Quantcast
Channel: 午後のアダージォ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 10100

秋葉原殺傷事件 加藤智大被告 判決公判 24日午後1時半から

$
0
0
加藤被告に判決へ=秋葉原無差別殺傷、求刑死刑―東京地裁
時事通信 3月24日(木)6時1分配信
 東京・秋葉原の無差別殺傷事件で7人を殺害し、10人を負傷させたとして殺人罪などに問われた元派遣社員加藤智大被告(28)の判決が24日、東京地裁(村山浩昭裁判長)である。
 検察側は「史上まれに見る凶悪犯罪」として死刑を求刑。弁護側は刑事責任能力を争うとともに、死刑回避を訴えていた。
 検察側は鑑定結果を基に、完全責任能力があったのは明らかだと主張。自分を無視したり、まともに扱わなかったりした者に存在を認めさせ、復讐(ふくしゅう)することが事件の動機だったと訴えていた。
 弁護側は、加藤被告には事件当時の記憶がなく、心神耗弱などの疑いがあるとした。動機はインターネット掲示板での嫌がらせをやめてほしいと伝えるためで、背景には母親の不適切な養育があったと主張した。
==========================
秋葉原殺傷事件 亡くなられた方のご冥福と、傷を負った方の一日も早い回復を、心より祈って2010-01-28 | 秋葉原無差別殺傷事件
 「週刊現代平成20年6月28日号」より抜粋
 秋葉原通り魔 弟の告白
 狂気の兄と歪んだ母の愛
 まずは、今回私が話をすることに決めた理由から説明させてください。先日、私の父が自宅の前で、事件に関して報道陣を前に詫びる姿を、テレビで見ました。ワイドショーの出演者の中には、父の謝罪会見の様子を見て、機械的すぎる」「用意された文章を覚えて読んでいるようだ」などと言う人もいました。
 これだけ社会に大きな影響を与えた事件です。家族が犯した過ちについて話すことは、私たち自身を傷つける結果になることはわかっています。しかし、被害者・遺族の方々に与えてしまった、想像を絶する苦痛、また国民の皆さんに与えた不安を取り除くためには、謝罪だけではなく、事件に関して何らかの説明をすることが必要だと思いました。"犯人"と同じ屋根の下で過ごした影響を説明することが、今回の凶行を起こした原因を紐解くきっかけになればと思い、この手記を発表することにいたしました。
 父の電話で兄の犯行を知る
 その日、私は勤務先で仕事をしていました。夕方頃、勤務先のテレビから秋葉原で大量の人が殺されたというニュースが流れてきました。そのときは、他人事だと思っていたのですが、勤務が終わり、夜の11時に帰宅すると、父から、
「智大が重大な事件を起こして、お前のところにも大きな影響が来る。詳しいことは後で話すから、とりあえず、そこを出なさい」
 と電話がありました。私は何のことかわからなかったのですが、とりあえず家を出なければ、と思い、しばらく身を寄せておけないか、と知人に電話をすると、
「お前の兄貴って加藤智大って名前?秋葉原事件の犯人だぞ」
 と言われました。本当にびっくりしたのと同時に、アイツなんてことをやってしまったんだ!と思いました。そのとき、なにより真っ先に心配したのは勤務先のことです。次に心配したのが母のことでした。
 その夜のうちに勤務先の社長さんに連絡をして退職させていただきました。大切な職場だったので翌日からの仕事の引き継ぎをお願いしていると、社長さんは、
「こんな時でも仕事のことを考えるなんて。なんで君みたいなやつが・・・・・・」
 と涙声で答えました。
 翌日以降、報道陣がうちにかけつけ、アパートに住むこともできなくなったので引っ越しをし、現在は、知人のところにお世話になっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(編集部)平穏な暮らしを襲った悲劇。彼が平静を取り戻すには多くの時間が必要だが、時がたつにつれ少しずつ、兄への憎しみと怒りがあふれてきたという。彼は兄のことを「犯人」「アレ」と呼ぶ。このことからも、兄に対してもつ深い憎悪の念を窺い知ることができる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 犯人は私の兄です。しかし、アレが高校を卒業してからの7年間、私とは完全に音信不通でした。何年か前の正月に、実家にいるアレの姿を見かけましたが、話はしていません。そのときが、アレの姿を見た最後となりました。
