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光市事件 差し戻し上告審 元少年の死刑確定へ/毎日新聞・中日新聞は、これまで通り匿名で報道します。

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元少年の死刑確定へ 山口・光市母子殺害事件
テレ朝 NEWS (02/20 15:03)
1999年に山口県光市で起きた母子殺害事件の裁判で、最高裁判所は元少年側の上告を退ける判決を言い渡しました。元少年の死刑が確定することになります。
 犯行当時、18歳だった大月孝行被告(30)は1審、2審ともに犯行当時、少年だったことなどを考慮して、無期懲役が言い渡されました。しかし、2006年、最高裁は「少年だったことは死刑判決を回避する決定的事情とはいえない」として、無期懲役の判決を破棄し、審理を差し戻しました。2008年、広島高裁は死刑を言い渡し、弁護側が上告していました。最高裁は、20日の判決で「なんら落ち度のない被害者の生命を奪った犯行は冷酷、残虐だ」として、大月被告の上告を退ける判決を言い渡しました。大月被告の死刑が確定することになります。
 テレビ朝日では、犯行当時少年だった被告について、少年法を尊重し、更生の可能性に配慮して匿名で報道してきました。しかし、今回の事件が、特に社会に重大な影響を与えたこと。最高裁で上告が棄却され、事実上死刑が確定することになり、少年が更生する機会がなくなったこと。さらに、逮捕以来、匿名で報じられてきた人物について匿名のまま死刑が執行された場合、「国家が人命を奪う」行為を国民が監視できなくなってしまうこと。これらの理由から、テレビ朝日では、実名報道に切り替えました。
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〈来栖の独白 2012/02/20Mon.〉
 死刑「判決」に憤らなくてはならないのだが、勿論、憤りはいっぱいだが、上の報道記事に目を疑い、言葉にならない憤り、無力感、失望を禁じ得ない。
 実名で報道してるではないか。「少年が更生する機会がなくなった」ので「実名報道に切り替えました」という。赦し難い、非人間的な暴挙だ。元少年被告人は、とっくに更生しているよ。しっかりと事件の真実を見つめることで更生し、謝罪している。赦し難い。民主党元代表小沢一郎氏の件でもそうだが、メディアは出直した方がいい。出直しなさい。更生を妨げているのは、メディアではないのか。
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光市母子殺害:元少年の死刑確定へ…当時「18歳30日」
 山口県光市で99年に母子を殺害したとして殺人や強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(30)の差し戻し上告審判決で、最高裁第1小法廷=金築誠志(かねつき・せいし)裁判長=は20日、被告側の上告を棄却した。小法廷は「何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり、生命を奪い去った犯行は冷酷、残虐で非人間的。遺族の被害感情もしゅん烈を極めている」と述べた。無期懲役を破棄して死刑を言い渡した広島高裁の差し戻し控訴審判決が確定する。
 ◇上告を棄却
 無期懲役を最高裁が破棄・差し戻したケースで死刑が確定するのは、19歳で連続4人射殺事件を起こした永山則夫元死刑囚を含め戦後3例目。事件当時、「18歳と30日」だった元少年の死刑確定は記録が残る66年以降、最年少となる。また、死刑判決を判断する際の「永山基準」を示した永山元死刑囚への第1次上告審判決(83年)後に死刑求刑された少年事件では2件4人の死刑が確定しているが、いずれも殺害被害者は4人で、被害者2人のケースは初めて。
 第1小法廷は「平穏で幸せな生活を送っていた家庭の母子が白昼、自宅で惨殺された事件として社会に大きな影響を与えた。殺害を当初から計画していたものでないこと、更生(立ち直り)可能性もないとはいえないことなどの事情を十分考慮しても刑事責任はあまりにも重大」とした。
