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「広島 呉 少女死体遺棄事件」 謝罪ないまま7人を送検

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謝罪ないまま7人を送検 呉市少女遺棄
日テレNEWS24 2013年8月5日 13:22
 広島県呉市で起きた少女遺棄事件で、強盗殺人の疑いで再逮捕された男女7人からは、依然、少女に対する謝罪の言葉がないという。
 3日に強盗殺人などの疑いで再逮捕された瀬戸大平容疑者(21)と16歳から17歳の少年少女6人は、5日朝、広島地検に身柄を送られた。
 警察の調べによると7人は6月、共謀して広島市の黒瀬恵利華さん(16)を車に監禁した上、暴行を加えて現金4万2000円とキャッシュカードを奪い、殺害した疑いが持たれている。現金は7人で山分けしたとみられている。
 瀬戸容疑者と最初に逮捕された16歳の少女は容疑を認めているが、5人は強盗殺人の容疑を否認しているという。7人は事件への後悔は口にするものの、黒瀬さんへの謝罪の言葉はないという。
 *上記事の著作権は[日テレNEWS24]に帰属します
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【広島16歳死体遺棄】奪った金7人で山分け 後悔はしても謝罪なし
産経新聞2013.8.5 11:56
 元同級生の少女(16)歳から金を奪い、殺害するなどしたとして、強盗殺人容疑などで広島市東区の無職少女ら男女7人が再逮捕された事件で、7容疑者が、元同級生から奪った現金を1人当たり約6千円ずつ“山分け”していたことが、広島県警呉署捜査本部の調べでわかった。16〜21歳の7人は、自分の将来を心配する発言をしているが、いまだに被害者への謝罪の言葉はないという。
 7容疑者らの「LINE」のやりとりからは、社会に居場所を失ったむなしさや、ささいな言い合いから仲が悪くなっていった様子が浮かぶ。
 広島市中区の少女(16)が借りていたマンションの一室には、ほかの少年少女らがたびたび出入りしていた。中区の少女は事件前の6月下旬、ブログに「私ね、家族っていないんだって…」などと記していた。少女らは友達同士で“ファミリー”を自称していた。
 「お前らみたいなブスと話す暇ないけぇ」(殺害された元同級生)。「おまえにゆわれたあないわあや」(広島市東区の無職少女)−。顔の見えない、「LINE」でのいさかいは、やがて暴行、殺人事件に発展した。
 6月28日早朝の灰ケ峰。捜査関係者によると、車内で暴行を受けた元同級生はまだ歩ける状態だった。「このまま帰すわけにはいかない」。全員が車を降り、殺害後に遺体を確認したとみられる。
 県警捜査本部によると、7人は取り調べに素直に応じているという。しかし口をついて出るのは、自分自身の今後への心配や後悔ばかりで、被害者への謝罪はまったくないという。
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「広島 呉 少女死体遺棄事件」 「家族って、いない」肩寄せ合い過ごす少女ら LINEの口論、暴行に 2013-08-04 | 社会 

     

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「広島 呉 少女死体遺棄事件」逮捕された少女、虐待受け生活保護/過酷な生活環境、事件遠因の可能性 2013-07-29 | 社会
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◆ 安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』講談社α文庫
p3〜
 まえがき
 いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
 なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
 他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
 私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
 そして「弱い人」とは、その反対の人、である。
 私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。
 それは、私が無条件に「弱い人」たちに共感を覚えるからだ。「同情」ではなく「思い入れ」と表現するほうがより正確かもしれない。要するに、肩入れせずにはいられないのだ。
 どうしてそうなのか。自分でも正確なところはわからない。
 大きな事件の容疑者として、連行されていく人の姿をみるたび、
「ああ、この人はもう一生娑婆にはでてこられないだろうな・・・」
 と慨嘆する。その瞬間に、私の中で連行されていく人に対する強い共感が発生するのである。オウム真理教の、麻原彰晃さんのときもそうだった。
 それまで私にとって麻原さんは、風貌にせよ、行動にせよ、すべてが嫌悪の対象でしかなかった。宗教家としての言動も怪しげにみえた。胡散臭いし、なにより不遜きわまりない。私自身とは、正反対の世界に住んでいる人だ、と感じていた。
 それが、逮捕・連行の瞬間から変わった。その後、麻原さんの主任弁護人となり、彼と対話を繰り返すうち、麻原さんに対する認識はどんどん変わっていった。その内容は本書をお読みいただきたいし、私が今、あえて「麻原さん」と敬称をつける理由もそこにある。
 麻原さんもやはり「弱い人」の一人であって、好むと好まざるとにかかわらず、犯罪の渦の中に巻き込まれていった。今の麻原さんは「意思」を失った状態だが(これも詳しくは本書をお読みいただきたい)、私には、それが残念でならない。麻原さんをそこまで追い込んでしまった責任の一端が私にある。
 事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが、「弱い人」は事情がまったく異なる。個人的な不幸だけでなく、さまざまな社会的不幸が重なり合って、犯罪を起こし、あるいは、犯罪に巻き込まれていく。
 ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、一個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
 私はそうした理由などから、死刑という刑罰に反対し、死刑を求刑された被告人の弁護を手がけてきた。死刑事件の弁護人になりたがる弁護士など、そう多くはない。だからこそ、私がという思いもある。
 麻原さんの弁護を経験してから、私自身が謂われなき罪に問われ、逮捕・起訴された。そういう意味では私自身が「弱い」側の人間である。しかし幸い多数の方々の協力もあり、1審では無罪を勝ち取ることができた。裁判所は検察の作り上げた「作文」を採用するのでなく、事実をきちんと読み込み、丁寧な判決文を書いてくれた。
 多くの人が冤罪で苦しんでいる。その意味で、私は僥倖であった。
 この国の司法がどこへ向かっているのか、私は今後も、それを監視しつづけていきたいと思っている。「弱い人」たちに、肩入れしつづけていきたいと思っている。(〜p5)
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