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光市事件 平成24年2月20日 最高裁 判決全文/毎日新聞・中日新聞 匿名報道/森達也「リアル共同幻想論」

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最高裁判例

平成20(あ)1136 殺人,強姦致死,窃盗被告事件  
平成24年02月20日 最高裁判所第一小法廷 判決 棄却 広島高等裁判所  全文 

最高裁判例 平成20(あ)1136 殺人,強姦致死,窃盗被告事件  
平成24年02月20日 最高裁判所第一小法廷 判決 棄却 広島高等裁判所

主 文
 本件上告を棄却する。
理 由
 弁護人安田好弘ほかの上告趣意は,憲法違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
 なお,所論に鑑み記録を調査しても,刑訴法411条を適用すべきものとは認められない。
 付言すると,本件は,犯行時18歳の少年であった被告人が,(1) 山口県光市内のアパートの一室において,当時23歳の主婦(以下「被害者」という。)を強姦しようと企て,同女の背後から抱き付くなどの暴行を加えたが,激しく抵抗されたため,同女を殺害した上で姦淫の目的を遂げようと決意し,その頸部を両手で強く絞め付けて,同女を窒息死させて殺害した上,強いて同女を姦淫した殺人,強姦致死,(2) 同所において,当時生後11か月の被害者の長女(以下「被害児」という。)が激しく泣き続けたため,(1)の犯行が発覚することを恐れ,同児の殺害を決意し,同児を床にたたき付けるなどした上,同児の首に所携のひもを巻いて絞め付け,同児を窒息死させて殺害した殺人,(3) さらに,同所において,現金等が在中する被害者の財布1個を窃取した窃盗からなる事案である。
 (1),(2)の各犯行は,被害者を殺害して姦淫し,その犯行の発覚を免れるために被害児をも殺害したのであって,各犯行の罪質は甚だ悪質であり,動機及び経緯に酌量すべき点は全く認められない。強姦及び殺人の強固な犯意の下で,何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり,生命を奪い去った犯行は,冷酷,残虐にして非人間的な所業であるといわざるを得ず,その結果も極めて重大である。被告人は,被害者らを殺害した後,被害者らの死体を押し入れに隠すなどして犯行の発覚を遅らせようとしたばかりか,被害者の財布を盗み取って(3)の犯行に及ぶなど,殺人及び姦淫後の情状も芳しくない。遺族の被害感情はしゅん烈を極めている。被告人は,原審公判においては,本件各犯行の故意や殺害態様等について不合理な弁解を述べており,真摯な反省の情をうかがうことはできない。平穏で幸せな生活を送っていた家庭の母子が,白昼,自宅で惨殺された事件として社会に大きな衝撃を与えた点も軽視できない。
 以上のような諸事情に照らすと,被告人が犯行時少年であったこと,被害者らの殺害を当初から計画していたものではないこと,被告人には前科がなく,更生の可能性もないとはいえないこと,遺族に対し謝罪文と窃盗被害の弁償金等を送付したことなどの被告人のために酌むべき事情を十分考慮しても,被告人の刑事責任は余りにも重大であり,原判決の死刑の科刑は,当裁判所も是認せざるを得ない。
 よって,刑訴法414条,396条により,裁判官宮川光治の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官金築誠志の補足意見がある。
 裁判官金築誠志の補足意見は,次のとおりである。
 私は,多数意見に賛成するものであるが,宮川裁判官の反対意見に鑑み,若干の意見を付加しておくこととしたい。
 反対意見の結論は,再度,量刑事情を検討して量刑判断を行う必要があるから,その点の審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すことが相当というものである。
 そこで,原審における審理経過をみてみると,被告人が,第1次上告審に至り従前の供述を翻して,犯行の態様,故意等につき新たな供述(以下「新供述」という。)を始めたため,原審においては,12回にわたって公判が開かれ,多数の書証,証人等が取り調べられたほか,詳細な被告人質問が実施された。弁護人の請求にかかる証拠で却下されたものもあるが,重要な証拠であるにもかかわらず却下したのは不当であるとして異議が申し立てられたものはない。取り調べた証拠の立証趣旨は,犯行態様,故意等のいわゆる罪体に関するものが多いが,そうした証拠の中にも,同時に,反対意見が問題とする犯行時の被告人の精神的成熟度をみる上でも重要な意味を持つものが少なくない。特に被告人の生育歴,生育環境と被告人の精神的発達度,犯行時の心理状態等については,弁護人の請求によりB作成の犯罪心理鑑定報告書及びC作成の精神鑑定書が取り調べられ,各作成者の証人尋問も行われている。また,第1審及び差戻し前の控訴審においては,当時は被告人が起訴事実をほぼ全面的に認めていたため,主として量刑事情に焦点を当てた審理が行われ,少年調査記録中の鑑別結果通知書及び少年調査票も取り調べられている。