 私の両親が厳しい教育方針をとっていたと、よく報じられていますよね。しかし、私が小学生のころは、ごく普通の幸せな家族だったんです。夏休みには毎年、家族旅行に出かけ、食事の時も笑って話しあったりしていました。兄との関係もその頃までは良好で、、「SDガンダム」のプラモデルを作って交換したり、二人で「ホワイトベース(ガンダムに登場する戦艦)」のプラモデルを組み立てたりしていました。ただ、こうした関係が続いたのは私が小学校3年の頃までです。それ以降は、まともに話をしたことがありません。
 書いては捨てて「先生ウケ」を
 家庭の中が少しずつ冷えていったのは、私が小学校4年生頃からです。それ以来、一年経つごとに、家族の仲は悪くなって行きました。家には、父・母・犯人・私と、個人ごとに部屋があり、別々に寝ていました。母は1階、残りの3人は2階です。家族が顔を合わせるのは食事の時だけ。母が食事を告げると3人が部屋から降りてきて無言で食卓を囲み、また各々の部屋に帰る。そんな毎日です。当時、子供だったこともあって、なぜ関係が冷えていったのかその原因はわかりませんが、家族のなにかが変わっていく様子は、感じとることができました。
 報道では父の厳しさが強調され、スパルタだったと言われていますが、それは間違いです。たしかに手を上げたこともありましたが、それは父親が男の子にする普通のしつけの類でした。父はむしろ口で注意するくらいで、子供に干渉するタイプではなかった。母の厳しさのほうが、強く記憶に残っています。今にして思えば私たちの将来のことを心配してのことだったのかもしれませんが・・・・・・。
 犯人は犯行数日前の携帯サイトへの書き込みの中で、親がかいた作文や絵を学校に提出していたと言っています。それを聞いた人は、母が筆を持ち作文や絵をかくのだと誤解されると思います。実際は、作文に関してはテーマや文章、絵に関してはやはりテーマや構図を母が指示するのです。与えられるテーマの根底にあるのは「先生ウケ」でした。私たちはまるで機械のようにそれに従って文章をかき、絵を描くのです。こうして母の狙い通り、先生たちはその文章や絵を褒めてくれました。
 子供たちの考えを把握したいからなのか、私たちの書く作文には必ず目を通していました。私はそれを「検閲」と呼んでいました。母は「検閲」によって、私が書いた言葉を、先生ウケする言葉に書き換えました。
 母は常に完璧なものを求めてきました。原稿用紙に作文を書くときに一文字でも間違えたり、汚い字があると、書き直しです。消しゴムなどを使って修正するのではなく、途中まで書いたものをゴミ箱に捨て、最初から書き直しになります。書いては捨て、書いては捨ての繰り返しで、一つの作文ができあがるまでに1週間近い時間がかかるのが常でした。良い教育が良い将来に繋がると信じる母の愛は、過剰な形で私たちに与えられました。
 また自由にモノを買うこともできませんでした。私もアレも小説を読むのが好きだったのですが、、本を自由に買うことはできませんでした。本を買う際は何がほしいかを伝える必要があり、さらに読んだ後に読書感想文を書いて母に見せなければなりませんでした。
 本だけではありません。ほしいモノがあったときは常に母に許可をとる必要がありました。だから、私はモノをほしがるということ自体なくなりました。
 一般的に、母親というものはヒステリックなものだと思います。母も同じで、怒るのは主に「テストの成績が悪い」といった、成績に関することです。そこから「口のききかたが悪い」「態度が悪い」と論点がずれていって体罰にエスカレートすることもありました。
 犯人は、母が「より優秀な弟を自分よりかわいがっていた」ということを供述しているようですね。成績に関しては私のほうが優秀だったので、たしかにアレのほうがよく怒られていたかもしれません。
 アレが中学1年の時のことです。その日の夕食も、家族が無言で食卓に付いていました。なぜそうなったのかは忘れてしまいましたが、食事の途中で母が突然アレに激昂し、廊下に新聞紙を敷き始め、その上にご飯や味噌汁などその日の食事を全部ばらまいて、
「そこで食べなさい!」
 と言い放ったんです。アレは泣きながら新聞紙の上に積まれた食事を食べていました。私は食卓の上の食事を食べながらそれを横目で見ていました。そのときは父も黙っていました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(編集部)加藤容疑者の弟は、テレビのニュースで兄の姿が映るたび、しばしうつむいて、体を震わせた。やはり「兄があの凶悪事件の犯人である」という現実に向き合うことは、彼にとってまだ受け入れがたいところがあるようだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
女の子の年賀状が冷蔵庫に貼られ