 ◇裁判官1人、差し戻し求める異例の反対意見
 第1小法廷の横田尤孝裁判官は広島高検検事長として事件に関与したとして審理を回避したため、裁判官4人のうち3人の多数意見。宮川光治裁判官(弁護士出身)は再度の審理差し戻しを求める反対意見を述べた。死刑判断に反対意見が付くのは、無人電車が暴走・脱線し6人が死亡した「三鷹事件」の大法廷判決(55年6月)以来とみられる。
 宮川裁判官は「精神的成熟度が18歳を相当程度下回っている場合は死刑回避の事情があるとみるのが相当で、審理を尽くす必要がある」と主張。これに対し金築裁判長は補足意見で「精神的成熟度を判断する客観的基準があるだろうか」と疑問を呈した。【石川淳一】
 ▽最高検の岩橋義明公判部長の話 少年時の犯行とはいえ社会に大きな衝撃を与えた凶悪な事件であり、死刑判決が是認された最高裁判決は妥当なものと考える。
 ▽元少年の弁護団の声明 反対意見があるにもかかわらず死刑を言い渡すのは、死刑は全員一致でなければならないとする最高裁の不文律を変更するもので強く非難されなければならない。誤った判決を正すため今後とも最善を尽くす。
 ◇光市母子殺害事件◇
 99年4月14日、当時18歳の元少年(30)が山口県光市の本村洋さん(35)方に排水管検査を装って上がり込み、妻弥生さん(当時23歳)を絞殺して強姦、長女夕夏ちゃん(同11カ月)を絞殺。遺体を押し入れなどに隠し、財布を盗んだ。1、2審で起訴内容を認め無期懲役とされたが、上告審で差し戻され、差し戻し控訴審では殺意などを否認。一方で遺族は被害者支援を訴え、犯罪被害者等基本法成立などにつながった。
 ◇おことわり…少年法理念尊重、匿名報道を継続
 毎日新聞は元少年の匿名報道を継続します。母子の尊い命が奪われた非道極まりない事件ですが、少年法の理念を尊重し匿名で報道するという原則を変更すべきではないと判断しました。
 少年法は少年の更生を目的とし、死刑確定でその可能性がなくなるとの見方もありますが、更生とは「反省・信仰などによって心持が根本的に変化すること」(広辞苑)をいい、元少年には今後も更生に向け事件を悔い、被害者・遺族に心から謝罪する姿勢が求められます。また今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れません。
 94年の連続リンチ殺人事件で死刑が確定した元少年3人の最高裁判決(11年3月)についても匿名で報道しましたが、今回の判決でも実名報道に切り替えるべき新たな事情はないと判断しました。
毎日新聞 2012年2月20日 20時59分(最終更新 2月20日 23時58分)
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光市母子殺害の元少年、死刑確定へ 
中日新聞2012年2月20日 20時31分
 1999年の山口県光市母子殺害事件で殺人や強姦致死などの罪に問われた、犯行当時18歳1カ月の元少年(30)の上告審判決で、最高裁第1小法廷は20日、被告の上告を棄却した。死刑が確定する。金築誠志裁判長は「少年だったことを考慮しても刑事責任はあまりに重大だ」と指摘した。一、二審の無期懲役が最高裁で破棄された後、広島高裁の差し戻し控訴審判決で死刑とされる異例の経過をたどっていた。
 最高裁が故永山則夫元死刑囚(90年確定、97年執行)の最初の上告審判決で死刑適用基準を示した83年以降、死亡被害者2人の事件で犯行時少年の死刑が確定するのは初めて。
 【お断り】本紙は光市母子殺害事件の被告の元少年について、少年の健全育成を目的とする少年法の理念を尊重し、「報道は原則実名」の例外として匿名で報じてきました。今回の最高裁判決によって元少年の死刑が確定しても再審や恩赦の制度があり、元少年の更生の可能性が直ちに消えるわけではありません。少年法が求める配慮は消えておらず、これまで通り匿名で報道します。
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木曽川・長良川リンチ殺人事件「少年法が求める配慮の必要性から、中日新聞は3被告を匿名で報道します」2011-03-11 | 死刑/重刑/生命犯 問題
〈来栖の独白〉?
