谷繁元信が今だから語る「監督就任と組閣の舞台裏」
Sportiva 2014.01.22
キビタキビオ●構成 text by Kibita Kibio 五十嵐和博
谷繁元信×野村弘樹 対談(1)
2014年のプロ野球で注目を集めるのが、落合博満ゼネラルマネージャー(GM)との新体制でスタートを切る中日ドラゴンズの谷繁元信選手兼監督だ。12年ぶりにBクラスに転落したチームをどう立て直すのか。横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)時代にバッテリーを組んだ野村弘樹氏との和やかな対談の中で、その意気込みについて語ってもらった。
──まずは、監督就任からこれまでの話を改めて振り返っていただきたいと思います。最初に打診が来たときはどのような心境でしたか?
谷繁 正直なところ、球団からは9月の終わりくらいに「もしかしたらあるかもしれない」という話がありました。最終的に正式な連絡が来たのはシーズン最終戦の前の晩でした。その時は、「マジで来たな」という感じでしたね。
野村 1年前のオフに一緒にゴルフをした時、「シゲ(谷繁)もいつかは(監督を)やらなきゃならないだろ。もう、名古屋人だもんね(笑)」という話をしたけど、まさかその翌年とはね。
谷繁 僕が思い描いていたのは、もう1年くらい現役をやって辞めるつもりだったんですよ。そして、何年後かにもし監督として声が掛かった時には、ちゃんとできるように準備しておきたいな、という考えでした。でも、昨年は色々なことが重なりましたから。
野村 発表のあとは、ドラフトやコーチの組閣などがあって大変だったんじゃない?
谷繁 いや、大変ということはなかったです。やらなくてはいけないことを、ひとつひとつこなしていくという感じで。今までは選手だけだったので、気になることがあっても「それは球団の仕事」と流していたのですが、それができなくなりました。あとは、ドラフトの前にスカウト会議に参加して、指名候補を決めるような仕事は初めてでしたし、こういうことを全部やらなきゃいけないんだな、と。
野村 今までチーム作りに携わるということがなかったしね。
谷繁 それより何が大変って、人前であいさつをするのがいちばん大変です。あらゆるところであいさつをしないといけないでしょ。そのときに権藤(博/1998〜2000年、横浜監督)さんが監督だった時のことを思い出したんですけど、あいさつは短かったじゃないですか? シンプルだけど、あれはちょっと短すぎるかなと(笑)。でも、ああいう場で2、3分しゃべろうとすると結構長いですね。まあ、数をこなしていけば、そのうち慣れるかな? とは思います。
野村 昨年の監督就任直後の秋季練習の時に、選手を集めて最初に話したことを、もう一度この場で話してよ。
谷繁 「2000本打った時にも言いましたが……」と切り出した時のですか?
野村 うん。
谷繁 あれは、僕が2000本安打を達成した試合(2013年5月6日)の後に神宮のクラブハウスで話したことなのですが、あの時は借金が7つもあって、その日も満塁ホームランを打たれて逆転負けしたんです。自分の2000本よりもチームの調子が悪いことがものすごく気になっていて、「このチームはこんなに弱いチームじゃない。もう1回強いドラゴンズを取り戻したい」と。秋季練習の時も同じことを言って、「そのためには個人個人が何をしなきゃいけないか? ということを考えてやって下さい」と言いました。やはり、自分が選手としてやっていますから弱いとは思いたくないですし、実際、弱くないですからね。
──落合GMとは、頻繁にお話をされているのですか?
谷繁 何か動きがある時には、必ず連絡を取り合うようにしています。話は僕より細かいですよ。普通、ひとつのことを1から伝えるとして、半分くらいまで聞けば大体内容がわかるじゃないですか。でも、落合さんは絶対に10まで説明します。妥協がないです。
野村 監督と選手という関係の時とは、関わり方が違ってくるよね?