 "オタク殺人者"などと犯人は呼ばれていますが、子供のときは、「オタク」と呼ばれるような要素は皆無でした。テレビは1階に1台ありましたが、見るのは禁止でした。許されていた番組は『ドラえもん』、『まんが日本昔ばなし』だけです。私は中学2年になるまでこの二つの番組しか見たことがありません。テレビを見る習慣は家庭内にはなく、ニュースさえも見ませんでした。
 ゲーム好き、という報道も多くありますが、アレが家にいるときにゲームを長時間している姿を見たことはありません。ゲームは土曜日に1時間だけでというのがルールでした。家にはプレイステーション2がありましたが、アレが最初に買ったのは「グランツーリスモ」、次に買ったのが「バイオハザード」。中学の卒業文集に出ていた「テイル オブ デスティニー」は3番目に買ったものでした。また、マンガや雑誌なども読んだことがありませんでした。今でもマンガや雑誌を読む習慣はありません。
 さらに、友達を家に呼ぶことも友達の家に行くことも禁止されていました。友達を呼ぶことが禁止されていたのは、「お菓子をあげるのがめんどくさい」「ゲームをやられるのが嫌い」というのが理由のようです。ただし、特別扱いの友人が犯人に一人、私には二人いました。犯人は小学生のときに、その一人だけを家にあげています。私は中学時代に二人、家に友達を呼ぶことが許されました。
 <俺のモテ期は小4、小5、小6だった>と犯人が犯行直前に掲示板に書き込んだことが報じられています。確かに、勉強はできましたし、スポーツ万能でした。何より足が速かった。良い意味で目立っていたので、モテていた可能性はあります。しかし、母は男女の関係に関しては過剰なまでの反応を見せました。アレが中学生のときに、クラスの女の子から年賀状が来たことがありました。そこには「好き」というようなことが書いてあったと記憶していますが、なぜかそれが、見せしめのように冷蔵庫に貼られていました。
 中学1年のとき、私にも、女の子から同じようなハガキが来たのですが、食事のときにバンッとテーブルにたたきつけて、
 「男女交際は一切許さないからね」
 と言いました。異性という存在は、徹底的に排除されていました。テレビを見ないせいもありますが、女性アイドルの名前と顔など一度も覚えることはありませんでした。だから、事件と秋葉原を結びつけるような報道には、どうにも納得ができないんです。
 徹底的な管理が家庭内では行われていましたが、犯人と私が通った中学校も、また奇妙なところでした。そこの教員たちの教育はまるで軍隊のようでした。アレは中学時代にテニス部に所属していました。私も中学時代はテニス部でした。そのテニス部の顧問だったAはいわゆる熱血で、
「何のためにテニスをやっているんだ」
 と、生徒を横に並べて叫びました。生徒もそうした教育に"洗脳"されていたので、問いかけられた生徒は決まって「勝つためです」と声をそろえます。Aは私の担任でもありましたが、合唱コンクールなどで声が低く音程が合わない人間がいると、
「やる気がないならやめろ!」
 と大声をあげ、生徒は、
「やめません!やらせてください!」
と誰しもが答えていました。まるで軍隊のような感じで、それが当たり前のことと思われていました。生徒の個性などというものは存在さえしませんでした。
アレと私は3学年離れていますが、アレが在校したときの教師陣と私が学んだ教師たちは一緒です。当時の私と犯人は、家でも学校でも厳しく管理されていたということです。
 爆発した兄、血を流した母
 成長するに従って、「犯人」は犯行期を迎えます。爆発したのは中学3年の頃でした。私と母とアレが3人で自宅にいたときのことです。母と兄は下の階に下り、私は自分の部屋にいたのですが、何か母と兄が口論をしていたのが聞こえたんです。口論が終わったころ、下に降りると、普段メガネをかけている母がメガネを外して泣いていたんです。顔をティッシュかハンカチで押さえていたので、血が流れていたんだと思います。そこで兄が母を殴ったんだと理解しました。どうしたの?と尋ねると母は何も答えません。その後、母は1階の自室にこもって、その日の夕食はありませんでした。それ以降、アレが母を殴った姿を見たことはありませんが、その一件で犯人は感情を爆発させることを覚えたのでしょう。
 暴力の矛先が向けられたのは部屋の壁です。だからアレの部屋の壁は穴だらけになっています。学校でも、何かイライラすることがあって素手で教室のガラスを割ったことがありました。横に並んだガラス窓を拳で叩き、何枚ものガラスを破壊したそうです。血まみれになって家に帰ってきたのを覚えています。怒りを溜め込むということをしなくなり、瞬発的に暴力が出るようになりました。同じ環境で育ったせいか、私自身も壁を蹴ったり殴ったりすることがくせになったんです。恥ずかしい話ですが、私が引き払ったアパートの部屋の壁は少しへこんでいます。
