Quantcast
Channel: 午後のアダージォ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 10101

ユダヤ人 仏脱出急増 高まる反感 暴力やテロ標的 / …アウシュビッツ「死の収容所」、解放から70年…

$
0
0

ユダヤ人 仏脱出急増 高まる反感 暴力やテロ標的
 中日新聞 2015年1月27日 朝刊
 【パリ=渡辺泰之】フランスのユダヤ人が、イスラエルへ脱出する動きを加速させている。イスラエルとパレスチナとの激しい衝突を受けた反ユダヤ主義の高まりから、昨年、イスラエルへの移住者が急増。さらに今月のイスラム過激派による仏連続テロが、脱出に拍車をかけている。
 今月九日にパリで発生したユダヤ系スーパー立てこもり事件のアメディ・クリバリ容疑者(32)は、シリアでの日本人人質事件を起こしたとみられるイスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」への傾倒を示す証拠が見つかっている。
 事件の現場は今も封鎖され、周辺には無数の花が供えられている。「私たちはユダヤ人だという理由で殺された。ユダヤ人だから殺されるという意識を植え付けられた。とても恐ろしい」
 イスラエルへの移住などを手掛けるユダヤ機関の支部長、ダニエル・ベナイムさん(41)はそう憂えた。事件後、移住をめぐる問い合わせが増加。通常は週に百~百五十件のところ、事件を契機に二千件以上に跳ね上がったという。
 仏政府はユダヤ関連施設への新たな襲撃を警戒。事件後、全国の学校や教会に兵士ら計四千七百人を配備した。ベナイムさんは「子どもの命が危険にさらされているとは残酷なことだ」と声を落とす。
 フランス国内のユダヤ人は欧州最多の五十万~六十万人。ユダヤ社会はイスラエル、米国に次ぐ規模だ。だが、昨年はイスラエルへの移住者が激増。二〇一三年に約三千三百人だったのが昨年は七千人以上に達した。今年はさらに増えると予測されている。
 英BBC放送によると、昨年七、八両月のイスラエルとパレスチナ武装勢力との戦闘で、パレスチナ側にはイスラエルより二桁多い二千人以上の死者が出た。こうした紛争の激化がフランス国内の反ユダヤ主義の高まりにも影響したとみられる。
 ユダヤ人団体によると、昨年一~七月のフランスのユダヤ人に対する暴力や暴言、破壊行為などは前年同期比で90%増加した。一二年には仏南部で学校が襲われ、生徒らが死亡。昨年五月には仏国籍の男がベルギーのユダヤ博物館で四人を殺害する事件も起きた。
 危機感を募らせるバルス首相は今月十三日の国会演説で「反ユダヤ主義の復活は民主主義の危機だ。ユダヤ人のいないフランスはフランスではない」と強い口調で訴えた。
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します
.............
〈来栖の独白〉
 テロ組織ながら「イスラム国」の台頭は、欧米キリスト教世界支配から後発宗教イスラム教世界への移行---激変--を感じさせる。
 が、上記事のような状況は、皮肉にも「歴史は繰り返す」(70年前のホロコースト)ことをも思い起こさせる。息苦しい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
アウシュビッツ生存者が語る「死の収容所」、解放から70年
 2015年1月26日 17時3分 AFPBB News 

         

