出光佐三 海賊とよばれた男の挑戦
PHP Biz Online 衆知 2013年05月09日 水木 楊(元日本経済新聞論説主幹)
《『出光佐三 反骨の言魂』より》
■非常識を常識に変える魔法の杖
関門海峡の潮はおそろしく速い。岸から眺めても、ざわめき立つうねりが手に取るように分かる。速いところでは7ノット。時速およそ13キロで、自転車で速度を上げて走るほどの速さである。
大正の初め、この関門海峡で、「海賊」と呼ばれる男がいた。海賊とその部下たちは夜中の12時から2時頃にかけて、漁船たちがエンジン音を響かせながら帰ってくるのを待ち構えている。エンジンは「ポンポン蒸気」と呼ばれたツーサイクルの焼き玉エンジン。海賊たちは音を聴いただけで、どこの船か分かるほど仕事に習熟している。
店から飛び出した彼らは、伝馬船で艪をこぎ、漁船に乗り込む。漁師たちが陸に上がる前に注文を取ってしまう。それからおもむろに彼らの給油船を差し向け、にょろりとパイプを突き出す。船が揺れても、きちんと油の量を計ることのできる計測器を自分たちで考案して作り上げている。目盛りを記した軸を真ん中に通した、透明の駒のような、奇妙な形をした計測器だが、正確である。
海賊の売る油は、変な匂いがした。それまでの漁船は燃料油に灯油を使ってきたのだが、海賊は軽油を売る。しかも、下級の軽油。これが臭い。しかし、値段が半分になったため、いつの間にか漁船は海賊の勧めるままに軽油に切り替えていた。
燃料油を日本石油などの元売り会社から買ってきてユーザーに売るのは小売りである特約店の仕事である。特約店は下関、門司、小倉、博多など地域別に分かれ、縄張りを作っている。
ところが、縄張りを持たぬ海賊は海上で殴りこみをかけた。文句を言われると、「海に下関とか門司とかの線でも引いてあるのか」と言い張った。海賊と呼ばれるようになったゆえんである。
それから、数年後の大正8年(1919年)2月、海賊は陸に上がり、厳寒の中国東北部(満州)にいた。長春のホテルの中庭である。生やさしい寒さではない。零下20度。鼻水をたらすと、たちまち氷の筋になる。
男の前にはコップが3つ置いてあった。コップには油が入っている。こんどは燃料油ではなく、汽車の車軸油にする潤滑油である。
男だけではなく、青い目の外国人も含めた数人の男たちもコップを見つめている。みな毛布を2、3枚かぶって寒さに耐えている。
3つのコップのうち2つは、スタンダード社とヴァキューム社の潤滑油が入っている。残るひとつは男の会社の油だ。男が自分で苦心して調合した油である。
やにわに男はコップのひとつを高くかざしてから、少し傾け、ひときわ高い声で叫んだ。「見なされ。凍ってはおらん」
男の手にあるのは自分の油で、液状を保っている。他の油は粘度を失い、固体になろうとしていた。
南満州鉄道、通称・満鉄はスタンダード社とヴァキューム社から潤滑油を購入していたが、その潤滑油が厳寒のため凝結して車軸が焼けるという事故に頭を抱えていたのである。潤滑油の実験で、男は勝った。メジャーともセブンシスターズとも呼ばれる巨大外資を追い落とし、満鉄への潤滑油納入を一手に握ることになる。
男の名は、出光佐三。身長1メートル70センチ。当時の日本人としては高い。丸顔だが、余分な肉はついておらず、頬がこけている。髪の毛は短く、額が広い。叡山から降りてきた僧兵の親分のような、荒くれた雰囲気を身にまとっている。声は甲高いが、金属性のキンキンとした響きではない。木管に似てわずかにかすれ、柔らかい。眼鏡の奥にある目は小さく、視力が極端に弱い。その瞳孔は対象の人物や物体を見つめているようでもあれば、その背後にある何かを探ろうとしているようでもあり、捉えどころのない硬い光を帯びている。
