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光市事件 見落とされた争点「迎合性」防衛機制 / 手紙「・・・のことですやろ?」「ボクも思うとりました」

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光市事件裁判が残したもの 見落とされた争点「迎合性」
長谷川博一(はせがわ ひろかず=東海学院大学教授、臨床心理士)
中日新聞2012/2/27Mon. 夕刊6判(文化)
 2008年4月28日、私は犯行時18歳1か月の元少年(30)と初めて会った。彼は、穏やかな笑顔と凛とした誠実さをもって私を歓迎した。事件の凄惨さとは相いれない「素顔」に一瞬たじろいだが、そこに深い心の闇の存在を感じ取った。私は刑事裁判の心理鑑定に携わっているが、虐待問題への心理ケアに積極的に取り組んできた。彼の不自然さに、被虐待者特有の「防衛機制」が張り巡らされていると解読した。
   ■   ■
 防衛機制とは、本当の思考、感情、記憶にアクセスすることに甚大な心的苦痛を伴う場合に、無自覚に「加工」が進行してしまう心の仕組みのことである。その中でも重篤とされる「否認」が、彼には顕著であった。否認の機制が強いほど、「自分」がわからない。わからないから、相手に合わせ、嫌われまいとする。こうして極めて強い迎合性という性格がつくられる。迎合性が、裁判を迷走させ、事件の真相を闇に葬った主因だと考える。誘導しようと意図しなくとも相手の期待に沿うよう応答してしまう特徴が、見落とされた争点だった。
 1つの大きな疑問に、反省をめぐる彼の発言の変遷がある。1審と控訴審では供述調書の記載事項を概ね認め、謝罪も示していたが、差し戻し控訴審で大きく転じ、殺意を翻すとともに「ドラえもん」「復活の儀式」など、非常識的な内的世界が披露された。
 私は弁護団の説のすべてが嘘だとは考えない。家裁段階で実施されたある心理検査は4〜5歳の精神発達に留まっていることを示しているし、共に父親からの暴力の被害に遭った母親(のちに自殺)との歪んだ共生関係との接点が認められる。だが、弁護団の方針と意図は彼の豹変をもたらした。迎合性の強い彼はそれを受け入れたにすぎず「否認」の機制に阻まれ自分の真意をつかめずにいたのだ。
   ■   ■
 この特徴は、検査官が証拠として提出した不謹慎な「手紙」からも読み取れる。「被害者さんのことですやろ? 知ってます。ありゃーちょーしづいていると、ボクも思うとりました」。「・・・のことですやろ?」によって、相手が書いた話題に応じていることが、「ボクも思うとりました」から、相手の意思が先にあることが明示される。この手紙に彼の真意が表れていると結論づけるのは早計で、迎合性の表れとの観点から検討を加える必要があった。
 後に私は彼に面会できなくなり、毎週のように手紙を書いた。「君は、自分の意思を持っていい」「自分の言動は自分で決めていい」と繰り返し繰り返し、書いた。
 7月4日、突然、彼から電報が届いた。「お手紙頂いてます。大変ありがたいです。礼をしないのは本意ではないのでひとまずすみません」。ここにかすかな、初めての彼の本心が読み取れる。
 この裁判の致命的欠陥は、裁判所の正式鑑定が一度もなされていないことだ。20日に元少年の死刑判決が確定することになったが、いかなる判決であれ「何がどうして起きたのか」がわからない結末は、遺族の困惑を軽くはしない。判決後の会見で本村洋さんはこう述べた。「事件の真相が何だったのか分からなくなった」と。
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長谷川博一公式サイト
光市母子殺害事件の、長谷川の関与について、公表できる範囲内でお知らせします
 2008年4月22日に、差し戻し控訴審の判決で、死刑が言い渡されました
  その週末、事前に被告人に通知し、面会をした。
 この面会のやりとりで、検察側主張・弁護側主張の双方に、真実でない秘密が含まれると考えられた。
 ご遺族からも、「再発防止のためにも真実を追及」という賛同を頂戴し、徹底的に調べる必要がある。
 このように決意した次第です。
 数日後、面会予定をしていたところ、「主任弁護人と相談しなければにらない」と指示され、話し合いへ。
 一時間半に渡る協議の結果、決裂に至った。
 主任弁護人は
  「弁護団の依頼として鑑定をしてもらうことは可能か?」
 と質問してきた。
 長谷川は、
