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勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(4) 転之章〈後篇〉

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   転之章〈後篇〉

7. 魔の道
  京都市山科区には、それまでにも何回か空巣で行ったことがありました。この日もN子さんのアパートに忍び込むまでに数件のアパートやマンションに入ったのですが、金を盗むことができなかったのです。それで、なおも適当なアパートを探して路地を歩いていると、サッシ戸が十センチほど開いている部屋があったのでした。その部屋が、のちに分かったことですがN子さんの部屋だったのです。九月のことですが、まだ暑い時期で私自身も半袖シャツを着ていたのです。
  私はサッシ戸の隙間から部屋の中をのぞき見ましたが、中は電気がついていなかったので暗く、最初は様子が分かりませんでした。しかし、じっと目を凝らしていたところ、目が暗闇に馴れて、二メートル先に無造作に置かれているハンドバッグが見えたのです。これを盗んでやろうと思い、サッシ戸をさらに五、六十センチ開けて、そっと部屋に入りました。
  もしこの時、部屋の中で目を覚ましている人が居ると分かっていれば、もちろんバッグを盗もうという気持ちも部屋に入るという気持ちにもならなかったでしょう。そして私は、目の前のバッグを盗んで逃げることに神経が集中していて、人の気配も何もわからない状態だったのです。二、三歩、足を踏み入れるだけで盗み取ることができると、その考えだけでした。
  それで私は運動靴をはいたまま部屋に入り、バッグをつかみ取ろうとしたその時でした。私の足元でミシッ、ガタンという物音がしたのです。私は今でもその音が何であったのか分からないのですが、たぶん私が何かを踏みつけたか何かした音であったのだろうと思うのです。
  この時です。「ドロボー」と女性から声をかけられたのでした。声の方向に体を向けたら、N子さんがベッドの上に上半身を起こし、私の方を向いていたのでした。それまでは、そこにベッドがあり、そしてそこに女性が寝ていたことにもまったく気づかなかったのです。
  私はとっさに飛びかかるようにしてN子さんをベッドの上に倒して両手で彼女の口を押さえつけました。しばらく手足をばたつかせて抵抗していましたが、暴れるのをやめたので、私はN子さんが私に抵抗しても無駄で、これ以上抵抗すると、またひどい乱暴を受けることになると感じて抵抗をやめたのだと思い、「静かにしろ」と言ってN子さんから離れました。
  N子さんがすっかり観念したものだと思った私は、このままバッグを持って逃げようとしました。ところが彼女が、また、「ドロボー」と叫んだのです。それで私は、このままで逃げ出せば彼女がさらに大きな声で騒ぎ立てるだろうと思い、また二度も「ドロボー」と声をかけられたものだから、よしこの部屋にあるだけのお金を奪ってやろうという気持ちになっていたのでした。つまり開き直ったのです。
 「金を出せ」と私は言いました。相手の様子から彼女が私を恐れているのが分かったので、そういって脅せばあるだけの金を出すだろうと思ったのです。ところがN子さんは、「お金はない」と言って、恐ろしそうな顔で、しばらく私の様子を見ていました。お金を出さないと私から殴られたり蹴られたりすると考えたのか、「私の体でよければあげる」と言い出したのです。そのときのN子さんは、実際に、あまり多額のお金は持ち合わせていない様子でした。だから自分の体を犠牲にして私の乱暴を避けようと、考えたように思えるのです。
  この言葉を聞いて改めてN子さんの姿を見直した時、彼女が若い女性で、上着は体の線が見えるような布地の薄いもの、下はパンティ一枚の姿であることを知ったのです。
  強姦してやろうと思ったのは、そうしたN子さんの言葉と姿に刺激されたからでしたが、それ以上に、この場で犯してしまえば彼女が警察に被害を訴え出ないだろうと考えたからでした。つまり相手は若い女性だったので、そんな女性が見ず知らずの男に体を奪われたら、よほど勝気の女性でなければ警察に「強姦されました」と申告はしないだろうと思ったのです。口封じが最大の理由だったので、乳房などには触れませんでした。
  そのあと、「そのまま寝ていろ。絶対に俺の顔を見るな、いいか」と言ってベッドを離れ、バッグの中を調べるために部屋の電気をつけたのです。N子さんの顔には枕をかぶせたままだし、体を奪われた女性が再び騒ぎ立てるような行動にはでないだろうという安心感から電気をつけたのでした。
  バッグの中の財布には千円札一枚しか入っていませんでした。
