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橋下市長個人にではなく〈橋下的なもの〉に感じる違和感。必要なのはリダンダンシーのある社会ではないか

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橋下市長個人にではなく〈橋下的なもの〉に感じる違和感。本当に必要なのはリダンダンシーのある社会ではないか
Diamond online香山リカの「ほどほど論」のススメ
2012年1月23日 香山リカ [精神科医、立教大学現代心理学部教授]
■なぜ私が橋下さんを批判するのか
 橋下さんはツイッターで、自らの方針を批判する学者や識者を攻撃しています。
 学者や識者と呼ばれる、直接の執行者ではない人が、時の為政者や体制に自らの専門的な立場や経験に基づいて批判的な意見を言うのは、いつの時代においても重要なことと考えます。それは決して、橋下市長への個人攻撃ではありません。
 その意味でも、“橋下現象”あるいは橋下さんの政治姿勢に対して懸念を表明してきた浜矩子さんや内田樹さんや高村薫さんといった方々に、橋下さんが感情的とも思える批判をぶつけることに違和感を覚えています。
 かく言う私も、橋下さんの府知事時代の言動などに対して批判的な考えを明確にしてきました。どの政策や言動に対しての批判かをここでひとつひとつ取り上げることはしませんが、私が懸念を感じるのは以下の点です。
 「物事を何でも極端に白黒にわけて、黒はダメと一刀両断に切り捨ててしまう」
「自分に対する反対意見を徹底的に論破して否定し、多様性を認めようとしない」
 一方で、世間では「スピード感がある」「はっきりしている」という肯定的な評価もあります。しかし、切り捨てられる側のことを考えると、私としては、明瞭さやスピード感を素直に評価することはできません。
 現代社会では、これほど〈橋下的なもの〉が支持される。あるいはその「風」に乗って、橋下さんがさらに〈橋下的なもの〉を尖鋭化させていくのではないか。私は、その「現象」に危惧を覚えているのです。
 精神科医は本来、目の前の患者さんを診断し、治療するのが主な役目です。しかしもう一つ、患者さんが接する社会全体あるいはそこで傑出した存在となっている権力者や政治家について分析するのも精神医学の一つ役割であり、これまで内外の多くの精神医学者が取り組んできました。これは、社会精神病理学、歴史精神医学などと呼ばれています。
 つまり、私は精神科医として〈橋下的なもの〉の象徴としての橋下さんや彼を熱狂的に支持する人たちを分析し、その発言や行動に社会病理性を感じ、歴史との比較なども行いながら、警鐘を発したいと考えているのです。
■個人ではなく社会現象に病理を感じているにすぎない
 橋下さんに関する私の発言を指して、橋下さんは「会ったこともない人を精神病呼ばわりしている」と批判されています。
 ネット上でも同じような批判が書き込まれていますが、これだけははっきりと申し上げておきます。
 私は、橋下さん個人が病気だとは言っていません。
 確かに、大阪市長選挙の際は反対陣営の平松さんを応援する中で、これまでマスコミで報じられている橋下さんの特徴を分析し、そこに見られる心理的傾向を類推する発言はしました。それでも、橋下さんご自身を病気だと“診断”したわけではありません。
 私は橋下さんにお会いしたことはありません。橋下さんがおっしゃる通り、お会いしたことも、というより治療関係にもない人に確定診断を下すことはできません。いえ、もし万が一、お会いした人に「この人、病気なのでは」と思ったとしたら、もっと言えるはずはないじゃないですか。実際にこれまで対談などを通して社会的地位のある人に、病的傾向を感じたことは何度もありますが、逆にそういう話はいっさい公にはしていません。
 私は、社会的な発言をするときのルールを自分に科しています。
 まったくメディアに出ていない一般の人については批判しません。メディアに日常的に露出している公人、あるいは犯罪にかかわった人物などに限定しています。
 そのうえで、例えば公人を批判する場合は、見ている人にはわかりにくいかもしれませんが、マスコミで公開されている発言や行動に限って分析対象として、これまで経験してきた中での似たパターンを提示することにとどめています。
 「この方がこういうことをおっしゃるということは、こういうことが起きている可能性があります。だとすれば危険な兆候ですね」という具合です。
 つまり、そういう人が登場してきた背景に存在する社会現象を通じて社会を読んだり、時代精神を読んだりしているのです。
 ただ、その分析には社会現象を象徴する個人が含まれることもあります。触れざるを得ないときには、細心の注意を払います。
 繰り返しますが、橋下さんご自身の内面的なことを問題にしているのではありません。私は、テレビやネット、新聞や雑誌などのメディアに流れていて、誰にでも触れることのできる橋下さんの発言や行動から見えてくる〈橋下的なもの〉に対して物を言っているだけなのです。
 個人的にお会いしたとしても、その印象を公の場で語ることはありません。仮にその方の精神的な何かを感じたとしたら、なおさら普段の言論にも注意深くなるものです。精神科医という仕事柄、多くの人に誤解を与える恐れがあるからです。
