結婚のかたち 死に物狂いで止めておくべきだった原発
JB PRESS 2011.04.07(Thu)佐川光晴
3月11日午後2時46分、私は埼玉県志木市の自宅で地震に遭遇した。最初はゆるやかだった揺れがなかなか止まず、これはおかしいぞと思った時、家全体をぐらつかせるほどの大揺れが来た。
テレビをつけて、震源地と震度を確認しようとする間にも揺れは強まり、これはとんでもない大地震だと分かった。
私は台所でカレーを作っていて、ほぼ出来上がったカレーがこぼれないように、必死に鍋を押さえていた。しかし、この揺れには際限がないらしいと判断すると、短縮授業で帰宅していた中学3年生の長男に「外に逃げるぞ」と呼びかけた。
カレーは諦め、財布をズボンのポケットに突っ込み、靴をはいて庭に出ると地面と近所の家々が波打つように揺れている。「おとうさん、震源地は仙台の方だって」と遅れて出てきた息子が叫び、私は小学1年生の次男がいる小学校へと走った。
通りには近所の人々が出ていて、心配そうに肩を寄せ合っている。「震源地は仙台の方だそうです」と私が言うと、「そうなの。あっちはどうなっているのかしら」と話す声を聞きながら、私は300メートルほど先にある小学校に急いだ。
幸い学校に被害はなく、全校児童の安全を確認してから集団下校をさせるという。それならと自宅までとって返すと、庭で待っていた長男が、「大丈夫。カレーもこぼれてないし、お皿とかも割れてないよ」と知らせてくれた。停電もしなかったので、私は余震に揺られながら固定電話であちこちに連絡をとった。
しばらくして、今度は長男と一緒に小学校まで行き、下校してきた次男を連れて3人で家に帰った。市内の別の小学校に勤務する妻とは1時間ほどして電話がつながり、お互いの無事が確認できた。
その日の晩には、4月から北海道新聞で始めるコラムの打ち合わせに記者が来訪することになっていた。しかし、ようやく上野駅から乗ったタクシーが3時間たっても後楽園までしか進まないという。どうしたものかと心配していると、電車が動きだしたそうなので予約していた浜松町のホテルに向かいますと、午後11時過ぎにメールが届き、私はひとまず安心して眠りについた。
女性記者は翌日の午前10時に志木まで来て、午後2時の新千歳空港行きの便に乗るというので、打ち合わせが済むと早々に帰っていった。
地震の直後は、津波に襲われる町の映像がテレビで繰り返し流れたが、やがて原発がまずいという話になった。地震と津波によって電気系統が破壊されて、6基ある原子炉のうち、1号機から4号機までの4基が制御不能に陥ったという。
その報道に接した時、私は瞬時、日本列島が死の灰に覆われる恐怖に怯えて、息子たちにすまないと詫びたくなった。
「やはり原発は死に物狂いで止めておくべきだった」
そう思った人は少なくないだろう。東大教授の歴史学者、加藤陽子氏も、今回の大震災を受けてのコラムで、大岡昇平の文章を引いて以下のように述べている。
<「(昭和)19年に積み出された時、どうせ殺される命なら、どうして戦争をやめさせることにそれをかけられなかったという反省が頭をかすめた。(中略)この軍隊を自分が許容しているんだから、その前提に立っていうのでなければならない」>
<輸送船に乗せられた時、自分は死ぬという明白な自覚が大岡を貫いた。これまで自分は、軍部のやり方を冷眼視しつつ、戦争に関する知識を蓄積することで自ら慰めてきたが、それらは、死を前にした時、何の役にもたたないとわかった。自ら戦争を防ぐという行為に出なければならなかったにもかかわらず、自分はそれをしなかった、こう大岡は静かに考える。よって、戦争や軍隊について自分が書く時は、自分がそれらを「許容していた」という、率直な感慨を前提として書かねばならない、と大岡は理解する。>
<以上の文章の、戦争や軍部という部分を、原子力発電という言葉に読み替えていただければ、私の言わんとすることがご理解いただけるだろう。>
(毎日新聞、2011年3月26日付、「時代の風」より)
実は、といって続けるのは大変みっともないが、私も大岡昇平は一通り読んでいるし、有名な発言でもあるので、今回の原発事故に関して、加藤陽子氏と同じ文章を思い出した。
