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殺された被害者の人権はどうなる?/被害者の夫は、「死刑でないのはおかしい」と裁判所や社会に訴え続けた

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“殺された被害者の人権はどうなる?”このフレーズには決定的な錯誤がある
森達也 リアル共同幻想論
Diamond online 2012年2月2日 森達也[テレビディレクター、映画監督、作家]
■元最高検検事、土本武司・筑波大学名誉教授の発言
 この10月、大阪で起きたパチンコ店放火殺人事件の公判に、「絞首刑は残虐な刑罰を禁じた憲法に違反する」と主張する弁護側の証人として、元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授が出廷した。自ら死刑執行に立ち会った経験を踏まえながら、「(絞首刑は)正視に堪えない。限りなく残虐に近いものだ」と証言した土本は、死刑制度そのものについては「憲法は、法律によればどんな刑罰も科せるとしている」と肯定しながらも、「残虐でないことを担保するような方法でなければならない。その検討がこれまで不十分だった」と指摘した。さらに自らが求刑した死刑囚と文通を重ねるうち、「改心していく彼を刑場に送っていいのかという気持ちになった」とも証言した。
 この記事を新聞で読んだとき、僕は少しだけ複雑な気持ちになった。死刑存置論においては重要な権威で理論的支柱でもある土本とは、これまで『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)などで何度か顔を合わせている。いつも強硬な死刑存置論者の印象だった。その土本が、なぜ一転して廃止論者のようなことを公の場で言ったのか、その真意がどうしてもわからない。
 目の敵にしているわけではないけれど、2010年10月に刊行した『極私的メディア論』(創出版)で、僕は土本を強く批判している。この少し前に月刊誌『WEDGE』で見かけた土本の寄稿エッセイ《外国人の「犯罪天国」日本》の論旨があまりに粗雑で結論ありきの文章だと感じたからだ。以下に引用する。
  (前略)在日外国人の検挙人員は、ここ20年で約半減している。ところが土本は、2006年の来日外国人犯罪の総検挙数が、(前年と比べたら減少していることには言及しながらも)10年前の1996年における総検挙数と比較すれば、件数は約1.5倍に、そして人員は約1.6倍に増大していると指摘しながら、「懸念すべき状況にある」と書いている。
 この10年に区切るのなら確かに増えている。当たり前だ。だって来日する外国人の数が、この10年で3割から4割ほど増えている。でも警察庁の犯罪統計は、このデータにまったく触れていない。(中略)外国人犯罪が増加していると断定した土本は、いかに外国人犯罪が危険で凶悪であるかを何度も強調してから、
  《現に、同年末、全国20歳以上の3000人を相手に実施された「治安に関する世論調査(内閣府)」によれば、「治安が悪くなった原因は何か」という問いに対し、「来日外国人による犯罪が増えたから」と答えたものがトップを占めている(55.1%)。》
 と記述している。奇妙な文章だ。「現に」と副詞を置いたのなら、普通ならこのあとには実例がくる。だって「現に」なのだ。でも土本がこのあとに記述したのは内閣府のアンケート。実例ではない。ならば使うべき言葉は、「現に」ではなく「ちなみに」あたりにすべきだ。アンケート(民意)はデータによって形成される。ところが土本はそのデータを補強する要素として、アンケートの結果を挙げている。メビウスの輪のような論理展開だ。そもそもこのアンケートの前提が怪しいのだ。でも「現に」と言われれば、前提の知識や情報を持たない人は何となく納得してしまうのかもしれない。こうして虚偽のデータが流通し、この国における管理統制への希求は加速するばかりだ。