■公開討論で勝ち負けを競うことに意味はない
 橋下さんは、私たちのような批判を向ける人たちに対し、テレビの討論番組に出演することを要求しています。
 しかし、こうした問題は、テレビなどの公開討論の場で勝ち負けを競うような性質のものではないのではないでしょうか。意見の違いが、ディベート技術の競い合いで発展的なものにつながると思えないからです。
 短時間で行われる公開討論のなか、その場の感情や雰囲気でやり取りをしても、見ている人にライブとしての面白さは提供できても、それで相互の意見の理解が深まるものでしょうか。
 私がなぜ社会病理的なものを感じているかという点について、もし橋下さんがお聞きになりたいと思われるのであれば、落ち着いて推敲した文章という形でお渡しすることはできると思います。
 それでも、と言われたら、もちろんテレビの前で議論することもあるかもしれませんが、仮にその場のディベート技術で橋下さんに言い負かされた形になったとしても、今後の政策や言動を見て行く中で、「おかしい」と思うことは「おかしい」と言うと思います。
 私が問題だと感じている現象がある限り、見て、分析して、言うべきときには批判的な意見を言うということに変わりはありません。
 ただ、なぜ自分が得意とするテレビ討論というフィールドでのみ、論戦を交わそうという手法にこだわるのかがわからないのです。
いまだからこそ必要な「リダンダンシー」の視点
 私は高齢化社会をテーマとした、政府のある委員会に参加させていただいております。その会合でこんなことをおっしゃる方がいて、とても印象的でした。
 「こういうことを決めるときには、窓口を一本化するなどという効率化も大事だが、ある種のリダンダンシーも必要じゃないか」
 リダンダンシーとは冗長性のことです。この場合、必要最低限のものだけでなく、ある程度の余地や重複がある状態を指しています。
 例えば、買い物に不自由している高齢者の方がいたとします。
 その対策として、高齢者のための「御用聞き」のような制度を作ります。御用聞きが必要な物をすべて買い揃えることで、高齢者の負担は軽くなります。
 仮にそうした制度ができても、地元の商店に買い物に行きたいと考える方もいるでしょう。御用聞きの制度ができたからといって地元の商店を廃止するのではなく、どちらでも選べる状態にするのが望ましいという考え方です。
 同じような行政サービスは二ついらない、それは税金の無駄だと考えるのが現代の風潮です。しかし、場合によっては、同じようなものが重複していることも、大切なことではないかと思うのです。
 ハローワークで仕事を探しても見つからなかった人がいたら、効率化が徹底された社会では、ほかに仕事を探す場所はもうありません。しかし、完全に情報を集約する仕組みも漏れや誤りはつきものです。そんな時、違うところにも仕事を探せる場所があるほうが、豊かな社会だとは言えないでしょうか。それは探す人の気持ちや性格によって選択肢が増えることでもあります。
 過度に効率化が叫ばれている現代社会だからこそ、こうしたリダンダンシーという視点も忘れないようにしたいものです。
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「大阪市長選挙に思う。数値化できる成果が出なければ存在価値はないのか」香山リカ2011-12-12 | 政治
 大阪市長選挙に思う。数値化できる成果が出なければ存在価値はないのか  
Diamond online2011年12月12日 香山リカ[精神科医、立教大学現代心理学部教授]
*大胆な政策を打ち出した橋下さんを支持した大阪市民
 11月27日に投開票された大阪市長選挙では、大差をつけて橋下徹氏が平松邦夫氏に圧勝しました。特に、若い世代ほど橋下さんを支持する傾向が顕著に表れた選挙だったといえます。
 橋下さんは「大阪都構想」や「教育基本条例」などの新しい提案を掲げて選挙戦に臨みました。実現性があるかどうかはさておき、橋下さんは極端とも思える政策を前面に打ち出して大阪市民の関心を引きました。
 あまりに極端なことを言う姿は、年配層やインテリ層からは非現実的なことを思いつきで言っているように見られました。しかし、一般の有権者はそこまで自信をもって言い切る橋下さんを、大阪の将来を真剣に考える人と捉えたのかもしれません。
 一方の平松さんは、橋本さんの提案を批判することに終始しました。
遅まきながら「なにわルネッサンス2011」構想などを提示しますが、橋下さんの大胆で極端な政策を知った大阪市民には凡庸に映り、インパクトを与えることはできませんでした。
 市民にとってみれば、平松さんの「今まであった良いものは守り、さらに良くする」という主張は、ぬるま湯的で必死さが感じられないと映ったのでしょうか。
 閉塞感が支配する日本には今、あらゆる局面で「何かを変えなければならない」と考える風潮が広がっています。そして閉塞感を打ち破るための、抜本的かつ即効性のある変化を求める人が多くを占めるようになってきたように感じます。
 今までの延長線上で「様子を見ながら少しずつやっていきましょう」という考えは受け入れられにくくなっているようです。
*お金を生まない施設は意味がない?
