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REPORT 2011.3.18
大震災の現場から Vol.7
「今はまだ、嵐の前の静けさ」宮城県立こども病院 泌尿器科部長 坂井 清英
2011年3月11日、宮城県北部の三陸沖を震源とする大地震が発生した。気象庁によると、マグニチュードは国内観測史上最大の9.0。津波や火災で多数の死傷者が出て、壊滅的な打撃を受けた医療機関も多数に上った。そうした悲劇的な状況の中でも、大勢の医師が、被災者に対する医療に尽力している。前例のない被害をもたらした大地震にも負けず奮闘する医師の、現場からのリポートを紹介する。
塩釜市の西(つまり内陸寄り)20kmあまりの位置にある宮城県立こども病院の泌尿器科部長、坂井清英氏が被災後、友人らに送った一連の状況報告のメールを、坂井氏の了解を得て掲載する。
やや内陸寄りにあることから、全壊や半壊といった大きな被害は免れた宮城県立こども病院だが、被災地に近い診療所、病院が壊滅的な打撃を受け、被災者が集中した最前線の総合病院は医療資源、通信手段、連携先、人手の確保に苦しむ中、急速に疲弊しつつある。この手記が書かれた15日現在、宮城県立こども病院にはそれほど多くの被災者は来ていないが、正念場を迎えるのはこれからだという。
掲載に当たり、元の文章の主旨を変えない範囲で編集を加えた。
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3月14日(月)15:00のメールから
私の勤めている宮城県立こども病院は免震・耐震構造だったせいか、震度6でも、ゴチャゴチャの医局の本棚はびくともしませんでした。建物は一部の損傷のみで済んでおり、地盤と建物の造りは重要と実感しました。
病院にガスはほとんど供給されていませんが、昨日(13日)より秋田県から電力をもらっていて、制限はあるものの手術も1件なら可能です。昨日は小児外科で緊急手術がありましたが、緊急以外の定期手術は当分できそうもありません。
薬剤や医療用の物資も不足していて、普段通りの外来診療は行えません。オーダリングシステム(診療支援システム)も動かせず、こういうときは紙カルテがないと診療になりません。当院では紙のカルテの運用があり、とても助かっています。各病院で急速に導入されつつある電子カルテは、電気のない災害時には全く役に立ちません。
患者さんや御家族向けの食料の備蓄も1週間分程度です。市内は復旧しつつありますが、沿岸部の町は壊滅的で短期間での復旧は不可能です。被災された患者さんたちは、沿岸部や仙台市街地より西の方へ外れた当院にはほとんど来院しておりませんが、当院で出生したばかりの児が、沿岸部の自宅に帰ってすぐに被災、ご家族が死亡確認のため来院されました。
当科に通院中の患者さんも沿岸部に多く住んでおり、安否の確認はできません。避難民も数十万人います。仲間の医師の多くも、沿岸部の病院で勤務していたり、当日臨時の手伝いに行っていたりしましたが、安否は分かりません。私が以前、臨時で勤務したことのある志津川公立病院(南三陸町)も水没し、その画像が流れていました。
通信手段は、震災当初は固定電話がダメで、携帯もダメ、インターネットもダウンしました。ようやく昨日(13日)以降、携帯とインターネットが復旧しましたが、病院の固定電話はダメで、周辺の病院との密接な連絡が取れず、直接行き来しては情報を得ています。そのため病院同士の連携がまったく出来ずにいます。大規模災害にも影響されない確実な通信手段の確保が必須です。
また、相澤病院を含め100チーム以上の災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team:DMAT)が東北地方に来て災害医療に携わってくれています。このような状況ですが、幸い元気にはしております。家族や職場や周囲の人々と協力し、気力を保って復興に向けて望みたいと思っています。 3月14日(月)16:19のメールから
遠方よりのDMAT派遣、ありがたいです。当院もプラズマ滅菌のカートリッジは残り21個のみで、補充の見込みはありません。アナログ的な古いやり方と人力で乗り切るしかなさそうです。手持ちの医療資源を使って、可能な限りの診療を行うしかありませんが、一昨日は他の施設で、不十分な環境の中で手術せざるを得なかった解離性大動脈瘤の患者さんが亡くなられました。
