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「安田事件」/“民意”を追い風にした政治的背景/底知れぬ権力犯罪のにおい/繰り返される断罪報道

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安田弁護士:強制執行妨害で有罪確定へ
 経営難に陥った顧問先の不動産会社の資産約2億円を隠したとして強制執行妨害罪に問われた弁護士、安田好弘被告(64)の上告審で、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は6日付で、被告と検察双方の上告を棄却する決定を出した。1審無罪を破棄して罰金50万円とした2審・東京高裁判決(08年4月)が確定する。弁護士法は、禁錮以上の刑が確定した場合は弁護士資格を失うと定めているが、安田弁護士のケースは罰金刑にとどまったことで、弁護士資格は維持される。
 裁判官5人中4人の多数意見。田原睦夫裁判官(弁護士出身)は「被告が会社側の犯意を認識していたとする点に、合理的な疑いが払拭(ふっしょく)できない」と述べ、無罪にすべきだとの反対意見を述べた。
 安田弁護士は93年3月〜96年9月、顧問先の不動産会社社長=懲役1年6月、執行猶予3年が確定=らと共謀し、同社所有の賃貸ビル2棟のテナントに対し「賃貸人が代わった」などと装ってテナント料計約2億円をダミー会社2社に振り込ませ、これらの賃料債権への強制執行を妨げたとして起訴された。
 懲役2年の求刑に対し、無罪を言い渡した1審・東京地裁判決(03年12月)は顧問先への助言について違法性はないとして、「アンフェアな捜査だった」と捜査を批判。一方、2審は逆転有罪としつつ、共謀を否定してほう助罪にとどまると判断し、罰金刑を選択。これに被告、検察の双方が上告していた。【石川淳一】
◇松本死刑囚の弁護担当
 安田弁護士は第二東京弁護士会所属。死刑廃止運動のリーダー格として、死刑事件の弁護活動に積極的にかかわることで知られる。
 オウム真理教事件の一連の公判で、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(56)の1審主任弁護人を務めていた98年、強制執行妨害容疑で警視庁に逮捕された。自身の刑事裁判の1審では、安田弁護士側は「松本死刑囚の弁護人として、検察側証人らに容赦ない尋問を行ったことへの攻撃」と捜査への疑問を投げかけた。逆転有罪となった2審判決に対し、安田弁護士は「捏造(ねつぞう)された証拠を全面的に採用し、検察のメンツを立てた」と批判を強めていた。
毎日新聞2011年12月8日 13時02分(最終更新12月8日 13時48分)
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「私は無実」と安田弁護士 有罪確定見通しでコメント
 死刑廃止運動のリーダー的存在として知られ、強制執行妨害事件で罰金50万円の有罪判決が確定する見通しとなった弁護士安田好弘被告(64)の弁護団が8日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し「私は無実です」と訴える本人のコメントを読み上げた。
 コメントは、上告を棄却した最高裁の決定を「検察が捏造した証拠を見破ることができず、真実を見極める力がなかったことは残念でならない」と批判。「検察のメンツを立てつつ、私の弁護士資格を奪わない罰金刑で一件落着にするという壮大な妥協」と評した。
2011/12/08 17:23【共同通信】
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安田弁護士事件
西日本新聞(2004年01月22日掲載)

 住宅金融専門会社(住専)の大口貸し付け先だった「スンーズコーポレーション」(東京)が、ビル賃料の差し押さえを免れようと実体のないダミー会社を設立。一九九三年から九六年にかけ、賃貸料約二億千万円を同社の口座に振り込み財産を隠したとして、警視庁は同社社長らを逮捕。その後、隠匿を指示した疑いで顧問弁護士の安田好弘氏を逮捕した。
 だが、安田氏の公判でこの二億千万円は、同社の倒産に備え、従業員四人が無断で横領していた事実が判明した。同社社長らはすでに一、二審とも有罪判決を受け、上告中。
 【深く読む・核心に迫る、追う=揺らぐ検察の「正義」 安田好弘弁護士に無罪 背景にオウム裁判や「国策」の不良債権回収 「判決、まるで告発文」】
 判決というより、裁判所の「告発文」と私には思えた―。強制執行妨害罪に問われ、昨年12月24日、東京地裁から無罪を言い渡された安田好弘弁護士は、私にこう語った。オウム真理教(アレフと改称)の元代表・松本智津夫(麻原彰晃)被告の主任弁護人を務めるほか、死刑廃止運動の先頭に立つ「人権派」の旗手。そんな安田氏の逮捕、起訴、そして無罪判決からみえてくるのは、この国の司法に潜む闇である。(北九州支社・宮崎昌治)