 私は平松さんを応援する立場に立っていました。
 橋下さんを支持しなかった理由のひとつは、政策の実現性の問題以前に、橋下さんの議論の仕掛け方に違和感を持ったからです。
「僕の敵に回りますか? それとも味方になりますか?」
 まずA対Bのバトル構造を作り、そのうえで「さあ、どちらを取りますか?」と迫ってくる橋下さんのやり方に、抵抗を感じざるを得ませんでした。あたかも変化か現状維持かという問題設定にすり替えてしまう。変化は必要だが、それほどドラスティックな変化は望ましくないと考える人も、否応なく白か黒かの選択を迫るようなやり方です。
 もうひとつの理由は、橋下さんが大阪府知事に就任したときに遡ります。
橋下さんは、就任後すぐに府の事業の見直しを打ち出しました。当時、府立上方演芸資料館(ワッハ上方)、府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)、府立体育会館などがやり玉にあがったことを覚えておられる方も多いのではないでしょうか。
 私が気になったのは府立国際児童文学館廃止までの経緯です。
 この国際児童文学館は、およそ絵が描かれているものはすべて集めるという方針の特殊な施設です。資料的価値の高い漫画が揃っていて、研究者にとっては非常に有意義な施設として重宝がられていました。
 もちろん、橋下さんも漫画を捨てろと言ったわけではありません。
 しかしながら、文学館が廃止されれば、資料は分散して保管されることになってしまいます。この施設は一か所に価値の高い資料が集められていたところに意義があったと言えるので、資料さえ保管されていればいいという発想には賛成できませんでした。
 ところが、橋下さんは廃止を決定してしまいます。その理由は「金を生み出す能力がないから」という一点に絞られていました。
*どちらも極端な橋下さんと大阪府職員
 大阪府の財政はたいへん厳しい状況に置かれていました。一方的にお金が出て行くだけの施設をムダだと思われていたようです。
 一方で、廃止に反対する立場の意見はこうです。
「文化財なのだから、お金を生まなくてもいいではないか」
 児童文学館側は、貴重な文化財を守っているのになぜ廃止されるのかまったくわからないという声が大きかったようです。しかし、彼らの側もコストに対する意識が低かったかもしれません。文化財なら守られて当然という意識が強かったのでしょう。廃止一辺倒の橋下さんに対し、民間のコスト意識とはまったく無縁なところに立つ公務員が反論するだけの、説得力のある意見が出なかったのも、私は複雑な思いで見ていました。
 そうだとしても、私には「金を稼ぐものだけがいいもの」という市場の論理が極端に強すぎるのではないかと思えてなりません。
 確かに、企業であれば仕方がないでしょう。企業は収益を上げてこそ存続できるものだからです。
 しかし、企業ではできないことを担うのが公共的な事業なのではないでしょうか。また文化財の存在は、それ自体に収益が生まれるというものではなく、広くそして世代を超えた価値を享受できものではないでしょうか。
 そこをすべて競争原理にさらしてしまうのであれば、すべての事業を民間に委託してしまったほうがいいという話になってしまいます。
 前回の東京都知事選挙に立候補したある経営者も、自治体の運営は企業と同じだという意見でした。私は、素朴な疑問として考えざるを得ません。本当に、国や自治体は企業と同じなのでしょうか。
*「ほどほど」の立ち位置は難しいが健全である
 ある大手新聞社の論説委員が参加する「なぜ若者は新聞を読まないのか」というテーマを議論するイベントに参加したことがあります。
 その打ち合わせのときに、私はこんな発言をしました。
「若者だって今は収入が少ないのだから、新聞代になかなかお金はかけられませんよね。そもそも、いま新聞の購読料は毎月いくらですか?」
 私の発した問いに、居並ぶ論説委員は誰一人として答えられませんでした。
 自分たちが売っているものの値段を知らない。そのくせ「こんなに良いものを作っているのに、読まない若者は問題だ」と言ってのける無神経さ。私にはちょっと考えられない姿勢です。
 この大手新聞社の論説委員や公務員側の対応を見ると、お金を払っているのに運営側に経営感覚がまったくなければ憤りを覚えるのは当然でしょう。したがって、大阪市民が橋下さんの論調に賛意を示すのもある程度は納得できます。
 とはいえ、収益だけを意識して児童文学館を運営すれば、幅広い資料を揃えることはできません。読者を拡大する一般受けする記事だけを書けば、新聞としての使命を果たすことはできなくなります。