 今回、強く、中日新聞を購読していることを嬉しく思った。中日新聞は「更生になお配慮必要」として、3被告を匿名で報道した〈日経新聞も読んでいるが、こちらは実名報道〉。匿名報道の理由も、合理性を満たしたものだ。次のように述べている。書き写させて戴く。
 なぜ匿名報道か「更生になお配慮必要」2011/03/11中日新聞朝刊1面
 本紙は連続リンチ殺人事件で、事件当時18、19歳だった3被告の逮捕段階から、本人を特定できるような記事や写真の掲載を禁じた少年法61条の趣旨を尊重し、匿名で報じてきました。
 61条は、少年の更生や社会復帰の妨げにならないよう社会に配慮を求めた規定です。表現の自由との関係で罰則はなく、社会の自主的な規制に委ねているとされます。
 報道は実名を原則とし、重大事件の加害者の氏名は社会の正当な関心事です。人命を奪う究極の国家権力の行使が、誰に対してなされるのかも曖昧にはできません。
 3被告の死刑が確定すれば、更生する可能性が事実上なくなったとみなせます。
 死刑判決が覆る可能性もほとんどないことから、実名への切り替えも議論しました。
 しかし、この段階で更生に配慮する必要はないと言い切れるか、との疑問はぬぐえません。
 3被告との面会や書簡のやりとりから内心の変化もうかがえます。死刑執行時まで罪に向き合う日々が残されています。
 本紙は、実名報道の目的、意義を踏まえても、現時点では、少年法が求める配慮の必要性はなお消えていないと判断し、これまで通り3被告を匿名で報道します。(東京本社社会部長・大場司)
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〈来栖の独白〉?
 中日新聞1面の「解説」も、行き届いた正論である。書き写させて戴く。
 「解説」 刑罰と少年法理念
 元少年3人を死刑とした10日の最高裁判決が、被告が少年である点に言及したのはわずか1箇所、「くむべき事情」の一つとして「いずれも少年だった」と触れただけだった。成人被告に対する判決と、ほとんど変わるところのない判決は、年齢は特段重視すべき事情ではないとの考え方をあらためて示したとも言える。
 死刑判決された少年事件で、最高裁の判断の分岐点となったのは、1、2審の無期懲役判決を疑問視し、審理を差し戻した山口県光市母子殺害事件の上告審(2006年)だ。
 この判決は被告が18歳になったばかりだったことについて「罪の重大性などと比べ総合判断する上での1事情にとどまる」と指摘。今回もこの枠組みを踏まえ、犯行自体の悪質さを重視し、極刑以外の選択肢はないと判断した。
 今回の判決は、09年に裁判員裁判が始まって以来、重大な少年事件で最高裁が初めて判断を示す場でもあった。にもかかわらず、更生の可能性をどう検討したのか、まったく触れなかった点には疑問が残る。
 凶悪事件を起こした少年にも更生を重んじる少年法の理念は生かされなければならない。死刑という究極の刑罰を選択したのだからこそ、犯罪の重大さとこの理念をどう判断したのか明示してほしかった。(東京本社社会部・小嶋友美)
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中日新聞2011年3月11日 朝刊
 元少年3人の死刑確定へ 連続リンチ殺人、最高裁が上告棄却
 愛知、岐阜、大阪の3府県で1994年、11日間に男性4人が殺害された連続リンチ殺人事件で、強盗殺人罪などに問われ、二審で死刑とされた犯行時18〜19歳の元少年3被告=いずれも(35)=の上告審判決で、最高裁第1小法廷は10日、「短期間に4人の青年の命を次々と奪った結果は重大。少年だったことなどを考慮しても死刑はやむを得ない」として被告側の上告を棄却した。3被告の死刑が確定する。
 少年事件の死刑確定は、千葉県市川市で一家4人を殺害して強盗殺人などの罪に問われた元少年=犯行時(19)=以来、10年ぶり。最高裁に記録が残る66年以降、10件目だが、一度に複数の死刑確定は初めて。