谷繁 実は、落合さんが監督の時はほとんどしゃべってないんです(笑)。とはいっても、まったく会話がなかったわけじゃないですし、監督室や風呂などで、時々話はしていました。監督と選手というのは付かず離れずという距離感が大切だと思うんですよ。ただ、今の主力メンバーは一緒にプレイしている連中なので、その点は心配していません。
野村 オレの中の落合さん像も、「勝負事に対して妥協がない」というのがある。2007年の日本シリーズで、完全試合を継続していた山井大介を代えた場面があったでしょ。賛否両論あったけど……。
谷繁 あれは、選手の意見を取り入れてくれたんですよ。最初、僕と山井で話をして、森さん(繁和/今季からヘッドコーチ)が山井と話をして、そこから落合さんに話が行っているので。最終的に交代を告げたのは落合さんですけど、それまでにちゃんとしたコミュニケーションがあって代えていますからね。それを知らない人は、落合さんは冷たいとか思うのでしょうけど、中にいる僕らにとっては当たり前のことでした。
野村 あと、個人的に印象深かったのは、オレが2006年に解説者になってキャンプであいさつに行った時。それまでほとんど面識がなかったのに、30分くらい懇々と野球の話をしてくれたんだ。
谷繁 話、大好きですよ。以前、キャンプ中にロッカーに来て、僕とかベン(和田一浩)とか選手が揃っているところで、「オメーら”ズック”って知ってっか?」って言うんです。僕らは靴のことだってわかるけど、30歳前後の選手はわからない。「お前、ズックも知らねーのか!?」って。そんな話をするんですよ。それも1から10まで(笑)。
野村 ズックの話も1から10までなんだ(笑)。
谷繁 でも、僕がここまで長くやってこられたのは、あの人のおかげというのがあると思います。どうやったら効率よく勝てるのか? 横浜での経験にプラスして、選手や球場、球団の体質も違う中で、チームに合った野球の進め方を考えさせられました。
野村 落合さんが別のチームの監督だったら、中日とは違う采配になると思う?
谷繁 どうしたら勝つ確率が高くなるか、という根本的な部分は同じと思いますけど、野球は違うと思います。以前、「オレが4番なら、オレが打って勝つ野球をする」と言っていました(笑)。そういう選手がいないから、バッテリーを含めた「守り」の野球になったと思います。
野村 今後は落合さんとどんな接し方になっていくのかな?
谷繁 落合さんは現場にはほとんど口を出さないと思います。ただ、僕が下手を打っていたらアドバイスはするよ、と。それ以外はお前の好きなようにやれ、ということでした。
──コーチ人事についてはいかがでしょう。これも落合GMと決められたのですか?
谷繁 そうですね。僕が選手として動いているときに手を貸してくれるような人をGMが呼んできてくれて。「お前が呼びたい人がいたらお前が呼べよ」という形で決まりました。
野村 今回、ヘッドコーチに森さん、バッテリーコーチを達川(光男/元広島監督)さんにお願いした理由は?
谷繁 森さんは、落合さんが監督の時に僕も8年間一緒にやっていますから、考え方も含めよくわかっています。今回はピッチャーだけでなく、ヘッドコーチとして、僕がグラウンドにいる時も意志の疎通はできると思います。達川さんに関しては、最初、引き受けてくれるのかなと思ったのですが、電話してお願いしたら「ぜひ、力を貸したい」と言っていただいて。ドラゴンズにはいないタイプの人だし、監督もやられた方なので知識も経験も豊富ですから。僕が選手としてやっている限りは、若手のキャッチャーをそうは見られないので、達川さんにお願いしたいなと思っています。
野村 達川さんは、記憶力が抜群だよね。
谷繁 すいません。キャッチャーはみんな記憶力がいいんです(笑)。
野村 僕らピッチャーも記憶力は大切だけど、抑えたことよりも打たれた時の事の方が良く覚えているよ。北別府(学/元広島)さんなんかは今でも一球一球、鮮明に覚えているからね。
谷繁 昔の人ってそうなんですよね。杉下さん(茂/元中日)なんか今年89歳ですよ。そんな方が「19XX年のX月X日の試合で…」なんて話をしますから。昔の人って本当に記憶力がいいなと思います。60年くらい前の話ですよ。覚えてます? いや、まだそんな経ってないか(笑)。
野村 でも、まあ我々の15年、20年とは全然違うよね。
──昨年限りで引退した佐伯貴弘さんが二軍監督になり、友利結(デニー友利)さんや波留敏夫さんなど、横浜時代からご存知な面々をコーチとして呼んだ点についてはどうですか?
野村 過去に中日に在籍した方々がほとんどでしょ?
谷繁 はい。だから、“横浜色”というのはないですよ。僕が佐伯を二軍監督にしたいと申し出たのは、25年間のプロ生活でアイツより練習した者を見たことがなかったから。誰よりも練習した男が監督なら「あなた、練習してなかったじゃないですか」とは言えないですからね。説得力がありますよ。みんな素質があってプロに入ってきているので、あとはどれだけ練習して、強い体を作って、精神的にも強くなるかですから。それに、中日は厳しいとよく言われますけど、僕は当たり前だと思うんです。仕事なんでね。頑張ればいつか花開くと信じてやるしかないですから。
──将来的に野村投手コーチというのはないですか?
谷繁 僕の下でやるの、嫌でしょ?
