産経ニュース 2014.10.9 23:06更新
【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】三島由紀夫 「からっぽ」な時代での孤独
東日本国際大准教授・先崎彰容
昭和45年7月7日、サンケイ新聞(当時)夕刊に、ある記事が掲載された。
「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」と題されたその記事は、異様なまでの焦燥感にみたされていた-「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」。
世間は、3月にはじまった大阪万博に酔いしれていた。岡本太郎の「太陽の塔」が、高度経済成長の象徴のように君臨していた。人々が空気のように豊かさをむさぼり吸っている傍らで、三島由紀夫はひとり立ち尽くし、口を覆っていたのである。
もし日本人の日本人らしさが「豊かさ」にあるとしよう。ではそれを失ったらどうなるのか? 他国がより安い製品を作れば失われてしまう、そんな場当たり的な価値観を「日本人らしさ」の基準にしていいのか。
確かに学生たちは繊細だった。昭和43年の学生運動、「全共闘運動」と呼ばれる大学生たちの反乱には、戦後=民主主義への違和感があったからだ。耳に心地のよい正義感、正論を吐いている学者たちは何をしているのか。しかも日本は経済的な快楽に溺れ、アメリカの言いなりになっている。正論の裏にある、時代の空虚と偽善、その閉塞(へいそく)感を破壊せよ。そのためには民主主義にすら、一度は「否」をつきつけよ-学生もまた三島同様、焦燥を募らせていた。
だが、と三島は思った。私は万博に酔いしれる人々はもちろん、彼ら大学生たちとも違う。学生たちは私三島を誤解しているし、半分までしか理解しあえない。
なぜなら自民党がつくりあげた戦後社会を、私三島は呪っているからだ。「からっぽ」な社会を否定する気分は、学生と同じだ。では何がちがうか、それは私は日本の文化を守るために戦後を否定しているのであって、学生のように破壊と否定、革命だけを夢想していないからだ。
私には明確な目標がある、否、正確に言えばまだ果たしていない「約束」がある。それは戦前の若者が、なぜ死なねばならなかったのか、何のために命を投げ出したのかに答える、という約束である。
だから私の人生は、つねに死を飼って生きてきた。最初は戦争で、2度目は多くの友人が死に、そして3度目は戦後を生き延びた「老い」の感覚によって。
そして三島は思った、文化を担う「天皇」だけが、この約束を果たす存在であると。戦後のふやけきった日本を停止し、文化の咲き誇る「日本」を取り戻すには、天皇こそ必要なのだ。全共闘の学生は、三島のこの言葉=天皇を受け入れることはなかった。だから三島と学生は、「半分」までしか理解できないのだ。
三島は経済大国日本にも、また学生にも同調できなかった。戦後のどこにも居場所はなく、その華やかで過激なまでに豊穣(ほうじょう)な小説群に抱かれながら、なお、自らは孤独であると感じていた。
そして思った、戦前の人々と交わした約束を守るには、戦後の象徴天皇制はもちろん、明治立憲制下での天皇にも疑問があると。天皇は政治ではなく、文化のためにこそ奉仕すべきであり、神でなくてはならないと。
前回の和辻哲郎と、この結論を比較してみてほしい。
彼らは総じて、保守派だと思われている。だがその天皇像をめぐって、また戦後日本社会への評価は、大きく異なっているようだ。そのちがいが何を意味するのか-こういった繊細な地点から、「この国のかたち」を考える作業をはじめようと思う。
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次回「坂口安吾」は11月6日に掲載します。
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【知るための3冊】
▼『文化防衛論』(ちくま文庫) 書名となった論文のほか、サンケイ新聞掲載の引用文も所収。三島由紀夫の戦後社会イメージと、共産主義政権誕生の可能性への危機感が伝わってくる。
▼『英霊の聲(こえ)』(河出文庫) 『文化防衛論』で三島の戦後イメージを知った読者は、今度は彼の「戦前」イメージへと進むが良かろう。中でも二・二六事件に三島は自らの思想の結晶点を見いだした。事件にかかわる小説「憂国」、戯曲「十日の菊」を収める。
▼『太陽と鉄』(中公文庫) 「人間・三島」に入門したい人は、この書。所収の「私の遍歴時代」は、三島がどのような苦労を重ねて小説家になったか、時代背景とともに鮮やかに浮かび上がる。
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【プロフィル】三島由紀夫
みしま・ゆきお 大正14(1925)年、東京生まれ。東大法学部卒業。大蔵省勤務を経て作家に。昭和24年、長編小説「仮面の告白」で文壇デビュー。以後、「潮騒」「金閣寺」など数々の小説を世に問い、戦後日本を代表する作家に。晩年は自衛隊への体験入隊や民兵集団の結成など政治色を強め、45年に陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で自決した。
【プロフィル】先崎彰容
せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。
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《 ドナルドキーンの東京下町日記 》 ノーベル文学賞 三島由紀夫が望んだ栄誉 2013-10-06 | 本/演劇…など
《ドナルドキーンの東京下町日記》 ノーベル文学賞 三島が望んだ栄誉
中日新聞2013年10月6日 Sun.
