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【子・孫が語る昭和の首相】 岸信夫氏が岸信介元首相を語る「安保改定は憲法改正の前段階」

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 産経ニュース 2015.2.15 17:30更新
【子・孫が語る昭和の首相】岸信夫氏が岸信介元首相を語る 「安保改定は憲法改正の前段階」「批判に参ることはなかった」
■素顔とテレビにはギャップが
--祖父としての信介はどんな人だったか
 「すごく優しいおじいさんだった。僕は祖父を『おじいちゃま』、祖父は僕を『信夫君』と呼んでいたかな。僕が中学生ぐらいのときに祖父が(静岡県の)御殿場に引っ越すまで、(東京都渋谷区の)南平台の自宅で一緒に暮らした。和服を着てくつろいでいる姿が印象に残っている」
 「祖父に関する記憶があるのは、僕が幼稚園児ぐらいだった頃からかな。絵本を読んでもらったのを鮮明に覚えている。アメリカで干魃(かんばつ)が起きて畑で何もできなくなるんだけど、ヒーローみたいなカウボーイが投げ縄で捕まえた雲を引っ張ってきて雨を降らすという、他愛のない話だった」
--政治家としての信介を垣間見たことは
 「朝出かけていくときは非常にりりしかった。周りに記者とか議員とかいろんな人がいて、心を決めて家を出ていくような感じだった。真剣勝負をしに行くということだったのかもしれない」
 「祖父が首相だった頃は僕は1歳だから、当時の記憶はほとんどない。政治活動をしている姿を直接見たこともあまりなく、テレビで見たぐらい。テレビでの祖父はギャップがあって、優しさは全然感じなかった。客観的に見たら嫌われるだろうな、と思ったこともある」
--政治家としての信介を意識し始めたのは
 「多分、高校生の頃。社会科などで日本の政治一般について学ぶうちに意識するようになった。学校の先生の中には祖父に批判的な人もいたが、私自身はあまり気にしなかった。日米安全保障条約の改定過程に関して、ちょっと皮肉っぽく言われたんだったかな」
--信介を祖父に持つことを重荷に感じたり苦労したりしたことはあるか
 「祖父は『昭和の妖怪』といわれた。自分のおじいさんを『妖怪』と呼ばれてよく思う人はいないと思うが、学生時代からそう言われてきたから、僕自身は政治家になるまでに消化した部分があるかもしれない。受け止めて、場合によってはそのまま流せるというか」
 「身内を攻撃されたら誰だっていい思いはしないし、当然反発もするが、そういうことに一つ一つ反応していても政治家としては何も前に進めない。『そういう見方もあるんだな』と受け止めて、『じゃあ、そう見られないように、そうならないようにするにはどうしたらいいか』と考えるきっかけにもなった」
--信介は、農商務省(後に商工省)時代は「革新官僚」といわれ、満州で約3年過ごした
 「官僚として、「満州開発五カ年計画」を策定するなど満州国の建国に携わった。海の向こうで新しい国を作るという壮大な夢というか、ロマンを求めていたのかな。満州での経験は、その後、政治家として戦後復興を含む日本の国造りをする上で参考にしたのではないか」
 「しかし、満州では面白さと同時に限界も感じたのだと思う。それは官僚としての限界かもしれないし、計画経済の限界かもしれない。自分の思いを成し遂げていくためにはどうしたらいいかを考えて政治家として歩み始めたのだと思う」
--政治家と官僚はそれぞれの役割が異なると
 「政治家には、より現実的に結果が求められる。日米安保条約改定のために、ある意味ではその他の政治課題を利用した部分もあり無視した部分もあった。そうして成し遂げていったと思う」
--対米英戦開戦時に東条英機内閣で商工相だった信介は昭和20年9月、故郷の山口から東京に連行され、12月に巣鴨拘置所に収容された
 「巣鴨に入るときは死を覚悟していたと思うが、釈放されてずいぶん早く政界に復帰した。収容中に実質的に政治活動を始め、日本再建連盟を立ち上げるなど、すぐに新しい国造りに向けて気持ちを前向きに切り替えていったようだ。口で言うのは易しいことだが、現実的には難しいと思う」
■安保騒動を乗り切った強い精神
--信介は30年、保守政党の自由党と日本民主党を合同し自由民主党を結成した。戦前と戦後で価値観が大きく変わり、戦後は数の力が重要になると先見していたようだが
 「戦後入ってきた民主主義自体を非常にドライにとらえていた部分があるのだと思う。単に多数の意見が通るというだけでなく、やはり『こうすべきだ』というのが最初にあって、それを支持してくれる人が多数いれば、政治の場面では現実的にその考えが通ることになる。そこは冷徹に考えていたと思う」
 「(35年の)日米安保条約の改定も、表向きには反対運動が起きたけれど、民主主義のもとで多数が通った。成立後も相当な批判が続いたが、祖父は『50年後に評価される』と言って、自分がやったことに責任を持っていた。なかなか難しいことだと思う」
--信介は30年、重光葵外相の渡米に同行し、ダレス国務長官との会談に同席した際、米側から日本には日米対等の条約は無理だと一蹴されたのを目の当たりにしている
