【「いま」がわかる政治解説】「交戦権」 戦争できる権利?
産経新聞2013.7.30 00:55
21日投開票の参院選では憲法改正が一つの焦点になり、安倍晋三首相が意欲をみせる改正の発議要件を規定した96条と、「戦争の放棄」を定めた9条は論戦の的となった。ところで、9条2項には「国の交戦権は、これを認めない」という規定がある。憲法がいう交戦権とは何か。交戦権が盛り込まれたきっかけは…。
「交戦権を認めるということは戦争が出来るということで、それはよくないことだと一貫して言っているんです」
19日配信のニュースサイト「日刊SPA!」でこう指摘したのは、民主党の細野豪志幹事長(当時)だ。「護憲」を掲げる共産党や社民党は、交戦権を「戦争を行う権利」との解釈にしようとしている。
日本政府の解釈はこうだ。
「交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものである」(防衛白書)
この解釈でいくと細野氏らの主張は間違いとなる。
ただ、政府解釈は「自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても交戦権の行使とは別の観念」(同)として、自衛権と交戦権の違いを強調している。交戦権を自衛権の範囲しか適用しないというのであれば分かりやすいが、憲法が交戦権の否認を明記したことで複雑な政府解釈になったといえそうだ。
交戦権について、産経新聞「国民の憲法」起草委員の西修・駒沢大名誉教授は「国際的に定義は確立されておらず、他国の憲法にも登場しないワードだ」と説明する。交戦権は、日本国憲法で初めて登場した言葉であったのだ。
交戦権という言葉は、連合国軍総司令部(GHQ)が日本政府に提示した「The right of belligerency」が根拠になっている。しかし、GHQでさえ交戦権の意味を理解していなかったという。
憲法起草の実務責任者だった民政局次長のチャールズ・ケーディス氏は生前、西氏の取材の中で「正直、交戦権の意味は分かっていなかった。日本側から『削除しろ』と言われたらそれでも良いと思った」と回答した。
古森義久・産経新聞ワシントン駐在客員特派員は平成19年6月、産経新聞グループのニュースサイト「イザ!」のブログで、1981(昭和56)年に行ったケーディス氏とのインタビューを紹介(著書「憲法が日本を亡ぼす」=海竜社=にも掲載)している。
ケーディス氏は「交戦権ということが理解できなかった。正直なところ今でも分からない」と答えた。「交戦権」が生まれた経緯については「局長のコートニー・ホイットニー氏がくれたノートに書かれてあったので、ただそのまま憲法草案に挿入した」−。
自民党は昨年4月に公表した憲法改正草案で、自衛権を明記し、誤解を与えかねない「交戦権」を削除した。産経新聞が今年取りまとめた「国民の憲法」要綱も「交戦権」を使わず、自衛のための軍保持を明記した。(内藤慎二)
*上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します
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◇ ようやく国際的な現実に追いついてきた憲法改正議論 国際激流と日本 古森義久 2012-12-27 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉
なぜ「憲法が日本を亡ぼす」のか ようやく国際的な現実に追いついてきた憲法改正議論
国際激流と日本 JBpress 2012.12.26(水)古森義久
首相に就任する自民党の安倍晋三総裁は憲法の改正を正面から検討し、推し進めることを宣言した。日本維新の会など自民党以外の政党も、いまの憲法の欠陥を指摘する傾向が広がってきた。前首相となる野田佳彦氏もいまや改憲論者として知られてきた。
思えば、日本の政界の憲法への姿勢もずいぶんと変わったものである。私自身は長年にわたり、国外での報道活動を重ねるほどに、日本の憲法の欠陥を意識するようになった。そして、その是正の必要を強く感じてきた。だから日本国内の現状には多数派の意見がやっと国際的な現実に追いついてきた、という思いをも抱く。
もちろん日本国憲法にはそれなりの効用もあった。とにかく、なにがなんでも武力は使わないという宣言は人類の理想の表明だと言えよう。他国の善意や公正に信をおくという大前提も立派な思想ではあろう。実利面を見ても、東西冷戦の中で自国の防衛を同盟相手の米国に委ねて自国の経済繁栄に集中することができたのも、憲法のおかげだろう。
だが、日本が独立した主権国家として、自国の安全を守る、国土や国民を防衛する、ということとなると、この憲法は明らかに制約が多すぎた。欠陥が多々だった。多くの国家が利害を対立させる現実の世界で、“どんなことがあっても、たとえ自国を守るためであっても、武力を使わず、戦わない”と言うに等しい宣言は、降伏や屈服という選択肢を残すだけである。
