“限界集落”での残虐事件「山口連続殺人」と「津山30人殺し」の3つの類似とは?
ハピズム 2013年7月24日 08時00分 (2013年7月25日 15時09分 更新)
21日夜から22日にかけて、のどかな山里にある小さな集落が、一晩にして筆舌に尽くし難い惨劇の舞台となってしまった。
現場は市街地から車で45分ほど離れた山間部にある山口県周南市金峰(みたけ)。たった14人しかいない集落において、5人が遺体となって発見された。65歳以上が10人を占める限界集落で起きた事件、犯人とみられる男(63)はいまだ逃走中である。
周南署捜査本部がの発表によると、集落に住む貞森誠さん(71)、約60メートル離れた山本ミヤ子さん(79)方から相次ぎ出火し、焼け跡から3人の遺体が発見された。
さらに、同集落の河村聡子さん(73)と、近くの石村文人さん(80)が、それぞれ自宅で遺体で見つかった。そして、その後の司法解剖によって、頭部に鈍器で複数回殴られたような痕があり、骨折していたことが明らかに。半径300メートルの範囲内で起きた今回の事件に対し、県警は殺人事件として捜査を開始。ただ、いまだ状況証拠だけなのだろうか、警察の発表では依然として重要参考人扱いになっており、実名の発表はされていない。
忘れ去られたような限界集落で起きた今回の事件。まるで、半世紀以上前に起きた世紀の大事件、津山30人殺しこと「津山事件」の再来のようだ。推理小説の重鎮、横溝正史が小説『八つ墓村』のモデルになったともいわれる「津山事件」と、今回の「山口連続殺人事件」にはいくつかの類似点があることに行き着いた。
■現場の類似:限界集落
「津山事件」は、1938年(昭和13年)5月21日午前1時ごろ、岡山県苫田(とまだ)郡西加茂村大字行重(ゆきしげ)の貝尾部落とその隣の坂本部落を舞台に、都井睦雄(といむつお・22歳)が、わずか1時間半の間に村人30人を惨殺した事件である。この人数はテロや複数犯による犯行をのぞけば、20世紀に入ってから全世界で5番目に多い数とされている。
当時の記録によると、貝尾部落は全戸数23戸、人口111人、その隣の坂本部落は全戸数20戸、人口94人という小規模な集落であった。交通網が発達していなかった時代、都会から離れた山奥の集落という環境なだけに、ただでさえ閉塞的な社会の中で隔離されるように受ける差別、そして世の中が戦争へと突き進んで行く絶望的な状況、精神的限界集落ともいえよう。…
「限界集落」という言葉は、過疎化や山村部での問題にようやく光が当たり始めた1991年に大野晃長野大教授が名付けたのだが、集落の持つ閉塞性に関しては似ている所がある。
■犯行動機の類似:病による劣等感
・「津山事件」
都井は、当時不治の病と言われた「肺結核」に冒されており、それが理由で徴兵にも参加することができなかった。徴兵は英雄視されていたが、行かないとなると相当な差別を受ける時代であった。大正、昭和にかけてで、日本では長い間、死因として最も多かったのが結核であり、「亡国病」とまで言われた。結核に対する知識不足から、相当な差別的な扱いを受けていた都井は、日ごろから住民に並々ならぬ恨みを持っており、犯行に至った。また、結核が原因で交遊関係のあった女性に拒絶されたことも一因とされている。
・「山口連続殺人事件」
今回の山口連続殺人事件で最も疑わしいとされている犯人(仮にAとしよう)は、金峰地区出身で、10〜15年ほど前まで神奈川県川崎市で20年ほど左官職人として働いていたが、現在他界している両親と暮らすために戻って生活していたと村の住人は話している。その頃は近所付き合いもあったというが、両親の死後、段々と人を避けるようになり、集落の中でも孤立していった。自宅は、全焼した山本ミヤ子さん方の隣に位置し、男が山本さんに対し、大声で叫んだり、農作業の音に「うるさい」と暴言を吐いたりとトラブルが尽きず、他の住民も関わらないようにしていたという。そういった私怨が徐々に大きくなり、やがては集落全体に恨みを抱くようになったのでは? と大量殺人の典型例を出しながら語った。
また、「薬を飲んでいるから10人や20人殺しても罪にならん」などと話したことがあるといい、なんらかの病を患っていた可能性もある。
■犯行の類似:事前予告
・「津山事件」
都井は犯行に及ぶ1年も前から周到に準備をし、毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。この頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金までしていたのである。
・「山口連続殺人事件」
Aも、都井同様、犯行をほのめかす行動を起こしていた。2年程前より、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と筆で書いたような紙を窓ガラスの内側の障子に貼っていた。ともに犯行に及ぶ前から、犯行声明ともとれる行動を示していたのだ。
「自宅の窓ガラスに、『つけびして 煙り喜ぶ 田舎者』と毛筆で手書きした紙を貼っていた。…数年前に集落に戻り、犬と暮らしていたようです。事件前後から行方がわからなくなっており、県警が重要参考人として行方を追っています。殺された石村さんは生前、この男について、『家に閉じこもっていて変だ』と語っていたといいます。周辺住民とあまり付き合いがなく、近所同士でトラブルがあったという話もある。集落では浮いた存在だったようです」(地元記者)
■その後の展開は?
