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「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい

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「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい
Diamond online 2012年3月29日 森 達也 リアル共同幻想論 [テレビディレクター、映画監督、作家]
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい
■勝間和代の対談番組に出演したときのこと
 この原稿を書く数日前、勝間和代がホスト役を務める対談番組「デキビジ」に出演した。テーマは死刑制度。事前に打ち合わせはまったくなかったけれど、勝間は自分が死刑廃止論者であることを、とても率直な言い回しで僕に語った。言葉を選んだり言い淀んだりする気配はまったくない。風当たりは厳しいですよと僕は言った。
 でも勝間はひるまない。僕の余計なアドバイスを聞き流しながら、なぜこの国は死刑を廃止できないのでしょうと何度も訊ねてきたけれど、うまく答えることはできなかった。だって僕もその質問の答えを、誰かに訊きたいといつも思っているのだから。
 この番組はBSジャパンでオンエアされる前に、ニコニコ動画でもライブで配信された。その後のネットやツイッターには、勝間と森に対して、とても激しい批判が次々に書きこまれた。いや批判ではない。ほとんど罵倒だ。少しだけ引用する。
「この人らに聞きたい。被害者遺族のことは考えているのか?と」
「身内殺されてもこんなこと言ってられるのかね こういう人達は」
「自分の身内殺されて同じせりふ吐けるなら尊敬するよw」
「被害者遺族はガン無視ですか?」
「親・兄弟・友人・恋人…。そういった人が殺されても同じことが言えますか?「言える」のなら人間性を疑います」
「まずは自分の身内が殺されたことを考えてみ!」
「言うなら『私の子どもが殺されたとしても』って前置きしなよ」
「あの世に行って、被害者の前で頭を垂れろ」
「この二人はゴミだね。被害者遺族の身になれw」
「もし家族がだれかに殺されたら(事故ではなくね)、その犯人には死刑になってもらわなきゃ気がすまない」
「人の命は、たとえ犯罪者でも、その犯罪者に蹂躙され、ゴミクズのように葬り去られた被害者よりも重いですか?」
「犯人が死刑になると被害者遺族がスッキリする」
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」
「この二人はカスだ。死刑制度がある理由は一にも二にも被害者遺族のためだ」
「被害者遺族の前で言ってこい! もともと死刑は復讐権の代替手段ってことを理解してないんだな」
■死刑制度は被害者遺族のためと言い切る人たちに聞きたい
 まだまだある。ほとんどがこのトーンだ。つまりはこれが、日本の死刑制度存置を支持する9割近い人たちの本音ということになるのだろうか。ならばまずは、「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と言い切る人たちに訊きたい。
 もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのだろうか。
 死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艶福家や社交家の命より軽く扱われてよいということになる。親に捨てられて身寄りがない子どもの命は、普通の子どもよりも価値がないということになる。
 つまり命の価値が、被害者の立場や状況によって変わる。ならばその瞬間に、近代司法の大原則である罪刑法定主義が崩壊する。だからこそ刑事司法は意識的に、被害者遺族の心情とは一定の距離を置いてきた(意味なく被害者の写真を法廷に持ち込むことを禁じていたわけではない)。
 でも不特定多数の殺傷を狙ったオウム真理教による地下鉄サリン事件以降、自分や自分の家族も被害者になったかもしれないとの危機意識が刺激されたことで被害者遺族への注目や関心が急激に高まり、共有化された被害者感情は罪と罰のバランスを変容させながら厳罰化を加速させ、民意から強いバイアスをかけられた司法は、原理原則よりも世相を気にし始めた。
 なぜなら世相が望む刑罰より軽い判決を下したら、今度は自分がバッシングされるのだ。裁判所内の出世にも響くかもしれない。こうして厳罰化はさらに加速する。つまりポピュリズムだ。
■あなたは本当に被害者遺族の思いを想像できるのか?