*憲法第9条に書いてあること
では、日本の憲法にはどんな欠陥があるのか。なぜ、そうなのか。
そのあたりの解説を試みる本をこの11月に上梓した。『憲法が日本を亡ぼす』(海竜社)という本である。タイトルはやや大げさに響くかもしれないが、尖閣諸島や竹島という固有の領土に実際の脅威が迫るいまの日本にとって、現行の憲法では十分な国の防衛ができないという懸念を、深刻に感じるようになったのだ。
2012年という激動の年が終わりを告げるに際し、わが日本にとっての憲法という古くて新しい課題を自著の骨子に沿って整理してみたい。
論議の焦点となる憲法第9条の条文を、まず改めて点検してみよう。
憲法の第2章「戦争の放棄」と題され、第9条の見出しの後にはと記されている。その次に以下の記述がある。
<日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。> 以上の文章を普通に読めば、日本は一切の軍事力を持つことも、使うことも、すべて自らに禁じているように受け取れる。実際の解釈はやや異なるのだが、この読み方も実は正しいと言えるのだ。
*日本を永久に非武装のままにしておくことを目論んだGHQ
周知のように、日本国憲法の草案はすべて日本を占領中の米軍総司令部(GHQ)のスタッフによって書かれた。敗戦からわずか半年後の1946年2月のことだった。しかも10日間で書かれ、そっくりそのまま日本側に押しつけられた。日本側には拒否や修正の権利は実質上なかった。
私はその憲法作成の実務責任者であるチャールズ・ケーディス氏に長時間インタビューして、当時の実情や占領軍側の考えを詳しく聞いた(『憲法が日本を亡ぼす』ではその記録を全文収録した)。占領軍がいかに大ざっぱに、一方的に、日本の戦後の憲法を書き上げたかを、ケーディス氏は米国人らしい率直さで認めるのだった。
同氏の明かした日本憲法の真実を簡単にまとめると、以下のようになる。
(1)新憲法は日本を永久に非武装のままにしておくことを最大の目的とした。
(2)日本の自国防衛の権利までを否定する方針で、その旨の明記が最初の草案にあったが、ケーディス氏自身の考えでその否定の部分を削除した。
(3)「交戦権」という言葉はケーディス氏にも意味不明であり、「国の交戦権を認めない」という部分はもし日本側から要請があれば、すぐに削除した。
(4)第9条の発案者が誰だったのかはケーディス氏には分からない。
(5)米国側は日本が新憲法を拒むという選択はないと見ていた。
以上が米軍の意図だった。だから第9条の条文を読んで「日本はたとえ自国の防衛のためでも軍事力は使えない」という意味にとっても、おかしくはないのである。
自国の領土や国民の生命を守る権利を規定していない
周知のように、日本側にとっては第9条第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という注釈の挿入が認められた。前項の目的、つまり「国際紛争を解決」という目的以外の自国の防衛だけには軍事力の行使が認められる、ということになったわけだ。
だが、こんな経緯もしょせん詭弁とか禅問答のように響く。屁理屈と呼んでもよいだろう。その屁理屈的な規定を受け入れてもなお、全世界で日本だけは自国の領土や領海を越えれば、たとえ自国の防衛のため、自国民の保護のため、あるいは国際平和のためであっても、軍事力は一切、使ってはならないのである。
軍事力は、使わずに保つだけでも効用が大きい。もし特定の利権や領土などを獲得するために日本への侵略や攻撃を考える国があれば、当然、その実行に踏み切った場合のコストを事前に考える。日本側から反撃を受け、大きな被害を受けることが確実ならば、日本への攻撃を再考するだろう。それが抑止の効用である。
一方、日本が日頃から一切の軍事力も持たず、攻撃を受けても反撃はしないことが確実ならば、日本から何かを奪おうとする国は、軍事攻撃の可能性をほのめかして、威圧すれば、目的を達せられるのだ。
軍事衝突を避ける絶対確実な方法は、相手の要求に応じることである。降伏してしまえば、戦争が起きるはずはない。
こうした日本の制約は、世界でも異端の自縄自縛と言えよう。純粋な自衛のためだけといっても、現実の紛争ではその定義は難しい。外国の軍隊が明らかに日本の尖閣諸島に軍事攻撃をかけてくる準備をしていても、その所在が日本領のちょっとでも外であれば、日本側は普通の自衛のためでも、予防のためでも、軍事行動は取れないのだ。
憲法第9条は、そもそも日本が自国の領土や国民の生命を守る当然の権利を規定していない。自衛の権利さえきちんと認めていない。そのための日本軍や国軍の存在を認めていないのだ。「外敵から自国を守る」という責務を負わない、あるいはその責務を曖昧にしたままの国家は、国際的な現実からすれば主権国家の名に値しないだろう。