 3被告は、リーダー格で愛知県一宮市生まれの被告=同(19)=と大阪府松原市生まれの被告=同(19)、大阪市西成区生まれの被告=同(18)。桜井龍子(りゅうこ)裁判長は「無抵抗の被害者に執拗(しつよう)な集団暴行を加え、処置に困って殺害した理不尽な動機に酌量の余地はない」と指摘した。判決は裁判官5人の一致した判断。
 役割については、リーダー格の被告と松原市生まれの被告が主導的な立場で、もう一人も「犯行に積極的、主体的に関わっており、従属的だったとは言えない」と認定。「犯行が場当たり的だったことや、犯行時少年だったことなどを最大限考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた。
 2001年の一審名古屋地裁は、リーダー格以外は「追従的立場だった」と無期懲役の判決。05年の二審名古屋高裁は「被告間の役割に差異はない」として一審を破棄し、3人全員を死刑とした。
 上告審判決について被告の弁護人らは「結果重視で、少年事件の特質にほとんど触れていない」と批判し、訂正申し立てをする考えを示した。
<判決の認定事実>
 ▽大阪事件 1994年9月28日、大阪市内で通りがかりの無職林正英さん=当時(26)=をビルに連れ込んで暴行し、絞殺。翌日、遺体を高知県の山中に遺棄した。
 ▽木曽川事件 同10月6日夜、愛知県稲沢市で、主犯格の被告の知人だった建設作業員岡田五輪和(さわと)さん=同(22)=に暴行。瀕死(ひんし)の状態で7日未明、同県尾西市(現一宮市)の木曽川河川敷に放置し、殺害した。
▽長良川事件 同7日夜、稲沢市内のボウリング場に居合わせた会社員渡辺勝利さん=同(20)=とアルバイト江崎正史さん=同(19)=を車内に連れ込んで監禁し、現金を強奪。岐阜県輪之内町の長良川河川敷で、金属製パイプで殴るなどして殺害した。
 罪と向き合い 償いの日々 3被告、文通や面会で胸中
 償いきれない罪と更生の道。3人の被告は記者との文通や面会で罪と向き合う胸の内を明かしていた。
 「お仕事の中で私たちのことを話してください。それが反面教師としての償いの道ですから」。主犯格の愛知県一宮市生まれの被告(35)は2月に寄せた手紙で思いをつづった。
 幼少時に母が病死、養母に虐待された。小学校の担任に教室で起きた盗難で犯人扱いされ、大人への不信を深めた。非行や罪を重ね、4人の命を奪って拘置所へ。絶望していた被告はキリスト教に救いを求めた。「聖書を教えてほしい」とミニコミ誌に投稿した縁で1998年秋、後に「おかん」と呼ぶようになる女性と出会う。凍った心が溶け出し、多くの受刑者らと文通を始めた。元暴力団の無期懲役囚には聖書を送って更生を決意させた。非行を重ねる中学生に「俺のようになるな」と立ち直りを促した。遺族への謝罪に悩み続け、体調も崩した。それでも、一昨年に初めて被害者の兄との面会がかない、「死刑ではなく生きて償え」と言われて泣いた。
 「自分がやったことですから、判決については覚悟しています」。2月に記者と面会した大阪府松原市生まれの被告(35)は、こう語った。死刑の確定を望む遺族からは見舞金の受け取りを拒まれているが、一部の遺族とは面会を続けた。今年に入り、稲沢市内の寺に便箋に記した般若心経の写経5千枚を納めた。拘置所で9年かけて書き上げたという。
 大阪市生まれの被告(35)は2審で3人に死刑が下され、罪に大差がないと判断されたことを不服に思っていた。3月に記者と面会した際、「『争う』のではなく、真実を求めたい。1審の『従犯』が2審では『大差ない』。どれだけ慎重に判断したといえるのか」と話した。(佐藤直子、福田要)
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≪核心≫揺らぐ更生の理念
 犯行時18〜19歳の元少年3人を死刑とした10日の最高裁判決の底流には、少年犯罪に厳しく、被害者の立場を重んじるようになったこの10年余の世論の変化と法改正がある。少年の更生を理念に置く少年法の存在感は薄らぐばかりで、懸念も広がる。(東京本社社会部・小嶋友美)
少年法影薄く進む厳罰化
■悪質
 「何といっても『罪質』なんだ」
