河村たかし・名古屋市長が記者会見 南京事件の全面否定は「誤解」と釈明
12/02/27 | 19:11
南京市幹部に対して2月20日に「いわゆる南京事件はなかったのではないか」と語ったことが問題になっている河村たかし名古屋市長は27日、発言後初の定例記者会見に臨んだ。
名古屋市と南京市は姉妹都市で、市長の発言は20日に中国共産党南京市委員会の幹部が市役所を訪問したときのもの。その後、伝えられた発言内容に対して中国外務省が不快感を示したほか、中国メディアも大々的な批判を展開。中国国内では名古屋訪問をボイコットする呼び掛けがなされるなど波紋が広がっていた。
■自ら書いた釈明文を配布
27日14時から市庁舎内で会見した河村市長は自ら書いたという釈明文を配布し、記者団とのやりとりのなかで発言の経緯について次のように説明した。
?昨年8月に、市長から駐中国名古屋総領事に、南京事件について話し合いの機会をつくってほしいと申し入れた。
?2月上旬に、名古屋市会議員2名が南京を訪問し、同じ趣旨の申し入れをしたところ、友好団体幹部から「話し合うのはいいことだ」との返事を得た。
?20日の表敬時には「自分の父親が南京の人々の温かいおもてなしにより、元気に早く帰れたので私が生まれた」といったエピソードを披露し、そのなかで問題となった発言も出た。会談はなごやかな雰囲気に終始した。
?「いわゆる南京事件はなかったのではないか」という発言が、「南京大虐殺はなかったとの持論を展開」と報じられたことで、自分の発言の趣旨があたかも南京では何もなかったとするものであるかのように誤解された。
?「いわゆる南京事件というのはなかったのではないか」と話したのは、象徴的に30万人とされるような組織的な大虐殺はなかったのではないかという趣旨である。
?しかし、南京からの使節団に対して「30万人の大虐殺」と露骨な表現をするのは非礼であるので、「いわゆる南京事件」と表現した。
?日本軍が非武装の中国人を30万人も殺害したという事実はないと考えているため、「いわゆる南京事件はなかったのではないか」という発言は撤回しない。いろいろな立場を超えて率直な話し合いができるようになることを希望している。
■「一人もなかったとは言っていない」
質疑のなかで市長は「遺憾なことが一人もなかったと言ったわけではない。戦闘行為に伴う残念なことはあった」としつつ、「非武装の市民を組織的に大量虐殺したことはない」とした。南京事件の存在を完全否定することで中国側と全面的に対決するのを避け、関係修復の道を探る構えとみられる。市長は中国の駐日本大使に、直接事情を説明したいと表明。事務方にその申し出を行うよう指示したことも明らかにした。
会見に参加した香港フェニックステレビ(鳳凰衛視)の東京支局長は「市長は『誤解』とするものの、何が誤解なのかは明確に伝わらなかった。率直な話し合いをしたいと言っても、そのための信頼関係が損なわれているのが現状ではないか」と指摘した。
関係修復への道は必ずしも楽観できないが、今秋に指導者の交代を控える中国も日中関係の不安定化は避けたいはず。市長からの関係修復の申し出にどう応えるか、中国側にとっても難しい選択だ。
(西村 豪太 =東洋経済オンライン)
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「中国側が誤解」 河村市長、撤回せず
2012年2月28日 00時42分
名古屋市の河村たかし市長は27日の定例記者会見で、「いわゆる南京大虐殺はなかった」との発言が中国側の反発を買ったことに触れ、「30万人もの非武装の市民を日本軍が大虐殺したことはない。撤回はしない」と従来の主張を繰り返した。混乱を招いた理由を「友好のための発言だったが、『南京ではあたかも何もなかった』と誤解された」と話し、今後も南京市側に意見交換を求めていく考えを示した。
河村市長は「あえて『いわゆる』と付けたのは、象徴的に30万人とされるような組織的な大虐殺はなかったのではないか、という趣旨。伝わらなかったとすれば残念」と遺憾の意を表明。真意を中国側に伝えるため、駐日中国大使に面会を求める考えを示した。
論争になっている犠牲者数は「非武装の市民の犠牲が1人もなかったとは言わない」と説明。自らの見解は明確にせず、30万人説を否定する十分な根拠も示さなかった。
河村市長は南京市の友好使節団に対する唐突な発言を「儀礼上、不適切だった」と漏らしていたが、会見では「非礼とは思わない。むしろ面前で『30万人の大虐殺はなかった』と切り出すのは失礼だと思い、私なりに配慮した」と話した。
南京市側は発言を機に「交流の一時停止」を決定。河村市長は「名古屋に観光に出かけないようにとか、イベントを中止すると報じられているが、そういうことはやめてほしい」と訴えかけた。