■「治安が悪化している」という前提がまず錯誤なのだ
 ……こうして引用しながら読み返すと、(我ながら)相当に辛辣というか揚げ足とり的なニュアンスが、ちらちらと見え隠れしている。明らかに感情が先行している。少しだけ反省。でも「虚偽のデータが流通し、この国における管理統制への希求は加速するばかりだ」という結びのセンテンスを修正するつもりはまったくない。その状況は今も進行している。
 厳罰化や管理統制の強化を肯定する多くの識者は、この国の近年の治安悪化を理由に挙げるけれど、その前提がまずは錯誤なのだ。治安は悪化などしていない。殺人事件の認知件数は毎年のように戦後最少を更新している。過去との比較だけではなく世界各国との比較においても、日本は現状において世界有数(ほぼトップレベル)で治安が良好な国なのだ。とにかくこの時点において土本は、まさしく(僕にとっては)頑迷な識者の筆頭だった。
 そして11月27日、京都産業会館で開催されたシンポジウム「第41回 憲法と人権を考える集い」(主催京都弁護士会)に、僕と土本は、パネラーとして参加することになった。
*   *   *
 今年のこの催しのサブタイトルは「死刑、いま命にどう向き合うか」。3人目のパネラーは、元刑務官で現在はノンフィクション作家である坂本敏夫。つまり、とりあえずのバランスとしては、森と土本が死刑廃止と存置それぞれの両端で、坂本は(廃止よりでありながら)実践的な提唱をするポジションと位置付けられる。要するに対立構造だ。もちろんシンポジウムなのだから、この人選は間違っていない。パネラーたちが同じような意見を言いながら互いに頷き合うだけのシンポジウムやトークショーならば、参加する意味はほとんどない。
 ……とは思いながらも不安だった。現在の土本のポジションがよくわからない。思想や哲学は簡単には変わらない。真意は別のところにあるのだろうか。とにかく会って確かめたいと考えながら、早朝の新幹線に乗った。
■レポート発表を終えた高校生たちに罵声が飛んだ
 催しの第1部では、地元の京都宇治高校の生徒たちによる死刑制度についてのレポート「高校生からの調査報告」が行われた。およそ20人近くの高校生たちは、この調査をする前までは、死刑制度についてほとんど疑問など持っていなかったという。例えば夜に眠り朝に目を覚ますように、あるいは水が高いところから低いところへ流れるように、凶悪な罪を犯した人は処刑されて当然なのだと思っていたという。
 つまり前提だ。
 でも被害者遺族やかつての冤罪死刑囚、教誨師や元刑務官などに会って話を聞きながら、彼らは少しずつ意識を変えた。もちろんあっさりと廃止派に転向などしない。もしそんなドラスティックすぎる変化があるのなら、それはそれでどうかと思う。
 彼らは揺れる。死刑は本当に正しい選択なのか。被害者遺族の傷を本当に慰撫するのか? 仮に慰撫するにしても、それは人の命を犠牲にすることに価するのか? あるいは人の命を踏みにじった命なのだから、犠牲になって当然なのか?
 そんな自分たちの揺れる意識を誠実に提示しながら、高校生たちは1時間余りのレポート発表を終えた。ニュアンスとしては死刑制度への懐疑が色濃い結論だった。でも断言はしない。できない。いずれにせよ知ることで変わった。ならばこれからも知り続ける。知らないことはたくさんある。知り続け、そして考え続ける。最後に高校生たちが一列に並んで頭を下げたそのとき、客席から罵声が飛んだ。
 「被害者の人権はどうなるんだ!?」
 会場は静まり返った。最前列に座っていた僕は後ろを振り返った。年配の男性だった。険しい表情をしていた。男性はさらに何か言った。かなりの大声であり、かなりの剣幕だった。バカヤロウやフザケルナ的な言葉そのものは発さなかったけれど、バカヤロウやフザケルナ的な雰囲気を男性は濃厚に発していた。
 僕は視線を前に戻す。壇上で高校生たちは動揺していた。硬直していた。涙顔になっている女の子もいた。全員が沈黙したまま、第1部が終わった。
■加害者の人権への配慮は被害者の人権を損なう!?