 少年であっても凶悪事件には厳罰で臨む姿勢をあらためて示した最高裁判決に、ベテラン刑事裁判官たちは口をそろせた。
 罪質は犯罪の性質、つまり、何を目的に、どういう被害者に、どのような行為に及んだのか。死刑選択の指標を挙げた「永山基準」の9項目の1つだ。
 今回の事件で元少年らは、通りかかった男性を裸で監禁して集団で暴行し、処置に困って殺害したり、口論になった遊び仲間をビール瓶や金属パイプで7時間にわたって殴り続けた。犯行の悪質さを認めつつも、1審では裁判官3人中2人が死刑を避けたのは、役割の軽重や更生の可能性をくんだためだった。そもそも、少年への死刑に抑制的だったようにもみえる。
 しかし、第2審の高裁と今回の最高裁は、年齢や構成可能性は判断の1要素でしかないと位置付けた。
■世論
 背景には、相次ぐ少年の凶悪事件や犯罪被害者への関心の高まりを受けた厳罰化の流れがある。2001年には改正少年法で刑事罰の対象年齢が引き下げられ、05年の刑法改正で重罰化が進んだ。死刑制度に対する世論も、容認派が04年には8割を超えた。
 05年、最高裁が市民と裁判官に行った調査では、殺人事件の被告が少年であった場合、成年より刑を「重くする」と答えた市民が25%を越えた。一方、裁判官で「重くする」はゼロで、逆に9割が「軽くする」。“市民感覚”との隔たりを、裁判所は意識せざるを得なかった。
 09年に始まった裁判員裁判では、仙台地裁が昨年11月、18歳の少年が2人を刺殺し、1人に重傷を負わせた事件で死刑判決を言い渡している。
 これまでの量刑感覚では無期懲役が相当との見方もある中、裁判員の1人は判決後に「人の命を奪う重い罪には、大人と同様の判断をすべきだ」と断じた。
「集団」の特性 判断示さず
■未熟
 「少年であっても死刑は免れないという世の中の考え方は、もはや揺るぎないようにみえる。国民の声を無視し、裁判に『少年法の理念』を持ち出すわけにはいかない」とある刑事裁判官は漏らす。
 これに対し、元東京高裁判事の原田国男・慶応大法科大学院客員教授は「少年法がある以上、少年であることは有利な事情として考えなければいけない。少年法の理念を、裁判員にもよく理解してもらわなければ」と強調する。石塚伸一・龍谷大法科大学院教授は「残虐性は未熟さによるもの。行為の残虐さを重視すれば、未熟さによって刑が重くなることになってしまう」と懸念。「最高裁は、少年の集団事件という特性について何ら判断を示していない」と批判した。
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「木曽川・長良川リンチ殺人事件」実名報道=更生を全否定 越えてはならない一線を越えた2011-03-10  
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「木曽川・長良川殺人事件」 “「凶悪犯罪」とは何か”「三人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決」 『2006 年報・死刑廃止』
1、3人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決
 司会 昨2005年10月14日に木曽川・長良川事件という少年による事件の控訴審判決がありました。01年の名古屋地裁判決では1人死刑、2人無期判決だったのが高裁では3人とも死刑判決が出て非常に驚いたのですが、この弁護人だった村上さんからこの事件について話していただけませんか。
 村上 名古屋の事件というのは、いわゆる木曽川・長良川事件といわれるリンチ殺傷事件(1994年)で、19歳前後の少年たちが、大阪で1人の若者を死に至らしめ、その後愛知に移って、愛知の木曽川で、1人の若者を死に至らしめ、そして長良川河川敷で2人の若者を死に至らしめた事件であります。
 その前に、名古屋では大高緑地アベック殺人事件(1988年)というのがあり、当時、少年または少女たちによる凶悪犯罪として大きく報道され、それに続くものとして、この木曽川・長良川事件が起きましたので、名古屋では相当衝撃的な事件として報道されていたわけです。