(中日新聞)
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『日本人の誇り』藤原正彦著(文春新書)
p58〜
「明治・大正・昭和戦前は、帝国主義、軍国主義、植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国。江戸時代は士農工商の身分制度、男尊女卑、自由も平等も民主主義もなく、庶民が虐げられていた恥ずかしい国。その前はもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと・・・」
占領後、アメリカは米軍による日本国憲法制定を手始めに、言論統制、「罪意識扶植計画」等により、日本をアメリカに都合の好い属国に造り替えてゆく。
p63〜
GHQすなわちアメリカはまず新憲法を作り上げました。GHQ民生局が集まり1週間の突貫工事で作ったのです。憲法の専門家はいませんでした。まず前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書きました。アメリカは他国の憲法を自分達が勝手に作るというハーグ条約違反、そしてそれ以上に恐るべき不遜、をひた隠しにしましたが、この文章を見ただけで英語からの翻訳であることは明らかです。「決意した」などという言葉が我が国の条文の末尾に来ることはまずありえないし、「われら」などという言葉が混入することもないからです。いかにも日本国民の自発的意志により作られたかのように見せるため、姑息な姑息な偽装を施したのですが、文体を見れば誰の文章かは明らかです。そのうえ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と美しく飾ってみても、残念なことに「国益のみを愛する諸国民の権謀術数と卑劣に警戒して」が、現実なのです。
ともあれこの前文により、日本国の生存は他国に委ねられたのです。
第9条の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は前文の具体的内容です。自国を自分で守らないのですから、どこかの国に安全保障を依頼する以外に国家が生き延びる術はありません。そして安全保障を依頼できる国としてアメリカ以外にないことは自明でした。すなわち、日本はこの前文と第9条の作られたこの時点でアメリカの属国となることがほぼ決定されたのです。この憲法が存在する限り真の独立国家ではありません。中国に「アメリカの妾国」と馬鹿にされても仕方ないのです。(〜p64)
p104〜
南京大虐殺の不思議
「南京大虐殺」も実に不思議な事件でした。1937年12月13日に南京を陥落させた日本軍が、その後6週間にわたり大規模な虐殺行為を行ったというものです。
1997年にアメリカで出版された五十万部を超えるベストセラーとなった、中国系アメリカ人アイリス・チャンによる『ザ・レイプ・オブ・南京』によりますと、「ヒットラーは6百万人のユダヤ人を殺し、スターリンは4千万以上のロシア人を殺したが、これらは数年をかけて行われたものだ。レイプ・オブ・南京ではたったの数週間で市民30万人を殺し、2万人から8万人の女性を老若かまわず強姦し豚のように殺した、という点で史上最悪のものだ。天皇を中心地した日本政府がこれを仕組んだ」という内容のものです。「日本兵は女性の腹を裂き、胸を切り刻み、生きたまま壁に釘づけにした。舌を鉄の鉤に吊るしたり、埋めてセパードに食い散らかせた」などとも書いてあります。
私達の父や祖父達がこんなことを組織的にしていたとしたら、私たち日本人は百年は立ち上がれないでしょう。祖国愛や誇りを持つなどということもあり得ないことです。
そのためにも事実を明らかにし、東京裁判史観に染まった国民にどうしても真実を知ってもらう必要があります。
1937年12月、南京攻略を決めた松井石根大将はとても神経質になっていました。日露戦争に従軍したことのある松井大将は、かつて世界1規律正しいと絶賛された軍隊でロシアと戦ったことを誇りに思っていました。
そこで攻勢前に兵士たちに、「首都南京を攻めるからには、世界中が見ているから決して悪事を働いてはならぬ」という趣旨の「南京攻略要綱」をわざわざ兵士に配り、厳正な規律を徹底させました。これ自体が稀な行為です。そのうえ、還暦を目前に控えた松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した秀才ですが、若い頃からアジアの団結を唱える大アジア主義に傾倒していて根っからの親中派でした。孫文の革命を支援したばかりか、若き蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した時は親身で面倒まで見てやった人です。運命のいたずらで愛弟子と戦わざるを得なくなり、せめて規律だけは保たせようと思ったのでしょう。そして、攻略を始める前日の12月9日、南京包囲を終えた松井大将は中国軍に対し、民間人の犠牲を避けるため10日正午までに南京を解放するよう勧告しました。蒋介石をはじめ政府と軍の首脳はすでに7日に首都を放棄していました。続いて役人、警察官、郵便局員と姿を消したため、水道は止まり電気も消え、無政府状態となりました。