 あれは地域でも一番の人間が集まる「セイコー【県立青森高校】」に入学しました。アレがセイコーに合格したことに、本当に両親は喜んでいました。冷えた関係ではありましたが、合格祝いのパーティーが開かれました。普段は酒を飲まない父も酔っぱらって上機嫌になりました。そういえば、報道では父が酒を飲んで暴力を振るったなどと言われていますが、父は家では酒を飲みません。冷蔵庫の中に酒の類が入っているのは見たことがありません。合格祝いの時に父が酔った姿を見たのが、私が初めて見た「酔った人間」です。そのくらい、酒は家庭から離れたものでした。
 両親に祝福されて高校に入学した犯人ですが、秀才ばかりが集まっていたので、中学では秀才だった彼が、あっという間に普通の人になりました。母もだいぶ成績について注意をしたんだと思います。しかし、あれは、聞こうともしなかった。母は口にこそ出しませんでしたが、そのとき母の期待は私に移ったんだと思います。私への愛情の移行を犯人は敏感に嗅ぎとり、自分は必要のない人間だと誤解したんだと思います。母に、
「俺より弟を優先して、俺を見放すのか!弟だけにしたいんだろう」
 と詰め寄っている姿を目撃したことがあります。
 そんなアレを見て母も自信をなくしたんでしょう。私が中学2年の時に"ルール緩和"が行われ始めました。テレビが見られるようになりました。高2の兄はこのとき、テレビを買ってもらいました。
 "洗脳"した母を許す弟と憎む兄
 私はそれまで、こうしたルールの多くがどこの家庭でも行われているものと思い込んでいました。ところが、高校入学後、自分の育った家庭や中学がかなり変わったものであることに気付き、衝撃を受けました。私は自分は"洗脳"を受けていたことに気がつきました。そのとき、私は母を恨みました。犯人ももしかすると、高校進学時に同じことを感じていたかもしれません。犯人は高校を卒業し、自動車整備学校に入学しました。岐阜にある短大(中部日本自動車短期大学)ですので、アレもそのときに岐阜に引っ越しました。アレは車が大好きで、子供のころからよく車のプラモデルを作っていたんです。
 しかし、岐阜ではバイクに乗っていました。バイクで青森まで帰省したこともありましたし、サーキットでのバイクのレーシングチームのスタッフとして働いたこともありました。私はバイクには詳しくないのですが、帰省した時に見かけたのはレースに出るような形のバイクでした。
 私は20歳で東京に移り住み、そこで先日まで働いていた勤務先に巡り合ったんです。今の自分にとって唯一楽しいことは仕事です。東京で一人暮らしをするのに充分な収入はありませんでしたが、父が家賃の援助や携帯電話の支払いをしてくれたりもしました。犯人は借金だらけと報じられていますが、そういえば、アレが以前、事故を起こしたことがありました。家にカネの無心の電話をかけてきたのを覚えています。私の家賃を助けてくれた父ですから、その時も、そのおカネを払ったと思いますし、最近まで何らかの援助もしていたと思います。
 また父と母は不仲で別居をしていると報道されていますが、それは間違いです。昨年秋ごろ、父が母の貯蓄を勝手に使ったうえに、父に借金があることが判明し、母がある期間だけ家を飛び出してしまった。それだけです。父の借金の理由はわかりませんが、黙って私を援助してくれる父です。こうしたことが借金の原因だったかもしれません。いずれにしろ、私たちが一家離散状態だったなどということはありません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(編集部)同じ教育を受けてきた弟と兄。一方は働く喜び、日々を楽しむ喜びを知り、充実した生活を送っている。もう一方は仕事、生活、社会に対する怨恨から、殺人犯へと転落した。一体その違いはどこにあったのだろうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 "洗脳"。厳しい躾や教育をそう呼んでいた私ですが、、20歳の時、上京する前に母とようやく理解し合えました。母と邂逅したのです。母が、
「お前たちがこうなってしまったのは自分のせいだ」
 とつぶやき、私に謝罪してきたんです。実は私は、3ヶ月で高校を辞めた後、実家の部屋に引きこもっていた時期がありました。だからある時期私は、うまくいかない状況を母のせいにしてきました。私は母の謝罪の言葉をきっかけに、母を許すことができました。犯人が供述中に自分の生い立ちを語って『ないた』と報道されていますが、私は犯人が両親に対して申し訳ない、という気持ちでないているわけでは絶対にないと思っています。なぜなら、アレは今でも両親を強烈に恨んでいるはずだからです。自分の境遇に涙しただけだと思います。