 次に「被害者遺族の身になれw」と書いた人に訊きたい。ならばあなたは、本当に被害者遺族の思いを想像できているのかと。
 自分の愛する人が消えた世界について、確かに想像はできる。でもその想像が、被害者遺族の今の思いを本当にリアルに再現しているとは僕には思えない。あなたはその思いを自分は本当に共有していると、胸を張れるのだろうか。ならばそれこそ不遜だと思う。
 被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばないと気づくことだ。犯人への恨みや憎悪だけではない。多くの遺族は、なぜ愛する人を守れなかったのかと自分をも責める。あのときに声さえかけていればと悔やみ続ける。
 その辛さは想像を絶する。地獄の思いだろう。その思いをリアルに想像することなど、僕にはできない。とてもじゃないけれど、「遺族の身になれ」などと軽々しく口にはできない。
 その前提を置きながら「自分の身内が殺されてから言え」とか「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書く人に言うけれど、もしも僕の身内が誰かに殺されたら、僕はその犯人を激しく憎むだろうし、死刑にして欲しいと思うかもしれない。当たり前だ。だってそのときの僕は当事者になっているのだから、スタンダードが変わって当然だ。
 でも今は当事者ではない。
 当事者には当事者の感覚があるし、非当事者には非当事者の感覚や役割がある。もしもあなたの友人が、「身内をアメリカ兵に殺されたイラク人の気持ちを想うとアメリカが憎くて仕方がないので報復してやる」と言ったなら、あなたはきっと呆気にとられながら、「だけど現実におまえはイラク人でもないし家族をアメリカ兵に殺されてもいないじゃないか」と止めるはずだ。非当事者である日本人にできることは、イラク国民の応報感情にすっぽりと同調することではなく、復興支援とかアメリカへの提言とか、他に幾らでもあるはずだと説得するはずだ。
 あるいはあなたの友人が、「自分が牛であることを考えたらあまりに辛くて可哀想だから牛肉を食べない」と宣言したとしたら、あなたはどう思うだろうか。喩えが少し極端であるかもしれない。でも本質は変わらないはずだ。あなたは牛ではない。ならば論理や感覚は牛とは違う。これも当たり前だ。もしも自分が牛だとしたらと考えて、そのように行動する必要も意味もない。
 もちろん牛の立場や心情を想像することは無意味ではない。同様に被害者遺族の気持ちを想うことは大切だ。実際にこの国の被害者遺族は、これまであまりにも冷遇視されてきた。オウム事件以降は急激に変わったけれど、救済や補償はもっと整備されるべきだ。遺族もそうでない人たちも、これではあまりに不合理で不正義で冷淡すぎると声をあげるべきだ。
■気持ちを想うことと憎悪を共有することは同じではない
 でもあなたは被害者遺族ではない。気持ちを想うことと、恨みや憎悪を共有することは同じではない。想うことと一体化することは違うし、そもそも一体化などできない。被害者遺族の抱く深い悲しみや寂寥(ルビ=せきりょう)、守ってやれなかったと自分を責める罪の意識や底知れない虚無、これを非当事者がリアルに共有することなどできない。
 一体化したかのような錯覚に陥っているだけだ。それも表層的な恨みや憎悪などの応報感情を。だから軽い。ぺらぺらと油紙のように燃えやすい。例えば以下の書き込みのように。
「どーしても死刑を廃止したいならそれでもいいだろう。しかし死刑相当の罪を犯した者は、四肢を切断し、耳をそぎ落とし、目をくり貫く。その位の事をするならば、死刑廃止に賛成してやるよww」
 もう一度書く、僕は今、被害者遺族ではない。もしも遺族(当事者)になったなら、今とは違うことを考えるかもしれない。でも今は非当事者だ。だから今思えることを思う。今の自分の感覚に従う。今の自分がやるべきことを考える。
 そのうえで、光市母子殺害事件について、ひとつだけ思うことを書く。生後11ヵ月の夕夏ちゃんの頭を、元少年が床に叩きつけたとの事実をめぐる認定だ。
 死刑が確定したその夜や翌日のメディアのほとんどは事件を説明する際に、この経緯を既成事実のように伝えていた。
 確かに無期を宣告した一審・二審では、「幼児を頭上から思いきり床に叩きつけた」などと事実認定がなされている。生後11ヵ月の幼児の頭を思いきり床に叩きつけるなどまともな人間のやることじゃないと誰かが思う。もしも殺意がないのならこれほどに残虐なことができるはずがないと誰かも思う。
