誰もがサバイバル競争に晒されるなかで共助社会は築けるか
Diamond online 香山リカの「ほどほど論」のススメ
2012年2月27日Mon. 香山リカ[精神科医、立教大学現代心理学部教授]
■自己啓発は自分だけ生き残るためのものか
最近、宮崎学さんの著書『「自己啓発病」社会』を読みました。
その中で、19世紀にイギリスで出版されたサミュエル・スマイルズの『自助論』について書かれています。この本には欧米人300人の成功譚が書かれています。宮崎さんは、この本が自己啓発に熱心な人たちに誤読されていると主張しています。
現在日本で発行されている『自助論』は、要点だけを訳してあるので、それだけを読むと自分の努力(自助)だけで人は成功できると読まれがちです。しかし、1871年に刊行された全訳である『西国立志編』を読むと、自助は自分のためではなく相互扶助のためであると書いてあります。
また、『自助論』が19世紀半ばのイギリスで出版された状況を考えると、当時は決して恵まれていたとは言えない工場労働者に対して、仕事を通じての自立は可能だと説いているのです。スマイルズは、恵まれた人がさらに成功することを訴えたかったのではないと宮崎さんは書いています。
自己啓発本はこれまでも盛んに出版されてきました。
1980年代は、豊かな時代のなかで自己実現するという「自分探し系」が多数を占めていました。
ところが、2000年代に入るとその意味合いが一変しました。出口の見えない不況のなかで最終的に生き残る人は2割程度と脅され、自分だけでも生き残ろうとする「自己本位の自己啓発」が主流になっています。
サバイバル競争が激しくなる社会で他人に頼るのはあてにできない。このような文脈から自助が求められているのでしょうか。こうなるとスマイルズが説いた自助の精神とはあまりにも違っています。
競争で勝った人だけが生き残っていく社会、そこで必要なのは勝ち残るための自助の精神。これでは、そこでこぼれた人はどうなってしまうのでしょうか。
■自助努力だけに光が当たる現代社会
たとえば、ある企業に勤務する人がうつ病になったとします。それを契機として企業が働き方を見直し、従業員のこころをケアするシステムを新たに作るケースがあります。何か事故が起こった場合、安全策が講じられて社会的な不安が解消されることもあります。
もちろん、病気になった方の不幸や事故の被害に遭われた方の悲しみや憤りは拭い去ることはできません。
ただ、それとはまったく別の視点で見ると、何か問題を抱えたり、躓いたり、病気になってしまう人は社会に警告を発する存在でもあるのです。それによって社会が何かを考え直す契機となり、間接的には社会の発展につながることもあると考えられます。
犯罪は、貧困や病気などと同列に論じることはできませんが、ときに同じような意味も持ちます。人が罪を犯す要因として、犯罪者個人の問題も大きいでしょうが、貧困や差別などの社会問題が横たわっている可能性も否定できません。犯罪もそれを犯した個人の問題として考えるだけではなく、それを生み出した社会の問題として光を当てる視点も必要なのではないかと思います。
近年、あらゆる面で問題の要因を、個人の側に求めてしまう傾向が進んでいるような気がします。ニートやネット難民の問題も、そうせざるを得ない若者を生み出した社会の問題として捉える視点は薄れつつあります。宮崎さんが指摘されているように、自助の名を借りた自己責任論が強まっているようです。
日本人はいざとなったら国が救ってくれるという受け身の姿勢が強い。それではいずれ立ち行かなくなるので、自分から働きかけて声を上げることも必要だ。宮崎さんはそう批判しています。私もその指摘には同意しています。
すべてを社会のせいにするのはやりすぎです。ただ、一方で思うのは、個人の自助努力だけに責任を帰すのもやりすぎではないかということなのです。
■自助が求められる一方で個人の自由も制限される
原因は個人にあり、自助努力ですべて解決できるという考え方は、アメリカの資本主義社会の最先端をいくようなスマートさを感じる人もいるかもしれません。市場での競争が社会をよくするという新自由主義的な考え方です。
ただ、自由主義という名を冠しているわりには個人の自由が制限されていると感じざるを得ません。本来の自由主義はいろいろな人がいて、その人たちのいろいろな意見を尊重する考え方のはずです。