 同じ家庭、環境におかれながら私が犯人と同じことをしないのは、外の世界に飛び出し、苦しみながらもそれまで欠けていたものを手に入れたからだと思います。だからこそ、テレビ画面で、泣き崩れる母の姿、また白髪が増えた父の姿を見て、何よりも二人のことを心配しているんです。
 音信不通で、何をしているのかさえわからなかった犯人は、私にとって家族ではなく他人にしか思えません。事件のせいで私は喜びの場所であり、社会との接点であった勤務先を失いました。私も犯人を憎むものの一人です。しかし、それでも私たちは家族です。知人のもとに身を寄せながら、ただ一人、被害者の方や遺族の方たちの受けた想像を絶する苦痛を思い、震える毎日を送っています。おそらく母や父も同じような気持ちでいると思います。
 被害者.遺族の方たちへ謝罪を行うことがせめてもの償いだとは思います。しかし一人ひとりに謝罪していこうとしても、力尽きて全員の方に謝罪できなくなってしまうほど今は疲労困憊しています。私の家の恥部をさらすことで、犯人が犯行に及んだ説明の一端になれば・・・・・・。そのことが現在の私にできるすべてだと思っています。亡くなられた方のご冥福と、傷を負った方の一日も早い回復を、心より祈ってやみません。
 母の近況と、自分に起こったこと
 事件から約2週間が経ちました。事件後、両親が自宅前で開いた謝罪会見で、母が泣き崩れる場面が何度も報じられました。私は、テレビ画面に映し出された母の姿を直視することができませんでした。母は大丈夫だろうか・・・本当に心配になりました。会見があった翌日、父から突然、
「母さんの具合が悪いから入院させる」
 という連絡がありました。母は、自分が育て方を間違ったせいで、多くの人が命を落としたと責任を感じ、ひどく思い悩んでいるのでしょう。それ以降、母から時おり電話がかかってくるのですが、母は大声で泣きながら、
「ごめんね。ごめんね」
 と、その言葉だけを何度も繰り返すだけです。気持ちが不安定になっているため、強い薬を飲んでいるせいでしょうか、電話越しに聞こえてくる母の声は、呂律が回っていません。
 一刻も早く遺族の方にお詫びをしなければならないのですが、母が苦しんでいる姿を思い浮かべると、すぐにでも母に会いたいという気持ちのほうが、日に日に強くなっています。
 父も事件後、こまめに私に電話をかけてきて、自分の状況や、母の状況を手短に伝えてくれます。
 あれから、私の身にも、大きな出来事がありました。6月15日のことです。万世橋警察署・捜査本部カワシマさんという方が署から電話してきて、
「聞きたいこと、協力してほしいことがあるので、来てください。時間と場所は上司と話して決まったらまた連絡します」
 との電話がありました。万世橋署ではマスコミが多いということから築地署に出向いてほしいと、その日のうちに再び電話がありました。「協力」と言いながら、署の取調室に呼び出されるのは不可解だなと思い、承諾はしたものの、かなり不安でした。
 それでも協力しなければと思い、数時間後に出向くと伝えました。しかしあの日以来、事件のことを考えると体の調子が悪くなる、そんな日々が続いています。このときも体調が悪化したため、担当の方に「日にちをずらしてほしい」と相談するため、指定された携帯電話にかけました。しかし30回ほどコールしても出てもらえず、留守番電話にもなりませんでした。その後に、カワシマさんという方が、
「弟から一切連絡がない」
 と言い、私と関係がある人たちから事情聴取を行い、私の口座番号まで調べたと聞きました。
 事件に関する多くの報道にも目を通しましたが、なかには私が違和感を覚えるものも少なくありませんでした。特にショックだったのはある週刊誌に掲載された、伯父のコメントでした。
「同じ環境で育ったという点からみれば、弟も同じ過ちを犯す可能性がある」
 と伯父は発言し、それがなんの悪気もなく掲載されていました。また、私が高校を中退した後、コンピューター関係の専門学校に進んだという報道も見ました。しかし、私が進んだ先は税理士の専門学校です。私が“犯人”と血が繋がっているとはいえ、警察や報道から私も犯人であるかのような扱いを受け、自分に関する間違った情報が平然と世に流されてしまうとは思いもしませんでした。
 それでも被害者の方の受けた痛みを考えれば、私の受ける社会的な制裁も当然なのでしょう。今回の事件が、あまりに多くの人を傷つけてしまったという、現実の重さを痛感する毎日が続いています。
叱るのも怒るのも理由を説明しない
