「『スティーブ・ジョブズ』秘話 並みの経営書とは違う『洗練を極めれば簡素になる』という生き方」佐々木俊尚×井口耕二 前編
現代ビジネス2011年11月11日(金)
佐々木: 上下二巻、かなりの分量ですが、ものすごくおもしろくて、読みだすと止まらない良い本だと思います。これは、いつ原稿を見たんですか。
井口: 実は、何回かに分けて原稿がきているんです。上巻分くらいが7月の頭にきているんですね。その後8月の頭に残りの四分の三か三分の二くらいがきて、最後まで届いたのが9月の半ばです。
佐々木: ということは、7月の段階ではまだ全部書ききれていなかったんですかね。
井口: そうですね、その段階では「後ろのほうの章はまだ書けていないから」ということでした。
*「ジョブズはかなりいやな奴だとわかった」
佐々木: 当初は来年3月発売の予定でしたか。全世界同時発売というのは最初から決まっていたんですか。3月だったのが11月に繰り上がって、それがまた10月になったんですよね。それには何か事情があったんですか。
井口: 11月に繰り上がったのは、アメリカのいわゆるクリスマス商戦に間に合わせたいということでした。11月の半ばか月末に、ということでした。これは、7月、私が翻訳に掛かる段階でもう決まっていて、相当強行軍でやらざるを得ないということで進んでいました。最後の最後は、やはりジョブズが亡くなってしまったことで、アメリカが4週間前倒しにするということになりました。日本側は、さらに4週間前倒しになると、私だけでなく編集さんや校正さんなど後の工程の方も全員死ぬような思いだったと思います。
佐々木: 僕が読んだのはつい最近で、月曜日に本をいただいて、火曜日に大阪へ出張したので新幹線の中で読んで、下巻に関しては昨日受け取って昨日の夜から今朝に掛けて読みました。それだけ労力を掛けて作った割には2日間くらいで読んでしまったのが申し訳なく感じます。
井口: そのくらい一気におもしろく読んでいただけると、それがいちばんなので。
佐々木: ちょっと感想をお話ししますと、まず、ものすごく読みやすい本ですね。これは井口さんの翻訳が素晴らしいということもある。非常に平易な文章で、しかも技術的な部分についても、一般書を読んでいると「それは違うよ」と思うところがあったりするのですが、そういう部分がまったくありませんでした。われわれのようなITの業界にいる人間にも、非常にすらすら読めておもしろいと思いました。
読んでみてわかったのは、やはり「ジョブズってかなりいやな奴だな」ということですね(笑)、正直なところを言えば。とくにここ数年、iPhone、iPadを展開して、なおかつ亡くなられたことでカリスマ視され、神話化されている部分があります。今ではまるで神様のような扱いになっていますが、上巻にはApple Iなんかを作っている頃の話が出ていて、二十代くらいの話を読んでいくと、本当に面倒くさくて大変な人だな、と。
「これは耐えられない」と思ったのは、「菜食をしていれば臭いがしないから、風呂に入らなくても大丈夫だ」と思い込んでいて、臭くてたまらなかったというところです。まあ、極端な人ですね。それが最初に「おお、こういう人だったのか」と感じたところです。
もう一つは、彼のビジネスのやり方って、ほかの人にとってほとんど参考にならないんじゃないかということです(笑)。
井口: ITは当たれば良いですけど、外したら会社を賭けちゃいますからね。
*普通の会社ならつぶれてしまう
佐々木: 昔から素晴らしい経営者の本っていっぱい出ているじゃないですか。そういう本を読むと、「そうだ、われわれもこうやって起業しよう」とか、「ビジョンを持ってマネジメントをちゃんとやって」というふうに、企業経営者やそれを目指している人たちが読んで、自分の将来の進路や会社の運営の仕方の参考になる。
たとえばプレジデント誌なんかで「信長に学ぶ人生の切り拓き方」みたいな記事をよく採り上げていて、自分の人生や働き方の参考にするというケースが多い。この本に関しては、これを参考にできる経営者はほとんどいないんじゃないかと思います。あまりにも奇天烈すぎるというか、こういうやり方をしたらほとんどの会社は潰れるんじゃないかと思います。
井口: ただ、私が自分で訳していて思ったのは、私は個人事業者なんですが、個人事業の場合は参考になるかもしれないということです。個人事業では、手を広げたくても、労力としては人間が一人しかいなくて一日24時間しか時間がないのですから、できることは限られています。それで何をするのかを考えると、やることを絞り込むことしかないと思います。
独自の「売り」がないとどうしようもないわけですから、絞り込んでいかざるを得ない。会社と同じようにいろいろなことをしようとする人もいて、それでもそれなりには回っていくんですけど、個人事業の形態で良い仕事ができる人というのは、業務を絞り込んでいる人なんじゃないかと思います。
*洗濯機は何を買うかで三日三晩議論
佐々木: ジョブズの場合は、それをAppleのような巨大企業のレベルでやったというのが怖ろしいな、すごいな、と思いますね。
下巻のほうで、80年代に一旦Appleを追われたジョブズがNeXTをやったりピクサーをやったりして、最終的に90年代の後半になってAppleに戻ってくる。そのときのAppleの状況は惨憺たるもので、Macintoshのラインが十数種類出ていて、社員に「おまえの知り合いが買うと言ったらどれを奨めるんだ」と聞いても答えられない。とにかく種類がたくさんあってどれが良いのかわからない。
