「1963年矯正局長通達」とオウム裁判終結後を考える
〈来栖の独白〉
今月11月18日、21日、オウム事件の上告審判決があり、オウム裁判は終結した。その少し前から、メディアは麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚の再審請求の行方を報道していた。メディアとしては、裁判終結とともに松本死刑囚の死刑執行の近々の可能性を探ったのだろう。
裁判終結に伴って、オウム関連の報道記事が氾濫した。私の心に掛かったのは、被告の母親の姿であった。例えば次のような記事。
弁護士一家殺害審理終了:募るやり切れない思い
カナロコ(神奈川新聞)2011年11月19日
判決が言い渡された最高裁第2小法廷には中川智正被告の母(76)の姿があった。
傍聴席の最前列、死刑を告げる判決をじっと目を閉じて聞き、閉廷の際には小さな体を折り曲げ、正面におじぎをした。
覚悟して久しいことを示すように開口一番、「当然の結果です」と言った。
遠く西日本の地方都市から拘置所の息子への接見に向かい、その際には鎌倉・円覚寺の坂本弁護士一家の墓に参ることもあった。それでも救われない心。
この日も「たった一人の命ですが、少しでも償いになれば。でも、大勢の命を奪い、償いにはなりませんが」。自らに向けるように「わが子を(死刑で)失い、少しでもご遺族の気持ちに近づくことができれば」と静かに話し、タクシーに乗り込んだ。
オウム真理教家族の会代表の永岡弘行さん(73)は、1カ月前に中川被告と接見したことを明かした。「太ったなあ、表情が穏やかになったなあ、と声を掛けると、笑みを浮かべていた」
かつて自身の長男も入信。わが子を教団から取り戻す親たちの運動の先頭に立ち、中川被告の母とも行動を共にした。やがて母は「加害者の母」に。一方の永岡さんはVXガスで教団に殺されかかった。この日、目に涙をため「一連の事件を食い止められなかったわれわれ大人の責任。死刑判決に申し訳ない気持ちだ。お母さんにも掛ける言葉がない」とやり切れなさを募らせていた。
今回初めて、中川被告が私と同郷であると知った。岡山大学付属小中から名門朝日高校、そして京都府立の医学部へ進んだ。中川氏入信から逮捕・起訴、上告棄却と、中川氏のお母上には心の休まる日はなかったであろう。わが子が人を殺め、裁判にかけられ、死刑判決を受ける。これほど辛い母は、いない。遠く岡山の地から、わが子を案じて東京小菅へ通う。裁判は、人の心身を根こそぎ疲弊させる。
>「たった一人の命ですが、少しでも償いになれば。でも、大勢の命を奪い、償いにはなりませんが」
胸、裂ける思いで、このように云われたに違いない。これほどに悲しい母を私はこの世で知らない。
オウムの裁判が終結した今、メディアが旗振り役となって、国民の関心は死刑執行へと移った。これまでは、死刑確定しているといえども、未決の被告人と大差なかった。全員が確定するまでは死刑の執行はない。しかし全員が確定者となれば、死刑執行に対して完全に無防備となる。
加賀乙彦著『死刑囚の記録』から抜粋したい。少し古くて、1980年12月に書かれた<あとがき>である。
中公新書『死刑囚の記録』
ただ、私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は禁止すべきだということである。
死刑の方法は絞首刑である。刑場の構造は、いわゆる“地下絞架式”であって、死刑囚を刑壇の上に立たせ、絞縄を首にかけ、ハンドルをひくと、刑壇が落下し、身体が垂れさがる仕掛けになっている。つまり、死刑囚は、穴から床の下に落下しながら首を絞められて殺されるわけである。
死刑が残虐な刑罰ではないかという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。
たとえば1948年3月12日の最高裁判所大法廷の、例の「生命は尊貴である。一人の生命は全地球より重い」と大上段に振りあげた判決は、「その執行の方法などがその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ」として、絞首刑は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などとちがうから、残虐ではないと結論している。すなわち、絞首の方法だけにしか注目していない。
また、1959年11月25日の古畑種基鑑定は、絞首刑は、頸をしめられたとき直ちに意識を失っていると思われるので苦痛を感じないと推定している。これは苦痛がない以上、残虐な刑罰ではないという論旨へと発展する結論であった。
しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。
加賀氏は「死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。」と言う。
それに呼応するように(?)、行刑施設の管理運営上の指針ともいわれる1963年矯正局長通達「死刑確定者の接見及び信書の発受について」(「63年通達」)は、確定死刑囚処遇の基本を次のように言っている。
「罪の自覚と精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるように配慮すべきであるので処遇に当たり、心情の安定を害するおそれとなる交通も制限される」
死刑制度とは、施設(東京拘置所)職員も、苦難を強いられる制度といえる。