 前回、私は、私の家の内情について、本当にありのままのことを書きました。
 母が新聞紙の上に食事をぶちまけ、それを兄に食べさせたこと、私たち二人の作文を、母がすべて“検閲”していたこと、テレビは『ドラえもん』と『まんが日本昔ばなし』しか観てはいけなかったこと、そして、“アレ”が母を殴った日のこと----。すべて包み隠さず赤裸々に書いたため、わが家が「奇妙な家族である」と思われた方も多いことでしょう。「うちの家族と似ている」そう思われた方もいるかもしれません。
 たしかに家族の間に相当な距離があったことは事実です。事件後、私の家族に関することが日々報じられましたが、父や母に関することをわたしがあまりにも知らなかったことに、私自身が大きな驚きを覚えました。父が勤め人であることはわかっていましたが、私はこれまで、父の勤務先さえ知らなかったのです。父は信用金庫に勤務しており、母とはその職場で知り合ったこと。(略)
 前回も述べましたが、私は自分が小学校3年生ぐらいになるまでを“ハッピーな時期”と呼んでいます。それ以降、冷え始めた家庭ですが、その頃まではわが家にも、“家族団欒”というものが存在していました。毎週日曜日の夕食後になると、1階の居間に家族全員が集まって、ババ抜き、七並べ、ページワンという順番で、トランプゲームをやるのが恒例でした。無機質で冷徹な殺人鬼になった犯人ですが、負けが込むと犯人は、
「ちくしょーっ」
 などとおどけて悔しがっていました。あの頃、家庭の中に笑顔があったのです。
 兄弟の関係においても“ハッピーな時期”の犯人は面倒見が良く、アレに連れられて、よく一緒に遊びに行きました。一番の思い出は、2人が小学生の時に、近所の空き地に雪を使って2人だけの“秘密基地”を作ったことです。私は壁を作り、アレは雪でテーブルや椅子などの内装作りを担当しました。ただ、作ろうとした基地があまりにも大きすぎたため、結局完成せずに、翌日大雪の中に埋もれてしまいました。
 私が幼い頃から、父が酔って家庭内で暴力をふるい続けていたかのような報道もありました。しかし、父がそんな顔を見せたことは一度もありません。ただ、父が最も激怒したときのことは覚えています。それは私が小学校3年のことです。父と花札をやっていて、私が負けそうになって、ちゃぶ台をひっくり返したことがあったのです。そのときは父に拳で殴られました。ただ、これを「家庭内暴力」というのは、過剰だと思います。
 母も含めて私の家族全員に言えるのは、叱ったり、怒ったりするときに、その理由を説明しないことです。だから私は幼いときから、怒られた理由を自分で考えねばなりませんでした。また、それを不可解なことだと思ったこともありませんでした。犯人が過度に独善的な判断・行動をとるのは、こうしたことが影響しているのかもしれません。
母の学歴劣等感と“10秒ルール”
 作文の“検閲”については前回述べましたが、このことについては、まだ思い出すことがあります。アレが小学校5年生のときです。夏休みの家族旅行で岩手の龍泉洞に行ったのですが、旅行から帰ると母は、アレに旅行に関する作文を書かせました。アレが書いた作文の冒頭は、
「龍泉洞に入ると冷たい空気が僕を包んだ。気温12度に僕は驚いた」
 というものでした。そのときの母は少し機嫌が悪かったようで、何度も冒頭部分をやり直しさせました。「龍泉洞」と書き出した瞬間に、「ダメ」と言って原稿用紙を捨て、「龍泉洞に入ると」と書いては、「やり直し」と言ってまた、原稿用紙を捨てる。その繰り返しが異様だったので、横にいた私はこの冒頭の書き出しを今でも暗記してしまっているのです。
 さらに、母の作文指導には「10秒ルール」というものがありました。犯人と私が作文を書いている横で母が“検閲”をしているとき、
「この熟語を使った意図は?」
 などと聞かれることがありました。熟語を使う意図など考えていないので、答えられずにいると、母が、
「10、9、8、7・・・」
 と声に出してカウントダウンを始めます。0になるとビンタが飛んできます。この問題における正解は、母好みの答えを出すことです。母が求めるのは、教師ウケする答えでした。答えがわからず黙っていると、
「10、9、8、7・・・」
 と再びカウントダウンとビンタが延々と続きます。私が泣いて答えると、またビンタが飛んできます。泣くと、正しい答えを言っても、不正解になるのです。完璧な答え方をするまで、母は許しませんでした。
 今回の報道で、母が大学受験に失敗していたことを知りました。母は“学歴”というものに対してコンプレックスがあったのでしょう。
