中日新聞を読んで 「JR前社長の刑事裁判」後藤昌弘(弁護士)
2012/01/29 Sun.
11日付夕刊に、JR西日本の前社長の無罪判決の記事が掲載された。見出しには「真実解明願い届かず」と書かれている。
たとえ話であるが、鉄道会社のA社長は乗客の安全を最優先し、管内の危険個所をチェックして回っていた。しかし予算に限りがあるため対策は一度に全てはできなかった、そして次年度に対策を予定していた箇所で死亡事故が発生した。B社長は利益を優先して会計帳簿しか見ず、事故防止策は全て現場に任せていたところ、以前から現場で危険性が指摘されていた箇所で死亡事故が発生した。さて、刑事裁判で有罪となるのはどちらだろうか。
誰が見ても、褒められるべきはA社長であり、非難されるべきはB社長であろう。しかし、法律的には、有罪とされるのはA社長であり、B社長は無罪となる可能性が高いのである。
刑事事件で有罪とするには、具体的な事故の予見可能性が必要である。当該現場の危険性を社長自身が具体的に認識し、事故が予見できた場合でない限り、刑事責任を問うことは難しい。
皮肉な話だが、JR西日本のトップが安全を最優先に考え、管内の危険な場所を事前に見て回り、事故防止策の必要性を現場から聞いていれば、今回の裁判で有罪となった可能性はある。しかし、そうではなかったが故に無罪になったといえる。
懸念されるのは、今回社長が起訴された前例ができたため、今後経営トップが危険な現場を直接確認するなどということはなくなると思われる点である。危険な場所の存在を経営トップが具体的に知っていると、刑事責任を問われる可能性が高くなるからである。
遺族の悲しみと怒り。原因究明を求めたい気持ちは痛いほど分るが、それは刑事裁判本来の目的ではない。こうした起訴は、事故防止の面では逆の効果をもたらしかねないということを知っておく必要があるだろう。
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クローズアップ2012:JR西脱線、前社長無罪確定 新証拠なく控訴断念
乗客106人が死亡し多数が負傷したJR尼崎脱線事故で、業務上過失致死傷罪に問われたJR西日本の山崎正夫前社長(68)の無罪判決に対して検察は控訴を断念した。その背景には、複雑な要因が絡み合う大規模事故で、組織の経営幹部個人の刑事責任を問うことの難しさがある。一方、検察審査会の議決により同罪で強制起訴されたJR西の歴代3社長の公判はこれからだ。控訴断念の経緯や無罪確定が投げかけた課題をまとめた。【重石岳史、渡辺暢、田中謙吉】
◇最高検が主導
「承服しがたい点も多々ある」。控訴断念を表明した神戸地検の小尾(おび)仁次席検事は判決についてこう言及した。だが問題視している部分については「全体として判断しており、個々への言及は避けたい」と繰り返すばかりだった。約50分間の会見の大半がこうしたやり取りで、「この説明で十分と思うか」の問いには「答えはありません」と述べた。
控訴断念は最高検の意向と言える。神戸地検が危険性の認識を裏付ける証拠とした97年のダイヤ改正について、判決は「大幅な余裕が与えられた」として逆に否定した。最高検は19日のテレビ会議で「裁判所が下したダイヤ改正の認定を覆す証拠はあるのか」「山崎前社長だけが危険性に気づけたとする新しい証拠はあるのか」などと問題点を指摘。控訴を求める神戸地検に事実上、断念の考えを伝えていた。
検察関係者によると、山崎前社長の在宅起訴(09年7月)については、当初から検察首脳の中で意見が割れていた。大阪高検検事長として捜査の指揮を執った大泉隆史氏(09年退官)が「起訴しないと検察が持たない」と主張する一方、最高検は証拠の積み上げを要求。実際には起訴にストップをかけていた。
しかし、大泉元検事長は現場で「起訴が困難なことは百も承知だが、先入観を持たずに初心に帰って証拠を検討すべきだ」と指示していた。当初は慎重だった検事らも「過失は十分認められる」と次第に流れが変わっていったという。最高検の首脳陣の顔ぶれも変わり、一転して検察当局は起訴に踏み切った。
大泉元検事長は毎日新聞の取材に、「再発防止や安全のために無理やり起訴したわけではない。検察全体でやれると判断したからだ」と答えた。