 この事件は、少年たちが出会って集団になってから20日前後から1ヵ月半程度しか経っていない段階でこの犯罪が起きているというのが特徴的です。
 この木曽川・長良川事件は、1審で1人が死刑で、2人が無期となりました。そして、そこで、死刑と無期に分かれた論理は、主犯格か従属的な立場だったかが主な形で区別されたわけです。その後、控訴され、検察官は3人ともに死刑を求刑し、名古屋高裁におきまして3人とも死刑判決が下されたのです。
 裁判をやっていくなかで、私が一番感じたことですが、この木曽川・長良川事件以外の他の事件の中で被害者の方の意見陳述という制度が導入されてきまして、被害者感情が裁判にそのまま導入されてきているなぁというイメージがありました。でもそれは、犯罪事実の認定だとかそういうことには影響しないと言っているんですけれども、被害者遺族が被害感情を強く法廷で言うことによって、裁判官は、被告人にとって一番シビアな犯罪事実の認定を選ぶというような効果があるのではないかという危惧感をもっておりました。
 当時、この木曽川・長良川事件で自分が担当している被告人に対して死刑判決はないと確信しておりました。証拠調べが終わった最後に、4人の遺族の代表的な方が、被害者意見陳述で痛烈に被告人3人を非難しました。そこでは、死刑という言葉は使われてはいません。ただ、この3人は絶対許せないという形で、法廷にそのままの形で感情が入ってきました。そのときに、この被害者意見陳述が裁判所にどういう影響を与えるんだろうと危惧感を感じました。実際、判決を聞いたときに、被害者意見陳述の内容がそのまま判決の構成になっているというのを感じました。つまりその被害者遺族の方は、1審から2審までずっと法廷を傍聴していて、かたや裁判官は1審と2審で変わりますので、ずっと法廷を傍聴している被害者遺族のおっしゃられることが非常に重いものになる。その状況の中で被害者意見陳述という形でその被害者の方が、この3人は絶対許せない、そしてその根拠を、裁判の中での事実認定を引用しながらお話しをされますと、裁判官の心証に強烈に影響を与えないわけがないと思われるんですね。後から判決を見たときも、ほとんど同じじゃないかというのを感じました。
 その後、僕はいろんな大学で学者の先生とお話しする機会がありまして、裁判実務では、被害者の意見陳述というのは死刑にとって大きな影響を与えるんだということを話させていただきました。実務をわかってらっしゃる学者の方はそれはそうだとおっしゃってくれるんですけれど、そうではない学者の方たちは、死刑か無期かという量刑を判断するときに被害者の意見は、量刑を根拠づける理論的なものはそれほどないはずだとおっしゃっていました。でも、いま実務では非常に被害者意見陳述というのは怖い、被害者の感情は怖いと、それを私が肌で体験したのがこの木曽川・長良川事件だったわけです。
 2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの 
安田 木曽川・長良川事件の1審判決はかなり杜撰だったけれども、事件をそれなりに見ようとする態度が見られたと思います。というのは、木曽川の事件については殺人罪を認定しなかった。裁判所は、子供たちの曖昧模糊とした意思とバラバラな意思疎通の中で、解決策も歯止めもないまま事態だけがどんどん悪い方向に進行していくという事案の実相をそれなりに見ていたんだろうと思うんです。しかし、それにもかかわらず一人だけを死刑にしたというのは、やっぱりあの被害者の数との関係で、ものすごい政策的な辻褄合わせをしたんだろうと思うんです。ですからあの判決はたいへん中途半端な判決で、それが、高裁につけいるスキを与えてしまったんだと思います。検察官にとっては大変批判しやすかったんだと思うんです。
 高裁は、それぞれの子供たちが細胞としては別々かも知れないけれど、3つ、4つ集まってからまると1つの生物となるとでも考えたのか、3人をまとめて故意を認定し、それをテコに3人を死刑にしてしまうという、ものすごく荒っぽいことをしてしまいました。あの判決のどこを読んだって、法適用の厳粛さ、つまり3人に死刑を適用しなければならない必然性は出てこない。もちろん、熟慮の痕跡などもまったくない。ましてや教訓的でもない。単なる決算書とほとんど変わらないような中身だったですね。僕は、あれを見てやはり司法の危機というのをすごく感じたわけです。