舞台は長春のホテルの中庭から、34年後の神戸埠頭に移る。昭和28年(1953年)3月23日早朝、快晴である。
出光は埠頭の突端に立ち、1万8500トンのタンカーを見上げていた。当時としては最大級のタンカーで、真っ赤な腹を喫水線上にさらけ出している。船体はやや灰色がかった青。煙突に赤で出光の頭文字Iが浮き出ている。出光が社運を賭して建造した虎の子の日章丸である。六甲、摩邪の連山が折りしもの朝日を受けてかすかに茜色に染まり、日章丸を見下ろしている。山頂は輝き、すでに朝が訪れている。
出航が近い。行く先はサウジアラビア、ということになっている。出光の手には白羽の矢がある。前日、わざわざ京都の石清水八幡宮を訪れ、心身を清めたうえ、神職の手から受け取った。
出光は日章丸に祈るように軽く一礼してから、タラップを上がった。船内には、宗像神社が祭られてある。船長とともに、二礼三拍の祈願を済ませて、白羽の矢を奉納する。それから船長に密封した袋を手渡した。中にはガリ版刷りの紙が船員の数だけ入っている。
船長は緊張した面持ちにわずかな微笑みを浮かべ、袋を受け取った。日章丸の密命を知っているのは、船長と機関長だけである。
船が鈍いエンジン音を放ち始めた。出光は埠頭に降りる。五色のテープが舞う。何も知らない船員の家族たちがしばしの別れを惜しんでいる。次第に岸壁を離れていく日章丸を、出光は押しつぶされるような思いで見送った。
船の行き先は、実はサウジアラビアの港ではなかった。同じペルシャ湾内ではあるが、その最も奥に位置するアバダン。イランである。
イランはそれより2年前、英国資本のアングロ・イラニアン社を国有化。英国との関係は険悪になり、国交断絶の状態にあった。英国海軍はペルシャ湾を航行するタンカーの無線を傍受して、監視下に置いており、イランから石油を積み出そうとするタンカーがあれば、拿捕も辞さない構えを取っていた。事実、イタリア船籍のローズマリー号は拿補されて、アデンに曳航されてもいた。
日章丸はそのペルシャ湾奥、イランに分け入り、石油を積み出そうとしている。日章丸は出光が保有するただ一隻のタンカーである。拿捕されたら、社運は一気に傾く。しかも、日本は連合国による占領から独立したばかり。連合国の一翼を担った英国の横面を張り倒すような行動に、出光は打って出た。
神戸を出て11日後、マラッカ海峡を抜けたコロンボ沖で、日章丸の船長は東京本社からの無電を受け取った。船長は船員たち全員に行く先がアバダンであることを告げ、ガリ版刷りの紙を配って読み上げた。出光の檄文である。
「……行く手には防壁防塞の難関があり、これを阻むであろう。しかしながら、弓は桑の弓であり、矢は石をも徹するものである。ここにわが国は初めて世界石油大資源と直結した、確固不動たる石油国策の基礎を射止めるのである」
船長が檄文を読み終えると、期せずして船員の間から「日章丸万歳」の叫び声が起き、続いて「出光万歳」「日本万歳」となっていった。
1週間後、「出光興産所属の日章丸、アバダン入港」の外電が世界中を駆け巡った。アバダンに翻る日章旗に、世界中が仰天した。
石油で満杯になった日章丸は、他船との交信を一切止め、ひそかにペルシャ湾を抜け出して、約1カ月後、日本に到着した。戦後、力道山が外国人プロレスラーを打ちのめし、白井義男がダド・マリノからチャンピオンベルトを奪い、古橋廣之進がロサンジェルスのプールサイドに日章旗を掲げたとき、日本人は快哉を叫んだ。しかし、日章丸のイラン石油輸入ほど、敗戦と占領で打ちひしがれた日本人の心を奮い立たせた出来事はないだろう。