だが、無罪判決を受け最高検の反応は厳しかった。「被害者感情を考慮し過ぎた面もあり、予見可能性を広くとらえ過ぎた」「事故の結果責任を問う起訴だったかもしれない」と、起訴判断そのものを疑問視する声すら上がり、検察が自らを否定する結果となった。
脱線事故の捜査に関わったある検察関係者は、「ダイヤなどの問題は当初は議論になっていなかったはずだ」と、揺れる検察首脳の判断に苦言を呈した。
◇歴代3社長、立証困難
歴代3社長の起訴内容は、山崎前社長と同様に96年12月〜97年3月にあった三つの事項から、現場カーブで事故が起きる危険性を認識したとしている。これを否定した神戸地裁判決が確定したことで、立証が極めて難しくなる見通しだ。
強制起訴されたのは、井手正敬元会長(76)と南谷昌二郎元会長(70)、垣内剛元社長(67)。3人とも「自動列車停止装置(ATS)を設置して事故を回避できたポスト」(指定弁護士)にいた社長時代の責任を問われている。神戸地検は遺族の告訴を受けて捜査したが、09年7月、「安全管理の権限を鉄道本部長に一任していた」として不起訴(容疑不十分)とした。
3社長の起訴状で予見可能性の根拠として挙げられたのは、(1)事故現場カーブの半径を半減した工事(96年12月)(2)JR函館線カーブでの貨物脱線事故(同)(3)ダイヤ改正に伴う快速の増発(97年3月)の3点。指定弁護士は「カーブの工事が決定された91年時点でどうすべきだったのかも重視したい」としている。しかし無罪判決は「同様のカーブは多数存在し、ダイヤ改正も危険性を高める要因にはならない」などとして、危険認識の根拠にはならないと判断している。
一方で、無罪判決は「快速が(尼崎駅の手前6駅目の)中山寺駅で停車するようになった03年12月以降にダイヤの余裕は乏しくなった」と指摘。公判でも元運転士が同様の証言をしているが、起訴状には一切、記載がない。この当時は垣内氏が社長だったが、安全対策を統括していた鉄道本部長は起訴されておらず、山崎前社長だけが起訴された経緯を考えれば、その上位者の危険認識を問えるのかも焦点となりそうだ。
◇法人罰、進まぬ法整備
無罪確定を受け、被害者からは組織責任を問う法人罰導入を求める声も上がっているが、法律家の間には効果や適用範囲などを巡って疑問視する意見もある。
鉄道や航空などの大規模事故は要因が複合的に重なって起きる。加害側の組織が大きいほど個人は埋没し、経営責任は問いにくい。こうした現代型事故に対応するため、英国では08年、法人に罰金刑を科す「法人故殺罪」を導入。米国では刑事責任を追及しない代わりに民事訴訟で莫大(ばくだい)な賠償金を科す考えが浸透している。
一方、日本では明治時代にできた刑法の枠内で、あくまで個人の刑事責任を追及せざるを得ない。日航機墜落事故(85年)などでも法人罰導入を求める声が出たが、本格的議論には発展しなかった。元検事の郷原信郎弁護士は「検察の現場で問題意識を持つ人はいたが、組織としての議論にはならなかった」と証言する。
今回の事故で10人を書類送検した兵庫県警の当時の捜査幹部は「遺族の気持ちを思い、立件しなければと思った。法人の処罰規定があればと思ったこともある」という。安部誠治・関西大教授(公益事業論)は「今回の裁判で組織の責任をはっきりさせるべきだと感じた。法人罰を議論すべき時期ではないか」と指摘する。一方、池田良彦・東海大教授(刑法)は「経済犯罪などは法人に罰金を科すことで抑止につながるが、過失犯を抑止する効果があるかは疑問。実行行為者を処罰する本来の刑法の処罰範囲を、むやみに広げるべきではない」と否定的だ。
郷原弁護士も「何を基準に法人の過失を認めるかは難しい」とし、「制度で解決できる問題ではない。処罰ではなく、事故当事者と被害者がどうすれば信頼関係を構築できるかを社会で考えていくべきだ」と話す。
控訴断念が決まった25日、大阪高検幹部はつぶやいた。「おかしいと社会が思うなら、立法府で法律を作る動きがあってもいい」
毎日新聞 2012年1月26日 大阪朝刊
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JR西日本前社長無罪判決の皮肉/刑事事件で有罪とするには、具体的な事故の予見可能性が必要である
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