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五木寛之著『親鸞』どうしてあなたなどを恐れることがあるだろう。あなた以上の悪人がここにいる

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五木寛之著『親鸞』106 激動編 2011/4/18 Mon.夏の終わり(11)
(抜粋)
「失礼ないいかたかもしれぬが、この地の人びとは、ほとんど念仏についておわかりになっていないように思われる。念仏を、なにか呪文かお祈りのようにまちがって考えておられるのです。あなたもそうらしい。もしあなたに、わたしの話を聞く気があれば、これまでに学ばれた一切のことを忘れさって、赤子のようにうけ入れてほしい。いや、それは無理なことです。法然上人は、痴愚にかえれ、とおっしゃった。でも、人はいったん身につけたものを捨てても、最初から何ももたなかった者になることはできない。わたし自身、つくづくそう思うのですから」
「痴愚のふりをしても、過去は消えないのです。現に、わたしはいま、郡司の役所の書きものや、あちこちから頼まれる写経、写本などをひきうけて、暮らしの足しにしている。朝から晩まで筆をおくいとまもないほど忙しいのです。また荘官の子弟たちや、名主、商人の息子たちに四書五経の手ほどきもする。すべて過去に身につけた知識のはしくれだ。痴愚どころか都からやってきた知恵者のような顔をして日を送っているのです。恥ずかしいかぎりです。(略)」
 恵信のいない心細さのせいかもしれない、と思ったが、それはいわなかった。不意に現れた鉄杖という男に、親鸞はなぜか心を許すところがあったのだ。
 彼の言葉には、飾り気はないが、人のいわんとする心の背景を無言で察するような配慮がある。山伏修行で長く山中に暮らしていたというのに、人情の機微をよく心得ている感じもする。かつて人を殺したという物騒な人物とは、とても思えないのだ。
 この男を身近におきたい、と親鸞は思った。

五木寛之著『親鸞』107 激動編 2011/4/19 Tue.夏の終わり(12)
 そんな親鸞の心の動きを読みとったように、鉄杖がそっとむしろからはいだして、闇の中に平伏する気配があった。
「弟子とよんでくださらなくても結構です。わたしを親鸞さまの下人としてそばにおおきください。わたしは人を殺めて逃れた人間です。十悪五逆の悪人です。そのことは名香房からすでにお聞きになっているはず。そんな人殺しを警戒もせずに、平気で枕をならべて眠ろうとする人など、この世にはほかには絶対におりませぬ。どうぞわたしを親鸞さまの下人としておそばに・・・」
 親鸞は苦笑した。
「わたしは下人も、弟子も、もつ気はありません。さあ、横になって、おやすみなさい」
「自分で自分の片腕を斬りおとしてごらんにいれれば、承知してくださいますか」
 鉄杖がなにをいおうとしているかは、親鸞にはすぐにわかった。かつて達磨大師に弟子入りしようとして断られた慧可が、自分の片腕を切断して決心の固さを示した有名な故事を、この男は実行する気なのだろうか。
 闇の中に白く鋭い光が見えた。鉄杖がかくしもっていた小刀だろう。
〈この男は本気だ〉
 親鸞はおきあがった。そして弟に語りかけるような語調でいった。
「わかった。刃物はおしまいなさい。あなたに、聞いてほしい言葉がある。むかし偈として教えられた古い仏典の中の釈尊の言葉に、犀のごとく独り歩め、と---」
「わたしも聞いたことがございます」
 と鉄杖はいった。
「すべての命あるものを殺すな、子を欲することも、道づれを求めることもやめよ、犀のごとく独り歩め、と」
「僧だ。だが、わたしには、それはできない。命あるものを食べる。人とも争う。そして妻もめとった。友もいる。わが子もほしいと思う。わたしはそういう人間なのだ。どうしてあなたなどを恐れることがあるだろう。あなた以上の悪人がここにいるのだから。それでもよければ、一緒に念仏の道をいこう。釈尊の言葉さえ守れぬ悪人同士として」
 鉄杖は身じろぎもせず闇の中で親鸞の声を聞いていた。そのとき親鸞は、人に語ることは、自分に問いかけることなのだ、と、はっきりと感じた。人に語ることは、教えることではない。それは、人にたずねることなのだ。もっと話したい、と親鸞はつよく思った。