 「あなたが当裁判所に起訴され、本日でちょうど満五年となります」。
 無罪判決を言い渡した後、川口政明裁判長は安田氏に語りかけた。一九九八年十二月六日、安田弁護士は警視庁に逮捕され、同二十五日に東京地検から起訴された。
 裁判長は続けた。
 「審理が少し長引きご迷惑をおかけしました。私は、わたしなりに事件の解明に努力したつもりです。いろいろ話したいこともありますが、中途半端に余計なことを入れるのはやめておきましょう」
 そして「今度、法廷でお会いするときは、今とは違う形でお会いできることを希望します」。こう結ぶと、もう一度「被告人は無罪」と繰り返し、法廷を後にした。
 千二百人を超える大弁護団と検察の威信を賭けた攻防は、安田氏側の全面勝利でその第一幕を閉じた。
  □   ■
 なぜ、安田氏は無罪なのか。
 判決は、検察が有罪を立証しようとした関係者の供述調書作成に「捜査官の強引な誘導があったことが強く疑われる」と指摘。そのうえで、捜査と公判における検察官の立証活動に「より根本的で重大な問題がある」と強く批判している。
 それは何か。
 警視庁と東京地検は、安田氏が顧問を務める不動産会社で、使途不明となっていた二億千万円を「債権回収を妨害するため、安田氏が指示して隠した」と見立てた。
 だが、実はこの金は同社従業員らが横領していた。検察は安田氏の逮捕・起訴前に実は、その事実を知り、見立て違いに気付いていた。だが、既定方針通り安田氏を逮捕・起訴し、公判でも、その事実を隠した。しかも、横領事件の追及を全くしていない。
 このような検察官の態度を判決は「アンフェア」とし、従業員の横領を不問に付した行為を「一種の司法取引のような形で、全面的に捜査機関に迎合する供述を行ったとみられてもやむを得ない」と結論付けた。
 言葉は穏やかだが、捜査、公判における検察の「不正義」を断罪している。弁護団は「判決が検察に対し、捜査段階のみならず、公判での不正義にまで言及したのは過去に例がない」と話す。
  □   ■
 だが、問題はそれだけにとどまらない。
 より「根本的」な問題は、なぜ安田氏が逮捕されたか、ということだ。その理由を重ね併せると、恐るべき権力犯罪のにおいがしてくる。
 当時、麻原裁判での安田氏の強力な弁護活動に検察はてこずっていた。一方で、世間からは遅々として進まぬ裁判への批判が高まっていた。
 さらに、安田氏を告発したのは、不良債権処理という「国策」を遂行していた中坊公平氏率いる旧住管機構である。当時、中坊氏こそが「正義の旗手」であり、中坊氏の債権回収に世間は喝さいを送っていた。
 最後に、安田氏は捜査機関にとって長年、手ごわい「敵」であり、「じゃま」な存在だった。
 “民意”を追い風にした、こうした政治的背景が「安田氏逮捕」に見え隠れする。この事件を検証したジャーナリストの魚住昭氏は著書「特捜検察の闇」(文芸春秋)で「捜査の目的は真実や正義の追究ではない。安田を葬り去ることである」と記している。
 捜査に100%はない。警察も検察も、ときに間違う。だが、それは正義を追究した結果の「過失」であって初めて成り立つ言い訳であり、間違いが「故意」であれば、これほど恐ろしい権力犯罪はない。
 ちなみに、中坊氏は今回の判決の直前、強引な不良債権回収の違法性が指摘され、弁護士廃業に追い込まれた。
 オウム裁判における安田氏の弁護活動は、地下鉄サリン事件で夫を亡くした高橋シズエさんでさえ、私の取材に「黙秘する被告も、安田さんが質問すると返事をする。法廷が終わると、私たちにも『つらかったでしょう』と声を掛ける。相手の心の中に入ってゆける人で、安田さんがいなければオウム裁判は成り立たない」と語っていたことも、つけ加えたい。
  □   ■
 無罪判決後の、安田氏の言葉を紹介する。
 「逮捕直後は、正直言って『やっとこれで弁護士をやめられる』と、ほっとした」
 当時、安田氏はオウム裁判に忙殺され、徹夜も度々という生活で月四回の公判に備えていた。逮捕直前、私が事務所に出向くと、安田氏の机の脇には、寝袋と折り畳み式ベッドがあった。
 「しかし三、四日して体力が回復してくると、激しい怒りが抑えようもなくわき上がり、怒りで目が覚めることも度々でした」 「捜査・公判は事実ではなく、政治的意図に基づいて動いていた。私は警察と検察が敵対するものをつぶすために権力を使ったと、そう思っています。そして、私の身に起こったことは、ほかでも起こっている。これでは戦前の国家警察とどこが違うのか」
 裁判長は何を「いろいろ話したかった」のか。そこに、底知れぬ権力犯罪のにおいを感じとっていたのではないかと、私は思っている。そして、検察の「正義」を疑うことなく、私を含めてメディアはまたも、逮捕・起訴段階で安田氏の「断罪報道」を繰り返してしまった。