 もっとも,上記犯罪心理鑑定報告書が提示する「母胎回帰ストーリー」を,原判決は排斥している。「母胎回帰ストーリー」は,被告人は母子一体の世界を希求する気持ちが大きかったところ,被害児を抱く被害者の中に母親類似の愛着的心情を投影し,甘えを受け入れて欲しいという感情から抱き付いたのが犯行の発端であり,被害者を殺害後に姦淫したのも自分を母親の胎内に回帰させる母子一体化の実現であるなどとするものであるが,この見解は,被告人の新供述を前提としている。しかし,新供述が基本的な部分において信用できないものであることは,原判決が詳細,適切に検討しているとおりであって,反対意見においても,被告人の弁解は不合理であり,「母胎回帰ストーリー」は採用できないとされている。また,C鑑定書も,犯行の動機,経緯について,被告人の新供述を前提として考察を加えている。したがって,母親の自殺,父親の暴力等が被告人の人格形成に大きな影響を与えたことは,被告人のために酌むべき事情であるが,上記鑑定書等によって直接これを犯行の動機等に結び付けることは,相当ではない。
 原判決は,生育環境に上記のような同情すべきものがあったこと,知能水準は中程度であって知的能力には問題がないが精神的成熟度は低いことを認定した上,独り善がりな自己中心性が強いことや,衝動の統制力が低いことなど,被告人の人格や精神の未熟が本件犯行の背景にあることは否定し難いとしつつ,本件犯行の罪質,動機,態様,結果に鑑みると,これらの点は量刑上十分考慮すべき事情ではあるものの,被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことと合わせて十分斟酌しても,死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情であるとまではいえないと判断している。原審は,被告人の人格形成上の問題,精神的成熟度について,審理することを怠ってはいないし,判決においてこれを等閑視しているわけでもないのである。
 反対意見は,精神的成熟度が少なくとも18歳を相当程度下回っていることが証拠上認められるような場合は,第1次上告審判決(最高裁平成14年(あ)第730号同18年6月20日第三小法廷判決・裁判集刑事289号383頁)がいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」が存在するとみることが相当であるとし,原審はこの観点からの審理・検討が不十分であるとするものである。しかし,精神的成熟度が18歳を相当程度下回っているかどうかを判断するためには,18歳程度の精神的成熟度とは,どのような精神的能力をどの程度備えていなければならないか,どのような要件を満たすものでなければならないかを明らかにした上で,それとの乖離の程度を判定しなければならないが,人の精神的能力,作用は極めて多方面にわたり,それぞれの発達度は個人個人で偏りが避けられないものであるのに,果たして,そのような判断を可能にする客観的基準や信頼し得る調査の方法があるのであろうか。少年法51条1項が死刑適用の可否につき定めるところは18歳未満か以上かという形式的基準であり,精神的成熟度及び可塑性の要件を求めていないことは,反対意見にもあるとおりであり,少年法のその他の規定で年齢が要件となっているものの中にも,実質的な精神的成熟度を問題にしている規定は存在しない。本件の第1次上告審判決はもちろん,いわゆる永山事件の最高裁判決(最高裁昭和56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号609頁)も,精神的成熟度が18歳未満の少年と同視し得るかどうかを判別して,死刑適用の可否を判断すべきことを求めているものとは解されない。
 精神的成熟度は,いわゆる犯情と一般情状とを総合して量刑判断を行う際の,一般情状に属する要素として位置付けられるべきものであり,そのような観点から量刑に関する審理・判断を行った原審に,審理不尽の違法があるとすることはできないと考える。
 裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。
1 私も,多数意見と同じく,被告人の本件行為は,(1) 被害者に対する殺人,強姦致死,(2) 被害児に対する殺人,そして,(3) 窃盗にそれぞれ該当すると考える。被告人の弁解は不合理であり,遺族がしゅん烈な被害感情を抱いていることは深く理解できる。被告人の刑事責任は誠に重い。私が多数意見と意見を異にするのは,次の点である。被告人は犯行時18歳に達した少年であるが,その年齢の少年に比して,精神的・道徳的成熟度が相当程度に低く,幼いというべき状態であったことをうかがわせる証拠が本件記録上少なからず存在する。精神的成熟度が18歳に達した少年としては相当程度に低いという事実が認定できるのであれば,そのことは,本件第1次上告審判決(最高裁平成14年(あ)第730号同18年6月20日第三小法廷判決・裁判集刑事289号383頁)がいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当し得るものと考える。また,精神的成熟度が相当程度低いという事実が認定できるのであれば,強姦の計画性を含め本件行為の犯情等の様相が変わる可能性がある。以下,詳述する。
