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東京拘置所「衛生夫」が語った オウム首魁「麻原彰晃」闇の房 / 大道寺将司〜午後の一番風呂の“厚遇”

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東京拘置所「衛生夫」が語った! オウム首魁「麻原彰晃」 闇の房
 『週刊新潮』2014年2月6日号
 東京拘置所には、その実情が闇に包まれた一角がある。病を患う囚人だけが集められた病舎---。中の様子はまったく窺い知れないが、そこで服役していた「衛生夫」が初めて口を開いた。以下は、麻原彰晃はじめ、「闇の房」で暮らす“病”の死刑囚、3名の実態である。

 薄暗いタイル敷きの廊下を進む1台の車椅子。5〜6人の男性が取り囲み、油断なく辺りに目を光らせている。車椅子に座る老いた舎防着姿の男の目は宙を泳ぎ、表情は虚ろ---。
 「それが絶対に見てはいけないとされていた人物、麻原の姿でした。少し痩せてはいましたが、髪は事件当時と同じように伸ばしたまま。以前の面影はあるのですが、“生気”はまったく感じず、ただ刑務官に為されるがままにいるだけという印象でした」
 そう語るのは、最近まで東京拘置所で「衛生夫」として服役していた男性だ。とある事件で逮捕され、通常なら刑務所で服役する身だが、当所執行を命じられ、未決囚や死刑囚の食事の配膳やフロアの掃除、身の回りの世話を担当することになった。
 葛飾区小菅にある東京拘置所は、12階建ての建物がA棟からD棟まで立ち並ぶ日本最大の拘置所だ。彼が割り当てられたのは、B棟とC棟それぞれ中層階にある2つの「病舎」。病を患う囚人だけが収容されるこの特殊なフロアに「麻原彰晃」こと松本智津夫死刑囚(58)がいたのである。
 元幹部の平田信被告の公判で3人の死刑囚が証人尋問に立つことになり、再び注目されているオウム事件。しかし、その首魁だった麻原の“現在”は一切伝わってくることがない。
 そもそも、麻原は常にその“精神状態”が議論の的であった。
 1995年の強制捜査前は頻繁にテレビにも出演して、教義をとうとうと述べ、その後も逮捕を恐れて2か月間に亘って上九一色村のサティアンに巧妙に潜んでいたことからして、事件当時の彼は「認識能力がある」とされていた。
 しかし、裁判が始まるとその態度は一変した。法廷では被告席で飛び跳ねたり、こぶしを突き上げるなど、奇行を連発。薄ら笑いを浮かべたり、「チヅオ・マツモト・スピーキング」などと英語を口にすることまであって、裁判長にしばしば退廷処分を下されてきた。
 また、この頃の彼の拘置所での様子を、小誌で衛生夫が証言したこともある。それによれば、
 〈独房の中にトイレがあるのに、わざと大小便を布団の上に垂れ流して、迷惑をかけていた〉
 〈食事は、すべてのおかずをご飯の上に乗せて出され、それをレンゲを使って食べるのです。時々、プリンなどのデザートが出ることもありますが、お構いなしにご飯の上に乗せる。でも、どんなものが出ようと、彼は平らげます〉
 そんな様子であったから、麻原について「訴訟能力はない」、「いや、詐病だ」と大論争が展開されたのだが、2006年、死刑が確定した前後から、麻原の現在を伝える報道はパタッと途絶え、彼の状況は闇に包まれることになったのであった。
*シミだらけの布団
 「拘置所は、彼のことを絶対に誰の目にも触れさせないよう、異常なほど神経をとがらせています」
 と衛生夫は言う。
 「彼が病舎に移されたのもそのためでしょう。病舎は、結核患者やHIV感染者、覚せい剤中毒者などが入っていて、拘置所の中でも最も近寄りがたいフロア。そこでも麻原は“隔離”されているのです。麻原のいるB棟の病舎は、他と違ってフロアの真ん中がパーテーションで2つに分けられ、その出入り口には刑務官が座り、厳重に管理している。麻原はフロアの入り口から見て右側手前の房にいて、左右2つは空き室となっているので、麻原の房は他の囚人からは一切、見られません。彼は周囲の物音1つ聞こえない“密室”で暮らしているのです」
 麻原の入房時は、パーテーションの向こうには衛生夫どころか、フロアの刑務官さえ自由に立ち入りが許されない。入れるのは、袖にラインの入った“金線”と呼ばれるベテラン刑務官のみで、彼らが食事の配膳や、身の回りの世話なども行うというのだ。
 「週に1度、麻原が屋上の運動場に行く時間があるのですが、その時も僕らは“お前ら、外に出るな!”“隠れてろ!”と、待機部屋に移動させられる。そして、麻原が通過する経路には、わざわざ移動式のパーテーションを立ててまで姿を見せないようにする。だから麻原を見ても、チラッとだけ。ジロジロ観察しようものならすぐに怒鳴られるのです」