 検察は東京高裁に控訴し、審理はなお続く。 安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』講談社α文庫
p3〜
 まえがき
 いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
 なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
 他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
 私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
 そして「弱い人」とは、その反対の人、である。
 私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。
 それは、私が無条件に「弱い人」たちに共感を覚えるからだ。「同情」ではなく「思い入れ」と表現するほうがより正確かもしれない。要するに、肩入れせずにはいられないのだ。
 どうしてそうなのか。自分でも正確なところはわからない。
 大きな事件の容疑者として、連行されていく人の姿をみるたび、
「ああ、この人はもう一生娑婆にはでてこられないだろうな・・・」
 と慨嘆する。その瞬間に、私の中で連行されていく人に対する強い共感が発生するのである。オウム真理教の、麻原彰晃さんのときもそうだった。
 それまで私にとって麻原さんは、風貌にせよ、行動にせよ、すべてが嫌悪の対象でしかなかった。宗教家としての言動も怪しげにみえた。胡散臭いし、なにより不遜きわまりない。私自身とは、正反対の世界に住んでいる人だ、と感じていた。
 それが、逮捕・連行の瞬間から変わった。その後、麻原さんの主任弁護人となり、彼と対話を繰り返すうち、麻原さんに対する認識はどんどん変わっていった。その内容は本書をお読みいただきたいし、私が今、あえて「麻原さん」と敬称をつける理由もそこにある。
 麻原さんもやはり「弱い人」の一人であって、好むと好まざるとにかかわらず、犯罪の渦の中に巻き込まれていった。今の麻原さんは「意思」を失った状態だが(これも詳しくは本書をお読みいただきたい)、私には、それが残念でならない。麻原さんをそこまで追い込んでしまった責任の一端が私にある。
 事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが、「弱い人」は事情がまったく異なる。個人的な不幸だけでなく、さまざまな社会的不幸が重なり合って、犯罪を起こし、あるいは、犯罪に巻き込まれていく。
 ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、一個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
 私はそうした理由などから、死刑という刑罰に反対し、死刑を求刑された被告人の弁護を手がけてきた。死刑事件の弁護人になりたがる弁護士など、そう多くはない。だからこそ、私がという思いもある。
 麻原さんの弁護を経験してから、私自身が謂われなき罪に問われ、逮捕・起訴された。そういう意味では私自身が「弱い」側の人間である。しかし幸い多数の方々の協力もあり、1審では無罪を勝ち取ることができた。裁判所は検察の作り上げた「作文」を採用するのでなく、事実をきちんと読み込み、丁寧な判決文を書いてくれた。
 多くの人が冤罪で苦しんでいる。その意味で、私は僥倖であった。
 この国の司法がどこへ向かっているのか、私は今後も、それを監視しつづけていきたいと思っている。「弱い人」たちに、肩入れしつづけていきたいと思っている。(〜p5)
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『死刑弁護人』/“平和を実現する人々は幸いである。義のために迫害される人々は幸いである”マタイ5章2011-10-12 | 死刑/重刑/生命犯 問題
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国家と死刑と戦争と【2】
*弁護人・被告人の抵抗を潰す「司法改革」