2 いわゆる永山事件の差戻し前控訴審は,被告人が劣悪な生育環境であったことをとらえ,「犯行当時19歳であったとはいえ,精神的な成熟度においては実質的に18歳未満の少年と同視し得る状況にあったとさえ認められるのである」として,これを量刑判断の一事情として1審の死刑判決を破棄し,無期懲役を言い渡した(東京高裁昭和54年(う)第1933号同56年8月21日判決・東高時報32巻8号46頁)。これに対し,最高裁は,犯行時19歳3か月ないし19歳9か月の年長少年であった「被告人の精神的成熟度が18歳未満の少年と同視しうることなどの証拠上明らかではない事実を前提として本件に少年法51条の精神を及ぼすべきであるとする原判断は首肯し難い」として,破棄し差し戻した(最高裁昭和56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号609頁)。この最高裁判決は,被告人の精神的成熟度が18歳未満の少年と同視し得ることが証拠上明らかな場合に少年法51条の精神を及ぼすことができるかどうかについては,これを否定してはいない。本件第1次上告審判決は,被告人の生育環境について,「実母が被告人の中学時代に自殺したり,その後実父が年若い外国人女性と再婚して本件の約3か月前には異母弟が生まれるなど,不遇ないし不安定な面があったことは否定することができないが,高校教育も受けることができ,特に劣悪であったとまでは認めることができない」とした上,「結局のところ,本件において,しん酌するに値する事情といえるのは,被告人が犯行当時18歳になって間もない少年であり,その可塑性から,改善更生の可能性が否定されていないということに帰着する」が,そのことは,「相応の考慮を払うべき事情ではあるが,死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえ」ないとしている。第1次上告審判決は,被告人の生育環境が特に劣悪であったとまでは認められないとし,被告人が18歳になって間もないということでは死刑を回避する決定的事情とはなり得ないといっているのであり,被告人の精神的成熟度が18歳未満の少年と同視し得る状態であったことが証拠上認められる場合に,それが,「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当するということを,否定してはいない。
3 もっとも,原判決が指摘しているとおり,少年法51条1項は,死刑適用の可否につき18歳未満か以上かという形式的基準を設けているのであり,精神的成熟度及び可塑性の要件を求めていないのであるから,精神的成熟度が不十分であるからといって少年法51条1項を準用し死刑の選択を回避すべきであるということには直ちにならない。しかしながら,「少年司法運営に関する国連最低基準規則(北京ルールズ)」(1985年)は,少年保護の基本理念に基づいて,「死刑は,少年が行ったどのような犯罪に対しても,これを科してはならない」としているのであり(17条2項。「少年」とは,各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童もしくは青少年である。2条2項(a)),留保的表現がなく,およそ,少年について死刑の選択は許さないという考えが明瞭である。18歳以上の少年に死刑を認める少年法51条1項は,この趣旨に合わない。もっとも,上記北京ルールズは,国連総会で採択された決議にすぎず,法的拘束力はない。北京ルールズ自らも「この規則の実施は,各加盟国の経済的,社会的・文化的条件に応じて進められなければならない」(1条5項)としている。我が国は,指導理念としてこれを尊重し,実現に向けて努力すべきものであり,少なくとも,少年法51条1項は死刑をできる限り回避する方向で適用されなければならないと思われる。また,刑法41条は14歳未満の者の行為は罰しないとしており,16歳未満の者は故意の犯罪行為により被害者を死亡させた場合であっても家庭裁判所から検察官へ原則送致はされない(少年法20条2項)。これらの背景には,行為規範の内在化が特に進んでいない年少少年の行為については,刑法的に非難することは相当でなく,刑罰による改善効果も威嚇効果(犯罪防止効果)も期待できないという考えがあると思われる。
 以上を総合して考えると,精神的成熟度が少なくとも18歳を相当程度下回っていることが証拠上認められるような場合は,死刑判断を回避するに足りる特に酌量すべき事情が存在するとみることが相当である。
