オウム公判終結:あの時…/1 「信者は加害者で被害者」
地下鉄サリン事件から16年、「狂気の果て」に27人の命を奪った一連のオウム事件の全公判が21日、終結した。教団の「凶行」は坂本堤弁護士一家殺害事件を起こした22年前から外に向かい、拠点を構えた場所では周辺住民との間で常にトラブルが絶えなかった。「宗教の自由」というハードルを抱えた難しい捜査、反省を深める元信者への「極刑」の宣告。教団と関わらざるを得なかった人たちは何を思い、どう踏み出したのか。「あの時」を追った。
◇なぜ凶暴化、今も疑問に−−旧上九一色村住民代表・竹内精一さん
89年。オウム真理教は山梨県上九一色村富士ケ嶺地区(現富士河口湖町)に進出した。竹内精一さん(83)は翌年、地区でオウム真理教対策委員会を作って反対運動に取り組み、毎日見回りをした。ほとんどの幹部に会い、大勢の信者や家族と接した。逃げてきた信者をかくまって家に帰るよう説得し、旅費を貸して駅まで送った。わずか1日で教団に連れ戻されたこともある。「ショックだった。オウムはとてつもなくしつこい集団だった」
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サリンを製造したとされる第7サティアンの解体(98年12月)を最後に村内の教団施設は全て取り壊され、表面上は富士山を望む静かな土地に戻った。第2、3、5サティアンがあった「第一上九」跡地(約7000平方メートル)は町営公園になった。
ここで殺害された信者がいた。片隅に慰霊碑が建っている。だが、碑には何も書いていない。何が起きた場所か分からないのが不満だ。今年の春、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚がいた第6サティアン跡地に10人くらいが来ていた。古い信者が新しい信者に「聖地」を見せているようだった。
数年前、東京都世田谷区の教団施設を訪ねた。「事件の時、私たちはいなかった」と若い信者が話していた。いまだに教団が残っていることに戸惑う。オウムが何をやったのか、信者自身が知らないのはよくないと思う。
裁判では長い割に真実があまり出てこなかった印象だ。どうして凶暴な集団になり、なぜあんなことをしたのか。そこが一番知りたかった。それが分からなければ今の信者はなかなか抜けていかないのではないか。
松本死刑囚が語らないのは、意気地がないんだと思う。松本死刑囚と上九一色村長の面談に同席したことがある。さんざん私の悪口を言った後、私が名乗るとしどろもどろになった。彼は逮捕された時も現金を枕元に置いて隠れていた。「こんな情けない男と戦っていたのか」と失望した。教祖としての価値がなかったということだ。
オウムには顔写真を撮られて脅され、電話を盗聴された。もしかすると、自分も殺されていたかもしれない。どんな理屈をつけてもオウムは国民にとって加害者だが、松本死刑囚や一部の幹部を除いて、信者は加害者であると同時に被害者でもあると感じる。会ってみると、ほとんどの信者はひどい人間とは思えなかった。将来の戒めのためにも、せめて幹部には裁判で全て語ってほしかった。【聞き手・長野宏美】=つづく
◇たけうち・せいいちさん
山梨県上九一色村富士ケ嶺地区(現富士河口湖町)の農家。教団撤退を求めて同地区オウム真理教対策委員会副委員長を務めた。名前や顔を出して教団を追及し、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚から「村民を反オウムに駆り立てた」と名指しされる。信者に脱会を呼びかけ、脱会を願う信者の家族らと手紙のやりとりを続けた。
毎日新聞 2011年11月22日 東京朝刊
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オウム公判終結:あの時…/2 警察、裁判に歯がゆさ
◇日本脱カルト協会理事、弁護士・滝本太郎さん
オウム真理教と対峙(たいじ)した20年余はあっという間だった。
教団との関わりは坂本堤弁護士の「失踪」がきっかけ。司法修習生の時から、私が加わっていた医療訴訟弁護団などに出入りしていた坂本弁護士とは、よく酒を酌み交わした。情熱家で愛嬌(あいきょう)があって、好漢だった。
89年10月、坂本弁護士から「オウム真理教のこと、一緒にやってもらえませんか」と相談を持ちかけられた。目的は信者救出だからやっかいだと思い、断った。しかし翌月、「一家が失踪した」と聞いて、悔やんでも悔やみきれなかった。オウムの仕業と確信し、仲間の弁護士らと警察に要請したが、神奈川県警はまともに動かなかった。
95年1月に「オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)」の永岡弘行会長が猛毒のVXをかけられた事件でも警視庁は当初、自殺未遂だと判断した。私にスミチオンという農薬の入った湯飲みのにおいまでかがせ、「これで自殺を図った」と言い張った。この時、警察がしっかり動いていたら、地下鉄サリン事件も起きていなかったはずだ。
