放射能恐怖という民主政治の毒 (1)放射線と政治
小野昌弘 | イギリス在住の免疫学者・医師
Yahoo!JAPAN ニュース 2015年1月3日 5時45分
今の日本には白昼堂々おばけが歩き回っている。放射能おばけというおばけが。おばけは人々に恐怖を吹き込み、恐怖は毒となって社会の全身を巡り、放射線問題の解決を困難にするばかりか、民主政治を麻痺させている。
1. 放射線という政治問題
最近日本の知人が持ってきてくるおみやげは九州産ばかりだ。こんなものまで九州産があるのだ、と驚いてしまうことも多い。こういう商品がよく売れるということは、実は放射能汚染に不安な人が多いのだろうか。
今日でも、ツイッターやFacebookのタイムラインには、 しばしば事故直後の放射能汚染地図が顔を見せる。緊急時の情報と現況が混同されて伝えられる。おそらく、ときどきは素朴な間違いで、ときどきは意図的な混同なのかもしれない。
昨年には、一漫画が福島での鼻血を描いたというだけのことで、閣僚から地方自治体までうろたえて声明を出す事態にも至った。
一方で「福島は収束した、制御下にある」という安倍首相の言葉や、原発再稼働に向けた大きな動きが日々伝えられる。
いったいどうなっているのだろう。これだけ混乱した言説を見ていると頭が割れるような感覚すら覚える。どれが現実なのだろうか。
ここで確実に言えることは、放射線問題は政治問題であるということだ。つまり社会的立場・考え方によってこの問題に対する解答が異なりえる。これは単純に電力会社との対立や、御用学者云々について述べているのではない。またこれは放射線問題の科学的側面を否定するものでは全くない。私が言いたいのは、現実がこれほど混迷していて、また科学が唯一の解答を与える存在ではない以上、社会で関係する人たちが集まって知恵を絞り、科学者の助けを借りながら議論をして、幅広い合意をつくるという喫緊の必要があるということだ。
福島原発事故の規模は大きく、 多額の国民の税金と多くの労働力を投入して、何十年という時間をかけて解決しなければならない。つまりすべての国民が、直接・間接に福島の放射線問題に関わらざるをえない。放射線問題は科学的な問題でありながら、科学をこえて国政の重大課題である。
2.放射能おばけ
ネット上には放射能おばけがいる。「どんなに少ない放射線でも人体に影響がある」「放射性物質は人体に入ったら内部被曝として二度と出てこずにいつまでも細胞を破壊しつづける」「内部被曝は少ない量でもやがて白血病・がん・先天奇形を引き起こす」「東京の汚染は深刻である」ー誰しもこうした記事や警告を目にしたことがあろう。
科学的知識が十分でないままこの考えに取り憑かれたら、大抵のひとは低容量放射線および内部被曝に対する無限の恐怖を持ってしまうだろう。そしてしばしばこうした危険を煽る文章は、グロテスクな写真とともにばら撒かれる。
しかし少し冷静に考えれば、ほとんどの人に影響を与えないレベルで決められた法的上限値より小さな放射線被曝量で、こうした過酷な障害が多発することはおよそ考えにくい(特に、公衆の被曝量は、原発労働者のものよりも低く設定されていることに注意)。なぜなら、放射線による生体効果は閾値(しきいち)がないとはいっても、物理的作用である以上、基本的にはより少ない量ならば、多い量に比べればより安全であるはずだからだ。年齢や妊娠による感受性の違いは存在するが、それらを考慮しても、現状は過剰なまでに恐怖を煽るような状態ではない (1)。
ここで私は、内部被曝や低容量放射線の影響を否定しているのではない。これらは科学的に調査・検証されるべきものである。ところが一方で、こうして見えないものに対する恐怖を植え付け、ひとの感情に取り憑く力をもったこの思念は、「おばけ」としかいいようがない。しかも、このおばけは人を驚かすだけの良性なものではない。国民が正当に参加するべき政治プロセスから、恐怖の力で人々を追い出し、また人々のあいだの理性的な合意を妨害している。そうして、全く奇妙なことに、このおばけのせいで放射性物質による汚染問題がかえって混乱し、解決が遠のいている。だから私はこの思念を「放射能おばけ」と呼ぶ。
もちろん、外部・内部被曝とも、 十分注意する必要があるものであり、不必要に晒されることのないようすべきだ。そしてこのように薄く広く放射性物質が撒き散らされた以上は、この汚染による影響がないか、注意して観察するべきである。しかしそれは、あらゆる放射線を過剰に恐怖して被曝の無い「完璧に清潔な」世界だけを求めて他を拒否することとは違う。