 「そのときのショックはすごく大きかっただろう。戦後それなりに復興してきて、『自分たちは力を付けてきたんだ』という日本の自負が打ち砕かれた。だからこそ、安保条約改定の必要性を痛感し、この経験をバネに大きな力にしていったのだと思う」
--首相在職中はエネルギーの大半を安保条約改定に費やした
 「最終的な目的は憲法改正だったと思うが、そこに至る前に安保条約を改定しないといかんということだったのだと思う。そのために何をすべきかを考えていったのかもしれない」
 「世の中はあれだけ批判が多かった。政策に対するものから本人への誹謗(ひぼう)中傷まで大変な批判があったけれども、精神的に耐え抜いていった。新安保条約が調印、承認されたのは35年であり、僕の記憶に残っているのは多分40年以降になるが、祖父を見ていて精神的にまいっているような姿を見たことは自宅でも一度もなかった」
--どうやって精神のバランスを保っていたのか
 「家族といえども全部知っているわけではないから何とも言えないが、精神的な強さは巣鴨の中で鍛えられたと思う。戦前に満州で過ごした経験や、東条内閣での経験もあるのではないか」
--新安保条約の承認をめぐる国会審議は社会党が抵抗して紛糾した。衆院での採決の日はデモ隊が国会内に入ってきて大混乱し、けが人も出ている
 「最初はそこまでの事態になることを想定していなかったと思う。国会のことについては何一つ動じなかったのだろうが、民間の方が結果的に傷付いてしまったことにはショックを受けただろう。特に樺美智子さんが亡くなったことについては相当心を痛めていた」
--後日談は
 「デモに参加していた人たちが騒動後、祖父の事務所を訪ねてくることがあったそうだ。祖父は彼らを受け入れていろんな話をし、友達になったらしい。デモ隊には安保改定が本当に何を意味するかを分かって参加していた人は多くなく、ファッションのような感覚で参加していた人もいた。それに気付いた人たちが後に自分のところに来て話をするのを、祖父は楽しそうに聞いていたそうだ」
--その余裕はどこから来ていたのか
 「安保条約改定については何一つ後悔がなく、正しいことをしたという自信や誇りがあったのだと思う。だから何を言われても全く揺らがず、後から反対して間違ったという人が出てきても受け入れることができたのではないか。そういうエピソードは複数の人から聞いている」
--時間をかければ理解してもらえると信じていた
 「安保条約の改定については、おそらく途中まではそこまでの混乱になるとは思っていなかったと思う。それをあえて、左の皆さんが運動化してしまい、結果的に大混乱になった」
 「状況が悪化した、させられた中でも、祖父は自分がやろうとしていることに対する自信や正当性が揺らぐことはなかった。だから、目的を達成するために融和的な手段で進もうとしていたけれども、それがだめなら強硬にでもやるべきだということになったのだと思う。それによって成し遂げられることの方が大きいからそれをやるという手段になったのだろう」
--それによって生じたしこりを解消していくのは時間がかかる
 「政治生命がある間、あるいは自分が生きている間に、解消できないかもしれない。それで祖父は『改定がきちんと評価されるには50年かかる』と言ったのだろう。必ずおのずと理解されると思っていたのだと思う。それを解消するために自分が積極的に説明するというより、国民がそれになじんでいくには時間がかかるということだろう」
 「集団的自衛権もそうだ。いいか悪いかを議論をしている最中で、現実には何も起こっていないときは判断しにくい。でも時間がたてば、大事には至らないにしてもいろんな事態があって『これがあってよかった』と実感できるときがあると思う」
--憲法改正にかける思いを晩年聞いたことはあったか
 「祖父は自主憲法制定国民会議の会長を長く務め、首相時代になし得なかったことをライフワークとして取り組んでいた。そういう意味で、直接言葉で聞くというより、行動で見ていたというほうがいいかもしれない」
■祖父の業績を意識
--ところで、実父は信介の娘婿にあたる安倍晋太郎元外相。自身が岸家の養子であることを知らずに育ったと聞いたが
 「高校3年のとき、大学進学の手続きのために戸籍を取り寄せたら『養子』とあってびっくりした。すごくショックを受けた」
 「岸の両親には子供がいなかったので、晋太郎の三男として生まれた僕は初めから岸家に入ることになっていたそうだ。僕の名前は祖父が付けてくれた。信夫の『信』は岸家の後を継ぐための字だと、命名書に書いてあった」
--その後の家族関係は
 「養子と知ってからしばらく悩んだが、結局、岸の両親には何も言わないと決めた。言うと『なぜ教えてくれなかったの。僕はあなたがたの子供ではないの』と責めることになる。そしたら育ててくれた両親はものすごくつらいはずだ。だから今後も岸の両親の子供としていようと思った」
 「僕に養子だと言うべきか言わないべきかは、岸の両親の悩み事の一つだったようだ。僕がもっと以前から知っているだろうと思っていたふしはあるけれど、本当はどうだったか知らないし、きくつもりもない」
 「住友商事に入社したときは祖父も喜んでくれた。休日はときどき祖父のいる御殿場に行って、父母らを交えて一緒に食事をしたりした。そのときには祖母は亡くなっていたから寂しかっただろうし、僕らが一緒にいることで祖父が喜んでくれるのはうれしかった。私も非常に心が和んだ」