 数値化できる成果が出るものだけを追う風潮には、私はとても賛成できないのです。数値化されるものを積み上げていっても、世の中うまく回るものではありません。社会で必要とされているものの中で、数字で比較できるものは限られていると思います。そのようなものだけ評価しようとする発想にバランスの偏りを感じます。
 すべてのことは、極端に偏るのではなく「ほどほど」にする。しかし「ほどほど」ほど難しいものはありません。
 極端に偏ることは、考え方を持つうえでも議論をするうえでも、むしろ簡単なことだからです。橋下さんの主張する「極端」な政策が破たんしたら、大阪市民は別の「極端」になだれをうって偏っていくことになるでしょう。こうした風潮は決して健全とは言えず、市民は多くのストレスを抱えることになるのではないでしょうか。
 多様性のある現代社会では、白とも黒ともつかないなかで考え、迷いながら生きていかざるを得ない。確かにそこで生じるストレスはあるかもしれませんが、極端から極端に振れることから生じるストレスよりはるかに健全だと思います。
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政党政治が崩れる〜問責国会が生む失望感===透けるポピュリズム
 論壇時評 金子勝(かねこ・まさる=慶応大教授、財政学)2011/02/23Wed.中日新聞
 歴史の知識を持つ人にとって、今日の日本政治には政党政治が崩壊する臭いが漂っている。約80年前の大恐慌と同じく、今も百年に一度の世界金融危機が襲っており、時代的背景もそっくりだ。
 保坂正康「問責国会に蘇る昭和軍閥政治の悪夢」(『文藝春秋』3月号)は、昭和10年代の政治状況との類似性を指摘する。
 保坂によれば、「検察によるまったくのでっち上げ」であった「昨年の村木事件」は、財界人、政治家、官僚ら「16人が逮捕、起訴された」ものの「全員無罪」に終る昭和9年の「帝人事件」とそっくりである。それは「検察の正義が政治を主導していく」という「幻想」にとらわれ、「いよいよ頼れるのは軍部しかいないという状況」を生み出してしまった。
 ところが、「民主党現執行部」は「小沢潰しに検察を入れてしまうことの危険性」を自覚しておらず、もし小沢氏が無罪になった時に「政治に混乱だけが残る」ことに、保坂は不安を抱く。さらに「問責決議問題」は「国家の大事を政争の具にした」だけで、「事務所費問題」も、国会を「政策上の評価ではなく、不祥事ばかりが議論される場所」にしてしまった。
 保坂によれば、「最近の政党が劣化した原因」は「小泉政権による郵政選挙」であり、その原形は「東条内閣は非推薦候補を落とすため、その候補の選挙区に学者、言論人、官僚、軍人OBなどの著名人を『刺客』としてぶつけた」翼賛選挙(昭和17年4月)に求めることができるという。そしてヒトラーを「ワイマール共和国という当時最先端の民主的国家から生まれたモンスター」であるとしたうえで、「大阪の橋下徹知事」が「その気ならモンスターになれる能力と環境があることは否定できない」という。
 保坂とは政治的立場が異なると思われる山口二郎も、「国政を担う2大政党があまりにも無力で、国民の期待を裏切っているために、地方政治では既成の政治の破壊だけを売り物にする怪しげなリーダーが出没している。パンとサーカスで大衆を煽動するポピュリズムに、政党政治が自ら道を開く瀬戸際まで来ている。通常国会では、予算や予算関連法案をめぐって与野党の対決が深刻化し、統治がマヒ状態に陥る可能性もある」(「民主党の“失敗” 政党政治の危機をどう乗り越えるか」=『世界』3月号)という。
 山口も同じく、「小沢に対する検察の捜査は、政党政治に対する官僚権力の介入という別の問題をはらんでいる。検察の暴走が明らかになった今、起訴されただけで離党や議員辞職を要求するというのは、政党政治の自立性を自ら放棄することにつながる」とする一方で、「小沢が国会で釈明することを拒み続けるのは、民主党ももう一つの自民党に過ぎないという広めるだけである」という。
 そのうえで山口は「民主党内で結束を取り戻すということは、政策面で政権交代の大義を思い出すことにつながっている。小沢支持グループはマニフェスト遵守を主張して、菅首相のマニフェスト見直しと対決している」と述べ、民主党議員全員が「『生活第一』の理念に照らして、マニフェストの中のどの政策から先に実現するかという優先順位をつけ、そのための財源をどのように確保するかを考えるという作業にまじめに取り組まなければならない」と主張する。そして「菅首相が、財務省や経済界に対して筋を通すことができるかどうか」が「最後の一線」だとする。