 私は、母とアレが通った高校とは別の高校に進学したのですが、入学後、携帯電話も持たずテレビを見る習慣もなかった私は、同級生たちから異様な目で見られる存在になりました。そんなこともあって私は高校を数カ月で中退したのですが、高校を辞める条件として母が私に要求したのは、翌年に母と兄が通ったセイコーを受験することでした。当時の私は二度と高校生活に戻る気持ちはなく、セイコー受験も形ばかりのものでしたが、落ちたときの母の怒りは相当なもので、母は2週間ほど実家に帰ってしまいました。それほど、私たちに求めるものが強かったのです。犯人は、そうした母の強い期待に、耐え切れなかったのかもしれません。あの当時、私や犯人に、母自身の考えや、怒った理由などを少しでも説明してくれれば、私たちの人生ももう少し違ったものになったのではないかと思います。(以下略)
--------------------
秋葉原無差別殺傷事件 加藤智大被告と・・・2010-07-28 | 秋葉原無差別殺傷事件
 〈来栖の独白2010/07/28〉
 報道によれば、加藤智大被告は、事件の原因は三つ、だと述べる。〈記事は、中日新聞、毎日新聞から引用〉
 「まず、わたしのものの考え方。次が掲示板の嫌がらせ。最後が掲示板だけに依存していたわたしの生活の在り方」である、と。
 加藤被告は以前から「裁判は償いの意味もあるし、犯人として最低限やること。なぜ事件を起こしたのか、真相を明らかにすべく、話せることをすべて話したい。わたしが起こした事件と同じような事件が将来起こらないよう参考になることを話ができたらいい。事件の責任はすべてわたしにあると思う」と自分の裁判に対する姿勢を表明しており、今回の被告人質問への答えも、その趣旨に沿っている。
 事件の直接の原因となったネット掲示板について、「ネット掲示板を使っていた。掲示板でわたしに成り済ます偽者や、荒らし行為や嫌がらせをする人が現れ、事件を起こしたことを報道を通して知ってもらおうと思った。嫌がらせをやめてほしいと言いたかったことが伝わると思った。現実は建前で、掲示板は本音。本音でものが言い合える関係が重要。掲示板は帰る場所。現実で本音でつきあえる人はいなかった。」という被告の風景は、寂しい。
 この事件について、メディアでは、「ネット」や「派遣労働」が、問題として取り上げられた。確かに、そのような問題を当該事件は提起していた。
 だが、私が目を向けずにいられなかったのは、被告の生育環境だった。極々身近では、勝田事件においても、その起きた主たる原因は彼の成育環境にあった。このように言うことは、被告(或は死刑囚)の親を鞭打つことで、哀れであるが、しかし、犯罪の根が生育環境に大きく起因するように私には思えてならない。
 土浦8人殺傷事件公判においても、金川真大被告(=当時)の父親の証言から、同様のことを感じた。金川被告の父親は、息子を「被告人」と呼称して証言している。これは、加藤智大被告の母親と同じである。加藤被告の母親も、尋問で、息子を「被告」と呼称して意見を述べている。以下「7月8日に行った加藤被告の母親に対する証人尋問の要旨」から。  「私は、青森高校を卒業後、地元の金融機関に就職しました。そこで同僚だった被告の父親と知り合い、昭和55年に結婚しました。その後、主婦となり、57年に長男である被告が生まれ、その3歳下に次男が生まれました。その後、62年に夫の職場が五所川原市から青森市に変わり、その年に家を建てました」
 「引っ越してからは、夫が毎日のように酒を飲んで帰るのが遅く、暴れたり、帰宅しないこともあり、私はイライラし、子供たちに八つ当たりすることがたびたびありました」
 「たとえば、被告を屋根裏に閉じこめたり、窓から落とすまねをしたり、お尻をたたいたり。被告は食べるのが遅かったので、早く後片付けをしたくて、食事を茶碗からチラシの上にあけて食べさせたこともありました」
 「もっとも、子供たちに強く当たったのは、私としてはあくまでしつけの一環と思っていました。単に不満のはけ口ではなく、なにがしか子供たちにも理由があったと思います。ただ、そこまでしなくても良かったとも思います」
 「長男と次男に同じようなことをした記憶がありますが、どちらかというと長男である被告に強く当たりがちだったと思います」
 「私が夫の前で怒ることもありましたが、夫は止めてくれませんでした」
 「私は被告について、物覚えが早くて頭のいい子だと思っていましたが、一方で、あまり言うことを聞かない子だとも思っていました」
 「私は被告に、北海道大学や東北大学を目指してほしいと思っていて、自分と同じ青森高校に行ってほしいと思っていました」
 「被告は小学生のころは反抗するより、泣いていました。中学生になると物に当たって暴れたり、部屋の壁に穴を空けたりしました。中学2年生のときには、成績のことで被告と口論となり、顔を殴られたことがありました。私はそれ以降、被告とあまり口をきかなくなりました」