  「中立的立場で調査を行う必要がある」
 と主張。そして、
  「今後は、独自の活動として調査を継続します」
 と、ちゃんと主任弁護人に伝えた。
  数日後、被告人に連絡し、面会に行くと、見張り役の女性○○さんが慌てて携帯で連絡をとった。
 ほどなく、足立弁護士が車で現れ(酒の臭いがプンプンしていましたが、通報は控えた)、押し問答。
 かつて「足立事件」と呼ばれる、「犯した速度違反は、制限速度が間違っている」と主張して、有罪になったもの。
 彼は、弁護人面会手続きを済ませ、早くから面会受付を済ませていた私の前に、面会へ。
 明らかな面会妨害。被告人の利益を鑑みた対処とは思えず、秘密の暴露を恐れた行為のように感じた。
 長谷川は、刑事司法とは独立して、なにが起きたのか、なぜ起きたのか、再発防止に生かせないか……
 これらを目的として、しばしば重大事件の被告人に会います。
 今回のような、弁護人による面会妨害は、初めてです。
 その一件のあと、何度も面会に行きましたが、「本人の面会拒否」。
 弁護団から、もう絶対に会うなときつく叱られた模様。
 そこで手紙を書き続けている。10何通目かで、被告人が私を拒否していないことがわかった。
 なぜわかったかについては、弁護団に知られると、被告人が激しく責められる。
 今後の真実解明に支障をきたすので、公表できない。
 弁護人は、被告人の代理人。本人の意向を無視して厳しい制限をかけることは、いかがなものか。
 また、弁護団の活動を、第三者的立場から検証を行ってみたい。
 そうでないと、今後の刑事弁護は、弁護士の個人的感情で動かされるような、忌々しき事態に陥りかねない。
 ちなみに、最高裁に「正式鑑定は不可欠」との書類を提出済み。
 安全な日本社会の構築を目指すためにも、「本当は何が起きたのかわからない」で結審は好ましくない。
追記
 弁護団の一部の人から、「差し戻し控訴審にて弁護団が展開したストーリーは、一部作文が含まれている」
 との告白を受けた。「弁護団の依頼で」と言った、主任弁護人の真意を垣間見た。
 検察官も弁護人も、そして裁判官も、中立的立場から検証するという姿勢を堅持してもらいたいと思う。
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光市母子殺害事件差し戻し審 野田正彰氏の話
 「週刊ポスト」2007,8,17・24日号
《野田正彰関西学院大学教授・精神科医=弁護団の依頼により元少年被告人の精神鑑定を行った》
 広島拘置所の面会室。透明なアクリル板をはさんで、山口県光市母子殺害事件の被告人Aと私が初めて対面したのは、今年1月29日のことです。
 Aの口調はボソボソと頼りなく、内向的な印象を受けました。感情も表にほとんど現わさない。拘置中に『広辞苑』をすべて読んだというだけあって、難解な言葉も使うのですが、概念をよく理解していない。およそ26歳とはほど遠く、中学生、否、小学生のような印象を最初に抱きました。
 しかし、淡々と話していても、ひとたび父親のことが話題にのぼると、Aは心底怯えた表情を見せる。Aは「捕まったとき、これで父親に殺されなくてすむと思った」とすら語った。それは、父親の暴力がどれほどAの心を傷つけていたのかを物語っていた。
 その日を機に、2月8日、5月16日と、計3回合計360分超に及ぶ面談が始まったのです----。
 ここにきて、Aの主任弁護人である弁護人安田好弘弁護士ら21人の弁護団に対して、脅迫や嫌がらせが続発しています。日弁連や朝日新聞社あてに送られた脅迫文には、弁護人安田氏を「抹殺する」と脅し、銃弾のような金属片まで同封されていたと報じられています。
 安田氏の依頼でAの精神鑑定をした私に対しても、<(野田は)犯人を擁護し、遺族を深く傷つける証言を行った。また、シンポジウムでは遺族本村洋に対し、「社会に謝れ」などの脅迫・侮辱的な暴言を吐いた>
 などと、まだ公判で証言もしていないのにデマが意図的に流されていた。さらに、勤務先である関西学院大学には、電話やメールで「辞めさせろ」「大学の恥」などの抗議がありました。ネットには、私が死刑廃止論者であるとして、Aの死刑を阻止するために弁護団に協力しているとの書き込みもありました。
 私は精神科医として病気の診断をするのであり、刑の判断は司法が行うものです。
 しかしマスコミ、とりわけテレビは偏向報道で大衆裁判の風潮を煽った。「凶悪犯を弁護するとは何事だ」とばかりに、弁護団を犯人と同一視し、憎悪の感情を扇情的に煽り続けた。