  この金をポケットにしまいこんで、部屋から出ようとした時でした。何気なくベッドのほうを振り返ってみると、N子さんがベッドの上に座って、じっと私の方を睨んでいるのでした。そして、いかにも恨めしげな口調で、
 「出て行って。声を出すわよ。警察に言ってやる」
  と言ったのです。
  警察という、その言葉を聞くまで、私はその場で私自身がどのように行動すべきなのか思いつかないで、ただ唖然としていたのです。しかし警察という言葉を聞いて、現職の消防署員であり、また妻が妊娠中でしたから、私は同僚達のためにも妻のためにも、絶対に警察に逮捕されるということは避けなければならないと思ったのです。N子さんをこの場で殺してしまうより仕方がないという気持ちだったのでした。

8. 深酒
  捕まりたくなかったとはいえ、殺人という重罪を犯してしまったことは痛恨のかぎりでした。烙印の苦悩に加えて、さらに今度は殺人の自責に昼夜苦悩することになり、私生活はますます沈湎となりました。周囲からどんなに白い目で見られようと酒に溺れることなく強く生きてさえおれば、こんな事件を引き起こすことはなかったのだと思うと慙愧にたえず、意志の弱い自分を恨み、自虐的にならざるをえなかったのです。
  なんど死を考えたか知れません。妻子の幸せを思うと、この身を没して殺人の発覚を防ぎたい思いでした。しかし情けないことに、残る妻子が路頭に迷うことを想像すると、なんとしても死に切れないのでした。そして恐怖と罪責の苦悩から逃れるのには、今までに増して深酒をあおらずにいられなくなったのです。
  知覚神経のすべてが麻痺するまで泥酔しました。泥酔して、殺したのは俺の幻想だと思い込もうとしました。だが、それは脳裏に鮮明に焼きついていて一刻も離れませんでした。どれほど泥酔しようと、「人殺し」という一点の痼だけは決して消えはしませんでした。
  罪にさいなまれ、うなされて寝言で言いはしないかと怯え、それが心配で職場では仮眠すらできない有様です。片時も心休まる日はありませんでした。
  私が救助訓練にガムシャラな勢いで挑んだのも、体を酷使することによって、罪の苦悩からいっときでも逃れられればと思ったからです。ロープにぶら下がって訓練に執拗なまでに追い立てる私を見て、同僚は「あいつは猿みたいな奴や」とはやしていましたが、その時の私はN子さんの怨霊に怯えながら無我夢中にロープに食い下がっていたのです。また、救助訓練に励み、事あらば訓練の成果を活かして人命を救う---ということに私のせめてもの申し訳があったのです。
  そして情けない心情ですが、その一方でもし救助技術大会で入賞を果たせたなら少しは世間から見直され、過去の汚名を多少なりとも返上できるのではないかと期する心もあったのでした。
  人を殺したという良心の呵責、そして汚名返上の期待。それらの気持ちが相俟って私の救助技術は伸び、署の代表となって毎年、東近畿大会に出場するようにもなりました。技量が認められて全国大会にも三年連続出場を果たしました。それは消防士にとっては大変な名誉なのですが、しかし名誉を獲得した感動というものは一度も味わえず、むしろ心の奥底に焼き付いた罪科に怯える私だったのです。
  昼間は自身に苛酷な訓練を科すことによって忘我できても、夜になれば「人殺し」を思い浮かべて悶々とする気持ちを、深酒でまぎらわすよりほかはなかったのです。そのことによってさらに借金がかさみ、返済に追われては空巣を働き、ついには第二、第三のと殺人を引き起こしてしまったのでした。

9. 嫌疑
  殺人という大罪を重ねた私が、もはや何を言っても弁解に聞こえることでしょう。それは覚悟しています。でも、何も私は、最初から人を殺そうと思っていたわけではないのです。一部の報道には私が好んで殺人を愉しむ冷血漢であるかのように書いてありますが、そんなことは決してありません。
  そもそも酒を飲むようにならなければよかったのです。周囲の目を気にして酒に溺れるようなことにならなければ借金に追われることもなく、したがって盗みにはいることもなければ、人を殺すこともなかったわけです。
  しかし過去の烙印を負う私に世間も職場もあまりに薄情でした。どうしても酒で自分の気持ちをまぎらわすほかない状況がいくつもあったのです。
  そう言い張ることがおまえの身勝手な自己弁解なのだ、と言われそうですが、自己弁解だけではないのです。いまさら私は、嘘をつくまでして弁明する気はまったくありません。本当の事実を、ただそれだけを知ってもらいたく、正直な気持ちで、この文章を書いているのです。
  仮庁舎に於ける約二年間は、ノミ行為の嫌疑をかけられたり、刑事から殺人容疑を受けたり、本当にみじめな思いをしました。