 こうして元少年は生きるに値しない鬼畜であり、更生などありえないとの世相が喚起される。
 でも当時作成された夕夏ちゃんの遺体鑑定書には、実のところ「頭部に損傷無し」と記述されている。生後11ヵ月の幼児が仰向けに頭部を叩きつけられていたのなら当然生じるはずの頭蓋骨骨折や硬膜上下腔血腫、クモ膜下出血などの痕跡はなく、脳の割面浮腫や出血、損傷もまったくないことが認められた。つまり「頭上から思い切り叩きつけた」は、検察が作り上げた虚偽の事実なのだ。
■殺意や計画性はこうして作られる
 差し戻し審弁護団からこの事実を突きつけられた広島高裁は(一審・二審の弁護団は事実認定をまったく争わなかった)、最終的には判決文に「被害児を後頭部から仰向けに思い切り叩きつけたとする旨の供述部分は信用できない」と、検察官調書を否定する記述を載せた。
 ただしその後には、「被告人が、身を屈めたり、上記犯行再現のように床に膝をついて中腰の格好になった状態で、同児を床に叩きつけたと推認するのが合理的である」と続いている。つまり押入れ上段から引きずり出した夕夏ちゃんを、床に膝をついて中腰の格好で叩きつけたならば、勢いがないから大きな損傷がないこともありえるという理屈らしい。
 根拠は元少年のかつての供述と、頭部の3つの皮下出血だ(幼児は皮下出血を起こしやすい。もちろん致命傷ではない)。明らかに苦肉の策だ。床に膝をついて中腰になりながら頭を床に叩きつける意味も理由もわからない。
 でも少なくとも、「床に思いきり叩きつけた」との事実認定は変わっている。ところがメディアは相変わらず、「床に思いきり叩きつけて」を、臆面もなく使っている。
 こうして殺意や計画性が作られる。そしてこの裁判において殺意と計画性の有無は、死刑と無期とを分ける最重要なポイントだった。
 判決翌日、多くの識者やジャーナリストが、凶悪化と増加の一途をたどるこの国の少年事件に厳格な姿勢を示した判決などと述べた。これもまったく事実無根だ。少年事件は一般の殺人事件と並び、毎年のように戦後最少を更新している。この国の現在の治安状況は、ほぼ世界最高水準で良好だ。そしてその最大の理由は、諸外国に比べて青少年事件が圧倒的に少ないからだ。
 先日、元法務官僚で現在は犯罪学などを専門にする浜井浩一龍谷大学教授に会ったとき、犯罪学会に行くたびに諸外国の法学者や犯罪学者から「なぜ日本の青少年はこれほどに犯罪を起こさないのか」と必ず訊ねられると苦笑していた。でもそんな事実を知る人はほとんどいない。
 こうして虚偽の事実がメディアによって消費され、人々の意識が変わり、制度が変わり、法が変わる。それによって損害を受けるのは、「被害者遺族の身になれw」とか「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」などとネットに書きこんでいるあなたかもしれない。
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〈来栖の独白2012/3/29Thu.〉
>「身内殺されてもこんなこと言ってられるのかね こういう人達は」
 しばしば耳にするphraseなので、少しだけ拙い気持ちを記しておきたい。
 迷いなく、素直な気持ちとして、言う。身内が殺されても、私は加害者の死刑を望まない。
 11年前に刑死した勝田清孝は獄中からの手記に、「真実死を忌み嫌うのです」と深い遠慮のなかから書いた。8人もの人命を奪っておきながら(死を招いておきながら)「死を忌み嫌う」など、如何にも常人ではない、奇異に映るとわかっていたから、遠慮がちに書いた。〈当時のマスコミ関係には「殺人を愉しんでいた」との意味合いの記述もあったように記憶する〉
 「深い遠慮」の理由は、今一つある。単純に「死を忌み嫌う」と自分の気持を表白しても、それが死刑囚の口から出た場合には「死刑廃止」を指さしている、と受け取られるのではという怖れである。生前の私への手紙に、「死刑制度には反対です。もし私が娑婆で普通に生活している人間であったなら率先『死刑反対』の運動もしていたかもしれません。が、大罪を犯し囚われている身としては、そのようなことは言えません」と書いてよこしたことがあった。
 勝田の手記から、以下に引用しておきたい。