「罪の自覚と精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるように配慮」するのは、並大抵ではない。管理能力には限界がある。「精神の安静」という大前提のために外部との交通が狭められるかもしれない。死刑囚への来信に精神の安静を損なうようなこと(情報)が書かれてあれば施設は困るであろうし、接見においても然りであろう。そうなれば、拘置所は外部との扉を徐々に閉ざすのではないか。
罪の自覚と精神の安静裡に死刑の執行を受けるために、人(死刑囚といえども、人)が人との交わりなしに、外界と隔離されて生きる・・・。
日々、そのような死刑囚に接し、挙句、死刑執行に直接手を下さねばならない刑務官の「精神」も苛酷であるに違いない。死刑存置賛成が大半を占めるこの国の国民は今や「オウムに死刑執行を」と口々に求めるが、次の意見から考えてみたい。
絞首刑は憲法36条の禁止する残虐な刑罰か/死刑の苦痛(残虐性)とは、死刑執行前に独房のなかで感じるもの
論壇時評【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】(抜粋)
日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。(大澤真幸 京都大学大学院教授)
オウム真理教の事件は多くの問題を国民に提起し、裁判では解明しきれず、司法の限界も感じさせた。加えて、死刑制度を存置するこの国の国民一人一人に、死刑について、他人事とせず、自分のこととして考えることを要請しているように思えてならない。裁判員・法務大臣・刑務官に丸投げするのではなく、自らが「判決」し、死刑執行命令書に「サイン」し、刑場に赴いて「執行」する。そうすることで初めて、死刑を自らのこととして考えうるのではないだろうか。
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◆確定死刑囚の処遇の実際と問題点---新法制定5年後の見直しに向けて(明治大学名誉教授・弁護士 菊田幸一)
◆死刑とは何か〜刑場の周縁から
◆「神的暴力」とは何か(上) 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い
◆絞首刑は憲法36条の禁止する残虐な刑罰か/死刑の苦痛(残虐性)とは、死刑執行前に独房のなかで感じるもの 2011-11-11 | 死刑/重刑/生命犯 問題
オウム裁判終結 同じ過ち繰り返さぬため
2011/11/24付 西日本新聞朝刊
日本のみならず世界を震撼させた無差別テロは、1995年3月に起きた。神経ガスのサリン散布で多数の死傷者を出した地下鉄サリン事件である。2カ月前には阪神大震災が発生している。日本人が、そして日本社会が忘れてはならない「戦後50年」の出来事だった。
あれから16年−。ほかに坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件など数々の凶悪事件を起こしたオウム真理教をめぐる一連の刑事裁判が、事実上終結した。裁判では計189人が起訴され、首謀者とされる教団元代表の松本智津夫死刑囚ら13人の死刑が確定することになる。
確かに法的裁きは終わったかもしれない。だが、長い歳月が過ぎたいまも、真相は闇の中に閉ざされたままである。
なぜ多くの信者が松本死刑囚の言動を信じたのか。どうして教団は凶悪化の道を進んだのか。なぜ事件は起きたのか。こういった謎の解明に向けた取り組みを私たちは怠ってはならないだろう。
同時に、いま明らかになっていることから教訓を引き出すことも重要だ。
ヨガサークルとして出発したオウムは87年、オウム真理教を名乗り、このころから、異様な集団生活などが知られるようになる。「子どもがオウムから戻らない」という相談も警察などに寄せられた。89年には東京都から宗教法人の認証を受けるが、その1年前には富士山総本部で在家信者が死亡する事件が起きている。教団暴走の萌芽とも見てとれる。
しかし、行政や捜査機関、メディアは「宗教の問題」として積極的に関与しなかった。教団内部で何があっているのか、その後も一部を除き、立ち入ろうとしなかった。ここにマスコミも含め、大きな反省点があることは否めない。
90年2月の衆院選の際には松本死刑囚ら信者が大量立候補するなどして、教団の知名度を上げていった。地下鉄サリン事件時には出家信者が約1400人、在家信者は1万人以上いたといわれる。
もちろん、教団が引き起こした一連の事件は、独裁的立場にあった松本死刑囚の特異な思想が大きな要因であることは間違いない。しかし一方で、多くの若者たちが狂信的に松本死刑囚に付き従って残虐な犯罪行為に手を染めていったことも、また紛れもない事実である。
「松本死刑囚の命令に疑いを持つことさえ許されず、思考停止状態だった」
地下鉄サリン事件でサリン製造を主体的に行うなど重要な役割を果たした元幹部の弁護側は、上告審の弁論で、こう主張して死刑回避を求めたという。この言葉の中にこそ、オウム真理教事件の本質が隠されているのではないか。
人間の持つ最も優れた能力は、思考することだろう。人類がこれまで地球上で生き残ってきたのは、自ら考えて判断する力があったからである。その思考が奪われたら、どうなるか。再び同じような「犯罪集団」を生み出さぬためにも、このことを社会全体で再確認したい。