裁判も歯がゆい思いがした。麻原(松本智津夫死刑囚)の公判では1審弁護団が初公判で本人の起訴内容の認否を妨げた。2審弁護団は期限までに控訴趣意書を出さず裁判を終わらせてしまった。元幹部の裁判でも審理を急ぐあまり、マインドコントロールや薬物使用の実態が明確にされなかったのは残念だ。
いま再び(後継教団の)「アレフ」や「ひかりの輪」に入信している若者たちがいる。入信者は「現在の教団は悪いことをしていない。いい人ばかり」というが、オウム事件は「いい人が、いいことをするつもりで人をあやめた事件」であることを忘れてはいけない。再び同じ悲劇は起こりうるのだ。
死刑が確定した元幹部7人に、上告中に面会した。林泰男死刑囚は礼儀正しい好青年だった。早川紀代秀死刑囚も「宗教好きのただのおじさん」。そうした元幹部らが再び、拘置所内で孤独を強いられている。せめて拘置所の単独室内で花を栽培させるなど、現実感覚と命の大切さを実感させてほしい。
元幹部を死刑にすることで喜ぶのは、麻原だけだ。麻原は弟子を含めた他人と社会を破壊したかったのだから。麻原を除く12人の死刑を執行しないよう訴え、信者をゼロにするための活動を続ける。それこそが「信者を含めた弱者の救済」に奔走した坂本弁護士への供養になると考えている。【聞き手・伊藤一郎】=つづく
◇たきもと・たろう
94年5月、オウム真理教に絡む民事訴訟に出廷するため甲府市の甲府地裁に出向いた際、駐車場に止めていた車にサリンをまかれ中毒症状を起こした。95年6月に脱会信者の立ち直りを目的とした「カナリヤの会」を結成。現在も支援活動を続ける。毎年9月、坂本弁護士一家の遺体が発見された現場で供養を続け、命日の11月には鎌倉の墓に参る。日本脱カルト協会(JSCPR)理事。弁護士。54歳。
毎日新聞 2011年11月23日 東京朝刊
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オウム裁判:岡崎死刑囚から「司法取引」持ちかけられた
95年の地下鉄サリン事件発生時、東京地検次席検事として捜査を指揮した甲斐中辰夫弁護士(元最高裁判事)は、オウム公判終結について「真相解明と適正な刑罰を科す目的を達成でき、ほっとしているが、時間がかかりすぎた」と述べた。
「今、取り調べのやり方が議論になっているが、この事件はまさに取り調べで解明した事件。物証がほとんどないですから」と振り返る。その一方、「もっと早く何とかならなかったのか」との思いが残るという。
「一つ言えるのは坂本(堤弁護士一家殺害)事件。岡崎(一明死刑囚)が神奈川県警に早い段階でしゃべりかけた。坂本さんがいなくなってしばらくしてから。ただ、条件は『自分の刑を軽くしてほしい』と。でも(現行法制下では司法取引を)やっちゃいけないので応じなかった。その結果、岡崎はしゃべらなくなり、地下鉄サリンも起きた。僕らは後で知ったことですけど」
当時のことを明かした上で、こう述べた。「取り調べの可視化(録音・録画)をするなら司法取引、刑事免責は絶対必要だと思う。あの時に司法取引ができたら……」
毎日新聞 2011年11月22日 2時30分
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◆死刑でよい 岡崎死刑囚の執行停止を 岡崎死刑囚が再審を請求、オウム事件では初 オウムの岡崎死刑囚の再審請求、最高裁が棄却
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オウム公判終結:あの時…/3 捜査は「戦時態勢」で
◇元東京地検刑事部副部長・神垣清水さん
オウム真理教事件は「犯罪を超えた犯罪」だった。サリンや毒ガス兵器など、自衛隊の協力がなければ特定できなかった前代未聞の凶器。自分たちの国家を樹立するという教団の目的。従来の犯罪の枠を明らかに超えていた。テロというより“戦争”だった。
麻原(松本智津夫死刑囚)はある意味、天才だった。信者に家族や財産を捨てさせ、自分にすがるしかなくする。寝させない、食べさせない。薬物の投与。マインドコントロールによって、殺人を「ポア」という独特の教義で正当化し、戦争をするための土壌を作り上げた。
戦争は一度では終わらない。地下鉄サリン事件後も、駅のトイレで青酸ガスを発生させたり、東京都知事宛てに小包爆弾を送りつけたり。これほど捜査機関を連続的、波及的に挑発した犯罪集団はかつてなかった。
捜査機関もいわば「戦時態勢」。検察庁も37の地検が関わり、150人の検事を動員した。駆使した刑事訴訟法の罪名は約50に及ぶ。労働者派遣法、電波法、道路運送車両法。あらゆる法令を使い、信者を検挙した。平時なら「違法な身柄拘束」と言われかねない逮捕も、世論やマスコミからの異論はなかった。国民の安全を守ることが至上命令だった。
日本は平和ぼけしていたのだと思う。カルト集団の凶悪事件を経験していなかったこともあるが、過激派による事件も少なくなり、警備・公安部門の気の緩みもあった。諜報活動の懈怠やリスク管理の甘さを逆手に取られたのが、オウム事件だった。