イラン石油事件からさらに10年後の昭和38年11月、出光はまたも世間をアッといわせる行動に出た。監督官庁である通産省(現経済産業省)と真っ向から対立し、業界団体の石油連盟から脱退したのである。石油の輸入自由化とともに、国内の「過当競争」をおそれた政府は、設備投資から生産量、場合によっては価格まで統制しようとする石油業法を制定した。出光は業界ではただ一人、この法律に反対し、石油審議会の席上、後の世に残る名セリフを吐いた。
「これは、『学識無経験者』にとっては立派な法律なのでしょうが、私のように石油に一生を捧げている者から見れば、天下の悪法にほかなりません」
並み居る学識経験者たちは、この言葉に目を剥いた。
出光は一途なほど日本という国を愛しながら、国家官僚を徹底して嫌った。戦時中は軍部にも堂々と楯突いた。燃えるようなナショナリストでありながら、第二次大戦前、反米気運の高まる中で平気で米系企業や銀行と手を組んだ。かと思うと、戦後、米国がにらみをきかせる世の中にあって、ソ連からの赤い石油を誰よりも先に輸入した。
出光ほどたくさんの仇名をもらった男は例がない。低能、ヤンキー、海賊、国賊、無法者、一匹狼、アウトサイダー、昭和の紀伊國屋文左衛門、利権屋、盗品故売屋、火事場泥棒、赤い石油屋、横車押し、横紙破り、ユダヤ商人、ゲリラ商人、怪商、快商、土俵際の勝負師、デマゴーグ、アナクロニズム、ニュースを作る男……。
その行動は奇想天外。つねに人の意表をつき、非常識と罵倒される。
だが、時が移ると、世は出光の決断にいつの間にかなびいていた。非常識を常識に変えてしまう魔法の杖を持っているかのようだった。その杖の謎は一体どこにあったのか。
大正から始まり、昭和の高度成長期を駆け抜けていった、愚直にして華麓、冷徹にして情熱的、闘争本能に溢れながら滋味溢れる、波瀾万丈の、その人生を追跡してみよう。
*水木楊(みずき・よう)元日本経済新聞論説主幹
1937(昭和12)年、中国上海生まれ。本名は市岡楊一郎。自由学園最高学部卒業後、日本経済新聞社入社。ロンドン特派員、ワシントン支局長などを経て、取締役論説主幹を務めた。
ベストセラー作家 百田尚樹インタビュー(1)とにかく読者を楽しませたい
PHP Biz Online 衆知 2013年04月09日《 『Voice』2013年1月号より》
■「終戦直後のつらさに比べたら、いまの状況で諦めることはありえない」
百田尚樹さんといえば、いまではミリオンセラーとなった『永遠の0』(講談社)の作者としての顔を思い浮かべる人が多いのではないか。「関西の化け物番組『探偵ナイトスクープ』を担当する放送作家を長年続けながらも、50歳にして小説家としてもデビューした、あの人かぁ」と、どこかでインタビューを受けている姿を見かけた人も割といるのかもしれない。
その百田さんが新たに書いた、事実を基にした新作小説 『海賊とよばれた男』(講談社)が、またまたよく売れ続けている。国のため、仲間のために命を懸ける人たちの物語という点では、明らかに『永遠の0』にも通じるところがある、百田節全開の小説だ。
最近では、論壇誌にもちょくちょく登場しては自説を伝える百田さん。『永遠の0』『海賊とよばれた男』、論壇での発言の3つに通底する「憂国」について、今回はたっぷり語っていただいた――。
<聞き手:木村俊介(ノンフィクションライター) 写真:Shu Tokonami>
■世間に知られていない「大事件」
木村 すでに21万部突破のヒット作『海賊とよばれた男』は、石油などを精製、販売するほかにさまざまな事業を手がける国内企業・出光興産の創業者、出光佐三という実在する人物の生涯を下敷きに書かれています。なぜ、彼を小説に書きたいと思われたのですか?