p106〜
ほとんどの戦争では、中国でもヨーロッパでも、市民を巻き添えにしないため軍隊は市内から出るものです。第2次大戦でパリはドイツに占領され、後に連合軍に占領されましたが、どちらの場合も軍隊は市街を出たので美しい町が保たれたのです。北京や武漢でも中国兵は町から出たので市民巻き添えという混乱はありませんでした。
南京守備軍の唐生智司令官はこれを無視しました。「首都と運命を共にする」と広言していた彼は、日本軍の猛攻を受け陥落寸前というときに撤退命令を出すや、逃げ出してしまいました。指揮系統はすでに失われていたので数万の兵に撤退命令は伝わりませんでした。大混乱の最大原因です。降伏命令だったら何も起きなかったからです。
『「南京事件」の総括』(田中正明著、小学館文庫)に、軍服を脱ぎ捨てた数千の中国兵が安全区に入ってきてからの混乱が詳述されています。南京市は首都といっても面積は世田谷区の3分の2ほどの狭さです。日本軍の攻撃の迫った12月1日、南京市長は全市民に対し、安全区、すなわち国際委員会が管理する地区に避難するよう命令します。安全区は、狭い南京の一角に作られた2千?四方程度の最小の地区です。日本軍が攻略を始めた12月10日には、すでに揚子江上流に避難した中上流階級の人々を除く、全市民がここ安全区に集まっていました。 資料により異なりますが、この段階における安全区人口は12万から20万の間です。「惨劇」があったとしたら、すし詰めとなったこの安全区で起きたはずなのです。
ところが不思議なことに、南京に入城した幾万の日本兵も、共に入城した百数十名の日本人新聞記者やカメラマンンも誰一人そんな惨劇を見ていないのです。皆が一糸乱れぬ口裏を合わせているのでしょうか。こんな狭い所で大虐殺が行われたというのに、そこに住んでいた国際委員会の外国人や外国人記者も目撃していません。
日本軍が入城した12月13日から翌年2月9日までに、国際委員会は日米英の大使館に61通の文書を提出しており、そこには殺人49件、傷害44件、強姦361件(うち被害者多数3件、被害者数名6件)などがありますが、大虐殺と呼べるものはありません。この数字自身も、国際委員会書記スマイス教授が認めたように、検証されたものではなく中国人からの伝聞によるものでした。また国府軍側の何應欽将軍が直後の1938年春に提出した大部の報告書にも、南京での虐殺を匂わせるものはいっさいありません。無論、市民虐殺を示唆する日本軍の作戦命令も存在しません。
当時、中国に関して最も権威ある情報源とされていた「チャイニーズ・イヤーブック」と呼ばれる年鑑がありました。上海で英国系新聞が出版していたものです。これにも虐待の影はありません。
一口で言うと、虐殺を示す第一次資料は何一つないということです。(〜p108)
p110〜
東京裁判で再登場した
「南京大虐殺」が再登場したのは、南京戦後8年半もたった1946年、東京裁判においてです。証人となった中国人が次々に大虐殺を「証言」しました。日本兵は集団をなし、人を見れば射殺、女を見れば強姦、手当たり次第の放火と掠奪、屍体はいたる所に山をなし、血は河をなす、という地獄さながらの描写ばかりでした。
この裁判は、通常の裁判とはまったく異なり、証人宣誓が求められず証拠検証もされませんでしたから、言いたい放題だったのです。殺害者数30万人という証言に疑念を抱いたロヴィン弁護人が「私の承知している限りでは南京の人口は20万ですが」と質問すると、ウェッブ裁判長は「今はそれを持ち出すときではありません」と慌ててこの発言をさえぎりました。
中国人だけでなく金陵大学(のちの南京大学)のベイツ教授など数人の欧米人も証人として出廷しました。ベイツ教授は事件時に南京にいて国際委員会のメンバーであり、「戦争とは何か」を書いたティンパーリに、書簡で事件を教えた人です。「1万2千人の市民を含む非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬記録は示している」という趣旨の証言をしましたが、やはり中国人からの伝聞のみです。
埋葬死体が戦死者のものかどうかも確認していません。実はベイツ教授は、やはり国際委員会に属する金陵大学のスマイス教授と、1938年の3月から4月にかけて、多数の学生を動員して南京市民の被害状況を調査していました。スマイス教授は社会学が専門なのでこの種の調査には慣れていて、50戸に1戸を無差別抽出して、2人1組の学生がそこを訪れ質問調査するという方法でした。