地下鉄サリン事件から半年後の95年9月、新潟県の山中で坂本堤弁護士の遺体発掘の場に立ち会ったことを鮮明に思い出す。5年以上たっているのに、奇跡的に内臓などが残っていたため、身元確認と死因の特定につながった。現場は標高1000メートルの沢地。冬は凍結、夏もチルド(冷蔵)状態になるため、腐敗しなかったのが原因だったが、坂本さんの怨念を感じた。
東京地検特捜部から刑事部に異例の応援を取り、担当検事は「検察サティアン」と呼ばれた空き部屋の簡易ベッドで寝泊まりした。「何があっても責任は自分が取る」と言ってくれた上司。麻原への絶対的な帰依心を持っていた新実智光死刑囚と、とことん向き合って自白調書を取った部下。苦労を共にした“戦友”たちとは今も年に1度、懇親会を開いている。
検察史上に残る事件の教訓を、後輩たちが生かしてくれることを切に願う。【聞き手・伊藤一郎】=つづく
◇かみがき・せいすい
地下鉄サリン事件(95年3月)発生時の東京地検刑事部副部長。オウム真理教事件の検察捜査の中心人物として、常時60人の検事を指揮し、「身柄班」「裏付け班」「ブツ読み班」の差配に当たった。計7年に及ぶ特捜部時代には、ロッキード事件やリクルート事件にも携わった。最高検総務部長、千葉、横浜両地検検事正を経て、現在、公正取引委員会委員を務める。岡山大法学部卒。広島県呉市出身、66歳。
毎日新聞 2011年11月24日 東京朝刊
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オウム公判終結:あの時…/4 「拙速」裁判、真相隠す
◇松本智津夫死刑囚の1審弁護団長・渡辺脩さん
オウム真理教事件とは何だったか。一言で言うと「真相は闇の中」。検察も裁判所も、事件がなぜ起きたのかを調べようとしなかった。弁護団は、一宗教団体から起きた事件なのだから、宗教団体の活動が、どこから犯罪にとゆがんでいったのかを調べる必要があると主張した。だが、警察も検察も、殺人集団なのだから人を殺した点さえ立証すればいいという姿勢だった。
検察から、教祖の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚と実行行為を結びつける証拠は出なかった。メディアは、弁護人が無駄なことをやっていると言ったが、無罪推定の原則に例外を認めてはいけない。証拠がなければ無罪だ。弟子が事件を起こしたことには争いがなく、教祖としての社会的責任はあると思うが、刑事責任は別の話だ。
審理の過程で松本死刑囚とコミュニケーションが取れなくなった。原因ははっきりしている。月3〜4回の審理スピードが速すぎ、じっくりした打ち合わせができない。前の公判の尋問調書ができるのが次の法廷の前日で、打ち合わせ時間もない。毎日のように接見していたが、世間話の交じらない接見など、人間らしい接見にならない。彼も言いたいことがあっても言う暇もない。切迫したスケジュールの中で弁護団との信頼関係が壊されていった。
教団幹部の被告が証人に立ち、弁護人が尋問する時に、松本死刑囚は怒った。弟子がかわいいからだが、なぜ弟子に尋問をする必要があるかという打ち合わせも十分できなかった。それまでの関係は非常に良く、彼は弁護人の接見が楽しみだったと思う。だが、その後、自分で別の世界に入り込んでしまった。誰も信頼できなくなったからだろう。
裁判は(1審に)7年10カ月かかったが、それでも急ぎすぎた。「早く判決を出せ」というマスコミの騒ぎで、弁護活動は大幅に制限された。つくづく「これで法治国家か」と思った。17の訴因で起訴しながら、短期間で結審しろと要求してくるのは「争うな」という意味だ。処罰を前提にしている。
もし、裁判員裁判で松本死刑囚の公判が行われていたらと仮定する。公判前整理手続きで弁護人が整理に応じなければ、公判が開けない。そうなると、裁判所が取りうる唯一の措置は、国選弁護人を解任して、言うことを聞く弁護人を選ぶことだろうが、実質的なリンチだ。裁判は生き物であり、初めから型枠にはめるのは無理なのに、7年10カ月の裁判でもそれが行われてしまった。【聞き手・石川淳一】=つづく
◇わたなべ・おさむ
61年弁護士登録。95年10月、松本智津夫死刑囚の1審弁護人に選任され、12人の国選弁護団の団長を務めた。弁護団の多くが「子供が学校でいじめられる」などと実名公表を控える中、頻繁に記者会見を開いた。04年2月の死刑判決に対し即日控訴し、会見で「検察の主張を上塗りしただけの判決」と批判した。日弁連刑事法制委員会・裁判員問題検討部会副部会長。78歳。
毎日新聞 2011年11月25日 東京朝刊
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オウム公判終結:竹内精一さん/滝本太郎さん/神垣清水さん/1審弁護団長・渡辺脩さん
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