  ある日は、同僚の財布がロッカーから紛失するという事件がありました。職場ではそれまでにもいろんな物が紛失する小さな事件がちょいちょいあったのです。「盗まれた」とか「無くなった」とか同僚の叫ぶ声を聞くたびに私の心は千々に乱れ、暗く落ち込んでしまうのでした。で、その日も、「置いた物が無くなるということは、誰かが故意に隠すか盗まない限りは絶対に無くなるはずがない」ということになり、同僚の面前で聞こえよがしに言うのでした。
  それだけではありません。また他の日には、Bさんから覚醒剤常用者の容疑まで受けたのでした。この他にも色々なことがあったのです。凶状持ちを排斥するのは世の常なのかも知れませんが、煮え湯を飲まされたり、聞こえよがしに嫌疑をかけられたり・・・滅入った心を酒で癒そうと飲みただれては借金返済に切羽詰るという、まさに悪循環だったのです。
  だから、消防庁舎が完成した昭和四十九年八月三十日、そのようなみじめで窮屈な生活から逃れたくて、この日を契機にきっぱり辞職をしようと考えたことをはっきり覚えています。職員も年々増員され、近い将来には組織も郡内一円に拡張されることも明確で、烙印を背負う私のことがすでに二期生にも伝わっており、今後も後輩に知れ渡ることが不可避だったからです。しかしその一方に、組織が分散すれば嫌な上司から離れられるのではないかという期待もあったのです。また、N子さんのことは一日たりと頭から離れることはなかったのですが、逮捕されずに二年近く経過していたこともあって、もう一度人生をやり直そうという心持ちにもなっていたので、辞職を思いとどまったのでした。いや、世間体に拘泥する父の威勢に束縛されて辞職を思いとどまったのかもしれません。
  いずれにせよ、置かれた自分の環境が今まで以上に辛いものとなったのでした。立派な庁舎が完成した直後から、地元や隣町の幼稚園児、小学生達の見学が増え、それにともない、父兄を中心jに消火実験会や水難救助法講習会が方々で催され、その指導に狩り出されるようになって、地域住民との接触機会が多くなってしまったのです。集まる人達の中に自分を知る人がいないだろうかと、気が気でない私には、凶状持ちでありながら人様に指導しなくてはならない運命に、終始臆病神がつきまとうのでした。
  私の存在を目ざとく見つけた知人から「おまえ、えらい出世したんやのお」と予想にたがわず皮肉られました。またある人からは「直ぐに辞めるやろ思うてたけど割りと長続きしてるやんけ」と冷笑。蔑視される中で、さりとて辞職もできず、その気散じにやはり毎晩沈酔の一歩手前まで飲んでいたのでした。
  公務員となって二ヵ月目には早くも十数軒の飲み屋を知りました。それが年月の経過から、当然酒量も増し、もうこの頃には店名と所在地が頭の中で重なり合わないほどに飲み屋の数が増えていました。しかも、酒盛り後の成り行きとはいえ、浮き名を流す女性と慇懃を通じ、後腐れができるのを心配しながらもとことん深入りしてしまったのです。そして妻子をかえりみず、気ままに刹那的な放蕩に身を委ねる薄情な自分に気づいた時には、もう家庭内はメチャメチャでした。
  とどのつまりは雪だるま式に増えた借金の返済に困窮し、支払い金の調達に盗みを重ねては見つかり、抵抗され、そして捕まりたくない一心に次々と人命まで奪ってしまったのです。

10. 死体遺棄
  大阪の吹田市でF子さんを殺してしまったのが、私の第二の殺人です。昭和五十年の夏でした。一番最初に人の命を奪ってしまった事件、つまりN子さんの事件は私にとって、もっともショックの大きい事件ですが、F子さんの事件では、捕まるかもしれないという不安が絶えずあって、一番気がかりな事件でした。
  なぜ、この事件が一番気がかりであったかと言うと、F子さんを殺した犯人が私ではないかと疑われる事情があったのです。
  事件の二、三日前、私はF子さんの住むマンションに空巣に入ったのです。収穫はありませんでした。それで、住民の誰かが帰って来たら、チャンスがあればその人の持ち物をひったくるつもりで車の中で待機していたのです。そのうちに酒の酔いもあって車の中で寝込んでしまったのでした。車はマンションの駐車場に止めてありました。
  そして寝込んでいるところをF子さんに起こされたのです。派手な洋服を着ており言葉使いや態度から、一見して水商売の女性だと分かりました。彼女は「車をどかしてくれ」というようなことを言いましたが、その言葉使いがとても乱暴でした。その態度から、これだけ勝気な感じの人であれば、店のママではないかと思いました。