*日米同盟の強化への障害となる「集団的自衛権」行使禁止
日本憲法のこの特異性は、同盟相手の米国からも公然と指摘されるようになった。具体的には「集団的自衛権の行使禁止」への批判である。
集団的自衛権とは、自国の安全や利害のために他国とともに自衛の軍事行動を取る権利を指す。同盟相手の米国との共同防衛行動、あるいは国連の平和維持活動での他国の軍隊との共同防衛行動の権利である。国連も憲章でその権利の存在を明確にしている。世界のどの国も固有の権利として保有するし、自由に行使もできることになっている。。
ところがいまの日本は集団的自衛権は「保有はするが、行使はできない」とされている。憲法第9条の規定や精神を考えれば、「行使はできない」というのだ。
その結果、日本の自衛隊は日本領海の1キロ外で日本防衛のために活動する米海軍艦艇が第三国の攻撃を受けても、支援はできない。北朝鮮が実弾ミサイルを日本の方向に発射しても、その標的が日本だと確定できない限り、ミサイル防衛で撃ち落としてはならない。日本上空をかすめて、明らかに米国領土に飛んでいくミサイルを阻止してはならないのだ。阻止すれば集団的自衛権の行使になるからだ。
イラクに駐屯した自衛隊の平和維持活動でも、他の国の部隊と協力しての戦闘はどんな場合でもできない。自分たちが攻撃を受けても、自動的には反撃できない。だからわが自衛隊はオランダやオーストラリアの軍隊に守ってもらうというブラックジョークのような現実が起きたのだった。
米国は民主党、共和党の別なく、日本に対し、集団的自衛権行使禁止というタブーを解くことを公然と求めるようになった。集団的自衛権行使禁止は日米同盟の強化への障害になるというのだ。
それはそうだろう。同盟というのは本来、概念的にも、現実的にも、相互の防衛、つまり集団防衛である。しかし日米同盟では、米国が日本を守っても、日本は米国や米軍を守ることはできない。日本自体への攻撃に対する狭義の自衛以外では、日本はたとえ同盟パートナーの米国とでも共同の、つまり集団的な自衛活動をしてはならないとされているのである。
この点は、憲法の現行解釈を変えさえすれば、修正はできる。だが事の根源はやはり憲法なのである。
*憲法の弱みにつけこんでくる中国
こうした日本の憲法の現況を、いま尖閣諸島に迫る中国からの軍事脅威と併せて考えてみよう。
日本は日米同盟による共同防衛、つまり「日米安保条約の第5条の規定が尖閣諸島にも適用される」という言質を米側から取ることに必死となってきた。だが、もし中国がついに軍事力で尖閣諸島を占拠する構えを明白に見せてきたとき、日本はどうするのだろうか。
日本領海の外での他国の軍事活動は、日本攻撃の狙いが露骨であっても、日本は侵略予防のための軍事行動を取ることができない。そもそも「紛争解決」の手段が戦争であってはならないのである。その制約は、純粋に自衛のための軍事行動にも自縄自縛のカセをかけてしまう。
日本側のこうした制約は中国側に軍事力の行使の効用、あるいは威嚇の効用をますます高めさせることになる。中国とすれば実際に軍事力を使わなくても、「使うぞ」と脅せば、日本側が憲法の制約を理由に反撃の自粛を早々と言明してしまう見通しが強いことになる。だから、軍事力の行使や威嚇がますます効果的なオプションとなってしまうだろう。
日米同盟がありながら、日本が憲法のために十分な協力ができないという具体例も多数ある(詳しくは『憲法が日本を亡ぼす』をお読みいただきたい)。憲法問題が新しい年の日本の主要課題になることは確実である。
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『憲法が日本を亡ぼす』古森義久著 海竜社 2012年11月15日 第1刷発行
はじめに 国家が国民を守れない半国家
p1〜
○世界でも異端な日本憲法
「日本は国際社会のモンスターというわけですか。危険なイヌはいつまでも鎖につないでおけ、というのに等しいですね」
アメリカ人の中堅学者ベン・セルフ氏のこんな発言に、思わず、うなずかされた。日本は世界でも他に例のない現憲法を保持しつづけねばならないという主張に対して、セルフ氏が反論したのだった。
p2〜
だがその改憲、護憲いずれの立場にも共通していたのは、日本の憲法が自国の防衛や安全保障をがんじがらめに縛りつけている点で、世界でも異端だという認識だった。
p3〜
事実、日本国憲法は「国権の発動としての戦争」はもちろんのこと、「戦力」も「交戦権」も、「集団的自衛権」もみずからに禁じている。憲法第9条を文字どおりに読めば、自国の防衛も、自国民の生命や財産の防衛も、同盟国アメリカとの共同の防衛も、国連平和維持のための防衛活動も、軍事力を使うことはなにもかもできないという解釈になる。日本には自衛のためでも、世界平和のためでも、「軍」はあってはならないのだ。
○日本は「危険な」イヌなのか?