 しかし残念ながら、菅政権は「最後の一線」を越えてしまったようだ。菅政権の政策はますます自民党寄りになっている。社会保障と税の一体改革では与謝野馨氏を入閣させ、また米国の「年次改革要望書」を「グローバルスタンダード」として受け入れていくTPP(環太平洋連携協定)を積極的に推進しようとしている。小泉「構造改革」を批判して政権についたはずの民主党政権が、小泉「構造改革」路線に非常に近づいている。
 まるで戦前の二大政党制の行き詰まりを再現しているようだ。戦前は、政友会と民政党の間で政策的相違が不明確になって、検察を巻き込みつつ、ひたすらスキャンダル暴露合戦に明け暮れて国民の失望をかい、軍部の独裁を招いた。現在の状況で総選挙が行われて自民党が勝っても、政権の構成次第では様相を変えた衆参ねじれ状態になり、また野党が再び問責決議を繰り返す状況になりかねない。
 このまま政党政治が期待を裏切っていくと、人々は既存の政党政治を忌避し、わかりやすい言葉でバッシングするようなポピュリズムの政治が広がりかねない。何も問題を解決しないが、少なくとも自分で何かを決定していると実感できるからである。それは、ますます政治を破壊していくだろう。
 いま必要なのは歴史の過ちに学ぶことである。それは、たとえ財界や官僚の強い抵抗にあっても、民主党政権はマニフェストの政策理念に立ち返って国民との約束を守り、それを誠実に実行する姿勢を示すことにほかならない。
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「破産会社」は本当に「優良会社」になったのか。首長としての実績を問う---橋下「大阪府改革」を検証する2011-11-18 | 政治 
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「民主主義の自殺行為」か――「大阪維新の会」がダブル選挙制す
週刊金曜日ニュース2011年12月12日10:12AM
 一一月二七日に投開票された大阪市長と府知事のダブル選挙は、橋下徹前府知事と、同氏が結成した「大阪維新の会」幹事長の松井一郎前府議が、それぞれ対立候補に大差をつけて圧勝した。
 今回の二つの選挙では、橋下・松井両首長や「維新の会」が制定を目指す府の「教育基本条例案」が争点に。学力テストの結果で学校別に競わせ、序列化と子どもたちの競争を煽るといった「目標」に従わないと、知事が教員や教育委員を免職・処分できるという内容で、選挙前に教育学者ら九八人が「戦前のような教育現場になる」と抗議の声明を発表していた。
 橋下氏は選挙期間中、「条例案」には一切触れない作戦を徹底。しかし当選後、五人の委員全員が「条例案」に反対している府の教育委員会に対して「選挙の結果を重く受け止めるように」などと発言しており、今後反対運動は正念場を迎えそうだ。
 さらに両首長は、職員を相対評価で下位評価に査定し、二年連続で最下位評価となった職員を免職できる「職員基本条例案」も可決しようとしており、選挙後も「反ハシズム」の闘いは続く。
 ジャーナリストの斎藤貴男氏は、「大阪には『お笑い票』という、漫才師だろうが何だろうがテレビに出演する”人気者”なら政策など関係なく投票する有権者が一〇〇万人いると聞いた。そんな土地柄なら今回のような選挙結果になっても不思議ではないのだろうが、実に恐怖を感じる。橋下氏が圧勝できるなら、同じタイプの人間が今後国政や地方議会にさらに登場してくる可能性もある」と、政策論より”人気”や”キャラ”を重んじる大阪の選挙風土を問題視。また、今春、東京都知事に石原慎太郎氏が再選されたことについても斎藤氏は、「『民主主義の自殺行為』とも言うべき現象が、最悪の事態を招くまでに行き着くのではないか」と危惧した。
(成澤宗男・編集部、12月2日号)
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小沢一郎氏との20日の会談を持ちかけたのは橋下徹市長/エラソーな橋下が、小沢氏には、やけに低姿勢2011-12-12 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア


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