4 少年刑事事件の審理においては,「少年,保護者又は関係人の行状,経歴,素質,環境等について,医学,心理学,教育学,社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用」するよう努めることが要請されている(少年法50条,9条,刑訴規則277条)。この専門科学的解明の要請は,本件のように死刑を適用するかどうかが争点となっている事件では,特に強く働くものといわなければならない。本件では,少年調査記録のうち鑑別結果通知書(1審甲218号証)と少年調査票(1審甲219号証)が取り調べられている。鑑別結果通知書の総合所見は,被告人の「内面の未熟さが顕著である」とし,自殺した「母親と父親からの見捨てられ感は強烈」であるとしている。少年調査票の家庭裁判所調査官3名の意見は,小学校入学前後から激しくなった両親の諍い,父親の暴力,被告人の被虐意識,中学1年時の母親の自殺等が被告人の精神形成に影響を与えたことを示している。父親の暴力は,1審,第1次控訴審,第1次上告審では取り上げられていないが,12歳時における母親の自殺とともにこの事実が被告人の幼少年期において与えた影響をどう評価するかは,本件の重要なポイントでもあると思われる。以上について,原判決は,同情すべきものがあり,人格形成や健全な精神の発達に影響を与えた面があることも否定できないが,「経済的に何ら問題のない家庭に育ち,高校教育も受けることができたのであるから,生育環境が特に劣悪であったとはいえない」とするにとどめている。しかしながら,家庭裁判所調査官は,「3歳以前の生活史に起因すると思われる深刻な心的外傷体験や剥奪,あるいは内因性精神病の前駆等により人格の基底に深刻な欠損が生じている可能性も疑える」と記述しているのであり,鑑別結果通知書中においても,顕著な内面の未熟さのほか,幼児的万能感の破綻,幼児的な自我状態が指摘されている。そして,家庭裁判所調査官は心理テスト(TAT:絵画統覚検査)結果の解釈として,「いわゆる罪悪感は浅薄で未熟であり,発達レベルは4,5歳と評価できる」と記述し,バウムテスト(ツリーテスト)でも「幼稚で自己愛が強く」と記述している。これについて,原判決は,「TATの結果のみから精神的成熟度を判断するのは相当でない上,前後の文脈に照らすと,この記載は,主として被告人の罪悪感に関する発達レベルを評価したものと解される」と述べているが,それ以上の付言はない。罪悪感に関する発達レベルとは,行為規範の内在化がどの程度進んでいるかということであり,行為の是非を弁別する能力の発達レベルそのものであろう。それは,精神的成熟度の重要な指標と考えるべきものでもあろう。「4,5歳」であるとの評価には疑問もあるが,家庭裁判所調査官の認識は被告人においては行為規範の内在化はかなり遅れており,人格的成長は幼いというものであったと思われる。原審においては,これら少年調査記録の内容を基に,被告人の人格形成や精神の発達に何がどのように影響を与えたのか,犯行時の精神的成熟度のレベルはどのようなものであったかを分析し,測るという作業が必要であった。
5 本件においては,被告人側から,B教授の「犯罪心理鑑定報告書」(原審弁9号証)とC教授の「精神鑑定書」(原審弁10号証)が証拠として提出されており,2人の証人尋問が行われている。前者は,それぞれ2時間前後をかけた8回の被告人面接調査を行い,幾つかのテストを実施したほか,父親に4回,母親の妹,義母,高校時代の指導教員,同級生2名にそれぞれ1回の面接調査を行い,各判決書,公判記録,捜査段階の調書,書簡等の資料,前記少年調査記録を参照した上での,犯罪非行臨床心理学の専門家としての知見に基づく鑑定報告である。後者は,被告人とそれぞれ2時間をかけて3回の面接調査を行い,父親,友人1名,被告人の祖母及び母親の妹に面接調査を行い,その他捜査段階の調書を除く前記資料を参照した上での,精神医学,とりわけ青少年の精神病理に関する研究者・医師としての専門的知見に基づく鑑定報告である。B鑑定における「母胎回帰ストーリー」という動機が存在するという鑑定意見は採用できない。しかし,被告人が母親の自殺による急激な自己愛剥奪の影響を強く受けていること,父親との関係での被虐待経験の後遺症があること,身体的性の成熟に対してそれを統制できる精神的成熟が著しく遅れていること,人格の統合性,連続性が乏しく,社会的自我の形成がなされていなかったこと等の意見は,無視できない説得力を有していると思われる。また,C鑑定意見のうち,被告人の人格発達は極めて幼いこと,その原因は,被告人が父親の暴力に母親とともにさらされ,その恐怖体験が持続的な精神的外傷となっており,またそうした暴力を振るう父親に恐怖しながら,強い父親に受け入れてもらいたいという矛盾する感情に引き裂かれてもいること,こうした生育歴の中で被告人は同年齢の者よりも幼い状態であったが,12歳の頃,母親が苦しみ抜いて自殺したことを目撃するという強烈で決定的な精神的外傷体験があり,この結果として,被告人の精神的発達はこの時点の精神レベルに停留しているところがあるという意見は,説得力があると思われる。二つの鑑定意見は,被告人が述べることのみによらず総合的に判断しているとみることができるが,相互に関連し合い,前記少年調査記録とも相応している。