そこで「もうそんなのはやめろ」と言う。「ノートとデスクトップでそれぞれプロ用とコンシューマ用を展開して、その4種類しか出さなくていいんだ」と言って絞り込む。あの辺のくだりはもう、美意識的に訴えてくるものがあります。非常にシンプルで美しい。
元々「洗練を極めれば簡素になる」という言葉を二十代でApple IIを作っている当時に言っていて、そのやり方が生活まで含めて彼の人生の最終的なキーワードになっています。口絵に写真が載っていて、何にもない部屋でポツンと座っているんですが、それは家具が買えなかったからだというんですね。
井口: そうですね、ベストなものを買おうとすると買えない、ということみたいですね。中途半端なものを買うのはいやだと。
佐々木: 結婚した当時、洗濯機は何を買うかで三日三晩夫婦で議論したみたいな話も載っていますね。普通は「洗濯機なんてどうでもいいじゃないか」と思いますけど、そういうのにこだわってしまう人だった。
すべてをどんどんシンプルにしていくというのは、今の時代に人々が感じることとすごく重なっている部分もあるんじゃないかと思います。大分前からノマドだとか言われていて、余計な仕事をどんどん減らしていって、たとえばビジネスランチとかビジネスディナーなんかくだらないからもうやめて、メールでいいじゃないか、その代わり付き合いたい人との付き合いを深めて良い人生を送ろうよ、とか。
余計な荷物を減らそうということでは、たとえばPCや携帯電話だったら今までは鞄の中にガチャガチャいろいろ入っていたのが、そういうのはやめてノートパソコン一台と通信機器一台でいいじゃないか、と。私も仕事は極力余計な夾雑物を持たずにシンプルに暮らしていこうじゃないの、ということを言っているんです。それは、今多くの人が実感している方向性じゃないかと思います。
ジョブズはそこを先駆的に実現してきたし、シンプルなものを求めるという感覚そのものが、今の時代にマッチしていて、そこが受け容れられた部分が大きいんじゃないかと思います。
iPhoneやiPadが出てきたことでスマートフォン市場やタブレット市場が生まれ、韓国や台湾、日本のメーカーが同じようなものをandroidベースで作っているんですけど、見るとコネクタが山のように付いていたりしますね。やっぱりあれだけじゃダメだぞ、SDカードが入ったほうがいいよね、外部に映像出力できたほうがいいよね、というので、どんどん端子が増えていって、機能のほうも高機能化・多機能化していく。
そういうのが出れば出るほど、ジョブズが作った機器のシンプルな美しさが際立って見える。彼はまったく時代とは関係なしにそういうことをやっているんだけれど、最終的に時代とマッチしてしまっているというところが、すごくおもしろいなと思いました。名刺を作るのにもすごくこだわったという話がありますね。NeXTの頃の話でしたっけ。
井口: そうですね。たとえば「Steven P. Jobs」の「P.」で「.」をどこに打つか、「P」の出っ張っているところの下に入るか出るかにこだわったということです。鉛活字だったら「.」は別の活字になるので「P」の外側にしか打てなかったんですが、ジョブズは「DTPなら中に追い込めるからもっと寄せたい」と希望して、ずいぶんデザイナーと激論を交わしたみたいですね。パッと見てわからない違いなんですが。
佐々木: 普通に考えると、そんなものにこだわるのは経営者のやることじゃないだろうと考えるのが一般的ですが、でもそこにこだわることこそが本質なのである、と。そこは「神は細部に宿る」という言葉通りなのであって、一種のミニマリズムというか、仏教の影響が大きいのかなと思います。前半でかなり仏教の話が出てきますよね。
*ヒッピーに由来するアメリカのコンピュータ文化
井口: いわゆる禅の修行をずっとしていましたからね。インドにも行っていますし、出家しようという話まであったというくらいで、福井の永平寺に行くとか行かないとかいう話もありました。「ビジネスの世界に身を置いていても禅の追求はできるから出家はやめておけ」と禅の師に諭されてやめたということですね。知野弘文さんと鈴木俊隆とお二人なんですけど、お二人とも日本で生まれて一人前のお坊さんになってから、アメリカの西海岸に渡って布教活動をされていた方ですね。
佐々木: そういうのを見ると、アメリカのコンピュータ文化の出自やオリジンがあの辺にあると実感しますね。よく言っていることなのですが、アメリカのコンピュータ文化はヒッピー由来で、日本のコンピュータ文化はおたく由来である、と。アメリカはジョブズなんですけど、日本はアスキーの西和彦さんで、かなりイメージが違うというか、あの西和彦さんが出家して頭を坊主にしてインドをさまよっているというイメージは浮かばないですね(笑)。
ジョブズは元々そういう人で、1960年代にアメリカ西海岸でヒッピー文化が生まれて、ジョブズがスタンフォード大学のスピーチで語った例の「Stay hungry, stay foolish」という言葉も、元々アメリカの西海岸で作られた「生活を良くしていこう」みたいな趣旨の雑誌から採った言葉ですね。
井口: 「The Whole Earth Catalogue」という雑誌の廃刊号の裏表紙にあった言葉ですね。裏表紙に田舎道が続いている風景の写真があって、最後にその一言があるわけですから、あれが最後のメッセージなんですね。
*ビル・ゲイツはLSDをやったことがないからダメ?!