--自身も信介と同じ政治家となった。安保条約改定と保守合同という信介の功績は、今の政治の屋台骨になっている
 「そういった一つ一つの業績は自分の祖父がやったことであるということは常に意識している。ただ、55年体制とか安保とか、今の政治のシステム自体を身内がつくって、その上に今あるという感覚とはちょっと違うかもしれない。より客観的な立場で政治をやっていなきゃいけないとも思うし、あまりそこは考えたことはなかった」
--自身が信介と似ていると感じる点はあるか
 「似ている部分があるかは分からないが、祖父から政治家のあるべき姿は感じた。そこはまねをしたいというか、追いかけていきたい。安全保障でも社会保障でも経済でもどんな分野の課題でもいいが、そういう気持ちを持っていなければ政治家は務まらないんだろうなと。目標を持って信念を貫くことは、政治家にとって一番大切だ」
 「民主主義のあり方も40~50年前と今とでは少し違うと思う。今は説明責任を果たすことが重視されるが、当時は結果責任がより重視されたのではないか。そういう意味では、まだ民主主義が成熟していなかったのかもしれない」
 「今はリアルタイムに説明責任を果たすよう求められていて、理解を得ながらやっていかなくてはいけない。だから前進するには時間がかかる。でも、民主主義はきっとそういうものなんだろう」
--政治家になる前に信介は他界したが、心に残っている助言などはあるか
 「いろんな節目に書を書いてくれ、その言葉の意味を教えられた。それはすごく印象に残っているし、今でも大切にしている。一つは私が就職したときに贈られたもので、『至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり』と書かれている。これは孟子の言葉だ。」
 「成人したときには『士はもって弘毅ならざるべからず/任重くして道遠し/仁もって己が任となす/また重からずや/死して後やむ/また遠からずや』という曾子の言葉を書いてくれた。『士』は武士の士だが、『自らの仕事に責任を持って国のために働いている人』というイメージらしい。士は広く強い心を持っていなければいけない。責任は非常に重くて、死後でなければ分からないぐらい遠い道だという意味だと教えられた。この書は私にとっては宝だ」
■「盤石」なときこそ油断せず
--兄の安倍首相について伺いたいが、安倍首相を見て政治家になろうとは…
 「ないですね。政治家としての兄の姿はほとんど見ていない。祖父の影響の方が大きかったといえる」
--小さい頃は安倍首相とよく遊んだのか
 「首相とその上に2年違いの兄もいて、よく3人で遊んだ。うちが渋谷で、向こうが世田谷と、距離もそれほどではなかったので、小さいころから月に1、2回は行き来していた。政治家の家というのは、子供の居場所があまりなかったわけだ。朝から晩まで、新聞記者さんや支援者の方など、家の人じゃない人が出入りするから、子供は放っておかれたような環境だった。本当に構っていられないときは『そっちの家に遊びに行ってらっしゃい』ってな感じだった」
--実の兄とは思わずに…
 「兄弟のように付き合っていたけどね。実の兄弟と知ると、しばらくは戸惑いがあり、かえって付き合いづらくなってしまった時期もあった」
--信介は回顧録で、昭和35年の安保改定をスムーズに実現させるため米国で調印した直後に衆院を解散すればよかったと後悔している。衆院選で国民の信を得られる自信があったので、その後の国会審議をスムーズに進められた、という。安倍首相が昨年末、衆院選を断行したのも、信介の「後悔」も意識したのでは
 「もしかしたらそうかもしれない。去年は内閣改造後に2人の閣僚が辞任した。それでも、世論調査での内閣支持率はあんまり落ちていなかったんじゃないかな。むしろ平成24年の衆院選のときよりも良い数字が出ていたのではないか」
 「さらに言えば、衆院解散を後送りすると、タイミングのオプションが狭まっていく。今やればかなりの確率で勝てるという部分がベースにあったと思う。追い詰められての解散は与党側としては決していい結果は出ないから、ある程度手の内に持っている段階で、カードを持っている段階で選挙をやっていくと。そこで勝てれば、信任を得られて、いろんなやりたい政策をより強く進められる。もしからしたら、祖父の反省の弁を参考にしたかもしれない」
--元日に安倍首相や実の母親(洋子さん)らと会食したが
 「ちょうど2人目の子供が春に大学を卒業し、就職するので、その話題が中心だった。全く政治的なことは…(笑)。昨年末の衆院選の話は多少したかもしれないが」
--安倍政権は、衆院選で大勝して盤石になったといわれる。安倍政権はどれぐらい続くと思うか
 「本当に油断をすると些細(ささい)なことから崩壊した例はある。気をつけて油断のないような政権運営をしなきゃいけないと思う。特に自民党の場合は、大きくなったときに危ない状況が生まれることがある。兄も第1次政権で経験したかもしれないが、官邸に入るとどうしても党のことが分かりにくくなるから」
--信介は政権運営で弟の佐藤栄作元首相を頼っていた。安倍政権でも弟が兄を手助けする場面が出てくるのでは
 「どうだろうか(笑)。頼りになるように、こっちもしていかなきゃいけないかもしれないが…」