都井は、犯行後山中にて自殺したが、その後の貝尾集落は崩壊への一途だった。今回の犯人の生死はわからないが、たった14人しかいなかった限界集落での犯行、この集落もまた消滅せざるを得ないのではなかろうか。先進国として飛躍していく日本。しかし、その裏側で起きている現状にも目を向けなくてはならない。そう、警鐘をならしているようにも思えるのだ。(アナザー茂)
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日本最恐のオカルト事件! 「秀才だったのに…」 2時間で30人の内臓が飛び散った「津山30人殺し事件」とは?
ハピズム2013.06.18 火
世界の犯罪史上でも類を見ない残虐極まりない大量殺人「津山30人殺し」。1938年(昭和13年)5月21日、岡山県の農村で発生。犯人・都井睦雄(22歳)は、2時間足らずで村人30人を殺害。いわゆるスプリー・キラー(spree=お祭り騒ぎ、馬鹿騒ぎ)短時間に不特定多数を殺害する殺人者)のパイオニアである。
■犯人像に迫る
犯人の都井睦雄は1917年(大正6年)3月5日、生まれ。幼い頃に両親を亡くし、姉とともに祖母いねに育てられる。学校の成績もよく、秀才であったため、いずれ進学するつもりだった。しかし、進学すれば寮生活となるため家から離れることになる。いねから「寂しくなるから」と反対された。優しい睦雄は、いねの気持ちを考えて進学を断念。
その後、もともと身体が弱かった睦雄は、肋膜炎を患い、家に引きこもりがちになる。さらに、慕っていた姉も嫁いでしまってから、彼は孤独感をいっそう強めていったようだ。
テレビやパチンコなどといった娯楽のない当時の村では、セックスが唯一の楽しみであり、夜這いの風習が残っていた。
夜這いとは、夜になると女の寝間に男が侵入して、性行為を楽しむこと。昼間でも人目につかない場所で密かに性交することもあった。既婚者も独身も、大いに夜這いの風習を堪能していたのである。
当然、睦雄の村にも夜這いの風習があり、彼も村の女と複数関係を持っていたようだ。
やがて、睦雄は軽度の結核の診断を受ける。今でこそ結核は治せる病気だが、その当時は死病として怖れられていた。それに追い打ちをかけるように徴兵検査で不合格を言い渡される。お国のために兵役に就くことができないということは、当時の男子にとって最も屈辱的な結果であった。
睦雄は結核ということで村の女たちから忌み嫌われ、やがて村人たちからも陰口を叩かれるようになる。
かつて村の秀才と言われていた睦雄。閉塞的な村での疎外感、屈辱……。村人や女たちに対するどす黒い復讐心が芽生えていき、彼は悪鬼に変わっていった……。
■凶行の日
犯行の前日、睦雄は電線を切り、村を停電にした。夜半に睦雄は起き上がり、支度を始める。黒の詰襟服を着て、地下足袋を履き、足にゲートル(ケガやうっ血を防ぐために軍人が使用する)を巻いた。頭には、懐中電灯を取り付けた鉢巻を装着。頭から突き出た2本の懐中電灯はまるで鬼の角のように見えた。
自転車用ランプを首から吊り下げ、薬きょうや弾薬を入れた袋を肩にかけた。日本刀や短刀、9連発のブローニング猟銃を携え、いざ凶行に向かった。
最初に、自宅のコタツでうたた寝をしていた祖母いねの首を斧ではねた。いねの首は胴体からちぎれ飛び、大量の血が首から脈を打って溢れ出た。
その後、隣家から侵入し村人を次々と襲った。日本刀でメッタ斬りにしながら一人ひとり、血祭りにあげていった。破壊力が強い猛獣用の弾丸は、人体に大穴を開け、内臓が飛び散ちり、腸がぶよぶよと飛び出す。
恨みが深かった女に対しては、乳房をえぐったり、口の中に刀を突き立てたりした。
被害者のなかには妊婦もおり、胎児もろとも容赦なく殺害している。睦雄は標的にしたのは、関係を持ったり、拒絶したりした女性とその家族が中心だった。返り血に染まり、銃を乱射し刀を振り回す姿で闇夜をかけめぐる睦雄の姿は地獄の使者のように見えたことだろう。
犯行からわずか二時間足らずで30人の村人を殺害。彼は猟銃や日本刀などを携えた重装備でありながら、山間部の急斜面を駆け上り犯行に及んでいる。怨恨のエネルギーが彼にパワーを与えたのであろうか。
犯行を終えた後、睦雄は村を一望できる山の頂にて遺書を残し猟銃で自決した。
■事件の真相は?