  それはともかく、その二、三日後にこのマンションでF子さんを殺してしまったのですから、警察がマンションの住民に不審者を尋ね、住民が私の車を見ていてそのことを話すのではないかという心配があったのです。しかも車は奈良県ナンバーですので、私が寝込んでいる間に誰かが車のナンバーを見ていたら、たちまち捜査の手が伸びて来ることは明瞭なことです。また、F子さんを殺した場所がマンション一階通路で、とても明るい場所だったので、殺すところを誰かに見られていたかも知れないという不安もありました。ですからF子さんを殺した後、しばらくの間はとても不安でした。
  私が再びF子さんのマンションを訪れたのは、一つに、F子さんのその時の高慢な態度に腹を立てていたからでした。F子さんの部屋を荒らして、いわば彼女の鼻をあかしてやろうという気持ちがありました。
  しかし、もちろん、私にしてみればお金さえ盗むことができれば、どの部屋でもよかったわけです。ことさらF子さんから盗もうと考えていたわけではありません。その日も、F子さんの部屋も含めて、そのほか空巣に入れそうな部屋を探したのですが、どの部屋もちゃんと戸締まりがしてあって侵入できなかったのです。それで諦めてエレベーターで一階の通路まで降りて来たときでした。見覚えのあるF子さんのフェアレディーZが帰って来るのが見えたのでした。
  それまでの盗みの経験で、水商売の女性のほとんどが、持ち歩くバッグなどにかなりお金を持っていることを知っていましたから、F子さんのフェアレディーZを見たとき私は、よし彼女のバッグをひったくってやろうと思ったのでした。あの生意気な女の鼻をあかしてやる、という気持ちもあったのです。
  この通路には電気がついていたので、人の姿も顔もはっきり見えるくらいの明るさでした。しかし、私には、顔を見られずにバッグをひったくる自信があったのです。バッグをひったくったら一目散に逃げおおすつもりでした。
  ところが、私がF子さんのバッグの手提げを掴んだのと、F子さんが振り向くのとは同時でした。F子さんは振り向くと同時に「ドロボー」と叫びながら、「あっ、あんた」というようなことを言ったのです。その言葉は、私の顔を覚えているという言い方だったのでした。
  その時、私はバッグを掴んだまま右肩で彼女に体当たりを食らわしていました。バッグを放さないF子さんがその衝撃で私の足もとに横転し、その彼女の重さに引っ張られるような格好で私もF子さんの胸のあたりに倒れこんだのでした。そして、さらに叫び声をあげさせまいとして両手でF子さんの口を押さえつけたのですが、彼女は私の手を振りほどこうと必死でした。顔は見られたし、もうどうあっても逃げ切れる状況ではありませんでした。それで捕まりたくない一心で、そばに落ちていたロープを彼女の首に巻いてしまったのでした。
 こうして私はF子さんを殺してしまったのですが、こんどは遺体をどうしたらいいのか迷いました。そのままこの場に残して逃げ去ることもできましたが、犯罪者の心理というか私は本能的に、警察の捜査を少しでも遅らせたいと考え、彼女の車でF子さんの遺体を運び、名神高速道路沿いの農業用水池に隠したのでした。
  このあとで、F子さんの車に放火したのは、F子さんを襲ったとき手袋をはめていなかったからです。つまり、素手でフェアレディZを運転したのですから私の指紋が残っているはずで、そのため乗り捨てて逃げることができなかったからでした。

11. アルバイト
 一度ならず二度も人を殺してしまったショックをどう表現していいものやら言葉に言い尽くせないものがあります。F子さんを殺したことの怯えから逃れたく私は救助訓練で肉体を酷使していたのです。
  最初にN子さんを殺してしまった時、そのショックから、私は盗みではなく、まともに働いて得た金で借金を返済しようと真剣に考えたものでした。それで、消防署からは禁じられているアルバイトを始めたのです。公休日を使って、長距離輸送を一回二万円で引き受けました。主に関東方面への輸送が多く、往復千キロ以上に一昼夜を費やす仕事としては一回二万円の金は割に合わないものでしたが、盗みなどをせずに借金が返せるものならと思い、非番日ごとにトラックを駆ってもいい覚悟だったのです。
  しかし、給料以外のこうした収入があっても、車をはじめアマチュア無線やゴルフといった道楽のほか、酒色にまで耽溺して放漫な生活を送っていたため、借金はやはりかさむばかりでした。だから、にっちもさっちもいかなくなって、父から二百万円もの大金を、バクチに負けたと偽って用立ててもらったこともあるのです。そうやって一度は借金を完済したのでしたが、道楽と酒色に身を委ねる私のルーズな金銭感覚から、いつしか元のもくあみに帰して、いつまでも悪から立ち直れないのでした。