百田 いま書かなあかんと思ったんです。とにかくいまの日本人に彼の生き方をみてもらいたい。それだけ。
この日本は、バブルが弾けて以降、もう長いこと、国民全体が自信を失っていますから。暗いじゃない? しかも2011年、東日本大震災があって、あそこでもう、壊滅的に「もうダメだ」という思いが国土を覆ったような気がした。だからこそ、出光佐三という男や彼と同じ時期に立ち上がった多くの人たちのことを知ってもらいたかった。戦争で負けて、国民のうち300万人もが命を失い、千数百万人もが失業者になった。その人たちって……会社はない。住む家はない。もちろん、カネもない。コメもない。戦前から築き上げたほとんどの資産を失ってしまったという、そんななかから立ち上がるって、考えられます? 欧米に追いつくなんて絶対に考えられもしない状況でしたよね。しかし、日本はそこからたった20年で追いつき、追い越したわけですからね。
本書で中心に据えたのは昭和28(1953)年に起きた「日章丸事件」です。この事件が起こる2年前、半世紀にわたってイギリスに石油資源を搾取され続けたイランが製油所の国有化を宣言し、イギリス資本を追い払います。怒ったイギリスは巨大な国際石油メジャーと結託してイランを経済封鎖し、国際的に孤立させます。このとき、出光佐三がイランへタンカーの日章丸を派遣し、見事イギリス海軍の海上封鎖を突破して、日本に石油を持ち帰ったのが「日章丸事件」です。出光佐三は小説のなかでは、国岡鐡造という名で登場してもらいました。彼がいなければ、日本のエネルギー業界はどうなっていたのかわからない、というほどの仕事をやり遂げる。彼のような大人物があちこちにいて、日本は復興したわけです。
木村 日章丸事件を知ったきっかけは、何でしたか?
百田 もともとテレビの仕事をやってきまして、テレビの作家とも交流がずっとあった。そんな同業者の一人、ある女性がたまたまテレビ番組の「世界を驚かせた知られざる日本人」みたいなコーナーでいろいろ事件を探していたんです。そのときに見つけたものの一つが、日章丸事件だった。その彼女と雑談していたときに訊かれたんです。この事件を知ってますか、と。何それ、聞いたこともないというと説明してくれたけど、最初に聞いたときはガセネタかと思った。何かのフィクションと勘違いしているんじゃないか、と。僕も割と長く生きてきて、テレビの仕事もずっとやってきてたので、そんな大事件があったならどこかで自分のアンテナに引っかかったはず。知らないんだからなかったのだろう、と。
でも、彼女が「ほんとうです」というので自分なりに調べてみたら……実話だったんですよ。驚きました。
木村 それで、小説に書きたいと思われたのですか?
百田 いえ、「すごい事件があったんや」とは思ったんですけど、自分で本に書くという意識はなかった。ただ驚いたので、当時、会う人会う人にこの事件を知っているか訊いて回っていたんですね。でも、知ってるって答えた人間は誰もいなかった。「え、コイツでも知らんのや?」というインテリには同い年で東大出身、講談社学芸図書出版部の部長がいたのですが、あるとき、彼から段ボール箱いっぱいの荷物が家にドーンと届きました。「前に百田さんからうかがった話が興味深かったので、自分なりに調べてみたらこれだけの資料が見つかりました。参考になればと思って送ります」みたいなことだった。
木村 面白い展開ですね。
百田 忙しかったですし、「こんな大量に読めるかい!」と、もらって半年以上は放っておいたその資料を、仕事が一段落ついた2011年の秋に読みはじめたら……面白いだけでなく、どんどん、日章丸事件を仕掛けた出光佐三という男に惹かれていったというわけなんです。
■救急車で3回も運ばれながら完成させた小説
百田 日章丸事件もすごかったけど、もっとすごいのはこの事件を立案、計画してやってのけた出光佐三という男。彼自身の迫力からすれば日章丸事件でさえも生涯を彩るアクセントにすぎない。そこにさらに驚き、こんな男が先ほどいったように知られていないのだったら、いますぐ書かなあかんとなったんですよね。それが11年の10月の終わり。その時点では、段ボール箱の資料のうちでも、まだ、ほんとうにごく一部しか読んでいなかった。でも、「……あ、コレは、全部を読んでいるヒマはないぞ。できるだけ早くに伝えなければ!」と、それぐらい書きたい気持ちが沸き上がってきたんですよね。
木村 そこから、具体的にはどう書きましたか?