 取り調べ期間中は「もう僕はどうなってもいいんです・・・」とずっと死をもって罪の贖いを考えていました。これだけの重罪にそれが当然だと覚悟を決めていたのです。が、一方では、自分の手で一件ずつ罪を立証するごとに、命の尊厳をひしひしと感じていたのです。
 今も自分の死を持って贖いますと謝罪しなくてはいけないのですが、月に一度教誨師の絵解きを交えた法話を拝聴させて頂く現在、自分のなすべき義務にはっきりと使命感を持つことが出来、また、啓発されることも多々あって、万死に値する罪を重ねた私には決して許される言葉ではないのですが、生を許していただけるものなら、今の私は是非生きていたいのです。命乞いする資格はもとより、神仏の加護にすがる値打ちもない私なのですが、真実死を忌み嫌うのです。
 分厚いコンクリートの壁に閉ざされた独房で、罪の意識から日々冥罰に怯える私は、いっそ死んでしまいたいと思うことも正直に言って何度もあるのです。しかし、生きる苦しさに耐えながら、虚心坦懐に被害者の冥福をひたすら祈り続け、許される限りは生きたいのです。
 でも、憂愁に閉ざされたままでおられる遺族の方々の心情に思いを馳せると本当に申し訳なく、非道に人を苛む行為を繰り返した私には、日々三度の食事を与えて頂くことすら勿体ない気がしているのです。
 被害者やその家族・遺族の方々には何とお詫びすればいいのか、言葉もありません。
 本当に申し訳ないことを致しました。心から深謝申し上げます。
 お許しください。 
 
 大切なのは「詫びる心」ではないだろうか。「心」が肉体をまとっているのが、人間存在というものではないか。
 一昨年7月28日千葉法相のサインにより処刑された尾形英紀死刑囚は生前、死刑廃止団体フォーラム90のアンケートに答えて次のように言っている。

 死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました。
 なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。

 「死を受け入れるかわりに反省の心をすて」とは、浅く小賢しい問答にすぎぬ。居直り、不貞腐れの様なものも感じた。詫びる心がなくての「死刑」など、空虚である。自分が何をしたのか、そのことによって人(被害者・遺族)にどれほどの苦痛、哀しみ、絶望、損失を与えたのか。思いめぐらすことは、自分が死刑になる、ならないとは、無縁である。判決文の文言がどうだったのか、メディアがどのように報道したのか。それも、無縁である。 伝聞によれば、尾形死刑囚は動揺が激しくて相当暴れたらしく最期は担ぎ上げられて刑場に運ばれていった、とか。真偽のほどは判らない。もしその通りであるなら人間の最期としては、相応しくない。屠所に曳かれ、獣のように屠殺された。
 人は「こころ」だ。心の存在だ。その存在を願うのは、自分の肉親であるか他人であるかによらない。血肉を超えて、「こころ」という存在がだいじなのだ。なんぴとに対してであれ、その生を願うのは、肉体の中に「心」があるからだ。「こころ」は変わりうるものだ(可塑性、可能性があり、それを「無常」という)。生きることを願う気持ちは、私は弱くはないつもりだ。肉親を殺害されても、だ。私は強い意思を持って「肉親が殺害されても」と言う。情況や立場によらない。人間はいとおしいし、誰であれかけがえのない存在だ。
 イエスは「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と勧める。これは、弱い心ではできない。確信に支えられた積極的な姿である。

 (マタイによる福音書5、38〜) “目には目を、歯には歯を、と命じられている。しかし、わたしは云っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。(略)求める者には与えなさい。あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは云っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(略)あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい。” 
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尾形英紀氏「将来のない死刑囚には反省など無意味」/安部龍太郎著『等伯』魂を売りわたすのと同じことだ 2012-02-08 | 死刑/重刑/生命犯 問題 