野村 いやいや(笑)。ドラゴンズって地元の意識がものすごく強い印象なんですよ。ヨソ者になってしまうでしょう。
谷繁 僕もそうですよ。選手として何年もやっていますけど、今まではどこかしらそういう部分を感じたことがありました。でも、それは去年までです。新しい体制になった時点で、まったくないと思います。ただ、どうだろ? 言葉は悪いですけど、今までのドラゴンズは生え抜きにちょっと甘いところはあったかもしれませんね。
野村 それはどこの球団でもあることだよね?
谷繁 いや、横浜は厳しかったじゃないですか。生え抜きが誰も帰れないですから(笑)。プロの世界といえば、プロの世界ですけどね。
野村 まあ、先のことはわからないけど、名古屋ドームの一塁側から自分が出て行くというのはなかなか想像がつかない。
谷繁 僕だって、横浜スタジアムの三塁側のベンチから試合見るなんて、まったく思いませんでした。最初は変な気分でしたよ。それが今では監督になるんですからね。人生わからないものですよ。
次回に続く
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谷繁元信「屈辱の時代のおかげで僕は16年連続Aクラスになれた」
Sportiva 2014.01.25 キビタキビオ●構成 text by Kibita Kibio 五十嵐和博
谷繁元信×野村弘樹 対談(2)
―― おふたりはかつて同じチームでプレイしていましたが、初めてバッテリーを組んだ時のことを覚えていますか?
谷繁 僕が大洋(現・横浜DeNA)に入団して、1年目(1989年)だったと思います。先発として何度か組んで、次の年、監督が須藤(豊)さんになってから、野村さんが先発の時は僕がマスクをかぶるようなったんです。
野村 1989年の僕の成績は3勝11敗だった。途中、1勝9敗までいった時は、「一休さん」って言われていた(笑)。
谷繁 確かあの年、野村さんは開幕前に交通事故を起こして、車のガラスに頭をぶつけて流血したんですよね。あれでおかしくなったんですよ(笑)。
野村 そうかもしれない(笑)。あの年は市川(和正)さんがマスクをかぶっていたね。でも、シゲ(谷繁)も1年目ながら80試合に出場しているよね。
谷繁 開幕直前に若菜(嘉晴)さんがトレードで日本ハムに移籍したこともあって、ずっとベンチには入っていました。でも、いま考えたら80試合も出ていたのかなという感じですね。
野村 オレが投げる時はシゲがマスクをかぶっていたけど、打たれてベンチに戻っては、いつもふたりで怒られていたよな。
谷繁 野村さんが投げる試合に勝たないと、他の試合で使ってもらえないと思っていたので本当に必死でしたよ。
野村 結局、1990年は11勝することができた。でも、試合前に打合せすることはほとんどなかったよな。初球の入りをどうするかぐらいで、あまり細かいことは決めなかった。
谷繁 野村さんのボールを受けた最初の頃は、「ああ、これがプロの球なんだ」と思いましたよ。真っすぐのキレというんですかね。スピードは140キロちょっとでそれほど速くないんですが、それが全部ファウルになる。だから思い切って攻めることができました。ただ、年齢を重ねるたびにキレが悪くなってきましたね。日本一になった1998年はギリギリ大丈夫でしたけど(笑)。
野村 その翌年からまったくダメだったよね。もう、キャンプの時からダメだった。
谷繁 やはり、キレで勝負するピッチャーには、そういうところがありますね。これまでいろんな人のボールを受けてきましたけど、長く続けている人はそのキレがなくならないからやれるのだと思います。それはスピードガンの数字じゃない。球の質ですね。
野村 ファウルを取れなくなるとキツイ。「もっといいボールを投げなきゃいけない!」となって、厳しいコースに投げようとするけど、ボールになって、カウントを悪くしてしまう。まさに悪循環。そうなるとバッターとまともに勝負できなくなる。
谷繁 キレがあった時は、少ない球種で勝負できていましたよね。真っすぐとスクリューが主体で、あとはカーブが「一応ある」という程度で。スライダーを投げ出したのは、野村さんが引退される少し前ぐらいですよね。最初は3つの球種だけだったんですが、それでも抑えていたんだからすごいですよ。
野村 カーブもあまり使っていなかったし、実質サインは2つだけ。ストレートとスクリューを左右に投げ分けていた感じだった。僕は1998年がピークだったなぁ。
谷繁 本人がそう言っているので、そういうことなんでしょう(笑)。
野村 シゲとバッテリーを組んでいて、今でも忘れられないシーンがあるんだ。それは、まだ広島にいた金本(知憲)と対戦した時。追い込んでからアウトコースのややボール気味のところにストレートを投げたんだけど、それを左中間にバチーンと打ち返された。その時に、しかめっ面でシゲのことをにらんだら、マウンドにトコトコ来て、「嫌だったら首振って下さいよ!」と言われたのを覚えている。
谷繁 覚えています(笑)。
野村 どう考えても、読まれたとしか思えなかった。それが悔しくて、ついシゲに当たってしまった。でも、ズバッと言いに来たのを見て、「コイツ、自信を持ち出したな」と思ったことを覚えている。
谷繁 僕が覚えているのは、横浜スタジアムの試合で、簡単に先頭バッターをフォアボールで出したことがあったんですよ。それでムカーっとなって、いつもより強く投げ返したら、まだ野村さんは下を向いていて、顔を上げた瞬間、顔面にバチーン(笑)。
野村 ああ、巨人戦で雨が降っていた時だね。先頭の簑田(浩二)にフォアボール出して、「アカ〜ン」って思ってスコアボードかなんかを見て下向いたあと、上向いたらそのままゴーンって来た(笑)。でも、目を腫らしながら投げて、5回ぐらいまで0点に抑えていたんだよね。
谷繁 うん、そうそう。
野村 でも、結局、あの試合は負けたんだよな。雨で一度試合が中断して、再開したあとに点を取られて……。あのとき、僕がチェンジになって戻るときにクロマティー(巨人)に「レイン、アフター、ダメね」って声かけられたのを覚えてるよ(笑)。
谷繁 野村さんも結構覚えていますね。
野村 あと1994年、東京ドームの巨人戦での3連発。
谷繁 元木(大介)、デーブ(大久保博元)さんと、あと誰でした?