若干の絶望感が漂っていますが、何とか気力を保っていかねばと思っています。ガソリン不足のため、明日から15〜16kmの道のりを自転車通勤しようか、あるいは病院に泊まり込みにしようかと考えています。
当院の職員は全員無事でした。しかし、海岸近くのイベント会場に出かけていて津波に襲われ、車は置き去りにして命からがら逃げてきた職員もいます。息子の知り合いは、やはりイベント会場からポルシェに乗って逃げ出しましたが、道路が混雑して車では逃げ切れず、乗り捨てて走って逃げ、ポルシェは津波に飲まれたそうです。また、職員の中には、住んでいた地域(気仙沼、南三陸、陸前高田、釜石など)が水没してしまい、御家族の安否がわからないまま確認にも行けずに働いている人も大勢います。 3月14日(月)23:00のメールから
いろいろと書いていますが、これはあくまで、壊滅的な被害を受けた沿岸の被災地から少し離れた仙台市街地の医療機関における感想です。現在のところ、私の病院を含めた仙台市街地の各病院(東北大学病院を含む)は、嵐の前の静けさのような状態です。
私のいるこども病院は、仙台市内の主要病院のなかでは、最も内陸の方に位置していること、小児専門病院であることからか、今のところは被災者の受診は少ないのですが、神戸の震災の時も災害発生から1週間ぐらい経ってから、小児医療を含めた周辺の医療機関に患者さんが津波のように押し寄せてきたようです。これから本格的に忙しくなるのが確実かと思われます。
被災地に近い石巻日赤病院へは既に1000人以上の搬送があるようで、仙台市の南側に位置する救急対応の県南の中核病院にも600人ほどの被災者が訪れているようです。病院内には収容しきれず、院外にテントも設置され、まるで野戦場のようだとの話でした。いずれの病院でも、薬や点滴などの医療資源とエネルギーの不足が深刻で、補給がなければおそらく数日くらいで枯渇し、スタッフも疲弊し破綻しそうな様相です。
塩釜市の坂総合病院では燃料が残り4日間のみ、仙台日赤病院は燃料残りわずか1日だそうです。拓桃医療教育センター(障害児が多く入院している小児病院)では電力不足で呼吸器をつけた幼児の生命を保持できないため、1名がこども病院へ搬送されてきました。3名は明日、大学病院へ搬送されるそうです。通信手段は固定電話がまるでダメなため、医師同士の携帯電話や、ようやく復旧してきたメールでやり取りしています。携帯はつながったりつながらなかったり不安定です。
このようなときにも安定して通信できる手段の確保が今後必須です。通信手段が断たれた各病院は連携が十分できず、孤軍奮闘の末に一つひとつ潰れていく、といった状況です。いずれの病院にも泌尿器科医局時代の同僚や、大学の同級生、大学の時所属していたサッカー部(頭よりも体力に自信あり!)の先輩、同級生、後輩たちがおり、各自が、自分が最後の砦と思って頑張っています。 3月16日(水)11:49のメールから
連日のように、沿岸部の最前線の医師仲間から、状況を伝えるメールが入ってきています。以下は石巻地区のある病院の医師からの報告です。先に補足しますと、この病院は通常の診療でも満杯の状況にある、地域の中核病院です。周囲の小さなクリニックや中小の診療所、病院は設備が崩壊し、診療を停止しました。
亡くなられた方も多いのですが、医療を受けている多くの人々は、機能停止寸前であろうとも、通院したことが無くても、とにかく機能している病院へ、我先にと殺到します。薬が無くなると死に直結する人も多いからです。その患者さん達に加えて、被災者が待ったなしで次々に送られてきます。事前の相談があるとかないとか、悠長なことは言ってられる状況じゃありません。
全国各地から補給物資は届いているのですが、限られた内容と量であり、それを、分断され各地に孤立している病院へ適正に配分する司令塔の機能が十分働いていないようです。今の状況ではすべてを把握して分析し、対応できる人間はなかなかいないと思いますが、国や自治体の関係者にやっていただくしかありません。
物資があってもそれを運び入れるための交通手段、エネルギーがなく、食材も調理できません。さらに悪い状況としては、原発の事故の方にもかなりの人員や能力が費やされてしまっています。末端の被災地まで十分な援助が向けられるのか、いつになったら事態は好転するのか、まったく予測がつきません。