 ネットや週刊誌などでも、死刑反対を訴える弁護士や知識人たちへの反論として、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」は、ほぼ常套句のように使われるフレーズだ。ならばもう一度反論しよう。
 このフレーズの前提には、(治安悪化を理由に厳罰化を正当化するロジックと同じように)決定的な錯誤がある。
 高校生たちは「被害者の人権を軽視しましょう」などとは発言していない(当たり前だ)。ただし加害者(死刑囚)の人権について、自分たちはもっと考えるべきかもしれないとのニュアンスは、確かにあった。そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。
 でもこの2つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。ところが加害者の人権への配慮は被害者の人権を損なうことと同義だと思い込んでしまっている人が、あまりに多い。いつのまにか前提になってしまっている。
 大きな事件や災害が起きたとき、この社会は集団化を強く求める。そしてこのときに集団内部で起きる現象のひとつが、構造の簡略化や単純化だ。911後のブッシュ政権や同時代の小泉政権を振り返れば、その傾向は明らかだ。例えば黒と白。敵と味方。右と左。善と悪。そして加害者と被害者。つまりダイコトミー(二項対立)だ。
 発達したメディアによって単純化はさらに加速される。なぜならば単純化したほうが視聴率は上がり、部数が伸びるからだ。要するに雑誌の中吊り広告の見出しだ。こうしてあらゆる要素は四捨五入され、グレーな領域は切り捨てられ、二進法のデジタル世界が現出する。善と悪はそれぞれ肥大し、正義や大義は崇高な価値となり、悪人は問答無用で殲滅すべき対象となる。
 僕たちは今、そんな世界に生きている。
■死刑制度の存廃論議をするなら、まずは情報公開すべき
 第2部のシンポジウムで発言を促された僕は、そんな趣旨を喋りながら(年配の男性が第一部だけで帰ってしまったことは後で知った)、隣に座る死刑存置派の重鎮である土本から反論が来るだろうかと身構えていた。でも反論はなかった。ないどころか土本は、とても自然に僕に同意した。死刑制度を廃止すべきとまでは言わなかったけれど、現況の制度にはあまりに問題が多く、存廃論議をするならばまずは情報公開をすべきであるとの意見は、坂本も含めて3人が一致した。
 何人かの男性や女性が、不愉快そうな表情で退席した。その様子を壇上から見つめながらも、土本の言葉は揺るがなかった。「絞首刑はあまりに残虐である」と何度も強調した。
 人は変わる。絶対に変わる。変わらない人などいない。最近の死刑判決では「更生の可能性がない」とか「見込めない」などの述語が常套句になっているけれど、なぜこのような断言ができるのだろう。なぜこれほどあっさりと可能性を排除できるのだろう。まさしく「人」を軽視している。
 二項対立は概念だ。現実ではない。あらゆる現象や状況は多面的で多層的で多重的だ。僕の中にも善と悪がある。あなたの中にもある。とても当たり前のこと。でも集団化が加速するとき、二項対立が前提になる。明らかに錯誤だ。多くの人はその矛盾に気づかない。立ち止まってちょっと振り返れば気づくのに、集団で走り始めているから振り返ることもしなくなる。
 今回は最後に、編集担当の笠井から原稿送付後に送られてきたメールの一部を貼りつける。
 被害者や遺族の感情を慰撫するのは、その人たちの気持ちを代弁することではなく、その人たちの感情に寄り添う努力をすることではないでしょうか。辛いと言っている人を見て、「この人は辛いんだぞ! なんでわかってやらないんだ」と叫ぶのはやはり違うと思います。そもそも第三者の気持ちを代弁することなどできないはずです。
 誰かがしている酷い行いに対して憤りを感じるのは当たり前ですし、それを第三者が「私は許さない」と考えるのも自由です。ですが、あくまでも主語は「私」であるべきで、「被害者の人権はどうなる?」と叫ぶのは違う気がします。
 僕も違うと思う。でもこの国では今も、その叫びが日々大きくなっている。
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絞首刑は憲法36条の禁止する残虐な刑罰か/死刑の苦痛(残虐性)とは、死刑執行前に独房のなかで感じるもの 2011-11-11 | 死刑/重刑/生命犯 問題
 絞首刑「合憲」 裁判争点で終わらせずに
2011年11月11日 11:17カテゴリー:コラム> 社説
 絞首刑は憲法36条が絶対に禁じるとしている「残虐な刑罰」に当たるのか。