 「中学3年のころ、被告がレーサーになりたいと言い出したので、危険だから絶対やめるように言いました。女の子とも交際していたようですが、成績にプラスにならないからやめるように言いました」
 「私は、被告が昔から車が好きだったので、自分で進路を決めて良かったと思いました」
 《加藤被告から平成18年8月に「これから死ぬから後はよろしく」と突然電話がかかってきたという》
 「私は、借金があると言っていたので、私が返してあげるから、必ず帰ってくるように言いました。それと、私が辛くあたったことも原因の一つだと思い、謝るから帰ってきなさいとも言いました」
 「その後、被告は『精神科に行きたい』といいましたが、あまり意味がないと思ったので、そうアドバイスし、結局行きませんでした」
 「私は被告がなぜ今回の事件を起こしたのか分かりません。被害者や遺族の方には申し訳ないと思いますが、経済的な損害賠償は不可能です。私は被告を見放すことはなく、できる範囲でこたえていきたいです」  このような親子関係をまえに、私は言葉を失う。加藤被告のほうからは、以下のような証言がなされている。(2010/07/27東京地裁 被告人質問から)  【母親との関係】
 わたしは、何か伝えたいときに、言葉で伝えるのではなく、行動で示して周りに分かってもらおうとする。母親からの育てられ方が影響していたと思う。親を恨む気持ちはない。事件を起こすべきではなかったと思うし、後悔している。
 わたしは食べるのが遅かったが、母親に新聞のチラシを床に敷き、その上に食べ物をひっくり返され、食べろと言われた。小学校中学年くらいのとき、何度も。屈辱的だった。
 無理やり勉強させられていた。小学校低学年から「北海道大学工学部に行くように」と言われた。そのため青森高に行くのが当たり前という感じだったが、車関係の仕事をしたいと思っていた。現場に近い勉強がしたい、ペンより工具を持ちたいと。母親に話したことはない。
 中学時代に母親を殴ったことがある。食事中に母親が怒り始めた。ほおをつねったり髪をつかんで頭を揺さぶられたりした。無視すると、ほうきで殴られ、反射的に手が出た。右手のグーで力いっぱい左のほおのあたりを殴った。汚い言葉でののしられた。悲しかった。
 大学進学をやめ、自動車関係の短大に行くことにした。母親にはあきらめられていたと思う。挫折とは思っていない。勉強をしていないからついていけないのは当たり前。短大には失礼だが、無駄な2年。整備士の資格は取るつもりだったが、父親の口座に振り込まれた奨学金を父親が使ったので、アピールとして取ることをやめた。  生育環境・親子関係を事件の起きた主たる要因と観ることに、繰り返すが、私は親御さんへの苛酷を感じる。故宮崎勤死刑囚の父親(親族)の苛酷な晩年に痛ましさを禁じえないけれども、やはり犯罪の因って起きる元が生育環境にあるとの見方を捨てることができない。勝田清孝は、その人生の最後まで、父親にこだわり続けた。面会でも、会話の多くを父親との生活に割いた。子とは、親を慕ってなんと切ないものだろうと思わされた。手記の末尾に次のように述べる。  支離滅裂な拙文ですが、生き恥としての私の生い立ちをかいつまみしたためました。
 被害者の霊に手を合わさずにいられない今の私には、嘘は断じて許されないことを念頭に、すべて直筆致しました。
 とりわけ身勝手な振る舞いでさんざん親不孝を重ねた私は、自分に向けられた父の慈愛を見抜けずに反感ばかり募らせていたことを、実に済まない気持ちでいるのです。確かに父は寄り付き難い存在でしたが、人一倍自己に厳格で、律儀一遍の父でもあったのです。父への悪感情も隠さず数多くしたためましたが、父との確執は私の放逸な行動ゆえ起こるのであって金銭のみならずあらゆる面で苦労をかけ続けた私には、父を憎悪する資格などどこにも見当たらないのです。
 また、公務員になった事を悔やみ、積もり積もった心のわだかまりを吐露すればするほど責任回避と受け取られてしまうのではないかと思いながらも、人生の進路を誤ったという正直な気持ちを切り離して悪業を思い起こすことは、どうしても真意を偽ってお話しするような気がしてならなかったのです。 ====================
秋葉原無差別殺傷事件 宮崎勤死刑囚 鳩山邦夫法相 2008-06-21 
秋葉原通り魔事件と安田好弘著『死刑弁護人』2008-06-09 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 10100

Trending Articles