〈来栖の独白〉
被災という言語に絶する苦難と哀しみのなかを生きることを余儀なくされた多くの皆さんを思う、そんな日々が私に続いている。胸が痛み、ともすればぼんやりとしている自分を発見する。献金したからといって、すまない。気力が根底から削がれるような、そんな気がする。
こういう悲惨を目の当たりにした者として、どのように生きればよいのか、私自身が迷いの中にある。このところは、独り「ミサに倣う」。ミサの次第に沿って、オルガン(エレクトーン)を弾きながら典礼聖歌を歌う。典礼の季節は四旬節である。答唱詩編、アレルヤ、聖書朗読・・・を祷る。独りで捧げるミサ。「聖体」は要らない。「聖体」というカトリック教会が定めたルールは、必要としない。そうするなかで、実感しないではいられない。典礼聖歌は、やはり普通の歌ではない、と。「みことば」がそのままメロディという天衣を纏って人の心に届けられる。そのことを実感する。それを私は指でなぞり、声に出して歌う。賛美する。
そんな折、五木寛之さんの紀行をBSで観る。六祖慧能の話し。
六祖慧能は、禅を広めた、言ってみれば禅の中興の人といえる。「頓悟禅」という言葉がある。「人は誰でも仏性が具わっており、それに気づくことが『悟り』であって、誰でも即座に悟ることが出来る」。
人間は本来無一物で、知恵や悟りに必要なものなど、無い。きれいな鏡(明鏡)や台も、要らぬ。本来、無一物。塵や埃も、付きようがない。本来、人間には煩悩などなく、自らに具わった仏性に気づきさえすればよい。
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、「悟った人というのは、最後は市井に還ってきて、飄々と人の中を生きる」と説く。
次のようにもいう。
「修行しようと思うならば
家に在てもよろしい
寺におらねばならぬということはない
家にいてよく修行するならば ちょうど東の国にいて
心がけの善い人のようなものである
寺にいても修行せねば
西方にいて悪い人のようなものである
心さえ清ければ
そのまま自己の
本性という西方にいることになる」
『六祖截竹図』には、竹の枝を落とす慧能が描かれている。自ら率先して農作業をしている。それが修行である、という。
六祖慧能の最後の偈。
「心地含種性
法雨即花生
頓悟花情己
菩提果自成」
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六祖慧能
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