 「絞首刑の残虐性」の憲法判断が争点となった大阪地裁の裁判員裁判で先週、一つの判断が示された。
 判決で裁判長は「絞首刑が最善の方法かどうかは議論はあるが、死刑は生命を奪うことによって罪を償わせる制度で、ある程度の苦痛とむごたらしさは避け難い」と述べ、絞首刑を合憲と判断し、被告に死刑を言い渡した。
 裁判員法は、憲法判断など法令解釈は「裁判官の合議による」と定めている。この裁判では、絞首刑の憲法判断が死刑選択の適否判断の争点となったため、裁判長が裁判員にも任意で意見を求めた。
 死刑の合憲性について、市民から選ばれた裁判員の意見を反映した初の司法判断である。死刑制度の是非をめぐる議論に一石を投じ、今後の議論の行方に影響を与える判決になるだろう。
 絞首刑「合憲」判断が示されたのは、2009年に大阪市で起きたパチンコ店放火殺人事件で、5人を死亡させ10人に重軽傷を負わせたとして、殺人罪などに問われた被告に対する判決である。
 裁判員裁判の死刑判決は、これで10件目となる。死刑が国民に身近な制度になったともいえる。裁判員に選ばれれば、誰もが死刑の適否判断を迫られる当事者になる可能性があるからだ。
 死刑とは、どんな刑罰で、どう告知され、どういう方法で行われるのか。国民の一人一人が現実を知ったうえで、死刑について多様な視点から熟考することが求められているともいえよう。
 異論はあるかもしれないが、そんな時代だからこそ、刑執行の実態をタブー視せずに、制度の存廃を含めた死刑制度の在り方をめぐる幅広い国民的議論が必要だと私たちは考える。
 今回の裁判は、その契機となり得る場だったが、争点が絞首刑の残虐性に絞られたため、論点が矮小(わいしょう)化され、死刑制度の在り方論にまで深まらなかった。
 絞首刑の違憲性立証に努めた弁護側に対し、検察側は「ガス殺や電気殺に比べて絞首刑を残虐とする理由はない」とした1955年の最高裁判決で「合憲は決着済み」として、反証を避けた。
 残念ではあるが、起訴内容を立証する場である個別事件の法廷で、死刑制度の是非や刑執行の合憲性を論じるのは限界があるのかもしれない。
 だからこそ、法務当局は不透明な部分が多い刑執行の実態に関する情報を可能な限り開示し、国会などでの議論に供すべきだろう。具体的な情報があってこそ制度の是非をめぐる議論は深まる。
 共同通信の昨年の世論調査によると、国民の75%は死刑を容認している。とはいえ、幅広い議論を通して国民が死刑制度の実態を知っておくことは必要だろう。今後も裁判員制度を維持していくのならば、死刑をめぐる議論を一裁判の争点で終わらせてはなるまい。=2011/11/11付 西日本新聞朝刊=
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「残虐」とは 絞首刑へ元検事の問い元検事の土本武司・筑波大学名誉教授
 日本で死刑の執行方法として採用されている絞首刑は、憲法の禁じる「残虐な刑罰」にあたるのではないか――。元検事が大阪の法廷で問題提起をし、死刑論議に一石を投じた。残虐とは何なのか。
 法廷で証言に立った元検事は、筑波大名誉教授で元最高検検事の土本武司。死刑を続けるかやめるかの論議では、存続派の論客として知られる。だが絞首刑については、検事時代に執行に立ち会った経験を語りつつ、「残虐な刑罰に限りなく近い」と語った。「死刑自体は違憲ではないが、絞首刑は違憲の疑いが強い」という立場だ。証言後、詳しく話を聞いた。
■薬物注射を検討すべき
 憲法は死刑自体を禁じてはいない、と土本は判断する。憲法31条に「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ」ない、とあるからだ。だが、「残虐な刑罰」を禁じた憲法36条がある。残虐とは何か。土本は3点から検討した。(1)不必要な精神的・肉体的苦痛を与えるか(2)肉体に損傷を与えるか(3)一般人の心情で「むごたらしい」との印象を受けるか。
 (1)と(2)については、「死刑囚は一瞬で意識を失い窒息する、と以前は思っていた。だが複数の研究で、数秒から数分間は意識を保つ可能性があること、首の内部組織が断裂したり首自体が切れたりする可能性があることが分かってきた」とした。
 (3)については、自身の体験を踏まえてこう語った。「後ろ手錠をされ、両脚をひざで縛られた死刑囚が、踏み板が外れると同時に自分の体重で落下し、首を基点にしてユラユラと揺れていた。あれを見てむごたらしいと思わない人は、正常な感覚ではない」
 代替策として、薬物注射による執行を検討すべきだとする。「意識を失わせる薬を注入し、次に筋弛緩(しかん)剤などを入れる。現在の科学力ならば、苦痛・損傷・むごたらしさを減らし、残虐性を薄めることは可能だ」