この日時をかけた調査結果は、日本兵の暴行による被害者は、殺された者2400人、負傷した者3050人でした。(「南京地区における戦争被害調査」)。ただし、調査は被害者救済のためのもので、誰も住んでいない家は調査対象となっていませんから、家族全員が犠牲になった家などは統計に入っていません。また死亡者の中に、南京に自宅のある兵で便衣兵(軍服を脱いで一般市民に混じった中国兵)として処刑された者もかなり混じっているはずです。この人たちは市民でもあります。というわけで実数はある程度上下するはずです。しかしこの調査はほとんど唯一の第1次資料と言えるものです。
ベイツ教授はこの調査を知っていながら、東京裁判では大いに水増ししました。そればかりか、
「日本軍侵入後何日もの間、私の家の近所の路に、射殺された民間人の屍体がゴロゴロしておりました。スマイス教授と私は調査をした結果、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたと結論しました」
と述べたのです。一方のスマイス教授の東京裁判への出廷は、弁護側が要求したにもかかわらず認められませんでした。ベイツ教授は1938年と1946年に蒋介石より勲章をもらっていました。
またマギー牧師は法廷で延々と日本軍による殺人や強姦の事例を証言しましたが、ブルックス弁護人に「実際に自分で見たのはそのうちの何件か」と問われ、「実際に見たのは1件だけ」と白状しました。しかもそれは、日本軍歩哨に誰何され逃げ出した中国人青年が射殺された件でした。当時、中国にいた宣教師たちが国民党におもねっていたことは、アメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼントが1933年に出版した『暗黒大陸中国の真実』(芙蓉書房出版)などに記されています。
p120〜
私は大虐殺の決定的証拠が1つでも出てくる日までは、大虐殺は原爆投下を正当化したいというアメリカの絶望的動機が創作し、利益のためなら何でも主張するという中国の慣習が存続させている、悪質かつ卑劣な作り話であり、実際は通常の攻略と掃討作戦が行われただけと信ずることにしています。さらに事を複雑にしているのは日本国内に、大虐殺を唱え続けることこそが良心と平和希求の証し、という妄想にとらわれた不思議な勢力があることです。「南京大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実ということです。事実であるという決定的証拠が1つでも出るはるか前に、「カチンの森」が事件発生50年後のソ連崩壊時に告白されたごとく、「南京大虐殺」の真実が、アメリカの情報公開で明るみに出るか、中国の一党独裁崩壊後に告白されるのではないかと考えています。
ただし、アメリカは時が来れば何でも情報公開する公平でオープンな国のように見えますが、肝心のものは公開しません。真珠湾攻撃前1週間の暗号解読資料とかケネディ大統領暗殺犯などについては、今もすべてを出そうとしません。南京事件が原爆投下と関係しているとしたら容易には出さないでしょう。
南京の話が長くなったのは、これが未だに日本人を委縮させているからです。中国に対して言うべきことも言えないでいる理由だからです。尖閣諸島が中国のものと言っても、自分から体当たりしてきて謝罪と賠償を高らかに唱えても、怒鳴りつけることもできず、下を向いたまま「領土問題は存在しません」とつぶやくだけの国となっているからです。
20年以上にわたり毎年10%以上も軍事費を増加させるという中国の異常な軍備拡大に抗議するどころか、すでに6兆円を超すともいわれる巨額のODAを与え、さらに援助し続けるのも、自らの対中防衛力を高める努力もしないでハラハラしているだけなのも、中国の不当な為替操作を非難しないのも、「南京で大虐殺をしましたよね」の声が耳にこだまするからです。中国の対日外交における最大の切り札になっているのです。(〜p121)
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◆河村たかし名古屋市長の発言をよそにハリウッドスターを使った南京大虐殺映画で進む「米中ビジネス」2012-02-27 | 国際/防衛/(中国・・・)
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南京大虐殺/河村たかし名古屋市長/『日本人の誇り』藤原正彦
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