百田 11年の10月終わりぐらいから書きだしたから、書きはじめはほぼ11月ですよね。で、1日十数時間はワープロの前に座って、10月までの3カ月間で、上下巻合わせて750ページ以上になるノンフィクション・ノベルの第一稿を一気に書き上げた。その後は、僕は出来上がった原稿を、もう一回、一から書き直すということをよくやるんですが、今回も、全部をアタマから5回は書き直しましたね。とにかく、書き直して、書き直して、書き直し続ける日々が終わったのが12年5月の初めでした。半年ちょっとは、この小説のなかの世界にどっぷり漬かっていたんですが、とくに1月の半ば、第一稿が仕上がる直前から最後、5月に自分の手から離れるまでには、じつは僕、3回救急車で病院に運ばれてるんです。これ、あまり自慢できんことですが。
木村 え、3回も運ばれた? どうされたのですか?
百田 1月に東京に出張しているとき、突然いままで味わったことがない激痛がおなかに来て、もう3時間ぐらいはホテルで七転八倒してたんです。最終的には「このままでは死ぬんじゃないか」というぐらいの痛みになったので、ホテルのフロントに電話して、救急車を呼んでもらった。その30分後、救急車が来たときには、ぼくはもう、半ば失神していて、タンカにも自分独りでは乗れなかったんです。そのまま、病院に運ばれました。
検査の結果、胆石発作だった。一刻も早く手術しないと肝臓と胆のうの癒着がひどくなって大変なことになるといわれた。でも、手術したら1週間以上は執筆できないと聞き、うーん、と。こんなに書き上げたい物語が佳境を迎え、こちらも乗って書いている。その1週間がもったいない。だから痛みに関しては「だましだまし」でいいから、何とか書き上げてから入院しようと思いました。でも、その1カ月後にまた救急車で運ばれて、頑張っていたらまた、3回目に運ばれてしまって……。
木村 「もう、入院しなさい」となったのでしょうね。
百田 はい。5月の連休明けに手術することになった。4月の終わりまでに入稿し、手術のあいだに出てきたゲラを手術2日後には見はじめて、編集者を病室に呼んで打ち合わせもした。そこからは看護師さんに怒られないよう、明かりが漏れないよう部屋に目張りをしてカーテンで囲ったなかで、ずっと徹夜で書き直していた。そこまで書くことに夢中になれたのは、特殊な体験でしたね。
書いている最中は、とにかくこの男を、一人でも多くの人たちに知ってもらいたいと思っていた。ただ、そんな思いでこの男や周囲の姿を書いているうちに気づいたのは、彼らのように死に物狂いで働いた人たちが当時の日本に溢れていたからこそ、戦後の日本は復興を成し得たのだろうということでした。その戦争直後のつらさに比べたら、いまの日本の厳しい状況を前にしても、諦めるなんてことはありえない、と思った。終戦のわずか2日後に社員の前で「日本は立ち直る。世界は再び驚倒する」「わが社には最大の資産である人がまだ残っとるじゃないか」という。人をコストとのみ考えがちな、いまの経営者にも読んでもらいたいんですよ。
■同じ世界観で書いたら、作家として停滞する
木村 50代での転身を経て、デビューされて6年。小説を書きはじめるきっかけは何だったのでしょうか。
百田 いちばん大きかったのは、50歳という年齢。いまでこそ寿命は長くなりましたが、昔は「人生50年」でしたよね。で、半世紀という区切りもある50歳を迎えたときに、初めて自分の人生を振り返った。それなりに楽しくおかしく、充実した人生やったとは思うのですが、あらためて、自分は何かコレといえるものを命懸けでやっただろうか、と問いかけたら「……うーん」となった。じゃあ、人生50年で一度目の人生は終わったと考えてみて、次の人生では、何かその命懸けになれるものに向かう、違う生き方をしてみようかな、と。それで小説を書き出しました。
木村 いま、作品づくりに関しては、どのようなことを考えていますか?
