「生の声 残したい」元活動家 「死んだ仲間のため」
中日新聞《 特 報 》 2012/2/21日Tue.
連合赤軍メンバー5人が女性1人を人質に立てこもった「あさま山荘事件」の発生から、今月19日で40年がたった。10日間にわたって繰り広げられた警官隊との攻防を、テレビ中継などで記憶している人も多いに違いない。事件とは直接関係ないものの、メンバーと一緒に運動を続けていた元活動家が、今、連合赤軍事件の全容を後世に伝えようとしている。連合赤軍とは何だったのか−。(秦淳哉)
あさま山荘事件40年
「たくさんの仲間が死んだ。記録を残すことが義務だと思って始めた」
こう話すのは「連合赤軍事件の全体像を残す会」のメンバー、雪野建作氏(64)と金廣志氏(60)の2人。
共産同赤軍派と日共革命左派神奈川県委員会が合流して生まれた連合赤軍。雪野氏は革命左派の最大拠点だった横浜国大出身。名古屋市で活動を続け、1971年に逮捕される以前は、連合赤軍幹部の故永田洋子元死刑囚(2011年、獄中で病死)と行動を共にしていた。金氏は赤軍派に所属し、やはり連合赤軍幹部の故森恒夫被告(1973年、拘置所で自殺)らと活動を続けた。
全体像を残す会が発足したのは、あさま山荘事件から15年後の1987年。事件の被告らが控訴審判決を受けたころだ。雪野氏は「弁護士や支持者と話す中で、これだけの事件の調書や裁判資料が永久に保存されないのは良くないと思うようになった」と振り返る。
■不明な全容
資料の収集・保存とともに取り組んだのは、連合赤軍を知る人の証言を集め記録すること。これまで約20人の当事者に会った。インタビューの録音は、60分テープで約100本に上る。2004年からはインタビューをまとめた冊子「証言 連合赤軍」も出版しており、すでに8冊目に達した。97年には、あさま山荘事件前に、多くの仲間がリンチで死亡した群馬県の事件跡地を巡る「慰霊の旅」も開いた。
事件から年月が経過し、連合赤軍に関与した人の記憶が薄れてしまうことも恐れた。金氏は「事件の全体像を実際に見た人はいない。いたとすれば森か永田だろう。一人一人の立場や見方は異なるが、加工しない生のまま、証言を残したかった。そうしないと死んだ仲間が浮かばれない。死者は語ることができないから」と活動の意義を語る。
当時の週刊誌などが伝えた事件の内容にも抵抗感があった。雪野氏は「乱交と暴力ばかりが強調されていた。確かに一部はその通りかもしれないが、想像で書いたとしか思えないひどい表現もあった。実際の姿が残されていないと感じた」と、実情から乖離したイメージの定着を危ぶんだ。
残す会のインタビューに対し、関係者はどう応じたのか。金氏は「当時の出来事を驚くほど詳細に覚えていた。人のしぐさまで鮮明に記憶している人が多い。それぞれ感情の高まりがあったのだろう」と指摘する。一方で、今も固く口を閉ざす関係者も多いという。
「議論できず破滅」教訓に
永田元死刑囚と森被告はあさま山荘事件の起きる前にいずれも山狩りの警察官に逮捕されており、事件の終結によって、連合赤軍は崩壊した。そして、逮捕後の取り調べで、群馬県の榛名山などの山岳アジトで連合赤軍のメンバー12人が組織内のリンチで死亡していた「山岳ベース事件」が発覚。ささいなことでメンバーに“総括”と称して自己批判を迫り、顔を殴った上に食事を与えず厳冬の山中に放置して死亡させるなど、凄惨な事件の全容が明らかになり、世間に衝撃を与えた。
雪野氏は当時すでに逮捕されていたため、東京拘置所の中であさま山荘事件のニュースを知った。その後、山岳ベースでの出来事も耳に入り、絶望感に包まれたという。
「新聞は一部が黒塗りにされていたが、リアルタイムで立てこもった10日間の様子を知ることができた。事件を知って、天が崩れてくるような深い衝撃を受けた。拘置所にいた別の仲間も、恋人がリンチの犠牲となったのを知り、顔がげっそりとやせていた。まさに破局だと感じた」
金氏があさま山荘事件の発生を知ったのは、東京都内の潜伏先で見たテレビ。ほんの少し前まで、警察に追われて群馬県の山岳地帯に逃避行をするメンバーと一緒に行動していた。「なぜ人質を解放しないのかと憤りを感じていた。事件終結の時、連合赤軍は壊滅したと思った」
■私は当事者
それから40年。雪野氏は1980年に刑期を終え、今はIT関連の会社を経営。金氏はカリスマ塾講師として評判を集める。
2008年には事件の様子を描いた映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が公開され、10年には山本直樹氏のマンガ「レッド」が文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞した。歴史の一部であるかのように、事件に関心を示す若い世代もいる。しかし雪野氏は「世間のとらえ方がそうであっても、当事者の私は客観的な歴史にはできない。戦争や原爆を体験した人が事実を歴史と受け止められないのと同じ」と話す。
連合赤軍の事件を知ることは、過去から教訓を得ることにもつながる。金氏は「当時は新しいカルチャーをつくり出そうという空気に満ち、左右を問わず論争、議論があった。今はそういう場自体がない。原発問題では、推進派と反対派の意見がかみ合わないまま、感情的な応酬に終始している。“総括”のようなメンタリティーは今の日本にもあると感じる時がある」と警告する。
雪野氏は、爆弾や銃で武装して、派出所を襲撃しようとする永田元死刑囚らの計画に当初から反対したが、最後は周囲の意見に押し切られた。「議論が通じず、いずれ活動が壁にぶつかった時を待つしかないと思った」。ところがその機会より前に、仲間は破滅に向かって突き進んでしまった。当時を悔やみ、こう求める。