 「司法改革」という言葉を皆さんご存じかと思います。その「司法改革」の要として裁判員制度の導入があると説明されています。この裁判員制度の導入を言いだしたのは、最高裁でも法務省でもありません。それは、内閣に設置されている「司法改革推進本部」---内閣直属の機関が、突然言いだしたわけです。その理由とするところは「広く国民に司法を開放し、国民の司法に対する信頼を獲得する」と法律の冒頭で謳っています。司法の公正を維持するというのではなく、司法の国民的な信頼を維持する、つまり国家的な司法に切り替えるということなんです。簡単に言ってしまえば、国民を総動員する司法をつくり上げようということです。そして裁判員制度の実現のために必要であるとして出てきたのが「公判前整理手続」の導入と「新たな国選弁護人制度」の導入であるるわけです。国民の皆さん方に裁判員になって協力してもらうのだから、なんとしてでも裁判は迅速にしなければならない。裁判員に対し、せいぜい3〜5日くらいの拘束期間で裁判を終わらせなければならない。そのためには、その裁判の前の段階で弁護人と裁判所と検察官が「公判前整理手続」という手続きを行って、下ごしらえする。つまり争点とか証拠の整理をすべて密室で事前に終わらせたうえで裁判にかけるという制度を、彼らは作り上げたのです。談合裁判なんです。公判を数日で終わらせるためには、この公判前整理手続を新設するだけでは間に合わない。それで、さらに拙速裁判(彼らは「裁判の迅速化」と呼んでいますが)、つまり連日開廷、継続審理、主尋問と反対尋問は同日中に行わなければならない、ということを定めたのです。これによって死刑事件はどういうことになっていくのでしょうか。
 皆さん方もおわかりだと思いますが、死刑事件は長い時間と多大の調査、そしてまず本人自身が事件と正面から向き合う、そういう態勢が整って初めて真相が解明されます。長い時間をかけて初めて被告人自身が裁判で当事者として自ら主張し、自らの権利を守っていこうとすることができる、ということは私たちが過去何度も体験してきたことです。しかし、この「公判前整理手続」あるいは「裁判の迅速化」によって、その機会が完全に奪われてしまうわけです。例えば昨年、神戸で行われた裁判では、「公判前整理手続」が行われて、起訴されてからわずか3ヵ月で死刑判決が出ました。公判は数回だったようです。本件は控訴されないまま確定しています。
 それから次に新たな国選弁護人制度の導入です。これは、弁護人が公判前整理手続に出頭しない恐れがある場合、あるいは出頭しても中途で退席する恐れがある場合、あるいは公判についても同じですが、そのような場合には、裁判所は新たな国選弁護人を選任することができるという規定が設けられたのです。ですから例えば大道寺さんたちがやろうとした、弁護人を解任して弁護人不在の状態で、とにかく裁判を進行させないということは、およそできなくなってしまったのです。弁護人が裁判所の不当な訴訟指揮に対して抗議する、その抗議あるいは抵抗の手段として残されていた法廷のボイコットという手法が、完全に封じられてしまった。弁護人が法廷をボイコットすると、直ちに裁判所の言いなりになる国選弁護人をつけられて裁判を終結させられてしまうわけです。
 私たちは麻原彰晃さんの裁判のとき、当時弁護人は12名おりましたが、1度だけですが全員が裁判を欠席したことがありました。ボイコットしたわけです。裁判所は私どもの事務所に電話してきてなんとか出廷してくれと言ってきました。私たちは全員それを拒否して出なかった。これまでならば、彼らはそれ以上のことはできないわけです。結局その日の裁判は取りやめになりました。裁判所はそれに懲りたのか、いくらかは反省して訴訟指揮を緩めてきました。しかし今後はそのようなことはできない。裁判所の権限が強化されて、そういうときは弁護人に出頭命令が出され、それだけでなく在廷命令が出るわけです。そしてそれに従わなければ、直ちに科料という制裁に処せられることになります。(中略)
 どういう場合にそれができるかというと、例えば弁護人が公判前整理手続事実関係について否認するという意思を表明した場合、裁判所がその手続に被告人を呼び出して直接被告人に対して「本当に否認するのか」と問いただす、つまり言外に弁護人の言うことに従わずにさっさと認めたらどうか、と問いただすことができる。当然被告人は裁判官の顔色をうかがって「否認する」とは言い切れない。結局「争いません」と言わざるをえない。裁判所は弁護方針にまで直接介入・干渉することができるわけです。また、こういう場合、裁判所は、弁護人と被告人に対し、連名で書面を出せと要求することができることになりました。結局、弁護人は被告人の意思に従わざるをえず、被告人は裁判所の意向に従わざるをえない。そういう制度に新刑事訴訟を変えてしまった。
 皆さん方は、これまで死刑事件にかかわってこられておわかりと思いますが、事件を起こした人というのは、その起こした瞬間から、すでに自分の命を捨てています。1日も早く処刑されてこの世から消えることを彼自身は願っている。そういう中で、弁護人が一生懸命彼を励まし、一つ一つ事実について検証していこう、検察官が出してくる証拠について確認していこうよと呼びかけても、被告人からは「とにかく裁判を早く終わらせてくれ」と求められるわけです。そういうことを新しい法律が見越して、被告人がそういう状態にいる間に裁判を終わらせてしまおうというのが、この新しい法律の狙いです。