現実には日本はその普通の解釈の網目をぬう形で自衛隊の存在を「純粋な自衛なら可能」という概念をどうにか認めているだけである。だが、イラクに駐留した自衛隊がいかなる戦闘も許されず、バングラデシュの軍隊に守ってもらわねばならなかったという異様な状況こそが、日本国憲法の本来の姿なのだ。
自縄自縛とはこのことだろう。いまの世界ではどの主権国家にとっても自国の領土や自国民の生命を守るために防衛行動、軍事行動を取るという権利は自明とされる。いや、自国や自国民を守る意思や能力や権利があってこそ、国家が国家たりうる要件だろう。国民にとっての国家の責務でもある。
だが日本にはその権利がない。その点では日本は半国家である。ハンディキャップ国家とも評される。国際的にみて明らかに異常なこんな状態がなぜ日本だけで続くのか。
「いまの日本は古代ギリシャの猛将ユリシーズが柱に縛られた状態ともいえるでしょう」
p4〜
「アメリカも日本が憲法を改正して集団的自衛権を行使できるようにすることを求めると、やがて後悔するかもしれません。悪魔がいったんビンから出ると、もう元には戻らないというたとえがあります」
日本を悪魔にまでたとえる、こうした趣旨の発言が続いたところで、冒頭に紹介したセルフ氏の言葉が出たのだった。
彼は次のようにも述べていた。
「全世界の主権国家がみな保有している権利を日本だけに許してはならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族と暗に断じて信頼しないという偏見であり、差別ですね」
p5〜
○アメリカによる押しつけ憲法
本書で詳述するように、日本国憲法は完全なアメリカ製である。しかも日本がアメリカの占領下にある時期にアメリカ側によって書かれ、押しつけられた。米側としては憲法での最大の目的は日本を二度と軍事強国にしないことだった。そのためには主権国家としての最低要件となる自衛の権利までをも奪おうとしていた。
p6〜
あの激しい日米間の戦争を考えれば、まったく理不尽な目的だったともいえないだろう。
しかし、日本側でも憲法は長年、国民多数派の支持を得てきた。とくに日本を世界の異端児とする憲法9条への支持が強かった。(略)
アメリカの政策や日米同盟に反対し、ソ連や共産主義に傾く左翼勢力がとくに現憲法の堅持を強く叫んだ。日本国憲法を「平和憲法」と呼び、それに反対したり、留保をつける側はあたかも平和を嫌う勢力であるかのように描いて見せるレトリック戦術も、左翼が真っ先に推し進めた。
アメリカがつくった憲法を反米勢力が最も強く守ろうとしたことは皮肉だった。だがこの憲法の半国家性をみれば、現体制下での国家の力を弱めておくことが反体制派の政治目的に会うことは明白だった。
p70〜
第3章 外敵には服従の「8月の平和論」
1 日本の「平和主義」と世界の現実
○内向きで自虐の「8月の平和論」
日本とアメリカはいうまでもなく同盟国同士である。だが、そもそも同盟国とはなんなのか。
同名パートナーとは、まず第1に安全保障面でおたがいに助け合う共同防衛の誓約を交し合った相手である。なにか危険が起きれば、いっしょに守りましょう、という約束が土台となる。
p72〜
日本では毎年、8月になると、「平和」が熱っぽく語られる。その平和論は「戦争の絶対否定」という前提と一体になっている。
8月の広島と長崎への原爆投下の犠牲者の追悼の日、さらには終戦記念日へと続く期間、平和の絶対視、そして戦争の絶対否定が強調されるわけだ。(略)
日本の「8月の平和」は、いつも内向きの悔悟にまず彩られる。戦争の惨状への自責や自戒が主体となる。とにかく悪かったのは、わが日本だというのである。「日本人が間違いや罪を犯したからこそ、戦争という災禍をもたらした」という自責が顕著である。
その自責は、ときには自虐にまで走っていく。(略)そして、いかなる武力の行使をも否定する。
p73〜
8月の平和の祈念は、戦争犠牲者の霊への祈りとも一体となっているのだ。戦争の悲惨と平和の恩恵をとにかく理屈抜きに訴えることは、それなりに意義はあるといえよう。
○「奴隷の平和」でもよいのか
だが、この内省に徹する平和の考え方を日本の安全保障の観点からみると、重大な欠落が浮かび上がる。国際的にみても異端である。
日本の「8月の平和論」は平和の内容を論じず、単に平和を戦争や軍事衝突のない状態としかみていないのだ。その点が重大な欠落であり、国際的にも、アメリカとくらべても、異端なのである。
日本での大多数の平和への希求は、戦争のない状態を保つことへの絶対性を叫ぶだけに終わっている。守るべき平和の内容がまったく語られない点が特徴である。