東北地方の今日は追い打ちを掛けるように大雪が降っています。死の雪にならないことを願っています。
REPORT 2011.3.18
大震災の現場から Vol.7
「今はまだ、嵐の前の静けさ」宮城県立こども病院 泌尿器科部長 坂井 清英
2011年3月11日、宮城県北部の三陸沖を震源とする大地震が発生した。気象庁によると、マグニチュードは国内観測史上最大の9.0。津波や火災で多数の死傷者が出て、壊滅的な打撃を受けた医療機関も多数に上った。そうした悲劇的な状況の中でも、大勢の医師が、被災者に対する医療に尽力している。前例のない被害をもたらした大地震にも負けず奮闘する医師の、現場からのリポートを紹介する。
塩釜市の西(つまり内陸寄り)20kmあまりの位置にある宮城県立こども病院の泌尿器科部長、坂井清英氏が被災後、友人らに送った一連の状況報告のメールを、坂井氏の了解を得て掲載する。
やや内陸寄りにあることから、全壊や半壊といった大きな被害は免れた宮城県立こども病院だが、被災地に近い診療所、病院が壊滅的な打撃を受け、被災者が集中した最前線の総合病院は医療資源、通信手段、連携先、人手の確保に苦しむ中、急速に疲弊しつつある。この手記が書かれた15日現在、宮城県立こども病院にはそれほど多くの被災者は来ていないが、正念場を迎えるのはこれからだという。
掲載に当たり、元の文章の主旨を変えない範囲で編集を加えた。
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3月14日(月)15:00のメールから
私の勤めている宮城県立こども病院は免震・耐震構造だったせいか、震度6でも、ゴチャゴチャの医局の本棚はびくともしませんでした。建物は一部の損傷のみで済んでおり、地盤と建物の造りは重要と実感しました。
病院にガスはほとんど供給されていませんが、昨日(13日)より秋田県から電力をもらっていて、制限はあるものの手術も1件なら可能です。昨日は小児外科で緊急手術がありましたが、緊急以外の定期手術は当分できそうもありません。
薬剤や医療用の物資も不足していて、普段通りの外来診療は行えません。オーダリングシステム(診療支援システム)も動かせず、こういうときは紙カルテがないと診療になりません。当院では紙のカルテの運用があり、とても助かっています。各病院で急速に導入されつつある電子カルテは、電気のない災害時には全く役に立ちません。
患者さんや御家族向けの食料の備蓄も1週間分程度です。市内は復旧しつつありますが、沿岸部の町は壊滅的で短期間での復旧は不可能です。被災された患者さんたちは、沿岸部や仙台市街地より西の方へ外れた当院にはほとんど来院しておりませんが、当院で出生したばかりの児が、沿岸部の自宅に帰ってすぐに被災、ご家族が死亡確認のため来院されました。
当科に通院中の患者さんも沿岸部に多く住んでおり、安否の確認はできません。避難民も数十万人います。仲間の医師の多くも、沿岸部の病院で勤務していたり、当日臨時の手伝いに行っていたりしましたが、安否は分かりません。私が以前、臨時で勤務したことのある志津川公立病院(南三陸町)も水没し、その画像が流れていました。
通信手段は、震災当初は固定電話がダメで、携帯もダメ、インターネットもダウンしました。ようやく昨日(13日)以降、携帯とインターネットが復旧しましたが、病院の固定電話はダメで、周辺の病院との密接な連絡が取れず、直接行き来しては情報を得ています。そのため病院同士の連携がまったく出来ずにいます。大規模災害にも影響されない確実な通信手段の確保が必須です。
また、相澤病院を含め100チーム以上の災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team:DMAT)が東北地方に来て災害医療に携わってくれています。このような状況ですが、幸い元気にはしております。家族や職場や周囲の人々と協力し、気力を保って復興に向けて望みたいと思っています。 3月14日(月)16:19のメールから
遠方よりのDMAT派遣、ありがたいです。当院もプラズマ滅菌のカートリッジは残り21個のみで、補充の見込みはありません。アナログ的な古いやり方と人力で乗り切るしかなさそうです。手持ちの医療資源を使って、可能な限りの診療を行うしかありませんが、一昨日は他の施設で、不十分な環境の中で手術せざるを得なかった解離性大動脈瘤の患者さんが亡くなられました。