 死刑制度を維持している米国の各州では、薬物注射の採用が広がっているが、執行方法をめぐる議論はなお続いている。
■「法的に定義不可能」
 東京大学教授(法哲学)の井上達夫は、「憲法が残虐な刑罰を禁じる根拠が分かりにくい」と語る。
 そもそも残虐を法的に定義することは不可能だとも指摘する。「あまりに主観的な概念であり、『わいせつ』と同様、多数派の価値観を少数派に押しつける結果になりかねない。法に書きこむべき言葉ではない」
 井上はこうも話す。
 「仮に『誰も心が痛まない殺し方』があるとして、それで良心の呵責(かしゃく)なく死刑を進められる社会状況が来る方が、私は怖い」
 暴力論などで知られる評論家の芹沢俊介は、米国映画「チェンジリング」の絞首刑シーンが印象に残っている。被害者の母親が、執行を無表情に見つめていたからだ。「むごいと思われる行為が、むごいとは認識されずに進んでいた」
 それはどのような状況なのか。「一つの可能性は、怒りの感情などによって、むごさが求められているケースだ。怒りが大きくなるほど、求められるむごさの度合いも高まる」
 そういった事態に、憲法にいう「残虐」という言葉を投げかけてみることで、怒りと残虐志向の連鎖に第三者がブレーキをかけられる可能性がある、と芹沢は考える。「ある行為がどういう意味で残虐なのかを、様々な角度から具体的に考える足がかりになる」
 残虐とは何か。市民が死刑についての判断を迫られる裁判員時代の今、避けて通れない問いになりつつある。(塩倉裕)
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■憲法36条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
■大阪の裁判
 絞首刑が違憲かどうかが問題になったのは、大阪市のパチンコ店で5人が死亡した放火殺人事件。裁判員裁判では初めて死刑の違憲性が争われた場でもあった。大阪地裁は先月31日の判決で、「絞首刑は前近代的なところがあるが、残虐な刑罰とはいえない」などとして、「合憲」と判断。被告に死刑を言い渡した。asahi.com2011年11月11日11時44分
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死刑を考える集い:命にどう向き合うか 立命館宇治高生が調査報告−−27日 /京都
 立命館宇治高校(宇治市、汐崎澄夫校長)の生徒15人が、死刑制度について元死刑囚や教誨(きょうかい)師、学者らの話を聞き、調査している。27日の「第41回憲法と人権を考える集い 『死刑』いま、命にどう向き合うか」(京都弁護士会主催)の第1部「高校生からの調査報告」に向けた取り組み。当日は「存置」「廃止」の二択の議論ではなく、生徒自身が感じたままに発表する予定だ。
 同弁護士会の「集い」は今年で41回目。09年の裁判員制度の開始から、裁判員の市民による死刑判決が現実となっていることから、今年のテーマには死刑制度が選ばれた。集いの企画部会長、遠山大輔弁護士は「第1部では高校生の目でゼロから重要な要素を掘り下げてまとめてもらい、死刑制度の冷静な議論の土台を作りたい」と高校生へ調査報告を依頼することにした。
 具体的には、元死刑囚で再審無罪が確定した免田栄さんや教誨師、犯罪被害者の家族など、異なる立場で死刑制度に向き合う人たちの話を立命館宇治高生に聞いてもらい、感じたことを率直に報告してもらう。
 10月には、5人が死亡した大阪市此花区のパチンコ店放火殺人事件の裁判員裁判で、弁護側証人として来日したオーストリアの法医学者、バルテル・ラブル博士を京都弁護士会館(京都市中京区)に招いた。
 ラブル博士は頭部の図などを使って絞首刑でどのように受刑者が死んでいくかを説明。「絞首刑で苦しみを感じないのはごくまれで、残酷だ」と強調、日本で今も絞首刑が実施されていることに驚きを示した。3年の林柚希さん(17)は「絞首刑ではすぐに亡くなると思っていた自分のこれまでの認識との違いに衝撃を受けた」。3年の水本真史さん(17)は「ラブル博士がぼくらに対して向けた絞首刑に対する驚きを他の人にも伝えたい」と話した。
 生徒らは「考えれば考えるほど何が正しいのか答えが出ない」と悩みながら準備中だ。社会科の太田勝基教諭(58)は「教科書を通しての知識でなく社会とのつながりの中で死刑を考えてほしい」と期待している。
 27日午後1時半から、下京区の京都産業会館8階のシルクホールで。申し込み不要、入場無料。当日は生徒が約1時間、映像を交えて報告。その内容を踏まえて、映画監督で作家の森達也さん▽元検察官の土本武司さん▽元刑務官の坂本敏夫さんがパネルディスカッションを行う。