「平和というのは単に軍事衝突がないという状態ではありません。あらゆる個人の固有の権利と尊厳に基づく平和こそ正しい平和なのです」
この言葉はアメリカのオバマ大統領の言明である。2009年12月10日、ノーベル平和賞の受賞の際の演説だった。
p74〜
平和が単に戦争のない状態を指すならば、「奴隷の平和」もある。国民が外国の支配者の隷属の下にある、あるいは自国でも絶対専制の独裁者の弾圧の下にある。でも、平和ではある。
あるいは「自由なき平和」もあり得る。戦争はないが、国民は自由を与えられていない。国家としての自由もない。「腐敗の平和」ならば、統治の側が徹底して腐敗しているが、平和は保たれている。
さらに「不平等の平和」「貧困の平和」といえば、一般国民が経済的にひどく搾取されて、貧しさをきわめるが、戦争だけはない、ということだろう。
日本の「8月の平和論」では、こうした平和の質は一切問われない。とにかく戦争さえなければよい、という大前提なのだ。
その背後には軍事力さえなくせば、戦争はなく、平和が守られるというような情緒的な志向がちらつく。
2010年の8月6日の広島での原爆被災の式典で、秋葉忠利市長(当時)が日本の安全保障の枢要な柱の「核のカサ」、つまり核抑止を一方的に放棄することを求めたのも、その範疇だといえる。
自分たちが軍備を放棄すれば他の諸国も同様に応じ、戦争や侵略は起きない、という非武装の発想の発露だろう。
p75〜
○オバマ大統領の求める「平和」との違い
平和を守るための、絶対に確実な方法というのが1つある。それは、いかなる相手の武力の威嚇や行使にも一切、抵抗せず、相手の命令や要求に従うことである。
そもそも戦争や軍事力の行使は、それ自体が目的ではない。あくまでも手段である。国家は戦争以外の何らかの目的があってこそ、戦争という手段に走るのだ。
戦争によって自国の領土を守る。あるいは自国領を拡大する。経済利益を増す。政治的な要求を貫く。
こうした多様な目標の達成のために、国家は多様な手段を試みる。そして平和的な方法ではどうにも不可能と判断されたときに、最後の手段として戦争、つまり軍事力の行使にいたるのである。それが戦争の構造だといえる。
だから攻撃を受ける側が相手の要求にすべて素直に応じれば、戦争は絶対に起きない。要求を受け入れる側の国家や国民にとっては服従や被支配となるが、戦争だけは起きない、という意味での「平和」は守られる。
日本の「8月の平和論」はこの範疇の非武装、無抵抗、服従の平和とみなさざるを得ない。なぜなら、オバマ大統領のように、あるいは他の諸国のように、平和に一定の条件をつけ、その条件が守られないときは、一時、平和を犠牲にして戦うこともある、という姿勢はまったくないからだ。
オバマ大統領は前記のノーベル賞受賞演説で、戦争についても語った。「正義の戦争」という概念だった。
「正義の戦争というのは存在します。国家間の紛争があらゆる手段での解決が試みられて成功しない場合、武力で解決するというケースは歴史的にも受け入れられてきました。武力の行使が単に必要というだけでなく、道義的にも正当化されるという実例は多々あります。第2次世界大戦でアメリカをはじめとする連合国側がナチスの第3帝国を(戦争で)打ち破ったのは、その(戦争の)正当性を立証する最も顕著な例でしょう」
オバマ大統領はこうした趣旨を述べて、アメリカが続けるアフガニスタンでの戦争も、アメリカに対する9・11同時テロの実行犯グループへの対処として、必要な戦争なのだと強調するのだった。
これが国際的な現実なのである。決してアメリカだけではない。どの国家も自国を守るため、あるいは自国の致命的な利益を守るためには、最悪の場合、武力という手段にも頼る、という基本姿勢を揺るがせにしていない。それが国家の国民に対する責務とさえみなされているのだ。
p77〜
だから「8月の平和論」も、この世界の現実を考えるべきだろう。その現実から頭をもたげてくる疑問の1つは、「では、もし日本が侵略を受けそうな場合、どうするのか」である。
日本の領土の一部を求めて、特定の外国が武力の威嚇をかけてきた場合、「8月の平和論」に従えば、一切の武力での対応も、その意図の表明もしてはならないことになる。
だが、現実には威嚇を実際の侵略へとつなげないためには、断固たる抑止が有効である。相手がもし反撃してくれば、こちらも反撃をして、手痛い損害を与える。その構えが相手に侵略を思い留まらせる。戦争を防ぐ。それが抑止の論理であり、現実なのである。