6 原判決は,被告人がそれまでの供述を原審において翻し虚偽の弁解を弄しているとしてこれを厳しく批判し,このこと自体,被告人の反社会性が増進したことを物語り,改善更生の可能性を大きく減殺する事情といわなければならないと指摘している。私も,被告人の原審における供述態度を誠に残念に思う。しかし,人は関係の中でしか成長しないのであって,人間的成熟が12歳かそれを幾ばくか超えたところで停滞しているのであれば,その状態で教育的処遇を受けることなく,拘置の歳月を8年,9年と過ごしたとして,反省・悔悟する力は生まれない。不合理で破綻しているとしかみることができない弁解に固執していることは事実であるが,これを原判決のように「反社会性が増進した」と厳しく批判するのは酷であろう。被告人は,適切な処遇を得れば,時間を必要とするが,自己を変革し犯した罪と正しく向き合うよう成長する可能性があるとみることもできるのであり,前記鑑別結果通知書も,被告人について,公判段階を通じ,被害者の苦悩についての厳しい現実等に直面させる中で,真に贖罪の気持を喚起させることが必要であるが,その作業は,事件の重さに応じた相応の期間を要し,また,精神的なサポートを受け,ある程度安定した状態にないと困難であるため,定期的なカウンセリングが望まれるとしている。記録によると,被告人は精神安定剤を多量に服用するという日々が続いていたことがうかがわれるが,平成16年2月,自ら進んで教誨師による教誨を受け始める等,年月を経て,現在は,次第に事実と向き合い,贖罪の気持ちを高めつつあることをうかがうことができる。
7 被告人の精神的成熟度が相当程度低いということが認定できるのであれば,本件犯行の犯情(計画性,故意の成立時期等)及び犯行後の行動に関わる情状についての理解も変わってくる可能性がある。本件は,被告人の人格形成や精神の発達に何がどのように影響を与えたのか,犯行時の精神的成熟度のレベルはどのようなものであったかについて,少年調査記録,B鑑定及びC鑑定を的確に評価し,さらには必要に応じて専門的智識を得る等の審理を尽くし,再度,量刑事情を検討して量刑判断を行う必要がある。したがって,原判決は破棄しなければ著しく正義に反するものと認められ,本件を原裁判所に差し戻すことを相当とする。
 検察官慶徳榮喜 公判出席
 (裁判長裁判官 金築誠志  裁判官 宮川光治  裁判官 櫻井龍子  裁判官白木 勇)
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〈来栖の独白 2012/02/20 Mon. 22:41〉
 読めば読むほどに、被告人が憐れである。このような生い立ちの少年に、国は死を以て臨まねばすまないか。時間をかけて繕ってやることはできないか。このような不遇の傷みきった魂を亡き者にしなければ、国民の平穏は保たれないか。深い悲しみしか、ない。確定判決を受けて、今、この時を、元少年はどのように刻んでいるだろう。憐れでならない。死刑にしてはいけない、と私は思う。不完全な(「命」は無論のこと、髪の毛1本すら造り出せない)人間が、絶対的な(命を左右する)ことをしてはならない、と思う。最後の希望の一滴は、残しておくべきだ。
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光市母子殺害:元少年の死刑確定へ…当時「18歳30日」
 山口県光市で99年に母子を殺害したとして殺人や強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(30)の差し戻し上告審判決で、最高裁第1小法廷=金築誠志(かねつき・せいし)裁判長=は20日、被告側の上告を棄却した。小法廷は「何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり、生命を奪い去った犯行は冷酷、残虐で非人間的。遺族の被害感情もしゅん烈を極めている」と述べた。無期懲役を破棄して死刑を言い渡した広島高裁の差し戻し控訴審判決が確定する。
 ◇上告を棄却
 無期懲役を最高裁が破棄・差し戻したケースで死刑が確定するのは、19歳で連続4人射殺事件を起こした永山則夫元死刑囚を含め戦後3例目。事件当時、「18歳と30日」だった元少年の死刑確定は記録が残る66年以降、最年少となる。また、死刑判決を判断する際の「永山基準」を示した永山元死刑囚への第1次上告審判決(83年)後に死刑求刑された少年事件では2件4人の死刑が確定しているが、いずれも殺害被害者は4人で、被害者2人のケースは初めて。
  第1小法廷は「平穏で幸せな生活を送っていた家庭の母子が白昼、自宅で惨殺された事件として社会に大きな影響を与えた。殺害を当初から計画していたものでないこと、更生(立ち直り)可能性もないとはいえないことなどの事情を十分考慮しても刑事責任はあまりにも重大」とした。
  ◇裁判官1人、差し戻し求める異例の反対意見
  第1小法廷の横田尤孝裁判官は広島高検検事長として事件に関与したとして審理を回避したため、裁判官4人のうち3人の多数意見。宮川光治裁判官(弁護士出身)は再度の審理差し戻しを求める反対意見を述べた。死刑判断に反対意見が付くのは、無人電車が暴走・脱線し6人が死亡した「三鷹事件」の大法廷判決(55年6月)以来とみられる。
