろ盾となって、日本にいるかぎり、日本に対する戦争はアメリカに対する戦争になる。そのような無謀な国はない。したがって戦争を考える必要はなかった。このため日本はいつの間にか、外交や国連やその他の国際機関を通じて交渉することだけが国の利益を守る行為だと思うようになった。
 よく考えてみるまでもなく、アメリカの日本占領はせいぜい数十年である。人類が戦いをくり返してきた数千年の歴史を見れば、瞬きするほどの時間にすぎない。日本人が戦争を考えずに暮らしてこられた年月は、ごく短かったのである。日本人はいま歴史の現実に直面させられている。自らの利益を守るためには戦わねばならない事態が起きることを自覚しなければならなくなっている。
 国家間で対立が起きた時、同じ主義に基づく体制同士であれば、まず外交上の折衝が行われる。駆け引きを行うこともできる。だがいまの国際社会の現状のもとでは、それだけで解決がつかないことのほうが多い。尖閣諸島問題ひとつをとってみても明らかなように、外交交渉では到底カタがつかない。
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