■「父に殺されると思った」
 そもそも、安田弁護士が依頼してきたのには理由があります。
 Aの述べることがよく理解できず、またあまりの幼さに驚いた。その上、家庭裁判所の調査官(3名)による詳細な「少年記録」には「AのIQは正常範囲だが、精神年齢は4,5歳」と書かれていた。また、生後1年前後で頭部を強く打つなどして、脳に器質的な脆弱性が存在する疑いについて言及していました。
 さらに広島拘置所では、Aに統合失調症の治療に使う向精神薬を長期多量に服用させていました。当惑した弁護団が精神鑑定を求め、裁判所が認めたのです。
 精神鑑定では、Aへの直接面談以外にも、Aの父親、実母方の祖母、実母の妹、Aの友人にも話を聞いています。Aの生育歴、人格形成の経緯を多角的に調べました。結果、私は「Aは事件当時、精神病ではなかった。しかし、精神的発達は極めて遅れており、母親の自殺時点で留まっているところがある」という結論を下しました。
 なぜ、Aには精神的発達の遅れがあったのか。理由を知るためには、Aの幼少期まで遡らねばらない。
 Aは1981年、山口光市で、地元の新日鉄に勤務する父と、母の間に長男として生まれました。2歳年下の弟とともに育てられましたが、家庭は常に「暴力」と「緊張」そして「恐れ」に支配されていました。
 父親は、結婚直後から、母親に恒常的に暴力を振るっていたようです。これは実家の母や妹が外傷を見ています。
 父親から暴力を受け続ける母親の姿は、Aにはどう映っていたのでしょうか。
 Aはやがて、母をかばおうとするようになります。これを契機に、父親の暴力の矛先は押さないAにも向うようになった。「愛する母を助けてあげられない」という無力感にも苛まれる。幼児期、父親に足蹴にされ、冷蔵庫の角で頭を打ち、2日間もの間朦朧としていたこともあったそうです。
 小学校1〜2年生ごろに海水浴に行った際には、一親は、泳げないAが乗ったゴムボートを海の上で転覆させ、故意に溺れさせた。また、小学3〜4年生ごろには、父親に浴槽の上から頭を押さえつけられ、風呂の水に顔を浸けられたといいます。この時、彼は「殺されると思った」と感じている。
 父親の暴力は、些細なことから突然始まるために、Aは、どう対応すればいいのか分からなかった。
 Aが母親を守ろうとすると、父から容赦ない暴行を受け、逆に母親がAを守ろうとすると、父は母に対して暴力を加えた。
「どうしようもなかった、何もできなかった、亀になるしかなかった。僕は守れなかった」
 面接中あまり感情を表現しないAですが、母のことになると無力感に顔を歪めていました。
 このようにAは、常に父親の雰囲気をうかがってびくびくするような環境で育ちました。本来、愛を与えてくれるはずの親から虐待され続けたA。そして、彼の人間関係の取り方、他人との距離の置き方は混乱してゆくのです。
■「母の首つり遺体」の記憶
 父親の暴力に怯える母とAは、ともに被害者同士として、共生関係を持つようになります。
 母親は親族からも遠く離れ、近くに相談相手もおらず孤立した生活を送っていた。その中で、長男のAとの結びつきを深めていった。母親はAに期待し、付っきりで勉強を見た。Aも、母親が自分の面倒を見てくれることが本当にうれしかったと語っています。
 そしてAが小学校の高学年になると、2人の繋がりは親子の境界をあいまいにする。母子相姦的な会話も交わされるようになりました。
 母親から「将来は(母とAとで)結婚して一緒に暮らそう。お前に似た子供ができるといいね」と、言葉をかけられたことがあったといいます。
「母の期待に応えられるかどうか、本当に似た子が生まれるのか不安だった」と、Aは当時の心境を振り返っています。
 Aは私との面談で、母親のことをしばしば妻や恋人であるかのように、下の名前で呼んでいました。それほど母親への愛着は深く、母親が父親の寝室に呼ばれて夜を過ごすと、「狂いそうになるほど辛かった」とも話しています。
 母親は虐待により不安定になり、精神安定剤や睡眠薬にも頼るようになり、自殺未遂を繰り返しました。そして、Aが中学生(12歳)の時に38歳で自殺します。その際、自宅ガレージで首を吊った母親の遺体を、Aは目撃している。
 Aにその時の状況を聞くと、求めてもいないのに詳しい図面を描き始める。それほどその時のショック、精神的な外傷体験は鮮明に記憶されている。Aは「(母親の)腰のあたりがべったり濡れていた。その臭い(自殺時の失禁)も覚えている」と語りました。