百田 まだたった6年ですからね。だから、小説って何をどこまでできるものか、自分にとっては、まだわからないところがある。自分はどこまで書けるのか、いまは模索している最中です。だから毎回、小説を書くたびにジャンルを変えています。チャレンジが終わったら、何でも「終わり」やと思ってもいますから。
『永遠の0』では、大東亜戦争を舞台に、生きるとは、死ぬとは何かという物語を書いた。その舞台、世界観で書くのは、ある意味たやすい。でもそれをやれば、僕は作家としては停滞する。だから新しいものを、と。
それから、作家になる前にはテレビの放送作家として、バラエティ、ドキュメンタリー、クイズ番組といろいろやってきたからでもあるんですが、とにかく僕は小説でも読者を楽しませたいと思っています。大きく笑うのでもいいし、「いい話だなぁ」としみじみ思ってもらうのでもいい。楽しみって意味はいろいろありますからね。
木村 百田さんは、読者が「いいものを読んだな」と思える読後感を大事にされているようにも感じられますが。
百田 そこはぼくのなかの目的の一つとして、読んだ人が「人生って素晴らしい」「生きるってなんて素敵なことなんや」と思ってくれたらいいなというのがあります。
立派な仕事を営々と続けておられる市井の人たちっていますよね。魚を獲るのでもいい。コメをつくるのでもいい。いま、目の前にある机をつくるのでもいい。あるいは、たとえでいうなら、うちのオヤジは大阪市水道局の職員でした。漏水課というところにいて、ずっと、しょっちゅう破裂しては水が漏れる管を直し続けていた。オヤジは大阪市内じゅうを歩き回るその肉体労働者としての仕事を死ぬまでやっていたオッサンでしたが、そういうのって「いい仕事やな」と思うんですね。
翻ってみて、いま自分のやっている小説という仕事は、「……何や、これは?」と思うんですね。大した仕事じゃない。豊かな社会が生み出してくれたものだろう、と。さっきいったような、ちゃんとした仕事を一生懸命してくれる人たちがいるからこそ成り立つ稼業や、と。そういう人たちが余ったおカネと時間を使って楽しんでくれるのが小説というもの。だったら、そういう小説家という職業を支えてくれる人たちには、僕は作品で恩返しをしたい。だから、せめて読んでくれた人たちには「ええもん読んだな」「じゃあ、オレも明日から頑張ろう」と思ってもらえる材料になるものを、と思って書いているところがあるんですよね。
ベストセラー作家 百田尚樹インタビュー(2)作品に通底する「憂国」とは
PHP Biz Online 衆知 2013年04月09日 公開
■日本という国にも、恩返しをしたくなって
木村 百田さんは、最近では小説執筆の傍ら、日本の政治について発言を続けておられます。オピニオン誌にも登場され、先日も安倍晋三さんが自民党の総裁に返り咲く直前に雑誌で対談され、大きな反響を呼んでいました。そのように保守の立場から国を憂える発言をされるようになったきっかけは何かあったのでしょうか?