  宮川裁判官は「精神的成熟度が18歳を相当程度下回っている場合は死刑回避の事情があるとみるのが相当で、審理を尽くす必要がある」と主張。これに対し金築裁判長は補足意見で「精神的成熟度を判断する客観的基準があるだろうか」と疑問を呈した。【石川淳一】
  ▽最高検の岩橋義明公判部長の話:「少年時の犯行とはいえ社会に大きな衝撃を与えた凶悪な事件であり、死刑判決が是認された最高裁判決は妥当なものと考える。」
  ▽元少年の弁護団の声明:「反対意見があるにもかかわらず死刑を言い渡すのは、死刑は全員一致でなければならないとする最高裁の不文律を変更するもので強く非難されなければならない。誤った判決を正すため今後とも最善を尽くす。」
  ◇光市母子殺害事件◇
  99年4月14日、当時18歳の元少年(30)が山口県光市の本村洋さん(35)方に排水管検査を装って上がり込み、妻弥生さん(当時23歳)を絞殺して強姦、長女夕夏ちゃん(同11カ月)を絞殺。遺体を押し入れなどに隠し、財布を盗んだ。1、2審で起訴内容を認め無期懲役とされたが、上告審で差し戻され、差し戻し控訴審では殺意などを否認。一方で遺族は被害者支援を訴え、犯罪被害者等基本法成立などにつながった。
  ◇おことわり…少年法理念尊重、匿名報道を継続
  毎日新聞は元少年の匿名報道を継続します。母子の尊い命が奪われた非道極まりない事件ですが、少年法の理念を尊重し匿名で報道するという原則を変更すべきではないと判断しました。
  少年法は少年の更生を目的とし、死刑確定でその可能性がなくなるとの見方もありますが、更生とは「反省・信仰などによって心持が根本的に変化すること」(広辞苑)をいい、元少年には今後も更生に向け事件を悔い、被害者・遺族に心から謝罪する姿勢が求められます。また今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れません。
  94年の連続リンチ殺人事件で死刑が確定した元少年3人の最高裁判決(11年3月)についても匿名で報道しましたが、今回の判決でも実名報道に切り替えるべき新たな事情はないと判断しました。
 毎日新聞 2012年2月20日 20時59分(最終更新 2月20日 23時58分)
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光市母子殺害の元少年、死刑確定へ 
中日新聞2012年2月20日 20時31分
 1999年の山口県光市母子殺害事件で殺人や強姦致死などの罪に問われた、犯行当時18歳1カ月の元少年(30)の上告審判決で、最高裁第1小法廷は20日、被告の上告を棄却した。死刑が確定する。金築誠志裁判長は「少年だったことを考慮しても刑事責任はあまりに重大だ」と指摘した。一、二審の無期懲役が最高裁で破棄された後、広島高裁の差し戻し控訴審判決で死刑とされる異例の経過をたどっていた。
 最高裁が故永山則夫元死刑囚(90年確定、97年執行)の最初の上告審判決で死刑適用基準を示した83年以降、死亡被害者2人の事件で犯行時少年の死刑が確定するのは初めて。
 【お断り】本紙は光市母子殺害事件の被告の元少年について、少年の健全育成を目的とする少年法の理念を尊重し、「報道は原則実名」の例外として匿名で報じてきました。今回の最高裁判決によって元少年の死刑が確定しても再審や恩赦の制度があり、元少年の更生の可能性が直ちに消えるわけではありません。少年法が求める配慮は消えておらず、これまで通り匿名で報道します。
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殺された被害者の人権はどうなる?/被害者の夫は、「死刑でないのはおかしい」と裁判所や社会に訴え続けた2012-02-02 | 死刑/重刑/生命犯 問題
 “殺された被害者の人権はどうなる?”このフレーズには決定的な錯誤がある
森達也 リアル共同幻想論
Diamond online 2012年2月2日 森達也[テレビディレクター、映画監督、作家]
■元最高検検事、土本武司・筑波大学名誉教授の発言
 この10月、大阪で起きたパチンコ店放火殺人事件の公判に、「絞首刑は残虐な刑罰を禁じた憲法に違反する」と主張する弁護側の証人として、元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授が出廷した。自ら死刑執行に立ち会った経験を踏まえながら、「(絞首刑は)正視に堪えない。限りなく残虐に近いものだ」と証言した土本は、死刑制度そのものについては「憲法は、法律によればどんな刑罰も科せるとしている」と肯定しながらも、「残虐でないことを担保するような方法でなければならない。その検討がこれまで不十分だった」と指摘した。さらに自らが求刑した死刑囚と文通を重ねるうち、「改心していく彼を刑場に送っていいのかという気持ちになった」とも証言した。
 この記事を新聞で読んだとき、僕は少しだけ複雑な気持ちになった。死刑存置論においては重要な権威で理論的支柱でもある土本とは、これまで『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)などで何度か顔を合わせている。いつも強硬な死刑存置論者の印象だった。その土本が、なぜ一転して廃止論者のようなことを公の場で言ったのか、その真意がどうしてもわからない。