しかし、いまの日本は個性や個人の意見が認められにくい社会になっています。個人の権利が狭められているのに、逆に個人の義務や責任が重くなっている。つまり、現代は自助努力が求められていながら、個人の自由が制限される社会なのです。
「空気を読む」という言葉が、当たり前のように蔓延しています。このことじたいが、個性を発揮しにくい社会である証明にもなっているのではないでしょうか。
同調を強いられる社会には息苦しさを覚えます。かといって、すべてを個人の問題にしてしまう社会には違和感も覚えます。健全な社会とはいったい何なのか。果たして、個人の自由や価値観を認め合いながら、共に助け合う社会は築けないものでしょうか。
■他人の置かれた立場を想像するのが共助への一歩
共助を実現するときの「根っこ」とはいったい何なのでしょうか。
宮崎さんの著書では、文化や歴史や伝統、あるいは同じ地域に長く住んでいるつながりなど目に見えないものではないかという程度にとどめられています。ただ、都会ではそうしたものはほとんど消失しています。自然発生的なものでのつながりはあまり期待できないので、何か人工的に設定する必要があるのかもしれません。
そうした動きも起こり始めています。シングルの女性を機械的にグループ分けし、災害などがあったときに連絡を取り合おうという動きがあります。インターネットが新しい共助の仕組みを作り出している事例もあります。これを見ると、多くの人が共助を求め、重要視する意識を持っているのは確かなようです。しかし、現実には共助の社会はなかなか実現しにくいものです。
福祉やボランティアに携わる人は、「誰だって、明日はそうなるかもしれない。決して他人事ではないんですよ」という言い方をすることがあります。このような呼びかけが響く人もいますが、一方で、こころの奥底にある不安をほじくり出されるような気持ちになり、遠ざかってしまう人もいるでしょう。
逆にノブリス・オブリージュのような考え方はどうでしょうか。社会で不自由なく生活できる人はその人の努力の賜物であると同時に、努力できる環境があったという「運」にも目を向けてみます。そうすると、たまたまその人は、努力する環境恵まれ、また社会的にも家庭的にも身体的にも、自立していくために必要な時間を確保できたという見方もできます。そうやって、社会で活躍できる人が共助の精神を発揮するのは、普通のことと捉えられます。しかし、このような考えもまだ日本では浸透していないようです。
震災の復興支援では多くのボランティアの方が力を発揮しました。それは高揚感を得たり、自己の存在意義を確認したりする人たちだけで成り立っていたのではなかったでしょう。
実際に復興支援に携わっている人の多くは、それらとは無縁なところで、被災者の悲しくて苦しくて辛い気持ちを想像しながら一歩を踏み出しています。これこそが、本当の意味での共助の芽生えなのではないかと思うのです。
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〈来栖の独白 2012/2/27/Mon.〉
いつの頃からか、香山リカさんの《「ほどほど論」のススメ》を楽しみに待つようになった。僭越な云い方かもしれないが、人情ある正論だと思う。毎回、共感するところが多い。
「自己責任」という言葉に初めて接したとき、私は、なんと冷たい意味内容だろうと感じた。「空気を読む」という言葉も、如何にも没個性的で嫌いだ。
「迷惑をかけない」という言葉もあるが、これも好きになれない。「子育てで心がけていることは『他人に迷惑をかけない人』に育てるということです」という親御さんがいるが、養育の基本がそんなことではロクな人間は育たないだろう。
小沢一郎氏は、次のように言う。「個人個人が自らの意見を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります」。
何かあれば「自己責任」に帰し、迷惑をかけずかけられないようにと自分を守り、個性を引っこ抜かれてひたすら「空気を読まされる」(ただただ同調)。そんな断裂社会では、人間は生きてはゆけぬ。「自己責任」ではなく、互いの弱さを自覚し補うこと。一人一人の個性や自立が尊重される社会。「迷惑」ではなく、互いが隣人としてともに悩み、引き受ける社会。