若干の絶望感が漂っていますが、何とか気力を保っていかねばと思っています。ガソリン不足のため、明日から15〜16kmの道のりを自転車通勤しようか、あるいは病院に泊まり込みにしようかと考えています。
当院の職員は全員無事でした。しかし、海岸近くのイベント会場に出かけていて津波に襲われ、車は置き去りにして命からがら逃げてきた職員もいます。息子の知り合いは、やはりイベント会場からポルシェに乗って逃げ出しましたが、道路が混雑して車では逃げ切れず、乗り捨てて走って逃げ、ポルシェは津波に飲まれたそうです。また、職員の中には、住んでいた地域(気仙沼、南三陸、陸前高田、釜石など)が水没してしまい、御家族の安否がわからないまま確認にも行けずに働いている人も大勢います。 3月14日(月)23:00のメールから
いろいろと書いていますが、これはあくまで、壊滅的な被害を受けた沿岸の被災地から少し離れた仙台市街地の医療機関における感想です。現在のところ、私の病院を含めた仙台市街地の各病院(東北大学病院を含む)は、嵐の前の静けさのような状態です。
私のいるこども病院は、仙台市内の主要病院のなかでは、最も内陸の方に位置していること、小児専門病院であることからか、今のところは被災者の受診は少ないのですが、神戸の震災の時も災害発生から1週間ぐらい経ってから、小児医療を含めた周辺の医療機関に患者さんが津波のように押し寄せてきたようです。これから本格的に忙しくなるのが確実かと思われます。
被災地に近い石巻日赤病院へは既に1000人以上の搬送があるようで、仙台市の南側に位置する救急対応の県南の中核病院にも600人ほどの被災者が訪れているようです。病院内には収容しきれず、院外にテントも設置され、まるで野戦場のようだとの話でした。いずれの病院でも、薬や点滴などの医療資源とエネルギーの不足が深刻で、補給がなければおそらく数日くらいで枯渇し、スタッフも疲弊し破綻しそうな様相です。
塩釜市の坂総合病院では燃料が残り4日間のみ、仙台日赤病院は燃料残りわずか1日だそうです。拓桃医療教育センター(障害児が多く入院している小児病院)では電力不足で呼吸器をつけた幼児の生命を保持できないため、1名がこども病院へ搬送されてきました。3名は明日、大学病院へ搬送されるそうです。通信手段は固定電話がまるでダメなため、医師同士の携帯電話や、ようやく復旧してきたメールでやり取りしています。携帯はつながったりつながらなかったり不安定です。
このようなときにも安定して通信できる手段の確保が今後必須です。通信手段が断たれた各病院は連携が十分できず、孤軍奮闘の末に一つひとつ潰れていく、といった状況です。いずれの病院にも泌尿器科医局時代の同僚や、大学の同級生、大学の時所属していたサッカー部(頭よりも体力に自信あり!)の先輩、同級生、後輩たちがおり、各自が、自分が最後の砦と思って頑張っています。 3月16日(水)11:49のメールから
連日のように、沿岸部の最前線の医師仲間から、状況を伝えるメールが入ってきています。以下は石巻地区のある病院の医師からの報告です。先に補足しますと、この病院は通常の診療でも満杯の状況にある、地域の中核病院です。周囲の小さなクリニックや中小の診療所、病院は設備が崩壊し、診療を停止しました。
亡くなられた方も多いのですが、医療を受けている多くの人々は、機能停止寸前であろうとも、通院したことが無くても、とにかく機能している病院へ、我先にと殺到します。薬が無くなると死に直結する人も多いからです。その患者さん達に加えて、被災者が待ったなしで次々に送られてきます。事前の相談があるとかないとか、悠長なことは言ってられる状況じゃありません。
全国各地から補給物資は届いているのですが、限られた内容と量であり、それを、分断され各地に孤立している病院へ適正に配分する司令塔の機能が十分働いていないようです。今の状況ではすべてを把握して分析し、対応できる人間はなかなかいないと思いますが、国や自治体の関係者にやっていただくしかありません。
物資があってもそれを運び入れるための交通手段、エネルギーがなく、食材も調理できません。さらに悪い状況としては、原発の事故の方にもかなりの人員や能力が費やされてしまっています。末端の被災地まで十分な援助が向けられるのか、いつになったら事態は好転するのか、まったく予測がつきません。
東北地方の今日は追い打ちを掛けるように大雪が降っています。死の雪にならないことを願っています。