 目の敵にしているわけではないけれど、2010年10月に刊行した『極私的メディア論』(創出版)で、僕は土本を強く批判している。この少し前に月刊誌『WEDGE』で見かけた土本の寄稿エッセイ《外国人の「犯罪天国」日本》の論旨があまりに粗雑で結論ありきの文章だと感じたからだ。以下に引用する。
(前略)在日外国人の検挙人員は、ここ20年で約半減している。ところが土本は、2006年の来日外国人犯罪の総検挙数が、(前年と比べたら減少していることには言及しながらも)10年前の1996年における総検挙数と比較すれば、件数は約1.5倍に、そして人員は約1.6倍に増大していると指摘しながら、「懸念すべき状況にある」と書いている。
 この10年に区切るのなら確かに増えている。当たり前だ。だって来日する外国人の数が、この10年で3割から4割ほど増えている。でも警察庁の犯罪統計は、このデータにまったく触れていない。(中略)外国人犯罪が増加していると断定した土本は、いかに外国人犯罪が危険で凶悪であるかを何度も強調してから、
《現に、同年末、全国20歳以上の3000人を相手に実施された「治安に関する世論調査(内閣府)」によれば、「治安が悪くなった原因は何か」という問いに対し、「来日外国人による犯罪が増えたから」と答えたものがトップを占めている(55.1%)。》
 と記述している。奇妙な文章だ。「現に」と副詞を置いたのなら、普通ならこのあとには実例がくる。だって「現に」なのだ。でも土本がこのあとに記述したのは内閣府のアンケート。実例ではない。ならば使うべき言葉は、「現に」ではなく「ちなみに」あたりにすべきだ。アンケート(民意)はデータによって形成される。ところが土本はそのデータを補強する要素として、アンケートの結果を挙げている。メビウスの輪のような論理展開だ。そもそもこのアンケートの前提が怪しいのだ。でも「現に」と言われれば、前提の知識や情報を持たない人は何となく納得してしまうのかもしれない。こうして虚偽のデータが流通し、この国における管理統制への希求は加速するばかりだ。
■「治安が悪化している」という前提がまず錯誤なのだ
 ……こうして引用しながら読み返すと、(我ながら)相当に辛辣というか揚げ足とり的なニュアンスが、ちらちらと見え隠れしている。明らかに感情が先行している。少しだけ反省。でも「虚偽のデータが流通し、この国における管理統制への希求は加速するばかりだ」という結びのセンテンスを修正するつもりはまったくない。その状況は今も進行している。
 厳罰化や管理統制の強化を肯定する多くの識者は、この国の近年の治安悪化を理由に挙げるけれど、その前提がまずは錯誤なのだ。治安は悪化などしていない。殺人事件の認知件数は毎年のように戦後最少を更新している。過去との比較だけではなく世界各国との比較においても、日本は現状において世界有数(ほぼトップレベル)で治安が良好な国なのだ。とにかくこの時点において土本は、まさしく(僕にとっては)頑迷な識者の筆頭だった。
 そして11月27日、京都産業会館で開催されたシンポジウム「第41回 憲法と人権を考える集い」(主催京都弁護士会)に、僕と土本は、パネラーとして参加することになった。
*   *   *
 今年のこの催しのサブタイトルは「死刑、いま命にどう向き合うか」。3人目のパネラーは、元刑務官で現在はノンフィクション作家である坂本敏夫。つまり、とりあえずのバランスとしては、森と土本が死刑廃止と存置それぞれの両端で、坂本は(廃止よりでありながら)実践的な提唱をするポジションと位置付けられる。要するに対立構造だ。もちろんシンポジウムなのだから、この人選は間違っていない。パネラーたちが同じような意見を言いながら互いに頷き合うだけのシンポジウムやトークショーならば、参加する意味はほとんどない。
 ……とは思いながらも不安だった。現在の土本のポジションがよくわからない。思想や哲学は簡単には変わらない。真意は別のところにあるのだろうか。とにかく会って確かめたいと考えながら、早朝の新幹線に乗った。
■レポート発表を終えた高校生たちに罵声が飛んだ
 催しの第1部では、地元の京都宇治高校の生徒たちによる死刑制度についてのレポート「高校生からの調査報告」が行われた。およそ20人近くの高校生たちは、この調査をする前までは、死刑制度についてほとんど疑問など持っていなかったという。例えば夜に眠り朝に目を覚ますように、あるいは水が高いところから低いところへ流れるように、凶悪な罪を犯した人は処刑されて当然なのだと思っていたという。
 つまり前提だ。
 でも被害者遺族やかつての冤罪死刑囚、教誨師や元刑務官などに会って話を聞きながら、彼らは少しずつ意識を変えた。もちろんあっさりと廃止派に転向などしない。もしそんなドラスティックすぎる変化があるのなら、それはそれでどうかと思う。
 彼らは揺れる。死刑は本当に正しい選択なのか。被害者遺族の傷を本当に慰撫するのか? 仮に慰撫するにしても、それは人の命を犠牲にすることに価するのか? あるいは人の命を踏みにじった命なのだから、犠牲になって当然なのか?