  京都でN子さん、大阪でF子さんを殺したとき、地元の新聞などが大きく事件を報道しました。それを一心に読み耽ったことを、私は今でもはっきり覚えています。自責の念に苦しんではいましたが、身に捜査の手が及ぶ危険が少ないと感じた時や、捜査が他の方向に進められていると分かった時には、正直言って、内心ホッとしていました。とはいっても、いつ身近に捜査の手が伸びてくるか分からないといった心配は絶えずあったのです。連日大きく報道される新聞を怖い気持ちで読み入る私は、罪の意識が強くある中にも、もう近くでは盗みをしないほうがいいと思うようになり、地理に詳しい名古屋へと遠征するようになったのでした。
  地理に詳しいと言っても、それは幹線道路についてだけで、どの辺のマンションが水商売の女性が住むマンションなのかといったことまでは、最初は分かりませんでした。それでも一週間に一度ほどの割で遠征しているうちに、おおよその見当がつくようになりました。
  水商売の女性のマンションに目をつけたのは、戸締りが怠慢といったルーズな面があって、要するにスキが多かったからです。それに、現金が比較的部屋に置いてあるように思えたのです。しかし私は、名古屋に遠征するようになってから、立て続けに三人を殺すことになってしまったのです。

12. ネッカチーフ
 私はこれまでの盗みの経験で、バーやスナックの女性は夜中の二時から二時半頃まで帰宅していないことも分かっていました。また、車上盗もそれら水商売関係の人の車を主に狙っていたので、空巣や車上狙いなど盗みのチャンスは午前二時頃までだと考えていました。
  昭和五十一年三月のその日は、中区栄町の繁華街を物色しました。しかし、盗みのチャンスがなく、時刻もホステスが帰宅し始める頃になってしまったのです。盗みを諦めて私は帰宅するつもりでした。お金がないから有料の名神高速道路には入らず、名四国道を走って帰るその途中、千早交差点で信号待ちをしていたカマロのI子さんに出食わしたのでした。
  カマロと並んで停車した時、運転しているのが水商売関係の女性であると一見してわかりました。というより、外車に乗っていること、毛皮のコートを着ていることなどから、I子さんを「ママ」と直感したのでした。店のママならば、その日の売上金を所持しているだろうと思い、あとを追ったのです。いわば偶然に出会ったのであって、マスコミが言うように事前にI子さんに狙いをつけていたわけではありません。また、誓って私はI子さんを強姦していないし、するつもりもありませんでした。
  しばらく車を進めるとI子さんは駐車場にカマロを入れました。私は車のキーを差したままの状態にしておきました。ハンドバッグをひったくることができれば直ちに車に戻って逃げ去るつもりだったからです。すでに何回かひったくりに成功していましたから、この時もうまくいくものと思っていたのです。
  I子さんは駐車場から徒歩でアパートへ向かい、私が追いついた時にはアパートの階段を二段ほど上がり始めていたところでした。彼女の右手に紙袋やバッグがあるのを確認し、駆け足で追いついて背後から紙袋の手提げ紐もろともにバッグを掴んだ、その瞬間にI子さんが振り向いたのでした。足音の不審に気がついて振り向いたという感じでした。そして握ったバッグを放さず、「どろぼう!キャー」と悲鳴を上げて騒いだのです。
  この段階で逃げ出していれば、私は彼女を殺さずにすんだのです。しかし、その時はもう冷静な判断など忘れている状態で、なにがなんでもバッグを奪ってやろうということに神経が集中していて、盗むのを諦めて逃げるということまでは考え及ばなかったのです。
  私は紙袋の紐もろともにバッグを掴んだまま、路地から道路方向に数メートルほど逃げたのでしたが、バッグを放そうとしないI子さんもそのまま私に引きずられ、ついてきたのでした。そして、なおもバッグを引っ張りながら悲鳴をあげていました。そうやって揉み合っているうちに、まともに顔を合わせてしまったのです。つまりお互いが正面を向き合ってバッグを引っ張りあう格好になってしまったのです。
  しまった!、と思いました。一瞬、血の気の失うのを覚えてました。そして、もうこうなっては、この場でバッグを奪うのを諦めて逃げ出したところで、警察に通報されてしまうと思ったのです。通報されてしまえば車で逃げ出したところで、人相を覚えられたのだから検問で捕まってしまうと考えたのです。そうなれば、取り調べられているうちに、それ以前に殺した二人の女性のことも分かってしまう、という怯えもありました。だから、どうしても捕まりたくはありません。しかし、顔を覚えられた以上、絶対に警察に捕まらないで逃げ切れるという確信がもてなかったのです。
  私がその場にI子さんを倒し、首を絞めて殺してしまったのは、そういう理由からだったのです。そしてI子さんが声をあげなくなったとき、I子さんの首にあったネッカチーフでさらに彼女の首を絞め、そのネッカチーフを強く結んだのでした。なぜそんなことをしたかというと、遺体を隠すのに、もしI子さんの部屋が分かれば、そっと部屋に運んで布団に寝かせてやりたい気持ちだったのです。その間にI子さんが息を吹き返すのではないかと、それが心配で、ネッカチーフを結んだのです。