 彼はまず、「父親が愛する母を殺したのだ」という念を強くします。これには二重の意味がある。「父親の虐待で母が死を選んだ」という思い。さらに、父親が第一発見者を祖母から自分へ変えたことから、「父親が直接殺したのではないか」という疑いです。
 母を殺した父を殺そうと包丁を持って、眠っている父のもとに行ったこともあったが、かわいそうで実行できなかったともいっています。弟と2人で殺すことを考えたが、まだ負けると断念したともいっています。
 同時に、Aは「母親を守れなかった」との罪悪感も募らせていった。後追いして自殺しない自分を責めてもいます。
 こうした生育歴と過酷な体験により、Aの精神的発達が極めて遅れた状態になったと考えられる。理不尽な暴力を振るう父親を恐怖し避ける。一方、母親とは性愛的色彩を帯びた相互依存に至った。父親の暴力がいつ始まるか、怯えながらの生活は他人との適切な距離感を育むことを阻害した。Aは、他人との交流を避け、ゲームの世界に内閉していった。
 そして、母親の死の場面は、強烈な精神的外傷としてAの心に刻まれた。この精神的外傷は、以後、何度となく彼の心の内を脅かすこととなりました。
■死刑になれば「弥生さんの夫に」
 検察はAの犯行を、計画を立て、女性だけの家に入り込んで強姦しようとした、としています。ところが、犯行当日、Aはなんとなく友人の家に遊びに行って過ごし、友人が用事があるというので、たまたま家に帰った。そして、何となく時間を潰すために近くのアパートで無作為にピンポンを押していった。そこに、緻密な計画性は認められない。
 たまたまドアを開けた本村弥生さんが、工事用の服を着ていたAを見て、「ご苦労さま」と受け入れた。その時、Aは弥生さんの先に、かつてすべてを受け入れてくれた亡き母を見ていたと考えられるのです。
 弥生さんの抵抗に驚いたAは、殺害に至る。プロレス技のスリーパーホールドで絞めた行為をAは、「ただ、静かにしてもらいたかっただけ」と語っている。殺害後、ペニスを挿入したことについては、母親との思い出がフラッシュバックしたと考えられます。理由は首を絞められた弥生さんが失禁したこと。その異臭で母親の自殺の光景が蘇った。そこで母親と一体になろうとした思いに戻っていったのかもしれません。
 ただし、A本人は、このセックスを「死者を蘇らせる儀式。精液を注げば生き返ると思った」とも主張していますが、これはどうか。当時、本当にそう考えていたかは疑問も残り、後付けの可能性もあります。
 夕夏ちゃんを殺害して、遺体を押し入れの天袋に入れた行為はどうか。本人は、「押入にはドラえもんがいて、何とかしてくれると思った」
 と話していますが、彼は夕夏ちゃん殺害について私に「思い出せない、分からない」と答えている。ですから、犯行時にドラえもんの存在が思い浮かんだかどうかはわかりませんし、これも後付けの可能性がある。
 ただし、彼が、自分の中に閉じこもり、ファンタジーの世界に生きていたということは事実でしょう。
 また、彼は、自分の母親や弥生さんが死んでしまったこと、死は無であることを認識しているかどうか。「死んでいるが、生きている」と二重の思いを語ります。
「もし僕が死刑になって、先に弥生さん、夕夏ちゃんと一緒になってはいけないのではないか。再会すれば、自分が弥生さんの夫になる可能性があるが、これは本村さんに申し訳ない」
 と語るA。世間は反省の気持ちもない傲慢な主張と受け取るかもしれませんが、実際の本人は十分に反省する能力もないほど幼稚だからこそ、弁護団でさえ戸惑うようなことを平気でいうのです。
 繰り返しますが、彼は事件当時、統合失調症や、妄想性障害のような精神病ではありません。しかし、精神的発達は母親の自殺の時点で停留しており、18歳以上の人間に対するのと同様に反省を求めても虚しい。本人も混乱するばかりです。さらにいえば、父親の暴力への恐怖、母親への感情を分析していけば、Aの発展を促すことは十分に可能だと考えられる。
 例外なく、殺人は最悪の行為です。しかし、事件は事実に向かって調べられなければならない。精神鑑定は、精神医学に基づいて、多元的に診断されるものです。
 もちろん、妻と1歳にも満たない子どもという最愛の2人が殺されている被害者遺族が、Aへの怒りと憎悪を強めていくことは痛いほど理解できます。
 しかし、その感情をさらに煽るようなマスコミ報道は許されない。
 Aが死刑になるかどうかは、裁判所、司法が決めることです。解明された事実を正しく伝えることが、マスコミの役割ではないか。どのメディアも、犯人憎しの報道で同じ方向を向いて、事実を追う媒体はまったくありません。これは「ジャーナリズムの放棄」を意味するのではないか。