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尾形英紀さん(東京拘置所)
熊谷男女4人拉致殺傷事件(2003.8.18)
1977年7月20日生まれ
2007年4月26日 さいたま地裁(飯田喜信)にて死刑判決
2007年7月18日 控訴取下げにより死刑確定
 死刑囚の気持ちや考えを聞いてもらえる機会を与えてくれてありがとうございます。
 事件を起こしてから現在に至るまで、考える事や納得のいかない事が数多くありすぎて、それをすべて書いていたのでは、何十枚も書くことになってしまうので簡単に書きます。
 まず、事件についてですが、見張り程度しかしていない共犯が2人います。
 すべて俺のやった事ですが、4人を殺そうとして2人を殺害、2人は殺人未遂の事件です。
 事件当時の俺は、かなりの酒を飲んでいたためと、あまりにも興奮していたので、ほとんど記憶がありません。ただ、あまりにも強烈な印象がある部分だけが、はっきりと記憶に残っています。
 しかし、それでは警察も検事も都合が悪いので、事件当日の行動の大まかな所は、共犯の記憶などを総合して作り、もっとも大事な部分は刑事と検事が作りあげたストーリーが裁判で認められてしまいました。それは最初から殺害の話し合いをしてから殺しに行ったというのですが、全くのウソなのです。
 裁判では、不利になるのは分かっていましたが、殺意を持った事を認め、いつの時点で殺意を持ったかも証言しました。
 実際には暴行している時に被害者が死にそうになった時にはじめて「それなら殺してしまえ」と思ったのです(その時の精神状態では、そのようにしか考えられなかったのです)。それ以前は殺意はもちろん、死ぬ可能性すら考えもしませんでした。
 しかし、検事と刑事の調書にははじめから殺意を持って行動したとなっていました。何でその様な調書になったのかと言うと共犯も証言していますが、共犯2人が事実と違うのは分かっていたけど無理やりにサイン・指印をされ、俺の調書は最後のページのサインがある所以外を差し換えられました。警察と検事はあたり前の様に不正をしているのが現状で、不正をかくすためには裁判の証人尋問で平気でウソをついています。しかも裁判も全くの茶番で検事の言う事をすべて認定してしまいました。
 殺意についての証人尋問で刑事と検事の言っている事がくい違い、苦しまぎれに少しだけ、俺の言っている事が正しいと刑事が証言したにも関わらず、俺の言っている真実は都合が悪いからはじめから聞く気がありませんでした。完全に結果ありきの裁判です。
 一審で2度にわたり精神鑑定を受けました。一度目は裁判所が認定した先生でした。その先生はよく調べてくれ、調書よりも俺の証言の方が信用できると証言してくれました。それは俺の言っている方が精神医学上もふくめ自然であり、しかも俺の証言は自分にとって不利になる事まですべてを言っているからです。その結果、部分的ではあるが(1人目殺害)、責任能力がいちじるしく低下していたと判断されました。
 その為に検事が納得せずに2度目の鑑定となったのです。2度目の先生は検事の推薦した人であり、検事の犬になり下がった人でした。当時の俺の考えなどは1度も聞く事もなく、ただ事件の経過を聞いただけで、すべて検事や刑事の調書を参考に鑑定書を作ったのです。
 はじめからやる気のない鑑定士を採用し、驚くことに裁判では、一度目に真面目にやった先生の鑑定を棄却し、やる気のない検事の犬の鑑定を採用したのです。
 俺は責任を逃れたいのではなく、今の日本の裁判や刑事や検事のやっている事が許せないのです。一般の人は信じないと思うけど、今の刑事は事件のでっちあげも日常的にやっているし、まして調書の改ざんなんてあたり前にやっているのです。だけど無実を訴えても今の裁判では無罪になる事はないし、たとえ無罪を勝ち取っても年月がかかりすぎるから、懲役に行った方が早く出れるので皆、我慢しているのです。俺の殺人などは事実は変わりませんが、事件の内容はかなりでっち上げなのです。だから俺は100%無罪の死刑囚は何人もいると思っています。
 検事の主張ばかり聞く裁判は不公平ですが、一般の人から見れば刑事や検事の言ってる事は無条件で信じられるのだから、来年から始まる裁判員制度では冤罪も今まで以上に多くなると思います。