「和をもって尊しとなす」社会が、空気を読むだけの、個性を殺す社会であるなら、単なる談合社会だ。
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◆民主党大会 小沢氏演説=この理念に沿った政治をこの国が渇望しないはずがない2010-09-15 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
民主党代表選に於ける小沢一郎氏演説
〈前段略〉
さて、今回の立候補にあたっては、今日の危機的な政治経済事情の中で、果たして自分にその資質があるだろうか、政治の最高責任者として国民の生活を守るというその責任を果たすことができるだろうか、と本当に悩み、自問自答いたしました。それにもかかわらず立候補を決意をしたのは、今、政治を変えなければもう間に合わないという、私の切実な思いを正々堂々、世に問いかけたかったからであります。
思い起こせば、私は27歳で衆議院議員に初めて立候補した際、選挙公報にこうつづりました。「このままでは日本の行く末は暗澹たるものになる。こうした弊害をなくすため、まず官僚政治を打破し、政策決定を政治家の手に取り戻さなければならない」と。意志なき政治の行き着く先には国の滅亡しかありません。日本は敗戦を経て本質は変わっていないのではないか。若かりしころの、感じたその思いは初当選以来、いまなお変わっておりません。
今日、わが国はデフレによる経済の収縮、少子高齢化の既存の社会制度のギャップによる不安など、経済も社会も危機的な状況に陥っております。
世界で最も層が厚かった中間所得層が解体され、ごく少数の富裕層と数多くの低所得層への分化が急速に進んでおります。日本が誇った社会保障制度も崩れつつある中、2年後には団塊の世代が年金受給者となる日を迎えます。
今、日本は、最も大事にされなければならないお年寄りがいなくなっても誰も気づかず、また、就職できない多くの若者が絶望感にさいなまされ、若い親が育児を放棄しわが子を虐待する。もはや高度成長がいろいろな問題を覆い隠してくれた時期はとうに過ぎ去って、社会の仕組みそのものが壊れています。そしてまた、日本人の精神風土も興廃し始めていると思います。
今、ここで政治を見直し、行政を見直し、国のあり方を見直さなければ、もう日本を立て直すことができないのではないかと思います。多くの国民の皆さんも同じように感じていたのだと思います。昨年、われわれ民主党に一縷の思いを託し、政権交代を実現させていただきました。しかしもう1年が過ぎ、残された任期はあと3年であります。
私たちは今、直ちにこの3年間を国の集中治療期間と位置づけ、徹底した改革を断行し、実行していかなければなりません。しかしその改革は明治維新以来140年続く官僚主導の政治を、根っこから国民主導、政治主導に変えなければとても成し遂げられるものではありません。私の頭の中を占めているのはその思いなのであります。
しかし、私は官僚無用論を言っているわけではありません。日本の官僚機構は世界に冠たる人材の集まっているところであると考えております。問題は政治家がその官僚をスタッフとして使いこなし、政治家が自分の責任で政策の決定と執行の責任を負えるかどうかということであります。
私は40代でたまたま国務大臣、自民党幹事長に就任するという機会があり、国家はどう運営されているのか、その実態を権力の中枢でつぶさに見続けて参りました。そこで見た官僚主導の、例えば予算作りでは、各省のシェアが十年一日のごとくほとんど変わることがありませんでした。官僚組織というのはそういうものであります。
その中で私は、自民党の中にいながらこの改革は無理であることを骨身に染みて分かりました。だからこそ、政権与党である自民党を飛び出して、真にしがらみのない政党を作り、政権を変えるしかないという決意をもってこの17年間、政治活動を続けて参りました。
改めて申しあげます。昨年、政権交代が実現したのは、こんな日本を何とか変えてくれ、という国民の悲痛なまでの叫びからだったはずであります。この声に応えようと、菅総理大臣始め閣僚の皆さんが一生懸命に取り組んでおられることを否定をするものではありません。