佐々木: いちばん最後がそのメッセージで、「ここから先は自分で歩いていきなさい」というイメージなんでしょうね。ああいう、自分たちの精神を自由に解放していこうという考え方の延長上で、60年代末期にはLSDのような幻覚剤と呼ばれる薬物が頻繁に利用されるようなこともあって、ジョブズも若い頃にLSDをやっていたと書いてありますよね。
井口: ビル・ゲイツなんかはLSDをやってないから凝り固まっちゃったんだ、なんて書いてありますね(笑)。佐々木: LSDを使うことによって日常生活とは違う感覚を得ることができて、その感覚が薬物をやめたあとも残っているから身になっているんだ、みたいなことを言っていますね。あまりそこを強調すると、薬物を奨めているような話になってしまうので微妙なところですが。
そして、幻覚剤を使って精神を拡張するというのは、必ずしも60年代のアメリカ人が西海岸でやっていただけではなくて、メキシコやアメリカの先住民族が元々やっていたことで、人間の文明の中にはそういうやり方で精神を深めたり拡張するという文化そのものがあったわけです。その後継としてヒッピー文化があったという形だろうと思います。
70年代に入ってからはそこにテクノロジーが流入してくるということで、今まで薬物によって精神を拡張していたのが、薬物の代わりにコンピューティングという新しいデジタルな装置によって自分たちの脳を拡張できるのではないかというふうに、徐々に文化が切り替わってきます。そこで、ヒッピー文化もパソコン文化もプレイヤーが同じという状況が生まれたのでしょう。だから、70年代初頭のパソコン文化を担った人たちの多くは、西海岸のヒッピー系の人たちが多かったということでしょうね。
井口: 一方で投資家は東海岸にいて、その辺の文化の違いで東海岸から見ると「コンピュータ会社の連中はわけがわからない」みたいなイメージがあったのだと思います。
*コンピュータは新しい自由を獲得するための手段
佐々木: そういう背景があって、コンピュータはわれわれの新しい自由を獲得するための手段なのだ、という思想がアメリカのコンピュータ文化の基盤に根強くあって、そこが日本とはすごく違う部分だと思います。日本ではなぜか、コンピュータというと精神を拡張するものというより、引き籠もって悪さをしているというイメージにされてしまっています。
本当はそうではないはずで、アメリカでも日本でも使い方とかやっていること自体は変わっていないわけで、アメリカと同じように、われわれもコンピュータを武器にしてわれわれの精神を拡張していこう、ということをもう少しメッセージとして伝えなければならないかな、と思います。
どうしても80年代、90年代にはそういう文脈で語られないまま日本がここまできてしまったというところに、僕は一種日本のコンピュータ文化の哀しさや悲劇みたいなところがあると思っていて、相変わらずアメリカ崇拝というか、アメリカには追い着けないというふうに、アメリカの下に従属して日本のコンピュータ文化があるような状況になっているように思います。
実際にこの本を読んでみると、その体現者であるジョブズは二十代の頃にそういうことを強烈にやっていた人なんだなということがよくわかりました。インドへ行っていたというのはあまり知らなかったんですけど、そうだったんですね。
井口: ずいぶん長い間行っていたようですし、けっこういろいろな体験をしてきたようですね。
佐々木: インドから帰ってきたときは、向こうのお坊さんのような格好で頭をツルツルにして帰ってきたんでしょう。すごいですね。
井口: ジョブズの親が空港で待っていて、彼が横を通ったのに気づかなかったという話ですね。どこかにいるはずなんだけど、ときょろきょろしていたけど、わからなかったという話で、日灼けしていたのもあったようです。
佐々木: その頃にジョブズと知り合っていっしょに会社をやるようになった人にも後にけっこう離反する人がたくさんいて、その人たちが著者のアイザックソンのインタビューで「あのときAppleに残っていれば、今頃何十億も手にしていたかもしれないのに、後悔していませんか」と聞かれて、「いや、あのときあれ以上ジョブズといっしょにいたらおかしくなっていただろうから、これで満足しています」と応えている人が何人もいますよね。
井口: それはそれで正しい判断だったんじゃないかと思えるほど、いろいろ激しい逸話がありますからね。
以降後半へ。(近日公開予定)
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