加藤氏はさらに、<政府に求めたいのは、事故発生直後からの記録を完全な形で残し、その1次史料を、第三者からなる外部の調査委員会に委ねてほしいということだ>と述べて、<これが、亡くなった方を忘れない、最も有効な方法だと信ずる。>と結んでいる。
なるほどその通りだと頷きつつも、加藤氏は1つ大事なことを書き落としている。それは東京電力福島第一原子力発電所が、その名称からも明らかなように、東京をはじめとする首都圏の電力供給を賄うために設置され、稼働してきたという事実である。
放射性物質の飛散により、避難指示を受けた人たちが憤るように、福島県民にとって原発から生み出される電力は全く必要のないものだった。
さらに今回の顛末が如実に示している通り、事故が起きた場合、原発の近くで暮らす人々は故郷から強制的に引き離されてしまう。それに対して、首都圏に住む我々は、とりあえず現時点では、計画停電によって不便をかこつ程度の被害で済んでいる。
大岡昇平は、他の兵士たちと共にフィリピンに送られて、敗軍の中で死に直面した。しかし首都圏に住む我々は、放射性物質の恐怖に怯えつつも、いまだ避難民となってはいない。我々が消費する電力を生み出していた福島原発の近隣住民が、行くあても定かでないままに住み家を逐われているのにである。
私は、この事実は、ゆめゆめ忘れるべきではないと思う。とても、いくらかの寄付をしたり、炊き出しを手伝ったくらいで埋め合わせられる過(とが)ではない。
そして、いつかそうなってしまうかもしれないという予想が、人々を反原発運動に駆り立てていたはずだ。
(福島県は自ら積極的に原発を誘致し、原発を引き受けることにより、国から多額の補助金を得ていた。また、地元では原発関連の企業を就職先として、多くの雇用も生まれていた。だから、今回の被曝や避難は自業自得だとする意見もあるようだが、それについては次回以降に私見を述べたい)
私が学生生活を送った北海道では、1988年に稼働を始めた泊(とまり)原発の建設を巡って、激しい反対運動が繰り広げられた。
私も北海道電力に対するデモに参加したり、学内で抗議集会を開いたりした。就職と結婚によって首都圏に出てきてからは、さしたる活動もしてこなかったが、我々はただ漫然と原発を「許容していた」わけではない。
結果的に今日の事態を招いてしまったとしても、そこに至るまでに数々の闘いがあったことは、やはり明らかにしておきたいと思う。
また、東京電力へのバッシングが日に日に増しているが、東電のような一国の基幹となる産業とそれを統括する官僚組織が、当時の学生の目にどう映っていたのかについても、次回以降触れていきたいと思う。
復興へのビジョンを描くことも大切だが、なぜこのような悲惨な事態が生じてしまったかの究明を疎かにしていい理由とはならない。さもないと、被災地の復興を願う人々の努力は、利権を狙う一部の者たちに巧みに搦め取られてしまうだろう。
亡くなった方々に報いるためにも、それだけはなんとしても避けなくてはならない。(つづく)
〈筆者プロフィール〉
佐川 光晴 Mitsuharu Sagawa
1965年東京生まれ。北海道大学法学部卒業。出版社、屠畜場の勤務を経て、2000年「生活の設計」で第32回新潮新人賞受賞を受賞しデビューする。2002年『縮んだ愛』で第24回野間文芸新人賞を受賞。その他の著書に『ジャムの空壜』『銀色の翼』『金色のゆりかご』『牛を屠る』『おれのおばさん』(第26回坪田譲治文学賞受賞)などがある。
・結婚のかたち
誰もがそこに幸せがあると思い描く「結婚」。しかし結婚が作り出す夫婦や家族という絆は、時には人々を拘束する枷となり、また悲劇的な事件を生み出す引き金にもなる。介護、障害児教育や未成年少女の出産など、様々な社会問題をテーマに小説を著してきた筆者が、夫婦・家族の姿をフィルターとして日本社会の行方を探る
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◆原発を私は「許容していた」。 原発を許容したのは、自分であり国民それ自体なのだという洞察2011-03-26 | 地震/原発
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