 問い合わせは京都弁護士会(075・231・2336)【成田有佳】毎日新聞 2011年11月23日 地方版
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「死刑制度 遺族も考え様々」
下京でシンポ 立命館宇治高生が報告
 死刑制度のあり方を考えるシンポジウム「『死刑』いま、命にどう向き合うか」(京都弁護士会主催)が27日、下京区の京都産業会館で開かれた。8月以降、再審無罪になった元死刑囚や元刑務官、被害者遺族など同制度を取り巻く様々な立場の人から聞き取り調査をしてきた宇治市の立命館宇治高の生徒たちによる調査報告や、有識者らのパネル討論が行われた。
 生徒たちは拘置所での死刑囚の処遇環境や、国内での死刑執行方法の絞首刑について「残虐」とするオーストリアの法医学者の意見などを報告。被害者遺族の中にも、極刑を求める、生きることで償って欲しいと願うなど、様々な考えがあることを紹介した。
 パネル討論には元最高検検事の土本武司さんや映画監督の森達也さんらが参加。森さんは死刑を維持する州がある米国と比べ、日本は情報開示が進んでいないとし、「賛成、反対の議論の前に、国民が死刑についての詳しい内容を知らないといけない」と指摘した。また、土本さんは死刑は他の刑罰と「天地の差がある」とし、その判決に際しては裁判官や裁判員の全員が一致することや、被告の意思にかかわらず最高裁まで上訴することなど「慎重な仕組みを作ることが必要」との考えを示した。(2011年11月28日 読売新聞)
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中公新書『死刑囚の記録』
 ただ、私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は禁止すべきだということである。(中略)
 死刑の方法は絞首刑である。刑場の構造は、いわゆる“地下絞架式”であって、死刑囚を刑壇の上に立たせ、絞縄を首にかけ、ハンドルをひくと、刑壇が落下し、身体が垂れさがる仕掛けになっている。つまり、死刑囚は、穴から床の下に落下しながら首を絞められて殺されるわけである。実際の死刑の模様を私は自分の小説のなかに忠実に描いておいた。
 死刑が残虐な刑罰ではないかという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。
 たとえば1948年3月12日の最高裁判所大法廷の、例の「生命は尊貴である。一人の生命は全地球より重い」と大上段に振りあげた判決は、「その執行の方法などがその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ」として、絞首刑は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などとちがうから、残虐ではないと結論している。すなわち、絞首の方法だけにしか注目していない。
 また、1959年11月25日の古畑種基鑑定は、絞首刑は、頸をしめられたとき直ちに意識を失っていると思われるので苦痛を感じないと推定している。これは苦痛がない以上、残虐な刑罰ではないという論旨へと発展する結論であった。
 しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。
 なお本書にあげた多くの死刑囚の、その後の運命について知りたく、法務省に問い合わせたところ刑の執行は秘密事項で教えられないとのことであった。裁判を公開の場で行い、おおっぴらに断罪しておきながら、断罪の結果を国民の目から隠ぺいする、この不合理も、つきつめてみれば、国が死刑という殺人制度を恥じているせいではなかろうか。
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論壇時評【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】(抜粋)
 日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。(大澤真幸 京都大学大学院教授)
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死刑とは何か〜刑場の周縁から 
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【犯罪とゆるし】