目の前にある現実を否定することは、一種の心理的な逃避機能であろう。しかし問題が存在する以上、否定しても否定しても、問題はますます大きくなって自分たちの元に帰ってくる。福島原発事故は起きてしまった。 原子炉は破損してしまった。福島第一原発施設内は高度に汚染されてしまった。一部の周辺地域で避難や除染が必要な汚染が必要になるほど、放射性物質は撒き散らされてしまった。これらは、どんな政治的立場であっても、認めざるを得ない、否定することのできない事実である。
この現実を受け入れた時、われわれが考えるべきことは、現在の問題に対する最適解をいかにして見つけるかだということがようやく見えてくる。この大問題を誰も一人で解決できない以上、社会の幅広い人のあいだで合意を形成することが致命的に重要だ。しかも、いくら国中の人が集まって考えたとしても、予算・技術・人的資源にも限りや限界はあるのだから、どういう作業手順で、どのようにして問題を片付けるかを、数字に基づいた政治的交渉で理性的に決めなければならない。総論としては、無茶ではない程度に最善を尽くすということになるだろうが、詰めるべき各論は山のようにある。
この作業をするためには、社会における関係者がなるべく幅広く話し合いに参加して合意事項を作っていかなければならない。ところが実際にはみな自分の仕事があるわけだし、日本は大きな国なので、全員がそういう作業に直接参加することは現実的ではない。しかし幸い日本は民主主義だ。国民が選挙で代表を選んで議員を議会に送り、議員同士の話し合いでこの合意を間接的に行うことができる。また関係団体(企業・学会・NPO)などを通じてその話し合いに間接的に影響することもできよう。あるいは行政が積極的に国民の意見を求めたり、政治参加を求めることもあろう。
3.おばけが吹き込む毒
こうして人々が助け合って新しい公共の仕組みを作り上げるべき時に、おばけが社会に毒を吹き込んでいる。見えないものに対する恐怖をかきたてて、人をこうした政治的なプロセスから脱落する方へと追いやろうとしている。
数は少ないだろうが、「日本は終わった」と国の先行きに大きく悲観している人は、問題解決のための地道な作業には参加する気もおきないだろう。行政・科学者・医師らの言うことを全く信じられなくなった人もまた、話し合いに参加することができない。どちらも底にあるのは、深い絶望である。
また、被曝恐怖は、市井の人々と、 原発の技術者・労働者とのあいだに溝を作る。普通に人々が暮らしている場所での被曝(公衆被曝)に過剰なまでの恐怖を持っている人は、福島原発施設内で働く原発技術者・労働者の被曝問題に目を遣ることはできない。原発で(法定限度内でも公衆と比べて)相当な被曝をしながら働いている人の目には、微々たる公衆被曝に大騒ぎしている人々は自分たちの存在を無視しているように映ろう。原発技術者・労働者こそが、危機の前線で国民を救うべく働いているというのに。今後少なくとも30年かかると言われる原発の後処理のため、原発労働者は相当な延べ人数になることが予想されるというのに、まるでこの問題はなかったかのような静けさである。
逆にこうした恐怖を感じないために、放射線問題がはじめから存在しないことにしてしまった人も多いかもしれない。これは恐怖にさらされた人間の正常な反応であろう。しかし、こうして自己防衛機能で一時的にしのいでも、その発端が理解ではなく恐怖にあったならば、現実の中で実際に放射線問題が解決されない限り、やがて問題は表面化する。また、こうした人々は、目をつむり耳をふさぐことで、やはり正常な政治プロセスから脱落する。
こうして低容量放射線による障害について、科学的証拠に基づかずに、科学的検証不能な方向で危険を叫ぶことは、理性的な合意を妨げる(注:これがおばけの見分け方である)。実のところ、これは目新しいことではない。2001年にイギリスの内部放射線被曝リスク調査委員会は、全く同じ問題で紛糾し、停滞した。次項ではこのイギリスの経験に学んでみたい。
(放射能恐怖という民主政治の毒 (2)英国の経験に続く)
文献・注釈
1. 一般向けの放射線知識の入門本としては次の資料を勧めたい。田崎 晴明やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識
小野昌弘
イギリス在住の免疫学者・医師
現職ユニバーシティカレッジロンドン上席主任研究員。専門は、システム免疫学・ゲノム科学・多次元解析。関心領域は、医学研究の政治・社会的側面、ピアノ。京大医学部卒業後、皮膚科研修、京大・阪大助教を経て、2009年より同大学へ移籍。札幌市生まれ。
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放射能恐怖という民主政治の毒 (2)英国の経験
(放射能恐怖という民主政治の毒 (1)放射線と政治から続き)
3.おばけの正体
放射能おばけは医学・科学用語をちりばめた科学の白衣をまとっているが、中身は科学とは無縁のものだ。なぜなら、科学に必須の要素が抜け落ちているのだから。