しかし、政治と行政の無駄を徹底的に省き、そこから絞り出した財源を国民の生活に返すという、去年の衆院選挙マニフェストの理念はだんだん隅においやられつつあるのではないでしょうか。実際に来年度の予算編成は、概算要求で一律10%カット。これではこれまでの自民党中心の政権と変わりません。財政規律を重視するという、そういうことは大事なことではありますけれども、要は官僚の抵抗で無駄を削減できず、結局マニフェストを転換して国民に負担をお願いするだけではないでしょうか。これでは本当の意味で国民の生活は変わりません。
私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、(※)地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意見を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。
日本人は千年以上前から共生の知恵として、和の文化を築きました。われわれには共生の理念と政策を世界に発信できる能力と資格が十分にあります。誰にもチャンスとぬくもりがある、豊かな日本を作るために、自立した国民から選ばれた自立した政治家が自らの見識と自らの責任で政策を決定し実行に移さなければなりません。
そして、霞ヶ関で集中している権限と財源を地方に解き放ち、国民の手に取り戻さなければなりません。そのため、国のひも付き補助金を順次すべて地方への一括交付金に改めます。これにより、地方では自主的な町作りやインフラ整備が可能になります。国、地方を通じた大きな節約効果と、そして地域経済の活性化が期待できます。また、地域での雇用が生み出され、若者がふるさとに帰り、仕事に就くこともできるようになります。
国民の皆さんにご負担をお願いするのは、ここにいる皆さんがありとあらゆる知恵を絞って、できることすべてに取り組んでからでいいはずであります。そしてそれが、昨年の総選挙で民主党と国民との約束でなかったでしょうか。
衆議院の解散総選挙はこうした改革に与えられた任期を費やして、その結果を出してからのことであります。官僚支配の140年のうち、40年間、私は衆院議員として戦い抜いてきました。そしてようやく官僚機構と対立できる政権の誕生にかかわることができました。われわれは国民の生活が第一の政治の幕開けにやっとこぎつけたのであります。
官僚依存の政治に逆戻りさせるわけにはいきません。それはとりもなおさず、政治の歴史を20世紀に後戻りさせることになるからであります。私は代表になってもできないことはできないと正直に言うつもりであります。しかし、約束したことは必ず守ります。
こう断言できるのは官僚の壁を突破して、国民の生活が第一の政治を実行するのは、最後は政治家の志であり、改革のきずなで結ばれている皆さんとなら、長い時代の壁を突破できると信じるからであります。そして私自身は、民主党の代表すなわち国の最終責任者として、すべての責任を取る覚悟があります。
今回の選挙の結果は私にはわかりません。皆さんにこうして訴えるのも、私にとっては最後の機会になるかもしれません。従って最後にもう一つだけ付け加えさせてください。
明治維新の偉業を達成するまでに多くの志を持った人たちの命が失われました。また、わが民主党においても、昨年の政権交代をみることなく、志半ばで亡くなった同志もおります。このことに思いをはせるとき、私は自らの政治生命の総決算として最後のご奉公をする決意であります。そして同志の皆さんとともに、日本を官僚の国から国民の国へ立て直し、次の世代に松明を引き継ぎたいと思います。
そのために私は政治生命はおろか、自らの一命をかけて全力で頑張る決意であります。皆さんのご指示、ご理解をお願いいたしまして、私のごあいさつといたします。ありがとうございました。
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※憲法第13条
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
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誰もがサバイバル競争に晒されるなかで共助社会は築けるか
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