 そんな自分たちの揺れる意識を誠実に提示しながら、高校生たちは1時間余りのレポート発表を終えた。ニュアンスとしては死刑制度への懐疑が色濃い結論だった。でも断言はしない。できない。いずれにせよ知ることで変わった。ならばこれからも知り続ける。知らないことはたくさんある。知り続け、そして考え続ける。最後に高校生たちが一列に並んで頭を下げたそのとき、客席から罵声が飛んだ。
「被害者の人権はどうなるんだ!?」
 会場は静まり返った。最前列に座っていた僕は後ろを振り返った。年配の男性だった。険しい表情をしていた。男性はさらに何か言った。かなりの大声であり、かなりの剣幕だった。バカヤロウやフザケルナ的な言葉そのものは発さなかったけれど、バカヤロウやフザケルナ的な雰囲気を男性は濃厚に発していた。
 僕は視線を前に戻す。壇上で高校生たちは動揺していた。硬直していた。涙顔になっている女の子もいた。全員が沈黙したまま、第1部が終わった。
■加害者の人権への配慮は被害者の人権を損なう!?
 ネットや週刊誌などでも、死刑反対を訴える弁護士や知識人たちへの反論として、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」は、ほぼ常套句のように使われるフレーズだ。ならばもう一度反論しよう。
 このフレーズの前提には、(治安悪化を理由に厳罰化を正当化するロジックと同じように)決定的な錯誤がある。
 高校生たちは「被害者の人権を軽視しましょう」などとは発言していない(当たり前だ)。ただし加害者(死刑囚)の人権について、自分たちはもっと考えるべきかもしれないとのニュアンスは、確かにあった。そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。
 でもこの2つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。ところが加害者の人権への配慮は被害者の人権を損なうことと同義だと思い込んでしまっている人が、あまりに多い。いつのまにか前提になってしまっている。
 大きな事件や災害が起きたとき、この社会は集団化を強く求める。そしてこのときに集団内部で起きる現象のひとつが、構造の簡略化や単純化だ。911後のブッシュ政権や同時代の小泉政権を振り返れば、その傾向は明らかだ。例えば黒と白。敵と味方。右と左。善と悪。そして加害者と被害者。つまりダイコトミー(二項対立)だ。
 発達したメディアによって単純化はさらに加速される。なぜならば単純化したほうが視聴率は上がり、部数が伸びるからだ。要するに雑誌の中吊り広告の見出しだ。こうしてあらゆる要素は四捨五入され、グレーな領域は切り捨てられ、二進法のデジタル世界が現出する。善と悪はそれぞれ肥大し、正義や大義は崇高な価値となり、悪人は問答無用で殲滅すべき対象となる。
 僕たちは今、そんな世界に生きている。
■死刑制度の存廃論議をするなら、まずは情報公開すべき
 第2部のシンポジウムで発言を促された僕は、そんな趣旨を喋りながら(年配の男性が第一部だけで帰ってしまったことは後で知った)、隣に座る死刑存置派の重鎮である土本から反論が来るだろうかと身構えていた。でも反論はなかった。ないどころか土本は、とても自然に僕に同意した。死刑制度を廃止すべきとまでは言わなかったけれど、現況の制度にはあまりに問題が多く、存廃論議をするならばまずは情報公開をすべきであるとの意見は、坂本も含めて3人が一致した。
 何人かの男性や女性が、不愉快そうな表情で退席した。その様子を壇上から見つめながらも、土本の言葉は揺るがなかった。「絞首刑はあまりに残虐である」と何度も強調した。
 人は変わる。絶対に変わる。変わらない人などいない。最近の死刑判決では「更生の可能性がない」とか「見込めない」などの述語が常套句になっているけれど、なぜこのような断言ができるのだろう。なぜこれほどあっさりと可能性を排除できるのだろう。まさしく「人」を軽視している。
 二項対立は概念だ。現実ではない。あらゆる現象や状況は多面的で多層的で多重的だ。僕の中にも善と悪がある。あなたの中にもある。とても当たり前のこと。でも集団化が加速するとき、二項対立が前提になる。明らかに錯誤だ。多くの人はその矛盾に気づかない。立ち止まってちょっと振り返れば気づくのに、集団で走り始めているから振り返ることもしなくなる。
 今回は最後に、編集担当の笠井から原稿送付後に送られてきたメールの一部を貼りつける。
 被害者や遺族の感情を慰撫するのは、その人たちの気持ちを代弁することではなく、その人たちの感情に寄り添う努力をすることではないでしょうか。辛いと言っている人を見て、「この人は辛いんだぞ! なんでわかってやらないんだ」と叫ぶのはやはり違うと思います。そもそも第三者の気持ちを代弁することなどできないはずです。
 誰かがしている酷い行いに対して憤りを感じるのは当たり前ですし、それを第三者が「私は許さない」と考えるのも自由です。ですが、あくまでも主語は「私」であるべきで、「被害者の人権はどうなる?」と叫ぶのは違う気がします。
 僕も違うと思う。でもこの国では今も、その叫びが日々大きくなっている。
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