 事件に関して長くなってしまいましたが、死刑囚が考える死刑制度について、一般市民の考えているものとは違う所もあるかと思うので書かせてもらいます。
 収容者と話す事はありませんが、他の死刑囚を見ると本当に殺人をやった人なのかと疑えるほど普通の人です。俺はぐれ始めてから、ヤクザやその他のアウトローを社会や少年院、刑務所で数多く見てきましたが、それらの人達と比べてもかなり気の弱くおとなしい印象です。きっと心から反省しているので、そう見えるのかもしれませんが、俺はそれだけでなく、本当に普通の人達なのだと思います。
 どの様な事件を起こしたのか知りませんが、色々な理由により精神状態が乱れ、普段ならまともに判断できる事が出来なかっただけなのだと思います。だから、誰にでも死刑囚になる可能性はあると思います。
 自分の気持ちは後で書きますが、本当に心から反省している死刑囚を執行する事で本当に罪を償う事になるのでしょうか? 罪を背負って生きていく事が、本当の意味での償いになるのではないかと思います。日本人の美徳として死者に対して悪く言ったり思ったりしない所がありますが、何か問題を起こしたり、犯罪を犯した後に自殺をする人達に対して、一般の人の中には責任を感じての自殺、アウトローの人の中にはケジメをつけたという考えをする人がいます。本当に自分自身でケジメをつけたと思える人もいるので、すべてを否定はしませんが、俺には、つらい事から逃げただけにしか思えない事のほうが多いと思います。被害者や遺族の感情は自分で犯人を殺したいと思うのが普通だと思います。今は連絡を取っていませんが、両親・姉・元妻との間に二人の娘がいます。俺だって家族が殺されたら犯人を許すことはないし、殺したいと思うのがあたり前です。
 しかし、それでは、やられたらやり返すという俺が生きてきた世界と同じです。死刑という名の殺人を国家権力がやっているにもかかわらず、国民にどんな理由があろうと殺人を禁ずるのはどういうわけだ。世界では色々な所で国家による虐殺があったようだが、それと日本の死刑とどこが違うのか?日本の法律にのっとり死刑があるように、虐殺のあった国にもその国の法律(権力者)にのって死刑にしただけだろう。
 色々と考えながら書いているので、ちょっと興奮してしまいました。
 死刑囚を助ける活動をしている先生に対して言う事ではないし、やつあたりの様な事を書いてしまったので、書きなおそうとなやみましたが、俺の考えでもあるので、失礼は承知のうえ、このまま続けさせて頂きます。話を戻します。
 俺の考えでは死刑執行しても、遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変わりませんし、償いにもなりません。
 俺個人の価値観からすれば、死んだほうが楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。死を覚悟している人からすれば、死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、つらい生活から逃してくれているだけです。だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。
 死を受け入れるかわりに反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました。
 なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ねということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、くり返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。
 もちろん他の死刑囚は日々反省していることと思います。俺は、ただでさえ東拘には人権など全くないし、24時間カメラで監視され独居にいて、執行されるのを待っている中で、事件や遺族・自分の家族の事を考えていたのでは気がおかしくなるし、ストレスだらけで、そんな余裕すら1秒もありません。  
 俺のように反省する気がない死刑囚もいる中で、ほとんどの死刑囚は日々反省し、被害者の事も真剣に考えていると思います。そういう人達を抵抗できないように縛りつけて殺すのは、死刑囚がやった殺人と同等か、それ以上に残酷な行為ではないのですか?