(政治部 豊田真由美)

 ◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します
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祖父(岸信介元首相)が「基本方針」を布石に安保改定まで突き進んだように、集団的自衛権や憲法改正に 2013-12-19 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
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◇ 憲法改正で「日本」を取り戻せ 誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を 『Voice』4月号 2013-03-24 | 本/演劇…など 
  『Voice』4月号2013/3/9(毎月1回10日発行)

      

  憲法改正で「強い日本」を取り戻せ いまこそ誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を開けるときだ
 対談「渡部昇一(わたなべしょういち・上智大学名誉教授)×百田尚樹(ひゃくたなおき・作家)」
〈抜粋〉
p45~
■サイレントマジョリティの声を聞けるか
百田 同じように、戦後長らく左翼的な勢力が跋扈しているのが、新聞やテレビなどメディアの世界、そして教育界です。(略)
 まずメディアについていえば、第1次安倍内閣は『朝日新聞』をはじめとする新聞やテレビに過剰なまでにバッシングされ、短い期間で残した実績が国民に十分に伝わらないまま、退陣に追い込まれてしまいましたね。
渡部 ベストセラーになった『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)で小川栄太郎さんが書いているのですが、昨年11月に亡くなった政治評論家の三宅久之さんは、かつて朝日新聞社の主筆だった若宮啓文氏に「どうして『朝日』はそこまで安倍さんを叩くんだ?」と尋ねたところ、「社是だからだ」といわれたそうです。
百田 ただ、いまでは「安倍たたき」をするか否か、メディアも少し慎重になっているようにもみえます。リベラルな論調を出すことで読者が減るのではないか、と懸念しているのでしょう。
渡部 1月にはアメリカの『ニューヨーク・タイムズ』紙が安倍さんを「右翼の民族主義者だ」と強く批判しました。『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局は、朝日新聞社と同じビルにあります。これは邪推かもしれませんが、『朝日新聞』の記者が、自分たちの発言力が落ちていることに危機感を抱き、『ニューヨーク・タイムズ』の記者をけしかけて、社論を書かせたと解釈することもできます。
百田 ここ数年でインターネットが発達し、とくに若い世代を中心に「マスコミの情報が必ずしも正しいわけではない」という意識が芽生え始めたのも大きいですね。
p46~
渡部 2012年から現在にかけては、脱原発運動の旗振り役になり、いかにも国民全体が「脱原発」の意見をもっているかのような記事を掲載した。しかし先の総選挙では、「日本未来の党」をはじめとする、脱原発政党は軒並み議席を減らしています。マスコミのいうことと、「サイレントマジョリティ」の意見は違うということが露呈しました。
百田 60年安保のときと状況はよく似ています。当時も日本全国が「安保反対」のような気運でしたが、自然成立とほぼ同時に岸内閣が倒れ、その数か月後に行われた総選挙で自民党が圧勝した。メディアの声はあくまでも「大きい声」にすぎず、それが大多数の声を代表しているとは限らないということです。
(略)
百田 岸信介はいみじくも、安保デモを前に「私には国民の声なき声が聞こえる」と発言しました。それは正しかったんです。いくら国会を群集が取り囲んでも、私の両親のような大多数の庶民は、そのような問題に何ら関わりはありませんから。サイレントマジョリティの声を聞くというのは、政治家の大きな資質の1つだと思います。 *強調(太字・着色)は来栖 
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『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘著 第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏 2013-11-30 | 本/演劇…など 
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孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』  第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎 2012-10-28 | 本/演劇…など 
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