 それに比べ、アベック殺人の高裁のときは、裁判官は悩んだですね。思いっきり悩んで、しかも、子供たちを死刑にするのは自分たちとして、大人たちの社会として許されるだろうかという問いかけがその中にありましたね。苦渋の選択が判決の中から読みとれたけど、今回ははっきり申し上げて何一つなかったわけです。真面目さが欠如していますね。
 それは司法そのものが、裁判官も含めてですけれど、思想とか哲学とかそういうものを持ってこなかったことの結果だろうと思います。すでに司法のメルトダウン現象が起こっているんですね。それはどういうことかというと、司法が担うべき役割、その重要な要員である裁判官・弁護士・検察官が、自分たちが果たすべき職責を完全に忘れてしまって、一般世論、あるいはメディアと完全にシンクロしてしまっているんですね。それは、時の権力や勢力に一切支配や影響をうけることなく、超然として、法にのみ支配されてその職責を遂行する、つまり、刑事司法の場面では、違法捜査を抑止し、事実を徹底して解明し、有罪の場合はなぜこのような事件が起こったのかというところまで事案を掘りさげ、公正に刑を量定すると同時に今後、被告人が生きていくすべを指し示す、そういう職責を司法は担っているんですね。ところが、このような職責を全部放棄して、世間相場で物事を見切って事件を処理してきた。司法のメルトダウン現象は、司法全体の怠慢の必然的な結果なんだろうと思います。
 木曽川・長良川の事件の判決は光市の事件の判決と軌を一にしていますね。それは、事実解明の努力の欠如と世論への徹底した迎合です。それで、凶悪ということが今日のテーマになっているんですけど、僕は凶悪とは、見る人のイメージがそのまま反映されて凶悪という表現をとっているものであって、結局、自己の価値観というか自己の傾向をそのまま表現したものだと思うんですね。マスコミは、いろいろな事実がある中で、視聴者や読者の凶悪のイメージと合致する事実だけをつまみあげて強調していく。捜査官も検察官もそうだと思うんですよ。数ある事実の中で被告人が有罪だという事実と凶悪だという事実だけを取り上げて事件を構成していく。時には事実をねつ造したりします。そして弁護人も裁判所もまったくそれに汚染されてしまって、何らそれに抗するだけのものを持っていない。ですから、よってたかってみんながこれでもか、これでもかと、被告人に凶悪というイメージを叩きつけていく。叩きつけるのは事実ではなくイメージなんですね。もはや司法はリンチの世界になってしまっていると思いますよ。
 有罪・無罪だけでなく、量刑も被告人にとって重大なことです。ましてや、死刑か否かは決定的です。平川先生がいらっしゃるので僕は苦言を呈したいんですけど、被害者感情が刑の重さを決める上でどういう位置を占めるのか、あるいはどういう位置を占めるべきかということについて、刑法学の中で、まったく議論がされてこなかったんですね。犯罪の成立とかそういうことについては、熱心に議論がなされてきた。そして、それが刑が無限定に拡大していくことへの歯止めになってきた。しかし、被害者感情についての議論は皆無なんですね。そういう中にあって、被害者の意見陳述や被害者の訴訟参加など、被害者感情が一気に刑事司法になだれ込んでこようとしている。今のままでは、量刑だけでなく犯罪の成否についても、被害者感情に支配されるという刑事司法の総崩れ現象が起こるのではないかと危惧しています。現に、光市の事件では、最高裁をはじめ、1,2審も、全て量刑の議論だけに終始し、事実の解明がまったくなおざりにされているんです。