「例えば、原発がメルトダウンした時、あの時に津波対策をしておけばと思った技術者もいたはずだ。疑問点を最後まで詰めなかったことが、悲劇につながる。同様の歴史を繰り返さないためにも、多くの人があさま山荘事件に関心をもってほしい」
残す会は25日午後6時から、東京都千代田区の東京しごとセンターで、今年も「連合赤軍殉難者追悼の会」を開く。
《あさま山荘事件》
連合赤軍のメンバー5人が群馬県の山岳アジトから逃走中の1972年2月19日、長野県・軽井沢にあった保養所のあさま山荘に、管理人の妻を人質にして10日間立てこもった。包囲した機動隊との銃撃戦の末に人質は無事保護、メンバー5人全員が逮捕されたが、警官2人、民間人1人が射殺され、16人が重軽傷を負った。
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あさま山荘事件:40年 鉄球を操った兄弟、当時を語る
連合赤軍による「あさま山荘」事件で、人質救出の突入作戦から40年を迎えた28日、殉職した警視庁の警察官2人の慰霊式が長野県軽井沢町の現場近くであった。約35人の出席者の中に、当時クレーンの先につるした鉄球で山荘の壁を破壊した長野市の元運送会社員の白田(はくた)弘行さん(74)と義弟の五郎さん(76)の姿もあった。【福富智】
白田さん兄弟は事件発生の1週間後、長野県警から鉄球(直径約70センチ、重さ約1.7トン)で銃眼がある壁を打ち壊すよう依頼された。クレーン車の運転は弘行さん(当時34歳)、クレーン操作は五郎さん(同36歳)の腕前が評判だった。
攻防が続く28日昼ごろ、弘行さんは運転席近くに立つ警視庁の内田尚孝第2機動隊長(同47歳)に「隊長! 狙われてるよ」と声をかけた。「ありがとう」。張りのある大声が返ってきた。その直後、隊長の頭部を銃弾が襲った。
「さっきまで話していた人が亡くなり、切なかった」と2人。事件後も家族に危険が及ぶのではと、作戦に参加したことを長く口外しなかった。
「今思うと、メンバーの若者もちょっとしたボタンの掛け違いで事件を起こしたのだろう。ほかにやりようがなかったのだろうか」
◇あさま山荘事件とは
72年2月19日、当時、河合楽器の保養所だった長野県軽井沢町のあさま山荘に群馬県のアジトから逃れた連合赤軍のメンバー5人が管理人の妻を人質にとり、立てこもった。氷点下15度になる厳寒の中、10日間の攻防で警察官2人、山荘に近づいた民間人1人の計3人が銃で撃たれ死亡した。2月28日の模様はテレビで生中継され、史上最高の89.7%の視聴率をあげた。
毎日新聞 2012年2月28日 12時29分(最終更新 2月28日 17時48分)
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<あさま山荘事件>40年 坂口死刑囚、支援者に反省の手記
毎日新聞 2月28日(火)15時1分配信
「節目の年に事件を振り返り、もう一度きちんと総括しなければならない」。あさま山荘に立てこもった坂口弘死刑囚(65)は今月、東京拘置所から支援者の女性(61)に手記を送った。あさま山荘事件直前の71年12月〜72年2月、山岳アジトで永田洋子元死刑囚(昨年2月に病死)らと仲間に暴行を加え、計12人を死亡させたことへの反省の念を便箋366枚につづっている。
メンバーに「革命戦士」になることを求め、自己批判を迫り「総括」と称して繰り返された凄惨(せいさん)なリンチ。手記には「(最高幹部による仲間への)批判の深化、拡大化の危険に気づくこともなく、ずるずると総括の深みにはまっていきました」と記されている。
坂口死刑囚は、差し入れられた雑誌に掲載された永田元死刑囚の葬儀の写真を目にしたといい、面会した女性に「きちんと送ってくれる人がいて、本当に良かった」と話したという。
静岡市でスナックを経営する元メンバーの植垣康博さん(63)は今月、取材に応じ「単に異常な精神状態における異常な事件とするのではなく、なぜ人間が殺されたのか。生き残った者が考え伝えていくべきだ」と語った。植垣さんは銃撃戦の直前、軽井沢駅で逮捕された。「当時は起きている事態が何なのか、考える時間もなかった」。殺人罪などで懲役20年の判決を受けて服役。98年に出所後、公の場で事件を語り続けてきた。
一方で「子供に事件のことを話していない」「話さないまま死んでいきたい」と傷痕を消せない関係者もいる。名前を変えられ、自分の親が元メンバーだと知らされていない子供もいるという。
事件を「現代史として面白い」と考える人もいる。事件と当時の世相をモチーフにした漫画「レッド」を06年から青年誌に連載中の山本直樹さん(52)は「彼らは最初からしかめっ面した求道者だったわけではない。理想に向かって行動することを楽しんでいたと思うが、言葉の方が命より重くなってしまったと感じる」と話す。【武本光政、村上尊一】
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◆正義のかたち:死刑・日米家族の選択/6 連合赤軍死刑囚支えた母2009-02-25 | 死刑/重刑/生命犯 問題
◆元連合赤軍死刑囚坂口弘氏の歌 “後ろ手に手錠をされて執行をされる屈辱がたまらなく嫌だ”2008-08-01 | 死刑/重刑/生命犯 問題
◆永田洋子(元連合赤軍)死刑囚が病死2011-02-06 | 死刑/重刑/生命犯 問題
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連合赤軍 あさま山荘事件 40年 / 「生の声 残したい」元活動家 / 坂口弘死刑囚 支援者に反省の手記
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