 ポーランドのクラコフで取材を受ける、ナチス・ドイツのアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所から生還したユゼフ・パチンスキさん(95)が見せる左腕に刻まれた囚人番号の入れ墨(2015年1月5日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News
 【AFP=時事】張り巡らされた鉄条網で感電死した女性の耳をつんざくような悲鳴、ガス室へ送られた子どもたち、絶え間ない死の恐怖──アウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所の生存者たちは、史上最も忌まわしい「死のキャンプ」での生活を驚くほど鮮明に語る。
 生存者たちの大半は今や90代に達しているが、何人かは、27日に開催されるアウシュビッツ解放70年の記念式典に出席できる。現在のポーランド南部にあったナチス・ドイツ(Nazi)最大の絶滅収容所は、1945年1月27日にソビエト連合の赤軍によって解放された。
「感電して死んでいく人の叫び声なんて、想像できないでしょう」。生存者の1人、ソフィア・ポスムイシ(Zofia Posmysz)さん(91)は、共に捕らわれていた人々が自ら死を選び、収容所を取り囲んでいた電流が流れる鉄条網に身を投げ出していった様子を語った。
 アウシュビッツと独北部ラーベンスブリュック(Ravensbruck )の強制収容所で3年間を過ごしたポスムイシさんには、今も当時の記憶が付きまとう。「鉄条網に引っかかった遺体を幾つも見た。夜になると、バラックから若い女性たちが出てきて、鉄条網に身を投げた。恐ろしい光景だった」
「つんざくような叫び声で目を覚ましたものです」と話すポスムイシさんの左腕には、今も囚人番号「7566」の入れ墨が残っている。
■囚人が行っていた収容所長の散髪
 囚人番号「121」の入れ墨を持つユゼフ・パチンスキ(Jozef Paczynski)さん(95)は、目を閉じれば、アウシュビッツの悪名高い所長、ルドルフ・ヘス(Rudolf Hoess)のひげそりと散髪の儀式をありありと思い出すという。
 パチンスキさんは1940年6月に初めてナチスがアウシュビッツへ送り込んだ囚人700人のうちの1人だった。収容所へ到着するとまもなく、理髪班に配属された。「(収容所には)ワルシャワ(Warsaw)から来た理髪師たちが8~10人ほどいて、ヘスは私のような見習いに命じて自分の髪を切らせた」
「私の手は震えた。しかし、命令は命令だ。仕事をしなければならなかった」と、パチンスキさんはAFPに語った。「カット方法は簡単だった。一般的なドイツ風の髪型だ。かみそりで首筋をそらなければいけなかったし、もみあげにはバリカンを使った。私はいい道具を持っていた。同僚がいつも刃を研いでおいてくれた」
 かみそりをヘスの喉へ突きつけようと思ったことはなかったのか、という質問をパチンスキさんは何度も浴びるという。「結果は分かっていたし、私は狂ってはいなかった。もし私が彼の喉を切り裂けば、すぐさま収容所の囚人の半分が処刑されただろう」
■「集団で歩くときは常に真ん中に」
 ポスムイシさんもパチンスキさんも、19歳で収容所へ送られた。2人が生還できたのは、まだ若く、そして収容所で生き延びる方法を素早く学んだからだった。
「生き延びる方法を覚えた。集団で歩くときには、最前列や両端にならないよう気を付けるのが肝心だった。常に集団の真ん中の方にいるようにして、犬や看守、囚人を殴って来るカポ(監視役の囚人)たちから離れていなければならない」「何としてでも、懲罰を受けるような目に遭わないようにすることが基本だった」(ポスムイシさん)
 囚人番号「118」のカジミエシュ・アルビン(Kazimierz Albin)さん(92)が生き延びることができたのは、1942年2月27日に他の囚人6人とともに脱走したからだ。「星のきれいな夜で、外気温は零下8~10度だった」と追想する。「みんなで服を脱いで、ソラ(Sola)川を半分ほど渡ったところでサイレンが聞こえた。私たちの周りには氷が浮いていた」。逃げ切ったアルビンさんは、ポーランドのレジスタンスに合流した。
 脱出した例は、まれだ。収容所跡地にあるアウシュビッツ・ビルケナウ博物館(Auschwitz-Birkenau Museum)によれば、アウシュビッツへ送られた約130万人のうち、脱出を試みたのは女性45人を含む802人だけで、成功したのはわずか144人。327人が捕まり、残る331人の運命は分からない。
「あの殺人者たちを忘れたり、許したりすることができるだろうか。真っすぐガス室へ送られた女性や子どもたちのことを忘れることなど、絶対にできない」。こう述べたパチンスキさんは、だが、次のように付け加えた。「終わりのない戦争を続けたって、死者は帰ってこない──和解がなされ、平和があり、境界が消えたことを嬉しく思う」 【翻訳編集】AFPBB News  
 ◎上記事の著作権は[livedoor・NEWS]に帰属します
..........................


Viewing all articles
Browse latest Browse all 10101

Trending Articles