睦雄の幼馴染に寺井ゆり子という女性がいた。ゆり子は村でも評判の美人であったため、睦雄がゆり子に一方的に熱を上げていたといわれている。しかしまた一方で、2人は恋仲であったともいわれている。だが、睦雄が結核だったため、彼女の親族がむりやり引き離し、ゆり子を隣村の男性の元に嫁がせたという説もある。
睦雄が犯行に及んだ日は、ゆり子が嫁ぎ先からちょうど村に里帰りしていた時だった。睦雄はゆり子が帰ってきたタイミングを見計らっていたと思われる。
睦雄はゆり子の家にも侵入し、ゆり子以外の家族を全員殺害している。ただ、ゆり子は素早く隣家に逃げ込み命拾いすることができた。
だが、ゆり子をかくまった隣家は巻き添えをくらい、一人が射殺されている。
いずれにせよ、睦雄がゆり子に対して異様な執着を持っていたことには間違いがない。
2人の間に何があったのか?
睦雄のゆり子に対する一方的なストーカー行為だったのかもしれないが、事件から70年以上も経過した今となっては知るよしもない。
都井睦雄が想いを寄せた女性、ゆり子は2010年の時点で90歳を超えて存命中だった。今も生きているかもしれない……。
家族5人を殺害され、ただ一人生き残った彼女が背負った十字架はどれほど重かったであろうか。その苦難は想像を絶する。
閉鎖的な村社会、因習などが事件の背景とされている「津山三十人殺し」。負のサイクルから抜け出せなくなった時、人は想像を絶する凶行に走ることがある。
■「津山三十人殺し」をフィーチャーした作品
事件の陰惨な内容や犯行のインパクトの強さから、「津山三十人殺し」にイマジネーションを受けて、数多くの作品が作られている。「たりじゃ〜たたりじゃ〜八つ墓村のたたりじゃ!」のセリフでおなじみの『八つ墓村』は、映画化やドラマ化もされた横溝正史の傑作ミステリー。なかでも、桜吹雪の中を鬼のような表情で走り抜ける山崎努の狂気極まりない殺害シーンは話題となった。
松本清張は、『闇に駆ける猟銃』でこの事件をルポルタージュしている。もと新聞記者である松本清張の取材能力や情報整理力の高さを物語る作品となっている。
また、漫画家の山岸凉子はこの事件を題材に『負の暗示』という作品を描いている。事件に至るまでの睦雄の狂っていく心理や負のサイクルに堕ちていく様子に恐怖を感じる。
さらに、映画『丑三つの村』は、2003年、自宅で謎の縊死をした古尾谷雅人が主演。実際の殺害の様子を克明に描写しており、古尾谷雅人は三十人殺しの若者を鬼気迫る演技で見せてくれた。だが、『丑三つの村』は残虐な暴力シーンやエロシーンが多かったため成人指定にされ、興行的には失敗。しかしその後、古尾谷は自殺する直前、『丑三つの村』のリメイクを計画していたという。大量殺人鬼の青年を演じた古尾谷雅人。映画の中で次々と村人を惨殺していく行為は演技とはいえ、彼の生命に暗い影を落としたのだろうか?
今後も第二、第三の睦雄があらわれるかもしれない。また我々自身も何かのきっかけで睦雄になりかねないという恐怖が、70年以上経った今でも事件を色褪せさせることがないのだろう。
※参考文献 『津山三十人殺し 最後の真相』石川 清 (著) ミリオン出版
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◇ 「津山事件」
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◇ 山口県周南市金峰(みたけ)連続殺人・放火事件 63歳男の身柄確保 男は生存 2013-07-26 | 社会
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「山口連続殺人(山口県周南市金峰)」と「津山30人殺し(岡山県苫田郡 都井睦雄)」の3つの類似とは?
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