五輪の東京開催が決まり、作家の三島由紀夫を思い出した。1964年の東京五輪。三島は新聞社から寄稿を依頼され、五輪会場に取材で通っていた。ニューヨークの私に届いた航空便には「重量挙げのスリルなどは、どんなスリラー劇もかなわない」と書かれ、興奮ぶりが伝わってきた。そして端的に勝敗が決まり、敗者が勝者をたたえる美しさにこうも書いていた。
「文学にもかういふ明快なものがほしい、と切に思ひました。たとえば、僕は自分では、Aなる作家は2位、Bなる作家は3位、僕は1位と思ってゐても、世間は必ずしもさう思ってくれない」。既に国内外で作品は知られ、三島は海外で最も有名な日本人だった。だが、その証しが欲しかった。最高の栄誉、ノーベル文学賞が欲しいのだと私は直感した。
三島は自分の作品が多く翻訳されれば賞に近づくと信じていたようで、私にしばしば自著の翻訳を依頼した。私が安倍公房の作品を先に英訳したときなどは「僕の小説を先に翻訳する倫理的な義務がある」とまで不快感を伝えてきた。
戦後の混乱から落ち着いた1960年代は、日本文学が世界的に注目された時代だった。『金閣寺』を読んだ当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドが三島を高く評価し、61年にノーベル賞の選考委員会に推薦した。それは重く、三島は毎年、候補者として名が挙がった。
当時、私はノーベル賞に次ぐ栄誉とされていたフォルメントール賞の審査員だった。毎年、三島を強く推したが、いつも次点止まりで私は落胆した。だが、67年の審査会直後だった。スウェーデンの一流出版社ボニエール社の重役が私に「三島は間もなく、もっと重要な賞を受けるだろう」と言い残した。それは、ノーベル賞以外にありえなかった。ところが、翌68年に日本人初の文学賞を受賞したのは、川端康成だった。
後日談がある。70年、コペンハーゲンで地元大学の教授に招かれての夕食会だった。参加していたデンマーク人作家ケルビン・リンデマンが「私が川端に勝たせた」と言い出したのだ。リンデマンは57年の国際ペンクラブ大会への出席で2、3週間、日本に滞在した。それだけで北欧では日本文学の権威とされ、選考委員会に意見を求められたそうだ。当時43歳の三島に「若い。だから左翼的」と理不尽で、しかも誤った論評で反対し、69歳の川端が年齢的に相応しいと推薦した--というのだ。
真偽は分らない。だが、川端の受賞で次の日本人受賞まで、二十年も待たなければならない--と落胆した三島は『豊饒の海』を集大成として書き残し、70年11月に自決した。三島の文壇デビューを支え、「自分の名が残るとすれば三島を見いだした人物として」と話していた川端が葬儀委員長だった。
川端は、疑いなくノーベル賞に値する大作家である。だが、受賞後は思ったような作品を書けず、72年4月に自殺が報じられた。大岡正平によれば、ノーベル賞が二人を殺したのだ。ノーベル賞の発表は今月。五輪招致と同様に銀と銅はなく、あるのは金メダルだけ。また新たな歴史が生まれる。(日本文学研究者)
*中日新聞朝刊より書き写し(=来栖 2013年10月6日 Sun. )
三島由紀夫が東京・市ケ谷の自衛隊に乱入、自決して43年 / 三島の生涯を描いた猪瀬直樹著『ペルソナ』 2013-11-24 | 本/演劇…など
【産経抄】11月24日
産経新聞2013.11.24 03:1
明日25日で三島由紀夫が東京・市ケ谷の自衛隊に乱入、自決して43年になる。この事件に至る三島の生涯を描いた作品に、猪瀬直樹氏の『ペルソナ』がある。樺太庁長官だった祖父の代から、官僚の日常性と三島の生き方とを対比させた力作だ。▼猪瀬氏は事件で三島自身が作った「自死の設計図」が、いくつか狂ったことを指摘する。切腹前バルコニーから自衛官に決起をうながした場面もそうである。三島の意に反し、自衛官たちは決起に応じるどころか「ばかやろう」「引っ込め」と罵倒するばかりだった。▼『ペルソナ』によれば当日、市ケ谷の主力部隊は富士の演習場へ行っており、残っていたのは通信などにあたる隊員らだった。三島はそのことを知らず誤算のもととなった。その上で猪瀬氏は、最期まで自らの設計図通りにいかなかった三島の心境を思いやるのだ。▼その事件の日を目前に、今や東京都知事となった猪瀬氏が金銭スキャンダルの渦中の人となった。知事選前、医療法人「徳洲会」から5千万円を受け取っていた。猪瀬氏は借金ですでに返したと説明している。だが道義的に厳しい立場に追い込まれたことは間違いない。▼猪瀬氏も知事になるため自ら設計図を描いていたのだろう。その中に5千万円の「借金」もあったのかもしれない。ただ最大の誤算は徳洲会が大がかりな選挙違反事件を起こし、司直の手にかかったことである。その捜査の過程で5千万円が浮かび上がったのだ。▼一方で、会見では借金が「選挙のため」だったかについて説明を転々とさせた。政治家として未熟さもうかがわせている。緻密な考証で知られたノンフィクション作家からの「転身の設計図」が妥当だったのかと、ついつい思ってしまう。
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〈来栖の独白 2013/11/24 〉
同感だ。作家としての猪瀬氏は、好ましかった。『ペルソナ』の末尾、以下。
“ 三島が切腹して6時間後、六本木の防衛庁本館で事務次官の送別パーティが開かれて、五百本のビールの栓がつぎつぎに抜かれた。その日のパーティをなぜ延期しなかったかと問われた広報課長は「三島事件のようなハプニングに左右されることは全然ない」と答えた。官僚たちはひたすら<彼らの日常性を“防衛”したのである。> ”
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