*「裁判員制度」の導入は徴兵制と同じ
 すでに言いましたとおり、裁判は、公判前整理手続や新たな国選弁護人制度の下で完全に争う場面そのものが剥ぎ取られた上で公判が始まります。判決は市井の裁判員6名と裁判官3名の9名の多数決によって決められるので、当然社会の世論がそのまま裁判に反映されることになります。有罪無罪から始まって死刑か無期かに至るまで、多数決、つまり今のc。今の世の中では8割近い人が死刑を容認しています。マスコミの事件報道の氾濫により、殆どの人が治安が悪化していると思い込んでいます。さらに多くの人が犯罪を抑止するためには厳罰が必要だと確信しています。そういうものがそのまま法廷に登場するわけです。それだけでなく、被害者の訴訟参加によって被害者の憎しみと悲しみと怒りがそのまま法廷を支配するのです。法廷が煽情化しないはずがありません。感情ほど強烈なものはありません。感情に対しては反対尋問も成立しません。感情は理性を凌駕します。まさに法廷はリンチの場と化すのです。
 従来キャリア裁判官によって裁判制度は維持されてきました。なぜキャリア裁判官制度を私たちは選択したか。キャリア裁判官でなければ維持できない原則が司法にあるのです。それは、世論に影響されない、政治的な圧力にも影響されない、そして無罪推定の原則の下に事実を認定し、法の下に量刑を判断する---それはアマチュアではだめで、専門的な教育を受け、トレーニングを積んだ職業的な技能と倫理観に支えられた専門家によって初めて公正な裁判が維持できるという制度設計、戦前あるいは過去の裁判制度の弊害を見たうえでの私たちの知恵として、安全弁として職業裁判官制度を選択してきたのです。
 もちろん今の裁判官が高邁な思想や堅固な職業意識で支えられているわけではありません。現在、彼らの意識の中には無罪推定の原則はありません。検察官の言うとおりに事実を認定し、99,9%の事件について有罪判決を出す、チェック機能さえ有していないのが現在の司法裁判官の実態です。彼らは腐敗し堕落しきっているのですが、裁判員制度の導入によって、私たちが従来のキャリア裁判官制度に託した理念や思想さえも破壊してしまおうというわけです。これを単純に言ってしまえば、「司法の規制緩和」以外の何ものでもない。裁判員制度は規制緩和の一環として導入されたと言われています。それは、裁判制度を、商業的あるいは資本主義的な目的のために、有効に活用しようというのです。まさに司法そのものが国家政策を推進するものとしての新しい役割を与えられたわけです。
 ここでぜひ皆さんに考えていただきたいのですが、今の日本の法律の中で、私たち一般市民が国家的な権力行使行為に強制的に駆り出されるという法律は存在しません。強制的に義務を課せられるというはありますが、それはせいぜい徴税の義務とか、もっぱらサービスを提供させられる義務なのです。しかし、今回はサービスの提供ではない。裁判という権力を行使する機関の一員として私たちは義務づけされて国家行為をさせられるのです。参加しなければ10万円という科料を科せられます。これは戦後始まって以来の法律です。よく考えてほしい。死刑判決、それは行政府に対する殺人命令です。つまりそれは銃をかまえてその引き金を引くのと同じことです。それは、敵対する市民に向かって銃の引き金を引くのと同じこと、つまり戦闘行為そのものです。私たちは「判決」という、いかにもスマートな国家行為に参加させられるようにみえて、実はそうではない。敵を拉致して財産を没収する(これが罰金刑です)、捕虜として拘禁して強制労働をさせる(懲役刑の宣告はまさにそれです)、これを私たちは今回の裁判員制度によっていや否応なしにやらされる。これは徴兵制度そのものではないかと私は思うのです。裁判員になる確率は3500人ないし4000人に1人といわれています。しかし現在の自衛隊の規模で、徴兵制を導入するとなると、連れて行かれる人を全人口で割れば数字に大きな差はないだろうと思います。裁判員制度に動員される私たちと徴兵制に駆りだされる私たちと、型は違っても基本的に同じ構造を持っていると思います。
 話は元に戻ります。どうして彼らは、最高裁だけでも毎年16億ものカネをつぎ込んで、談合しマスコミを買収してまでも裁判員制度を実現しようとするのか。私はその裏に21世紀の徴兵制の導入、そしてさらに裁判員制度の導入によって抵抗する被告人・弁護人の排除、そして国民から拍手喝采を受ける刑罰の実現という、彼らが絶対に実現したいものがある。だからこそ、これほどまでに裁判員制度導入についてあからさまな宣伝行為というよりは情宣活動をやっているんだと思います。
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『年報死刑廃止08』【犯罪報道と裁判員制度】ー安田好弘弁護士の話抜粋