百田 やはり、それも年齢的なところから来る興味、関心と思います。この点に関しても、50歳を越えたからというのが大きい。じつは、僕は若いころには、いまのように国家へのきちんとした観点をもっていなかった。50歳になる前までは、自分は日本人なんだという意識もそれほど強くはなかったように思います。しかし、50年も生きてきたなかで「自分をつくってくれたのはこの所属してきた社会そのものであり、日本という国家なんだ」という思いがかなり強くなっていった。加えて、つくづく、人間独りでは生きていけないよな、いろんな人のおかげで今日があるんだな、とよく思うようにもなった。
すると、50歳からの人生では、自分も少しでも社会のお役に立ちたいなと考えもしたんです。やっぱり、誰かにとっての何かの役に立つ人生じゃないと、生きてきた甲斐がないような気がして。これ、もっと若くしてしっかり自覚されている方もいるんだろうけど、ぼくの場合、だいぶ成長も気づきも遅かったのかな。(笑)
木村 日本人としての誇りが失われてきているなら、その原因は何だと思われますか?
百田 誇りを失うような教育がされ続けていますからね。国歌を歌うのはよくない、国旗掲揚もよくない……と、教育の現場でのそんな態度が、国家に対する強い愛情を削ぎ落としてしまっているんじゃないか。
たとえば、アメリカは移民国家だから、国民の心を一つにまとめて国全体に誇りをもたせるなんてほんとうは難しいはずですよね。でも、アメリカ人たちは、公の場で国歌が流れると胸を張って歌いだす。しかし、日本でそんなことをすると「……アイツは右翼か?」とか、まるで狂信的なナショナリストであるかのように捉えられてしまう。でもね、やっぱり自国の国歌を人前で堂々と歌えないようなら、国民としての誇りをだんだんもてなくもなりますよね? 日本は、国家としてどうあるべきだというような、深い意味でのアイデンティティを失ってしまうことにもなる。すると、外からの内政干渉を受けやすい、あるいはそれを認めてしまう土壌がつくられてしまう。それを危険やと思うからこそ、ぼくは国を憂えるような発言を続けているんですよ。
木村 戦後からの、内政干渉を受けやすい歴史観、国家観を、百田さんは「自虐史観」と指摘し続けています。
百田 戦後、戦勝国から押しつけられた考えに影響を受けている人は、教育やマスコミの現場を中心にかなりたくさんいますよね。でもやはり、日本人としては「ほんとうは、あの戦争って何だったんだろう?」「戦前の日本とは、どんな国家だったのか?」というあたりから戦後すぐに考え直さねばならなかったんだと思う。侵略戦争といわれた行為一つ取っても、当時世界中で同じことをしていた欧米の戦勝国らは、なぜ断罪されないままなのか。このあたりの自虐史観では捉えられない疑問については、じつはマスコミなどでは発言していない、ものいわぬ「サイレント・マジョリティ」とされる人たちのほうが、敏感に察知してるんじゃないか。
ネットをみても雑誌をみても、石原慎太郎前都知事に対する悪口というのはこれはもう「山のように」出続けてきましたよね。ヘタしたら50対1ぐらいの割合で、圧倒的に悪口が書かれる。なのに、選挙をやるといつも石原前都知事が圧勝してきた。その民意をどう聞くかが、これからのマスコミには求められているのではないか。
靖国神社への参拝にしても韓国や中国は批判をしますが、アレもむしろ日本のマスコミが焚きつけたようなところがある。そもそも、神道という独自の宗教に対してヨソの国がクチを出すのはどうかという話でしょ? イスラム教に対して「アラーはいかんやろう」といったらエライことになる。それに近い主張をされてしまっているわけでね。日本の国家のために命を失った人たちを、神道という独自の宗教観をもって国家として弔う。これは、ヨソの国からとやかくいわれることではない。中国も韓国も戦後ずっと、政治家による靖国参拝を知っていながらも何もいってはこなかったんです。