この理論にも、現実にも、一切背を向けているのが、日本の「8月の平和論」のようにみえるのだ。そしてそのことがアメリカとの同盟関係の運営でも、折に触れて障害となるのである。
p78〜
2 日本のソフト・パワーの欠陥
○ハード・パワーは欠かせない
「日本が対外政策として唱えるソフト・パワーというのは、オキシモーランです」
ワシントンで、こんな指摘を聞き、ぎくりとした。
英語のオキシモーラン(Oxymoron)という言葉は「矛盾語法」という意味である。たとえば、「晴天の雨の日」とか「悲嘆の楽天主義者」というような撞着の表現を指す。つじつまの合わない、相反する言葉づかいだと思えばよい。(略)
p79〜
日本のソフト・パワーとは、国際社会での安全保障や平和のためには、軍事や政治そのものというハードな方法ではなく、経済援助とか対話とか文化というソフトな方法でのぞむという概念である。その極端なところは、おそらく鳩山元首相の「友愛」だろう。とくに日本では「世界の平和を日本のソフト・パワーで守る」という趣旨のスローガンに人気がある。
ところが、クリングナー氏はパワーというのはそもそもソフトではなく、堅固で強固な実際の力のことだと指摘するのだ。つまり、パワーはハードなのだという。そのパワーにソフトという形容をつけて並列におくことは語法として矛盾、つまりオキシモーランだというのである。
クリングナー氏が語る。
「日本の識者たちは、このソフト・パワーなるものによる目に見えない影響力によって、アジアでの尊敬を勝ち得ているとよく主張します。しかし、はたからみれば、安全保障や軍事の責任を逃れる口実として映ります。平和を守り、戦争やテロを防ぐには、安全保障の実効のある措置が不可欠です」
p80〜
確かにこの当時、激しく展開されていたアフガニスタンでのテロ勢力との戦いでも、まず必要とされるのは軍事面での封じ込め作業であり、抑止だった。日本はこのハードな領域には加わらず、経済援助とかタリバンから帰順した元戦士たちの社会復帰支援というソフトな活動だけに留まっていた。(略)
クリングナー氏の主張は、つまりは、日本は危険なハード作業はせず、カネだけですむ安全でソフトな作業ばかりをしてきた、というわけだ。最小限の貢献に対し最大限の受益を得ているのが、日本だというのである。
「安全保障の実現にはまずハード・パワーが必要であり、ソフト・パワーはそれを側面から補強はするでしょう。しかし、ハード・パワーを代替することは絶対にできません」
p81〜
となると、日本が他の諸国とともに安全保障の難題に直面し、自国はソフト・パワーとしてしか機能しないと宣言すれば、ハードな作業は他の国々に押しつけることを意味してしまう。クリングナー氏は、そうした日本の特異な態度を批判しているのだった。(略)
p82〜
しかし、日本が国際安全保障ではソフトな活動しかできない、あるいは、しようとしないという特殊体質の歴史をさかのぼっていくと、どうしても憲法にぶつかる。
憲法9条が戦争を禁じ、戦力の保持を禁じ、日本領土以外での軍事力の行使はすべて禁止しているからだ。現行の解釈は各国と共同での国際平和維持活動の際に必要な集団的自衛権さえも禁じている。前項で述べた「8月の平和論」も、たぶんに憲法の影響が大きいといえよう。
日本の憲法がアメリカ側によって起草された経緯を考えれば、戦後の日本が対外的にソフトな活動しか取れないのは、そもそもアメリカのせいなのだ、という反論もできるだろう。アメリカは日本の憲法を単に起草しただけではなく、戦後の長い年月、日本にとっての防衛面での自縄自縛の第9条を支持さえしてきた。日本の憲法改正には反対、というアメリカ側の識者も多かった。
ところがその点でのアメリカ側の意向も、最近はすっかり変わってきたようなのだ。共和党のブッシュ政権時代には、政府高官までが、日米同盟をより効果的に機能させるには日本が集団的自衛権を行使できるようになるべきだ、と語っていた。
p83〜
オバマ政権の中盤から後半にかけての時期、アメリカ側では、日本が憲法を改正したほうが日米同盟のより効果的な機能には有利だとする意見が広がり、ほぼ超党派となってきたようなのだ。
p158〜
第6章 防衛強化を迫るアメリカ
2 日本の中距離ミサイル配備案
○中国膨張がアジアを変えた
「日本は中国を射程におさめる中距離ミサイルの配備を考えるべきだ」---。
アメリカの元政府高官ら5人によるこんな提言がワシントンで発表された。20011年9月のことである。