 一つ理解していただきたいんですが、裁判員裁判が始まると言われていますが、実はそうではないのです。新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです。今までの裁判は、検察官、被告人・弁護人、裁判所という3当事者の構造でやってきましたし、建前上は、検察官と被告人・弁護人は対等、裁判所は中立とされてきました。しかし新しくスタートするのは、裁判所に裁判員が加わるだけでなく、検察官のところに独立した当事者として被害者が加わります。裁判員は裁判所の内部の問題ですので力関係に変化をもたらさないのですが、被害者の参加は検察官がダブルになるわけですから検察官の力がより強くなったと言っていいと思います。(中略)
 司法、裁判というのは、いわば統治の中枢であるわけですから、そこに市民が参加していく、その市民が市民を断罪するわけですね、同僚を。そして刑罰を決めるということですから、国家権力の重要な部分、例えば死刑を前提とすると、人を殺すという国家命令を出すという役割を市民が担うことになるわけです。その中身というのは、確かに手で人は殺しませんけれど、死刑判決というのは行政府に対する殺人命令ですから、いわゆる銃の引き金を引くということになるわけです。
 今までは、裁判官というのは応募制でしたから募兵制だったんです。しかも裁判官は何時でも辞めることができるわけです。ところが来年から始まる裁判員というのは、これは拒否権がありませんし、途中で辞めることも認められていません。つまり皆兵制・徴兵制になるわけです。被告人を死刑にしたり懲役にするわけですから、つまるところ、相手を殺し、相手を監禁し、相手に苦役を課すことですから、外国の兵士を殺害し、あるいは捕まえてきて、そして収容所に入れて就役させるということ。これは、軍隊がやることと実質的に同じなわけです。(略)
 裁判員裁判を考える時に、裁く側ではなくて裁かれる側から裁判員裁判をもう一遍捉えてみる必要があると思うんです。被告人にとって裁判員というのは同僚ですね。同僚の前に引きずり出されるわけです。同僚の目で弾劾されるわけです。さらにそこには被害者遺族ないし被害者がいるわけです。そして、被害者遺族、被害者から鋭い目で見られるだけでなく、激しい質問を受けるわけです。そして、被害者遺族から要求つまり刑を突きつけられるわけです。被告人にとっては裁判は大変厳しい場、拷問の場にならざるを得ないわけです。法廷では、おそらく被告人は弁解することもできなくなるだろうと思います。弁解をしようものなら、被害者から厳しい反対尋問を受けるわけです。そして、さらにもっと厳しいことが起こると思います。被害者遺族は、情状証人に対しても尋問できますから、情状証人はおそらく法廷に出てきてくれないだろうと思うんです。ですから、結局被告人は自分一人だけでなおかつ沈黙したままで裁判を迎える。1日や3日で裁判が終わるわけですから、被告人にとって裁判を理解する前に裁判は終わってしまうんだろうと思います。まさに裁判は被告人にとって悪夢であるわけです。おそらく1審でほとんどの被告人は、上訴するつまり控訴することをしなくなるだろうと思います。裁判そのものに絶望し、裁判という苦痛から何としても免れるということになるのではないかと思うわけです。(略)
 つまり、刑事司法は従来、本当は人を生かし、自由を守り、命を守り、そして名誉と財産を守るシステムだったはずのものが、実は人を破壊し、専ら人に苦痛を与える場所というふうになっているわけです。そういうものを防ぐために、少なくとも理性と法で支配される場、少なくとも事実が公正に評価される場、人が人として評価される場でなければならないのですが、ますますそれと逆行していく。その最たるものが裁判員裁判ではないかと思うんです。
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「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法
2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの

 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
 ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。
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異端の肖像2006「怒り」なき時代に 弁護士安田好弘(58) 【中日新聞2006年5月11日夕刊】
22日に光市事件差し戻し控訴審判決 バッシング渦中の安田好弘弁護士に再び聞く 2008年4月10日中日新聞朝刊記事より抜粋


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