野村 岡崎(郁)さん。
谷繁 はいはい。元木はポール際じゃないですか?
野村 そうそう。近藤(昭仁)さんが監督の時だったんだけど、「お前、3連発はないぞ」って2カ月ぐらい言われ続けた(笑)。他にも、広島戦で西山(秀二)さんに広島市民球場で3ランを打たれて逆転されたのを覚えている? 2−0で勝っていて、2アウト二、三塁で8番の西山さんという場面だったんだけど、ツーナッシングからインコースの真っすぐを打たれた。
谷繁 それは覚えてないですね。
野村 あの時も近藤さんに、「野村、ツーナッシングからインコースはないだろ」って2カ月ぐらい言われた(笑)。しかもその後、しばらく中継ぎに回されてしまって。
谷繁 そんなリードばかりしていたから、僕も近藤さんが監督の時に、試合に出してもらえない時期がありました。佐々木(主浩)さんがリリーフで投げる時は、秋元(宏作)さんに代えられていましたし……。
野村 ふたりでバッテリーを組んで投げていても、佐々木さんに代わるとバッテリーごと代えられたよね。
谷繁 それは僕がヘタだったからですよ。
野村 佐々木さんのフォークボールをちゃんと捕球するためにシゲが必死に練習して後に信頼を得たという話は、1998年に優勝したときに色々なところで紹介されて、すっかり有名になったよね。
―― 横浜時代、おふたりに共通するキャリアとしては、ちょっと失礼な言い方になりますけど、1998年の日本一が一番のピークになりますか?
谷繁 いや、ピークですよ。その1回しかなかったですから(笑)。でも、あの時って、野村さんもひとつ違いで同世代でしたし、優勝した年にはもういなかったけど、野村さんと同級生の盛田さん(幸妃)とも前の年まで一緒にやっていて、あと僕と同級生の石井琢朗や井上純でしょ。それに、波留(敏夫)が社会人から、佐伯(貴弘)も大学を経て入ってきた。最初は弱かったけど、同じ世代でちょっとずつ強くなって、やっと優勝できたというのがありました。だから、プロで25年間やってきた中で、一番うれしい優勝でしたね。弱いときから一緒にやってきたメンバーだったので。
野村 選手がそのまま力をつけて脂が乗ってきて優勝という形だったからね。こう言ってはなんだけど、入った頃の大洋は弱かったからなぁ。
谷繁 最初の頃、勝てると思いました(笑)?
野村 でも、誰かしらタイトルは獲っていたんだよね。あれは不思議だった。だけど、順位はビリ。それが、優勝した前の年の1997年に2位になって。新しく入ってきた人って、駒田さん(徳広)だけだったと思うんだけど。
谷繁 あと、中根(仁)さんと、阿波野(秀幸)さんくらいかな。主力メンバーはほとんど生え抜きでしたよね。
野村 その意味では、自分たちで勝ち上がったという印象だった。僕は優勝したのは、後にも先にもあの1回だけだけど、やはり嬉しかったよ。優勝した翌年以降は、シゲが横浜を去る2001年のシーズンまで3年連続で3位だったから、チームの順位としてはまずまずだったけど。
谷繁 そうなんですよ。だから僕、1997年以来、ずっとAクラスだったんですよ。それが昨年4位になって、17年ぶりのBクラスです。やっぱり勝たないとダメですね。今年はこの悔しさを何としても晴らしたいですね。
野村 期待しているよ。
次回に続く
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