 生身の姿はほとんど見せない麻原だったが、しかし、彼の“容態”を物語るものが、主不在の独居房には残されていた。
 「1〜2週間に1度、麻原が部屋から出ているとき、僕ら衛生夫は房の掃除をさせられるのです。灰色の壁に囲まれた彼の部屋は8畳ほどで、入って左側にベッド、奥に洗面所とトイレがあります。しかし、本や置物など、生活感のあるものは一切、ありません。代わりにあるのは、糞尿でした。床には便が所々に落ち、小便で水たまりができている。すえた臭いの中、僕らは“古いもの”はチリトリで削ぎ落としてトイレに流し、“新しい”ものはモップで拭かなければなりませんでした」
 さらに、
 「麻原はおむつをしているはずなのに、彼が寝ている蒲団は毎日のように交換されていました。きっと毎日“お漏らし”をしてしまっているのでしょう。今の麻原は自分で用を足せないどころか、おむつを付けていてもなお、不始末を仕出かしてしまう状態。そして汚物が付いたシミだらけの布団で寝ているのです。担当の刑務官もあまりの異様さに呆れ、“このまま執行は出来ないんじゃないか”と呟いていました」
 むろん、病を装っている可能性は否定できないけれども、今も腫れ物に触るような扱いをされているのは事実のようだ。そして皮肉なことに、かつて麻原と同様、国家転覆を企てたテロ集団の主犯もまた病舎に送り込まれていた。1974年、三菱重工ビルを爆破するなど連続企業爆破事件を起し、計8人を殺害。天皇暗殺も計画していた過激派「東アジア反日武装戦線」の大道寺将司(65)と片岡(現・益岡)利明(65)両死刑囚である。
 大道寺の支援団体が発行する交流誌によれば、彼は4年前に「多発性骨髄腫」なる血液がんの一種と診断され、抗がん剤治療を始めている。
*午後の一番風呂
 ところが、だ。
 「大道寺は麻原とは別のC棟にいますが、見た目は元気なお爺ちゃんそのもの。畳を敷いた8畳ほどの房の中には100冊以上の本がうずたかく積まれ、時代小説を読んだり、俳句をひねったりして1日を過ごす。食事もきちんと取るし、差し入れのチョコパイも美味しそうに食べています。刑務官を呼んでは“どうだった?”と、前日の野球やサッカーの試合の結果を尋ねたりもしています」
 元衛生夫の記憶にとりわけ残ったのは、大道寺の“厚遇ぶり”であったという。
 「拘置所側がすごく気をつかっています。本来、入浴の順番は刑務官が決める。しかし、大道寺は午後の一番風呂が定番なのです。午前と午後の間に風呂掃除がありますから、かれはいつもキレイな風呂に入ることができる。また、“もうちょっと熱めに”などと湯加減を注文すると、それが認められるのです。他の囚人では絶対にあり得ないことです」
 大道寺は、過去に拘置所の対応を不服として国賠訴訟を起した“うるさ型”の死刑囚だ。また、交流誌を通じて房内での待遇が支援者に伝わってしまう。それに配慮しての厚遇だろうか。
 一方の片岡は、
 「彼は脳梗塞で寝たきりの状態。食事も刑務官が食べさせていますし、風呂も介助されてやっと入れるほど。房の中には尿瓶がありましたから、用便も自分で足せないのだと思います。毎週1度、2時間ほど室内でリハビリをしていますが、あまり効果はなく、移動の際も車椅子に乗って、口を開けて宙を見ている感じ。彼が自分の意思で動いているのを見たことは1度もありません」
 オウム事件では、平田被告らの裁判がまだ当分は続く見通しであり、「東アジア反日武装戦線」についても共犯者が未だ指名手配中。これらが解決するまで、彼らの執行は行われないのが前提だし、過去に適用された例はないものの、刑事訴訟法479条には、死刑判決を受けた者が心神喪失の状態にある時は執行を停止する、と明記されいる。彼らがそれに当たるかどうかは別にして、当局がその執行に慎重な判断を取ることは想像に難くない。麻原らの死刑のハードルはまだまだ高いのだ。
 だから、
 「死刑執行のニュースが流れた後も、大道寺はいつも落ち着いていました。自分の執行などないと思っているからこそでしょう。麻原、片岡も含め、みな、死刑の恐怖とは無縁のところにいるわけです」
 と衛生夫は言うけれど、彼らが起した多数の凶悪事件の責めは一体誰が負うのだろう。「闇の房」から見えた死刑囚の実態は、日本の死刑制度が抱える矛盾を浮き上がらせるのだった。
 ◎上記事の著作権は[『週刊新潮』]に帰属します
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獄中の麻原彰晃に接見して/会ってすぐ詐病ではないと判りました/拘禁反応によって昏迷状態に陥っている 2011-11-30 | 死刑/重刑/生命犯 問題 
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