 自動車や電気を拒み、非暴力を貫く米国のキリスト教の一派、アーミッシュ。06年秋、彼らの学校を男が襲い、女児5人を射殺した。惨劇の直後、彼らは自殺した犯人の家族を訪ね、「ゆるし」を伝える。不寛容が襲う世界を驚かせた行動は何を教えるのか。ノン・フィクション作家、柳田邦男さんと、米国の研究者、ドナルド・クレイビルさんが語り合った。(構成・今田幸伸、池田洋一郎)
柳田 凶悪な犯罪でも即座にゆるす。我々の文化では考えられないが、それがアーミッシュの最も本質的な部分と知って、大変驚きました。「報復」という言葉が支配的な時代に、宗教的な「ゆるし」の信念がしっかり根づいているアーミッシュの存在は、刺激的です。
クレービル 米国の心理学的研究によると、ゆるし(フォーギブネス)には二つの段階があります。まず、被害者が苦しみや憤りをできるだけ自分から語ることによって、痛みを心の中から追い出してしまう。次いで、報復行為を総てあきらめるのです。いずれもとても苦しい仕事ですが、被害者にとって利益につながると最近わかってきました。幸せな気持になれ、血圧まで下がるという。重要なのは、「ゆるし」は、罪を犯した者を捕まえて償わせる司法とはまったく違うということです。アーミッシュは厳格に区別します。学校銃撃事件の犯人は自殺しましたが、「もし生きていたら」と彼らに聞くと「刑務所に行くべきです。でないと、またほかの子どもが撃たれる可能性がある」とみんな言いました。「私たちは犯人をゆるすが、それでも彼は司法により裁かれて刑務所に入るべきだ」というアーミッシュの区別はとても重要です。「ゆるし」と司法的な観点を混乱させている人が多いが、「ゆるし」は赦免ではない。
   ■  ■
柳田 ゆるすことによって自分の心が癒され、解放される。アーミッシュの人たちは、もしゆるさなかったらいつまでも悲しみを引きずり、あるいは健康を損なうほど悲しみをためて、恨みが続いていくと考えているのでしょうか。
クレイビル もしゆるさなければ、自分たちが神様にゆるしてもらえない、という宗教的な理由があります。永遠の救いは「ゆるし」に関係しているという、とても強い動機づけがあるんです。
柳田 銃撃事件の際、米紙の論説委員が、自分の子どもが殺されても、犯人をゆるして平気でいられる社会に我々は住めるのか、という論説を書きました。
クレイビル 覚えています。
柳田 日本の社会でもまったく同じです。山口県光市で99年に起きた母子殺害事件では、第1審、第2審は、犯行時18歳だった被告を無期懲役にしました。被害者の夫は、死刑でないのはおかしいと裁判所や社会に訴え続け、世論やメディアもそれを後押しした。最高裁は審理を高裁に差し戻し、昨年、差し戻し控訴審で死刑判決が出ました。裁判所は正義を貫いたと夫は納得し、メディアも当然の判決と歓迎した。この事件は、凶悪犯に対して一般の日本人がどういう感情を持つかを象徴的に示しました。でも、悲惨な生い立ちが被告の人格形成をゆがめたことを考えれば、被告が人生をやり直せるような道を開くべきではなかったかという観点からの意見も、少数ですが、あるんです。
クレイビル 米国にも20年ほど前からリストラティブ・ジャスティス(修復的な司法)という仕組みがあります。あまりに暴力的な犯罪には使われませんが、被害者と加害者が合意すれば、専門家が仲をとりもって、被害者は犯罪で受けた苦しみを、加害者はそれに対する思いを互いにぶつける。そこで加害者が後悔の念を示して謝罪を表明したら、刑期が短縮される。加害者は早く出所した分、働いて被害者に弁償するのです。この仕組みは「ゆるし」とは違います。刑は実際に執行されるから、赦免でもない。ただ、加害者はどんなに人を苦しめてしまったかを知ります。被害者にも「犯人も同じ人間だったのだ」ということがだんだんわかってくるわけです。
柳田 私はグリーフワーク(悲しみの緩和)を研究しています。病気や災害、事件・事故で大切な人を失ったら、残された人は喪失感の中でこれからどう生きるかを探さねばならない。大変難しく、つらい仕事ですが、加害者や過失責任者が非を認めなかったり、反省せず自分を正当化したりすると、被害者はますます怒りを感じて、悲しみが深くなり、つらさも倍加する。グリーフワークの歩みが阻害されるのです。アーミッシュの場合は被害者が自ら積極的に相手をゆるすことによって、自分がグリーフワークをする条件を整えていくのですね。
クレイビル その通りです。銃撃事件の最中、犯人は奥さんに携帯電話で「神に怒っている」と伝えました。9年前に彼の幼い娘が死にましたが、犯人は彼の死についてグリーフワークをしてこなかった。その結果、怒りがほかの女の子を殺すことに向かってしまったのです。
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柳田 今の社会を支配している報復主義を象徴しているようですね。それに対してアーミッシュの「ゆるし」は対極にありますが、とても思考を揺すぶられます。ゆるすかゆるさないかの中間に、何か選択肢があるのではないでしょうか。