  結局、I子さんの部屋は分からず、私は彼女のカマロで遺体を運び、よそに隠すことにしました。遺体をカマロに運ぶ時、I子さんが失禁していたことに気づき、それで彼女のパンタロンを脱がしたのです。
  遺体は現場からだいぶ離れた、休耕地のような所に隠しました。そのときに、いま考えるとどうしてあのような惨いことをしたのか悔やまれてならないのですが、彼女の陰部にワラのようなものを差し込みました。そうやっておけば、痛いが発見された時に警察がこの女性が痴漢か恨みのある人によって殺されたと、見るだろうと思いついたのです。要するに捜査を混乱させて、私の身辺に捜査の手が伸びないよう細工したつもりだったのでした。
  遺体を隠す時、I子さんの顔が充血してふくれているような感じに見えました。自分が殺した人ですが、かわいそうになり、首を絞めたネッカチーフを少し緩めた記憶があります。それは正直言って、I子さんに対する私のせめてもの償いという気持ちでした。

13. 白い犬
  昭和五十二年六月のM子さんの事件の時、私の車は、外車のクーガーでした。非番のこの日、私はいつものように盗みが目的で、夕方の五時頃に名古屋に入りました。中区栄町や千種区今池などの繁華街を物色した後、午前二時頃になってわたしは帰宅に向かいました。名四国道に向けて車を走らせていましたから、盗みの成果は芳しいものではなかったと思います。お金があれば名神高速道路を使っているはずだからです。
  帰宅の途中、南区笠寺にあるM子さんのマンションを見つけました。このあたりでは盗みをしたことがなかったので、下調べがてら適当なマンションがあったら入ってみようという気持ちでクーガーを止めたのでした。
  これは一つの参考に書くのですが、私がマンションに空巣に入る場合、まず郵便受けを見て、どの部屋にするかを判断していました。郵便受けの名札は、
  ?男性名
  ?女性名
  ?姓だけの記入
  の大抵はどれかです。そこで私の経験をいいますと、?は夫婦の場合が多い、?は中年の女性が多く、警戒心が薄い、?は若い女性、あるいはホステスが多く、?と?は夜に在宅している場合が多い----ということになり、私は?を専門に空巣を働いていました。そのことを考慮に置いていただき、防犯の知恵にしていただきたく思うのです。
  M子さんの郵便受けの名札は?が多かったため、私は判断がつかず、一階から順に上の階に上がって行きながら物色したのです。もし鍵をかけ忘れ、留守の部屋があればそこで空巣を働くつもりでした。
  その時、M子さんが鍵をかけずに外出するところを見たのでした。彼女はパジャマのような物を着ていましたが、その足元に犬がじゃれついていたので、私は、M子さんが散歩か犬の用足し、あるいは自動販売機のジュースでも買いに行ったのだろうと思いました。
  ですから何時間も留守にするとは思いませんでしたが、M子さんの部屋はマンションの最上階にあり、彼女が少なくとも一階まで降りて商店街通りに出て行くものだと考えた私は、彼女が五分間くらいは部屋に戻って来ることはなかろうと思ったのです。それだけの時間があれば、部屋の中を物色して現金のありそうな場所を探し出す自信はありました。
  部屋に入る時、玄関の土間に男物の履物がないかどうかを確かめたのを覚えています。それは空巣に入る時の私の癖で、男物の履物があれば男の人が部屋の中に居る可能性があるのですから、その場合には直ぐ逃げて帰るつもりでした。しかし玄関に男物の履物はありませんでした。それでこの部屋に入ったのです。
  玄関傍の部屋を通り、奥の部屋の家具の中から現金四万円入りの茶封筒をみつけたので、すぐ部屋から逃げ出すつもりでした。ところが、M子さんは予想外に早く戻ってきたのです。奥の部屋から玄関傍の部屋に一歩出た途端、その部屋で、すでに戻っていたM子さんと顔がバッタリ出会ってしまったのでした。その時の私は、とっさに空巣に入ったものでしたから、帽子やサングラスなどで顔を隠してはいなかったのです。電灯の点いた明るい部屋の中で正面から顔を見られてしまったのでした。
  M子さんが大声で「ドロボー、ドロボー」と叫びながら玄関出口に走りだしたので、驚いた私も必死で追い、彼女を掴み押さえたのです。そして大声で騒ぐ彼女の口を手で押さえ、叫ばれないように部屋の中へ連れ戻し、その部屋に敷かれてあった布団の上に押し倒しました。
  私も大声で「静かにしろ、騒ぐな」と怒鳴ったのですが、動転しているM子さんは聞き入れずなおも騒ぎ立て、さらに起き上がって逃げようとするのでした。それで傍にあった紐のようなもので咄嗟に彼女の首を背後から絞めてしまったのです。