 さらにいえば、Aが苦しんできた家庭内暴力のような不幸な現実に光をあてることも、マスコミの使命ではないか。
 公判の最後、「事件を通して、いったい何を考えなければならないのでしょうか」との問いが投げかけられた。私は「社会は、(Aを)殺せというだけでなく、彼がこれほどの家庭内暴力に対し誰にも助けを求めることができなかったことへの反省はないのでしょうか」と答えた。二度とこのような不幸な事件を繰り返させないためにも、皆が冷静に考えることを望むばかりです。
 ◆光市事件 menu
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光市最高裁判決と弁護人バッシング報道 安田好弘
 〈抜粋〉
この事件は少年法改悪に利用された
 検察官はこの子を死刑にしてやろうと思って事実をねつ造しました。この事件は1999年に起こりましたが、2000年に少年法は戦後最大の「改正」をやっています。16歳未満の子どもたちについては基本的には刑罰で臨まないとしていたのを14歳に引き下げたのです。しかも、重大事件については、原則として子どもを刑事処罰するとしたのです。従来、少年に対しては「処罰」ではなく「保護・援助・教育」であるとしていたのを、大きく転換したのです。そして、この事件は、その「改正」の真っ只中であったわけです。検察はこの事件を凶悪な事件とすることによって、少年法の「改正」を後押ししようとしたんです。それを1、2審とも全く見破れないまま、ここまできてしまったのです。1審の裁判所、2審の裁判所が言っているのは、検察官が言うのはもっともだけれども、しかし彼はやっぱり大人とは言えないではないか、この幼い子どもを死刑にするのはやっぱり忍びないではないかと。彼は中学校1年生のときにお母さんを亡くし、そして母親の愛情や教育を受ける機会を十分に得ることもなかった、少年に同情すべき事情もあるとして、1審は無期を宣告したわけです。これに対して、死刑にせよという強い反発があったのも確かです。しかし、過去の量刑基準からすれば、死刑になるはずのない事件でしたから、1審の結論は当然のことでした。
 控訴審でも、ともかく死刑にしなければならないというので検察がやったのが、彼の例の手紙です。ひどい内容の手紙であることは確かです。しかし、それは隣の房にいた子どもが、小説家になりたいという希望を持っていて、彼からすれば、死刑を求刑されるような事件をやった被告人は関心の的であったわけです。文通の相手は被告人を偽悪的にもてはやします。そして、そのもてはやし、挑発といってもいいのですが、それに乗せられて書いたのが例の手紙であったわけです。しかし、そういう個人的なてがみのやりとりが、そっくりそのまま検察の手に渡って、検察が証拠請求してきたんです。検察官は、その手紙を盾にとり、裁判官と弁護士だけでなく被害者や被害者遺族も被告人に愚弄されている、絶対に許すわけにいかないと声高に主張を続けたのです。
 私からすると、どうしてあの手紙が検察官の手に入ったかというだけはでなく、どうしてあんな手
紙を発信することができたのか、ということが不思議でならないわけです。普通、手紙というのは拘置所の職員が全部検閲しますから。彼らは非常に教育者的な気概を持っているというか、そういう役割を自負していますから、変なものはチェックして、口を挟んでくるんです。ときには郵送を禁止したり、ここを削除しろ、書き直せと平気で干渉してくる。普通だったらあんな手紙を出せるはずがないんです。被告人に対して、「何を書いているんだ」と、叱るのが当たり前なわけです。ところが、それが一切ないまま手紙が通って、今度は堂々と法廷に証拠として出てきて、これほどひどい奴だという証拠になってくる。信書そのものが犯罪を構成しているわけではないのに、刑事事件の証拠として採用されてしまうんですね。通信の秘密、通信の自由はどうなっているんでしょうね。
 それでも、控訴審は、1審の無期懲役を維持しました。控訴審は事実関係については1審と同じく見落としをしてしまいました。あの手紙については、とんでもない手紙だけれども、しかし挑発されて書かされた面がある、彼は更生の可能性があると判示するわけです。これも、死刑の量刑基準からすれば当然のことでした。
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