日米安保関係の長い歴史でも、前例のないショッキングな提案だった。日本側の防衛政策をめぐる現状をみれば、とんでもない提案だとも言えよう。憲法上の制約という議論がすぐに出てくるし、そもそも大震災の被害から立ち直っていない日本にとって、新鋭兵器の調達自体が財政面ではまず不可能に近い。
しかし、この提案をしたアメリカ側の専門家たちは、歴代の政権で日本を含むアジアの安全保障に深くかかわってきた元高官である。日本の防衛の現実を知らないはずがない。
p162〜
中国は射程約1800キロの準中距離弾道ミサイル(MRBM)の主力DF21Cを90基ほど配備して、非核の通常弾頭を日本全土に打ち込める能力を有している。同じ中距離の射程1500キロ巡航ミサイルDH10も総数400基ほどを備えて、同様に日本を射程におさめている。米国防総省の情報では、中国側のこれら中距離ミサイルは台湾有事には日本の嘉手納、横田、三沢などの米空軍基地を攻撃する任務を与えられているという。
しかし、アメリカ側は中国のこれほどの大量の中距離ミサイルに対して、同種の中距離ミサイルを地上配備ではまったく保有していない。1章で述べたとおり、アメリカは東西冷戦時代のソ連との軍縮によって中距離ミサイルを全廃してしまったのだ。ロシアも同様である。
p163〜
だからこの階級のミサイルを配備は、いまや中国の独壇場なのである。
「中国は日本を攻撃できる中距離ミサイルを配備して、脅威を高めているが、日本側ももし中国のミサイルを攻撃を受けた場合、同種のミサイルをで即時に中国の要衝を攻撃できる能力を保持すれば、中国への効果的な抑止力となる」
衝突しうる2国間の軍事対立では力の均衡が戦争を防ぐという原則である。抑止と均衡の原則だともいえる。
実際にアメリカとソ連のかつての対立をみても、中距離ミサイルは双方が均衡に近い状態に達したところで相互に全廃とという基本が決められた。一方だけがミサイル保有というのでは、全廃や削減のインセンティブは生まれない。だから、中国の中距離ミサイルを無力化し、抑止するためには日本側も同種のミサイルを保有することが効果的だというのである。
日本がこの提案の方向へと動けば、日米同盟の従来の片務性を減らし、双務的な相互防衛へと近づくことを意味する。アメリカも対日同盟の有効な機能の維持には、もはや日本の積極果敢な協力を不可欠とみなす、というところまできてしまったようなのである。
p164〜
3 アメリカで始まる日本の核武装論議
○中国ミサイルの脅威
アメリカ議会の有力議員が日本に核武装を考え、論じることを促した。日本側で大きくは取り上げられはしなかったが、さまざまな意味で衝撃的な発言だった。アメリカ連邦議会の議員がなかば公開の場で、日本も核兵器を開発することを論議すべきだと、正面から提言したことは、それまで前例がなかった。
この衝撃的な発言を直接に聞いたのは、2011年7月10日からワシントンを訪れた拉致関連の合同代表団だった。
p165〜
さて、この訪米団は、7月14日までアメリカ側のオバマ政権高官たちや、連邦議会の上下両院議員ら合計14人と面会し、新たな協力や連帯への誓約の言葉を得た。核武装発言はこの対米協議の過程で11日、下院外交委員会の有力メンバー、スティーブ・シャボット議員(共和党)から出たのだった。
p166〜
続いて、東祥三議員がアメリカが北朝鮮に圧力をかけることを要請し、後に拉致問題担当の国務大臣となる松原議員がオバマ政権が検討している北朝鮮への食糧援助を実行しないように求めた。
シャボット議員も同調して、北朝鮮には融和の手を差し伸べても、こちらが望む行動はとらず、むしろこちらが強硬措置をとったときに、譲歩してくる、と述べた。
p167〜
○日本の核武装が拉致を解決する
そのうえでシャボット議員は、次のように発言した。
「北朝鮮の核兵器開発は韓国、日本、台湾、アメリカのすべてにとって脅威なのだから、北朝鮮に対しては食糧も燃料も与えるべきではありません。圧力をかけることに私も賛成です」
「私は日本に対し、なにをすべきだと述べる立場にはないが、北朝鮮に最大の圧力をかけられる国は中国であり、中国は日本をライバルとしてみています」
「だから、もし日本が自国の核兵器プログラムの開発を真剣に考えているとなれば、中国は日本が核武装を止めることを条件に、北朝鮮に核兵器の開発を止めるよう圧力をかけるでしょう」
肝心な部分はこれだけの短い発言ではあったが、その内容の核心はまさに日本への核武装の勧めなのである。北朝鮮の核兵器開発を停止させるために、日本も核兵器開発を真剣に考えるべきだ、というのである。
そしてその勧めの背後には、北朝鮮が核開発を止めるほどの圧力を受ければ、当然、日本人拉致でも大きな譲歩をしてくるだろう、という示唆が明らかに存在する。