  この紐が何であったのか、動転してしまっていたため、今でもわからないのです。あるいは犬を散歩に連れて行くための紐であったような気もするのですが、部屋から逃げる時に持ち去り、何処かへ捨ててしまったので、今でも不明のままです。
  逃げる直前、M子さんを布団で覆いました。下駄箱の上に鍵が置かれていたので、この鍵で施錠して出ました。そのとき白い犬が階段の方へ向かったのを覚えています。呼び戻すこともできず、放っておこうとも思ったのですが、なんだか可哀想な気持ちになり、玄関の土間に置いてあった容器に入ったドッグフードか何かを、玄関の外に出した記憶があります。
  もう一つ、私の記憶にはっきり残っている事があります。それはM子さんを殺した翌朝、つまり七月一日に、消防本部の救助技術大会が行われましたが、その競技中にM子さんの姿が浮かんだんです。ロープブリッジ渡過という競技をしていたとき突然、ロープにぶらさがる私の前にM子さんの姿が現れたのです。競技は惨敗しました。
 
14. 偽装
  S子さんを殺したのは、この年の八月十二日でした。ですからM子さん殺害からわずか四十余日しか経っていない時のことです。この日も、やはり盗みが目的で名古屋まで遠征して来たのでした。
  非番の日はもう毎晩、酒を飲んでいました。町の知人や消防署の同僚に会わない場所ということで、車で奈良市内まで出てそこで飲んでいました。飲んでは盗みに出かけるのでした。だから盗みに出かけるのもこの頃はもう非番の日の毎晩のことでした。
  盗みといっても、駐車している車の中から盗むとか留守を狙っての空巣など、いわば簡単な盗みで、強盗をやる気持ちはありませんでした。つまり人に面と向かって盗みを働くのではなく、人にみつからないように隠れてする盗みを専門にしていたのです。しかし、あまりにも回数が多すぎました。盗みを重ねれば人にみつけられてしまうこともあり、みつけられればひたすら逃げ出すつもりで入りましたが、逃げ切れぬ羽目に陥ることもあり、そうなったら捕まりたくない一心になり、そして気がついたら、人を次々と殺してしまっていたのです。
  この日は、酒を飲んでいなかったような気がします。家が京都の木津ですから、国道163号線から伊賀上野へ抜け、名阪国道から名四国道の名古屋北頭インターを通って阿由知通りに入り、そうやって名古屋市内の繁華街に向けて走ったと思います。
  時間は午後十一時頃でした。どこかで腹ごしらえをしようと思いながら阿由知通りを走っていたら食堂の看板が見えたので、そこでクーガーを止めたのです。ビールを二本とお茶漬け、それにビールのつまみにおでんを食べたような気がします。
  店の人の応対が非常に感じよかったのと代金が安かったこともあって、機会があればまたこの店に来よう、というようなことを思いました。ですから、ふつうなら用心して言葉づかいもその地元風にして話すのですが、この時は、私の地方の訛りそのままに喋っていたのです。また、店の前に奈良ナンバーのクーガーを止めておきましたから、この近くで盗みをやるつもりはなかったのです。
  店には三、四十分いました。勘定を済ませて表へ出たらそこにS子さんのマンションがあったのでした。それで、後日のためにどんなマンションか下見だけでもしておこうという気持ちになったのです。するとつい先刻までは、店のこんな近くで盗みをやるのは危険だと考えていたのに、無謀というか思慮が足りないというか、下見してもしうまいこと入れそうな部屋があったら入ろうという気持に傾いてしまいました。それで念のために、車に積んでおいたゴルフ帽子とジャンパーとサングラスとカー手袋をつけ、変装してマンションに入ったのでした。
  各部屋の在宅を調べながら、順繰りに階段を上がって三階まで昇りました。三階の階段に一番近いところがS子さんの部屋だったのです。それで最初のその部屋のドアのノブを静かに回したのです。というのは、マンションには空き部屋があることもあるからです。もし空き部屋であれば、その部屋からベランダ伝いに隣室に入れるかも知れないわけです。
  そこは鍵が締まっていました。その次の奥の部屋のノブも同じようにして回し、それも鍵がかかっており、そらにその奥の部屋もと、そうやって空き部屋や戸締りを忘れた留守部屋を探したのですが、どの部屋も鍵がかかっていました。で、締めて、通路の一番奥の方から階段へ戻ろうとしたその時でした。私の目の前でS子さんの部屋が開き、ドアから顔を突き出した格好で「あんた誰?何してんの」と、いきなり咎める口調で言ったのでした。
  これは、私の想像ですが、私がS子さんのドアのノブを回した時、彼女がたまたま玄関近くにいてノブの回る音を聴いたのではないでしょうか。それで、外にへんな人がいる、確かめてみようとという気持ちでドアを開けたところ、あたかも泥棒スタイルの私を見たので咎める口調になったのだろうと思います。しかし、それは後に考えたことで、そのときはもう、ただビックリしてしまったのです。しかも、逃げ出したくとも開いたドアが私の行手を遮る状態になっていました。