クレイビル アーミッシュは米国の中でも、とてもユニークな存在です。宗教を基盤とする対抗文化的なコミュニティーで、その中核をなす信念が「ゆるし」にあるわけです。ですから、現代社会のモデルにはなり得ないかもしれません。ただ、興味深かったのは、事件が起きたときにほとんどの米国人が「何てすばらしい。みんながこのようにゆるせば、もっと幸せな、平和な世の中になるだろう」という反応を示したことです。ふつうの人たちはアーミッシュにはついていけないと感じているにもかかわらず、とても心の通ったことをしてくれた、そこにあこがれるということですね。
柳田 85年に日本航空のジャンボジェット機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落して520人が亡くなりました。その後、日航と犠牲者の遺族とはずっと対立してきました。私は05年に日航から安全アドバイザーを依頼された時、遺族との和解をどうすればいいかと考え、事故機の残骸や遺品を展示し、社員の安全教育に役立てるよう提言しました。それで残骸や遺品を展示する安全啓発センターが羽田空港の整備地区にできた。すでに3万6千人の社員がそこを訪れ、自社と世界の事故の歴史や安全のために忘れてはならない経験を学んでいます。そうしたら遺族と日航の関係が大きく変わりました。
クレイビル 安全啓発センターをつくったことが、両者の間を縮めていったのですね。中間点を探して儀式化したということでしょうか。
柳田 儀式化ではなく、繰り返してはいけないことを、新しい世代も血肉化する意識改革の学びの場です。
クレイビル 国際的にも興味深いので詳しい資料が欲しいですね。米国では、多くの人々がベトナム戦争は間違いだったと思い、戦死した兵士の遺族は今もとっても怒っています。しかし、政府は決して謝罪はしない。そこで遺族たちは寄付金を募ってワシントンに追悼碑を建てた。首都にこのような施設を建てることを、政府が許したのです。それは、戦争で亡くなった人たちに政府が敬意を抱いていることを表したのと同じです。これも中間点を探す試みだったと言えるのではないでしょうか。
柳田 日本では小中学校時代にいじめを受けた子が、卒業後に出身校へ押し入り、子どもや職員を殺傷する報復事件が少なからずあります。国際社会における報復と同じようなものです。そういう凶悪犯をただ責めるだけでは本質的な解決にならない。生きづらい競争主義、優勝劣敗の社会や価値観そのものを変えないと、こういう事件を根本的に防ぐことはできないのではないか。そういう意味では、アーミッシュから学ぶべきことは大変多いと思います。
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クレイビル アーミッシュは、宗教は復讐ではなく、「ゆるし」であり、心の平安なのだということを示している。では、そうした価値観をどのように子どもに教えていくのか。アーミッシュに「なぜゆるすのですか」と聞くと、「我々の社会の中でそう決まっているのです」と答えます。独特の服装や言語、文明の利器を選択的に使う生活習慣という強いシンボルに特徴づけられた社会の中で子どもたちは育ち、教師や親たちから社会的な価値を教えられていくのです。
柳田 子どもの頃から宗教的倫理や生活習慣を養っていく意味は、現在の日本社会でもとても大事だと思います。それは、仏教とかキリスト教とか特定の宗教の中で育つということではなくて、もっと日常の心の習慣を養うことにかかわることです。「ゆるし」は、それを生む基盤となる社会なり文化が問われる。しかし、現代は非常に合理主義的で、規則やマニュアルに支配されていて、「ゆるし」が生まれたり、被害者と加害者が折り合いをつけたりすることが難しい時代ではないか。「ゆるし」の問題を考えることは、我々が生きている社会の文化を考えることでもあるかもしれません。
*アーミッシュ学校銃撃事件
 06年10月2日、米ペンシルベニア州のアーミッシュの学校に、同じ地域に住む非アーミッシュの32歳の男が侵入し、銃を乱射。13歳から7歳までの女児5人を殺害、5人の子どもに重傷を負わせ、自殺した。事件当日の夜から何人かのアーミッシュが男の家族を訪ねて男をゆるすと伝え、男の葬儀には大勢のアーミッシュが参列した。被害者の家族の何人かは娘の葬儀に男の家族を招き、数週間後には双方の家族が一堂に会して悲しみを分かち合った。
 朝日新聞オピニオン2009/07/08Wed.

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