 俺が執行されたくないのではありませんが、その様な事などを考えれば、死刑制度は廃止するべきです。
 言いたい事が色々と多く長くなってしまいましたが、切りがないので、この辺で失礼します。今の気持ちを伝える機会を頂き、ありがとうございました。
 追伸
 最近、執行が多くなりましたが、執行について意見があります。
 執行時に求刑・判決を出した検事・裁判官それに法務大臣らが自ら刑を執行するべきです。それが奴らの責任だと思います。
 それと執行時・その後に死刑囚の希望があった場合、絶対に経をあげてはいけないようにして下さい。俺は宗教が嫌いだし、経は死者に対してではなく、生きている人達の気やすめでしかありません。俺の執行時・執行後は絶対に宗教関係の事はやらないようにお願いします。
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死刑制度存置の背景にある「ポピュリズム」森達也が語る"日本人の同調性" 2012-02-18 | 死刑/重刑/生命犯 問題 
 死刑存置の背景にはポピュリズムがある!? 映画監督・森達也が語る"日本人の同調性"
ニコニコニュース(オリジナル):2012年2月16日(木)23時17分配信
 経済評論家の勝間和代氏が司会を務めるBSジャパン「勝間和代#デキビジ」の収録が、2012年2月10日にあり、ドキュメンタリー映画監督・作家の森達也氏との対談が行われた。
 森氏は2008年に著書『死刑』(朝日出版社)を出版しており、死刑制度について「(存置していく)明確な理由がないのであれば、死刑制度はなくしたほうがいい」との立場をとる。番組では、勝間氏も「私はけっこう強い廃止派なんですよ」と述べ、その理由として、犯罪の原因が必ずしも犯人のみにあるわけではない点と、犯人が死刑になっても何も解決しない点を挙げた。
■死刑制度存置の背景にある「ポピュリズム」
 森氏は、1998年にオウム真理教を題材にしたドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年には、続編の『A2』を撮影し、元オウムの死刑囚たちと面会などをする中で、死刑制度に関心を寄せたという。番組の収録で、森氏は「まずは"死刑制度はあるべきではない"という発想ではなくて、ある理由は何かと考えたが、一個ずつ消していったら何も残らない」と語り、死刑制度は廃止した方が良いという立場を改めて示した。
 一方の勝間氏も、「私はけっこう強い(死刑制度)廃止派なんですよ。もともと犯罪の原因は、必ずしもその人だけではないですから。さらに加えて、その人が死刑になっても何も解決しない。この2点なんですよ」と語り、死刑廃止を主張する理由を説明した。
 これを受けて森氏はさらに、日本で死刑制度が存置されている背景に「ポピュリズム」があると解説。ある争点について、民衆が多数派に同調しやすく、それに加えて政治・司法・メディアもその論調に従ってしまう傾向が強いと指摘した。森氏によると、日本では、2010年2月に内閣府が発表した世論調査で、死刑制度容認派が85%以上を占めているが、海外の死刑廃止国の多くでは、同様に存置派が過半数を占める状態でも、政治が「ポピュリズムを押し切って」廃止した経緯があるという。
■同調性を打破するために「"ヤギ度"を上げる必要がある」
 また森氏は、日本人の高い"同調性"に風穴を開けるために「日本人が"ヤギ度"を上げる必要がある」と持論を展開。羊を遊牧する際に群の中に少数のヤギを放す遊牧民の知恵を紹介した。この知恵とは、同調性が高い気質を持つ羊だけを放牧すると、足元の草を食べ切っても、群全体が移動しない限り同じ牧草地に留まってしまうが、動き回る習性があるヤギを羊の群れに放すと、羊もつられて新しい牧草地を点々とすることが可能になるというもの。
 同調性が強いという意味で「日本人は"ヒツジ度"が強い」と指摘する森氏。「全員がヤギになったら、それはそれで収拾がつかなくなってしまう。じゃあヤギを放せばいいかと言うと、ヤギによっては、どこに連れて行かれるか分からないでしょ」と条件を付け加えつつ、
「もうちょっと皆が"ヤギ度"を上げる必要があると思う。おかしいと思ったら『それはちょっと変じゃないかな』とか。みんなが右を向いているときに、あえて左をチラッと見てみるとか」
と語り、このような意識を持つことが、社会のあり方を変える可能性があると述べた。
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殺された被害者の人権はどうなる?/被害者の夫は、「死刑でないのはおかしい」と裁判所や社会に訴え続けた2012-02-02 | 死刑/重刑/生命犯 問題
 “殺された被害者の人権はどうなる?”このフレーズには決定的な錯誤がある
森達也 リアル共同幻想論
Diamond online 2012年2月2日 森達也[テレビディレクター、映画監督、作家]


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