  私はうろたえました。その瞬間にも彼女が「ドロボー!」と叫びそうな感じでした。それで私は、このままでは逃げられないと思い、叫び声をあげられる前にS子さんを部屋に押し込んでやろうという気持ちを咄嗟に起こしたのです。部屋に押し込んでしまえば多少の声をあげられても外に聞こえないと思ったからです。部屋に押し込んでから脅して金を奪い、手足を縛ってから安全に逃げようと考えたのでした。開き直りの気持ちだったのです。
  正面を向き合い、S子さんの両肩を押して部屋に入り、後手でドアを閉めました。その間にS子さんは部屋の奥に逃げ込んで悲鳴をあげていました。それを追い詰め、ベッドに押し倒したのです。その時、私はサングラスをかけていたものの、なるべく人相を見られまいとして左手で自分の口許を隠し、右手で彼女の口許を塞ぎました。それで静かになったので、私は彼女から二、三歩離れて隣室へ行き、そこにあったタオルで覆面しました。
  そのタオルのあったあたりにハンドバッグだったか財布だったかがあったので、その中を物色しようとしたその時、バタバタと逃げる足音がして彼女が玄関に向かっていました。あわてて私も後を追い、玄関の土間のところで追い付き、後ろから羽交い締めにして、再びベッドの部屋に連れ戻したのです。そして、「なんで逃げるのだ」とか「金を出せ」「お金なんかないわよ」というような押し問答をしたのですが、S子さんが相変わらず大声をあげて騒ぐもので、そばにあった布切れを口に押し込んだのでした。
  その上で、「裸になれ」と言ったのです。下半身を裸にしたら部屋の外に逃げるなどという考えは起こさないだろうと思ったからです。ですから強姦とかそういう目的ではなく、S子さんをおとなしくさせる効果的な方法として下着を脱がそうと考えついたのです。下半身を裸にしたら彼女は静かにしました。
  念のために、逃げられないようにパンティストッキング---これをいつの段階から手に持っていたのか記憶がはっきりしないのですが---で彼女の足を縛っておこうと思いました。縛ろうとして中腰になった時、S子さんがいきなり私の顔をひっかくようにして、私のサングラスと覆面をひきずり下ろしてしまったのです。その勢いでサングラスが私の鼻柱を打ち、カーッとなったのも事実ですが、明るい部屋の中でまともに顔を見られてしまった驚きのほうが強かったのです。こんなに気の強い女の人では、このまま縛って逃げても、やがて通報されてしまう。そうなれば、食堂の前に駐車したクーガーからもすぐ身許がわかってしまうだろうという気持ちになったのです。それで、足を縛ろうと思っていたパンティストッキングを、そのまま彼女の首に巻いて、とにかく動かなくなるまで首を絞めてしまったのです。
  もう部屋を物色する余裕はありませんでした。人の命を奪ってしまったのですから、あとは逃げることしか頭になかったのです。それでも、何度も殺人を犯しているうちに、自分が捕まらないように工作をするという、混乱していながらも冷静に判断する行動を身につけるようになっていたのです。
  私はベッドをずらしてS子さんの遺体をベッドと壁との間に隠しました。また玄関の土間にあった靴とか、彼女の所持品を片端から押入れに隠して、その上で下駄箱の上に置いてあった鍵でドアをロックして逃げたのです。そうやって遺体の発見を遅らす工作をしている時に、S子さんがはめていた指輪に気がついて、これを盗みました。質屋で換金するつもりだったのですが結局、そうはしませんでした。いつそこから足がつくともかぎらないと考えたからでした。

勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(1) まえがき 起之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(2) 承之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(3) 転之章〈前篇〉
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(4) 転之章〈後篇〉
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(5) 結之章〈前篇〉 
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(6) 結之章〈後篇〉


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