 本来、司法は冷静で、客観的で、そして理性的でなければならない。司法の誕生は、政治的思惑や私的制裁あるいは被害者感情からの分化の歴史だったと思うんですよ。ところが司法の側にこれを守りきるだけの力がないから、その垣根が総崩れになっている。司法は時の政権におもねり、世論や感情に同調し、もう手がつけられない状態になっている。弁護士、検察、裁判所、司法全体の暴走状態が始まっているという気がするんです。木曽川・長良川の高裁判決、光市の最高裁判決は、そのはしりだと思うんです。
平川 今まで刑法学が量刑の問題をやってきていないではないかというご批判は、その通りだと思います。今までの刑法学は、犯罪成立要件、いわゆる犯罪論のところばかりやってきた。量刑の問題は、刑法学の隅っこで、ほんのわずかしかやられてきていないということは、おっしゃる通りです。そして、量刑の理論的研究と実際の量刑問題が、なかなか結びついてこない。一方でいわゆる量刑相場の分析が行われ、それとは別のところで量刑責任論などの形でまったく理論的な研究がされていて、両者が結びついていない。理論と実際の量刑を結びつけるような量刑理論がなければいけないのですが、実際の量刑の場面で有効性を持つような研究がないことは、おっしゃるとおりです。最近は、量刑研究も徐々に進みつつありますが、まだまだこれからの課題です。そういう意味では、刑法研究者は怠慢だったし、今でも怠慢だろうと思います。
安田 平川先生を非難しているわけじゃなくて(笑)
平川 それから、裁判所が悩まなくなっているということは、最近の判決を見ていると、私もそう感じます。しばらく前までの判決は、それなりに悩んだ形跡がうかがえるようなものが多かったと思います。
 永山判決がその後の判決の流れを作っているわけですが、あれも、よく読んでみると、それなりに悩んでいますね。しかし、最近は、永山判決の悩みのようなところもすっ飛ばして、永山判決に挙げられている基準だけを形式的な一覧表にして、それにポコポコあてはめて結論の正当化の理由にしているような判決が少なくないように感じます。中には、永山判決に依拠した場合に本当にこういう結論になるんですか、と言いたくなるようなものもある。今回の光市事件の判決もそうですが、判決文をよく読んでみると、実質的には永山判決の基準の変更になっているのではないか、少なくとも永山判決はそういうことを言っていないのではないかという気がするのです。最高裁は、そこまで来てしまっているということだと思います。
 私は、この背後には、裁判員制度が影を落としているように思います。裁判員制度になれば、一般の人たちの処罰感情が量刑にもろに反映していく可能性があるわけです。どうせそうなるのだから、ここで自分たちが頑張ってもはじまらないというような意識が、裁判官の中に生まれはじめているのかなと思うのです。
 しかし、むしろ、この際、裁判員制度をにらみながら、量刑はどうあるべきかをもう一度きちんと考えなおして、裁判や判決の中できちんと押さえておくことが必要だと思います。そうでないと、裁判員制度になったら本当に量刑が一般の人の処罰感情に流されていってしまうのではないか、という危惧があります。
村上 裁判員の問題については、確かに一般の人々の感情がもろに裁判に反映されるという部分もありますし、逆に裁判員の市民の方が裁判に参加されることによって、死刑というものを判断することが非常に勇気のいることであり、むしろ市民の人たちも躊躇するかもしれないという見方も一方ではあるわけですね。そういう場合に、今回の光市の判決はある意味では先頭に立って、こういう時はこうするんだというのを国民みんなに知らしめたという役割があるんだとおっしゃる弁護士もいます。
安田 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
 ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。
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少年事件:石巻3人殺傷事件/名古屋アベック殺人事件:更生可能性の鍵は社会の側に2010-11-24 | 被害者参加・裁判員裁判 / 検察審査会 
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