なぜ、いまは問題になってしまっているか。日本のマスコミが韓国や中国にご注進したんです。ウチの首相や大臣が、こんなA級戦犯を祀っているところに一所懸命行ってますが、どう思います、と訊いて回った。そういう国内の左翼的なマスコミや言論人が発信源となって問題化したことなんて、ほかにもかなりある。これはおかしいから、作家として多少なりとも影響力がある僕がいわねばと思ったんですね。
■「ファイティング原田は、日本国民のがんばる姿の鏡でもあったわけです」
*「時代の夢を背負う男」を書くということ
木村 「日本人に勇気を」との国家観は、11月に刊行された百田さんのノンフィクション『「黄金のバンタム」を破った男』(PHP文芸文庫)』(PHP文芸文庫)にも出ていると思います。
百田 僕も今回、文庫化を機に数年前に書いたこの本をあらためて読み直したんですが、これは『海賊とよばれた男』と対になっている作品だと思います。
この本の第1章に出てくる白井義男さんが、日本人で初めてボクシングの世界王者になったのが昭和27(1952)年です。『海賊とよばれた男』に出てくる日章丸事件が起きたのが昭和28年。まさに同じころなんです。
戦後、主権を失い連合国に占領されていた日本人は自信を失っていたわけですよね。で、サンフランシスコ講和条約の終わった直後に行なわれたのが白井さんの世界タイトルマッチ。戦争体験もあり日本を代表する若者が、これでアメリカ人に勝利して日本国民を大いに喜ばせた。日章丸事件と同じ意味をもつ出来事だったんです。
この本の主人公であるファイティング原田がいちばん活躍したのがその後の1960年代ですけど、この年代で日本は経済的にも一気に開花して、ヨーロッパの国々をも追い越すわけですよね。その時代、資源も何もないなかでひたすらアイデアと勤勉さをもって世界に追いついた……つまり、ファイティング原田は、同時代の日本国民の頑張る姿の鏡でもあったわけです。彼の五度の防衛戦のテレビ中継の視聴率は、すべて50%を超えていた。国民的行事の一つだったわけですよね。僕は、最初はファイティング原田という偉大なボクサーを書いてるつもりやったんですが、書くうちに、「たんに偉大なボクサーというだけでなく、当時の国民の夢を背負っていた男やったんや」とよくわかった。たんなる優秀なアスリートではなくてね。
木村 いまは、そんな存在はいないかもしれませんね。
百田 もちろん、ボクシングに限ったとしても、その後もスターはたくさん出ます。ほかの分野でいうなら、たとえばサッカーでも世界で活躍する人物は何年かに一度は出てきてますよね。野球でいえばイチローでもダルビッシュでもいい。みんな非常に優秀なアスリートですけど、1960年代の原田とは違い、幸か不幸か国民の夢を背負ってはいないでしょう。
時代を背負って戦うというのは、個人にとっては酷なことでもある。あるいは、貧しい時代だからそうなったということもある。けれど、やはりその時代だからこそ光輝いたという幸運もあるんじゃないか。僕が『「黄金のバンタム」を破った男』で書いた白井と原田、『海賊とよばれた男』で書いた出光佐三、彼らはいまの時代の日本人に必要なことを投げかけてくれます。
木村 それは、何でしょうか?
百田 個人のためでなく、社会や国家のために物事を成し遂げることの偉大さです。白井義男は初めての世界戦に臨む前に、カーン博士というトレーナーにこういわれました。「義男、君は自分のために戦うんじゃない。それだけでは15ラウンドの苦境を乗り越えられない。君がこの試合に勝利することで、日本人に自信と勇気を取り戻させるんだ」……このセリフ、いまの日本人にも伝えるべきだと思うんですよね。
*著者紹介
百田尚樹( ひゃくた・なおき)
作家 1956年大阪生まれ。同志社大学中退。
人気番組「探偵!ナイトスクープ」のメイン構成作家となる。
2006年『永遠の0』(太田出版)で小説家デビュー。
『ボックス!』(同)、『風の中のマリア』(講談社)、『モンスター』(幻冬舎)、『影法師』『錨を上げよ』『海賊とよばれた男』(以上、講談社)など著書多数。
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