p168〜
つまりは北朝鮮に核兵器開発と日本人拉致と両方での譲歩を迫るために、日本も独自に核武装を考えよ、と奨励するのである。
日本の核武装は中国が最も嫌がるから、中国は日本が核武装しそうになれば、北朝鮮に圧力をかけて、北の核武装を止めさせるだろう、という理窟だった。
* 古森 義久 Yoshihisa Komori
産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・論説委員。
1963年慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日新聞入社。
72年から南ベトナムのサイゴン特派員。75年サイゴン支局長。76年ワシントン特派員。
81年米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。
83年毎日新聞東京本社政治部編集委員。
87年毎日新聞を退社して産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長などを経て、2001年から現職。
2010年より国際教養大学客員教授を兼務。
『日中再考』『オバマ大統領と日本沈没』『アメリカはなぜ日本を助けるのか』『「中国の正体」を暴く』など著書多数。
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◆『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著《ハドソン研究所首席研究員》 2012年07月25日1刷発行 PHP研究所
p1〜
まえがき
日本の人々が、半世紀以上にわたって広島と長崎で毎年、「二度と原爆の過ちは犯しません」と、祈りを捧げている間に世界では、核兵器を持つ国が増えつづけている。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に加えて、イスラエル、パキスタン、インドの3ヵ国がすでに核兵器を持ち、北朝鮮とイランが核兵器保有国家の仲間入りをしようとしている。
日本周辺の国々では核兵器だけでなく、原子力発電所も大幅に増設されようとしている。中国は原子力発電所を100近く建設する計画をすでに作り上げた。韓国、台湾、ベトナムも原子力発電所を増設しようとしているが、「核兵器をつくることも考えている」とアメリカの専門家は見ている。
このように核をめぐる世界情勢が大きく変わっているなかで日本だけは、平和憲法を維持し核兵器を持たないと決め、民主党政権は原子力発電もやめようとしている。
核兵器を含めて武力を持たず平和主義を標榜する日本の姿勢は、第2次大戦後、アメリカの強大な力のもとでアジアが安定していた時代には、世界の国々から認められてきた。だがアメリカがこれまでの絶対的な力を失い、中国をはじめ各国が核兵器を保有し、独自の軍事力をもちはじめるや、日本だけが大きな流れのなかに取り残された孤島になっている。
ハドソン研究所で日本の平和憲法9条が話題になったときに、ワシントン代表だったトーマス・デュースターバーグ博士が「日本の平和憲法はどういう規定になっているか」と私に尋ねた。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
私がこう憲法9条を読み上げると、全員が顔を見合わせて黙ってしまった。一息おいてデュースターバーグ博士が、こういった。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
これは非公式な場の会話だが、客観的に見ればこれこそ日本が、戦後の半世紀以上にわたって自らとってきた立場なのである。
このところ日本に帰ると、若い人々が口々に「理由のはっきりしない閉塞感に苛立っている」と私に言う。私には彼らの苛立ちが、日本が他の国々とあまりに違っているので、日本が果たして国家なのか確信が持てないことから来ているように思われる。世界的な経済学者が集まる会議でも、日本が取り上げられることはめったにない。日本は世界の国々から無視されることが多くなっている。
日本はなぜこのような国になってしまったのか。なぜ世界から孤立しているのか。このような状況から抜け出すためには、どうするべきか。 *強調(太字・着色)は来栖
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