放射線の効果であれ、何であれ、科学的方法で精密に測定するために、科学者はまず人間の力量の限界を悟らなければならない。どんな測定にもばらつき(誤差)があり、完璧に正確に現象を「見る」ことはできない。だから、データを集めて、統計的に分析して、何が科学的に正しいことかを推定する。これは一見まどろっこしく、科学が複雑に見えるゆえんの一つであるが、幸いなことに、これまでの長い科学の歴史のおかげで、今の時代にはどういう統計的手法が信頼するに足るかについての科学者間での合意がある。
実際、統計の軽視・悪用は、科学論文の意味を失わせるだけではなく、ときに社会に大きな悪影響を与える。英国の権威ある科学学会である王立協会は2006年に「科学と公衆の利益」という小冊子を発行した。この冊子は、一般市民に科学の知見を伝える際に重要な点として、科学的正確さ・誠実さ・信頼性の3要素に加えて、統計学的な限界を明示することが重要であるとした (2)。これは実のところ、英国が苦い歴史を経験したことにより得た知恵である。
科学論文における誤謬・詭弁が社会を混乱させたことがあるのは日本だけではない。1998年に、英国のクリス・バスビー氏が率いる反核団体 (3)「緑の監査(Green Audit)」が、セラフィールドにおける放射線汚染事故のためにウェールズで低線量の放射線汚染による白血病の増加がみられたと主張した。ウェールズのメディアは、バスビー氏らの報告に批判的ではなく、むしろ氏の調査に協力した。そして、これらの報告は科学雑誌の査読システムを経ることなくメディアを通じてウェールズに広められてしまった (4)。
このときウェールズの国民健康サービス(NHS, 日本の公立病院に相当)の担当部門が「緑の監査」の報告した報告を分析し、データを標準的な統計学的手法で解析しなおして、バスビー氏らの分析には致命的な統計学上の誤りがあることが明らかにした (4, 5)。実のところバスビー氏らは統計的手法を無視して、自説に都合の良いデータを集めて解析・発表していたのである。
これまで産業界との利益衝突(Conflicts of interest; 今風に言えば、ポジショントークをしうる立場にいること)が科学調査でしばしば批判されてきたが、バスビー氏の問題は、産業界と無縁の研究者にもまた、それ以外の利益衝突や確認バイアス(研究前に持っていた自分の仮説に都合の良いデータだけ拾い上げる誤った傾向)の問題が存在しえることを明瞭に示したのである。
私はここで、福島原発による放射性物質汚染問題が存在しないと言っているのではない。福島原発は爆発して放射性物資を撒き散らしたし、いまも汚染水は増え続けている。こうして人間の手からこぼれおちてしまった放射性物質はたしかに厄介なものだ。しかし、これを「放射能おばけ」にしてはいけない。科学的知見の光をあてることなく、どんなに薄まった放射性物質のこともゾンビか幽霊のように恐れていては、むしろ本当の問題が隠れてしまう。
確かに、福島で小児の甲状腺がんの症例が発見されている。小児の甲状腺がんは稀とはいえ、放射線と無関係であったとしても発生しえるものだ。だから福島で小児甲状腺がんが増えているのかどうかを明らかにするためには、統計学的な分析がどうしても必要である。いま福島で行われているスクリーニング検査の精度・ばらつきといった特性を考慮したうえで、発見された症例の数・内容が、放射線汚染がない状況と比較して増加したのかどうかを、科学的厳密さをもって調べる必要がある。
科学的手続きは、科学者でない人の目にはややをもすれば遊んでいるようにしかみえないほど鈍いものである。しかし調査は今の住民のためでもあるし、未来のためでもある。そしてやるからには厳密に科学的に行わなければ意味のないことである。科学的に厳密でないなら、最初から何もやらないほうがいい。
住民側がこの調査手続きにもしなんらかの疑念があるとしたら、行政に情報公開を求めることが第一であろう。行政側は市民を積極的に行政の調査部門の委員会などに取り入れるべきである。役人が、市民が入ることで恐れているのはやはり「放射能おばけ」なのではないか。 ここで住民・行政双方が、話し合いを袋小路に追い込んでしまう「放射能おばけ」を意識的に取り除きながら、対話を継続して深めていけばならば、やがて双方の疑念は消えるだろう。
おそらくいま私たちは、民主主義の断崖を歩いている。ここで、暗闇の幻に恐れおののいて (6)、断崖から足を踏み外すという愚を犯さないようにしなければならない。
次回は、現代の日本でどうして「おばけ」が白昼堂々歩き回るようになったのか、その背景を考えたい。
「放射能恐怖という民主政治の毒(3)権威の失墜とその責任」に続く
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