五木寛之著『親鸞』108 激動編 2011/4/20 Wed.夏の終わり(13)
「鉄杖どのは、おいくつになられるのか」 と、親鸞はきいた。
 三十四歳です、と鉄杖はこたえた。
「ふだん五十歳くらいに見られることが多ございますけれども」
 あやうく磔の刑にあいそうになって、一晩で20も歳をとった顔になったのだ、と彼はいった。(以下略)
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瀬戸内寂聴著 『釈迦』 新潮文庫 
「あらゆる生きとし生けるものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、子女を欲するなかれ、況んや朋友をや、犀の角のようにただ独り歩め」
 常に弟子たちに説かれる世尊の言葉がその背から、ひしひしと聞こえてくる。
p140〜
「泣くがいい、心のすむまで泣くがいい。お前の苦しんだ苦しみは、ひとりの苦しみではない。人みなの受ける苦しみだ。人が苦しまねばならないのは、心に執着があるからだ。人の苦しみには生・老・病・死という避け難い苦悩の他に、愛する者と別れねばならない愛別離苦という苦しみがある。憎悪する者に出逢わねばならぬ怨憎会苦という苦しみもある。欲しいものが手に入らない求不得苦という苦しみもある。人間の五体が生じる欲望にもだえる苦しみもある。これを五蘊盛苦という。お前の運命は、この世の苦のすべてを受け入れてきた。ウッパラヴァンナーよ、よく堪えた。こうして生きているわれわれ人間の存在そのものが苦なのだということを、お前は身をもって味わい尽くしてきたのだ。多く愛した者ほど苦しみの深さも大きい。そのかわり多く苦しんだ者ほど聖なるものの愛を受けることが大きい」
 ウッパラヴァンナーは、はっとした表情で、涙に濡れた顔をあげた。
 母と夫の醜い姿、娘と自分の不幸な結婚、二度までも、母が娘と同じ夫を分けもたねばならなかった屈辱と痛恨。それらはすべて、世尊が今説かれた人間の存在そのものが苦だということばの中に含まれている。
 ウッパラヴァンナーは大きな目を黒々と輝かせ、世尊の前に合掌し、そのお顔を見上げた。
「お願いでございます。どうか私を、み仏の弟子にして下さいませ」
 それにはお答えにならず、世尊は静かな声で話しつづけられた。
「人の心の中に無明の闇が抱かれている。そこに燃えさかる渇愛の焔を、お前は今こそ静める時が来たのだ。どんな激しい火も燃え尽きる時がある。今、すでに人より多く苦しんできたお前は、その苦悩の代償として人より深い叡智を与えられ、阿羅漢に近づきかけているのだ。ウッパラヴァンナーよ、み仏はお前の出家の希望をかなえてくださるだろう」
p301〜
 世尊は命尽き果てる場所と時を、この旅にゆだねきっていられたのだ。
 昔、世尊は弟子に向かって口癖のようにおっしゃったではないか。
「一つの道を二人して行くな」
「犀の角のようにただ独り歩め」
と。世尊御自身が群れを成すのを嫌悪していられた。弟子がともすれば徒党を組むのを厳しく戒められた。
p302〜
 生涯、ただ独り歩きたいと望む単独行の願望者にとって、弟子や同志に囲まれた教団の長としての立場から逃れたいと、切に思われる日はなかったであろうか。
 アーナンダという杖なくしては、もはや単独行さえ適わなくなった厳然たる老いを、世尊はどうしてもうけいれられなかったのだろう。
 ふと気が付くと、思いに捕らわれている私の横を、チュンダはとうに追い越していた。道の前途に、チュンダの背に負われた世尊の力ないお姿が、痛ましく見える。
----アーナンダよ、わかったか、私の最後の旅は、どこの涯にか、野垂れ死の死場所を需め、そこにたどりつくだけが目的の旅だったということが----
 ぼろ布のようにチュンダの背にしがみつかれた世尊の背が、私にははっきりそう語りかけてくる。 無双の尊い覚者ともあろう聖なる人が、下痢と下血の汚穢にまみれながら、最後の旅を、人の背に運ばれて行くとは。
 そう思うことが凡夫の浅はかな憶測なのであろう。
p318〜
「私はこのように聞いた。世尊のお言葉のままである。
 ----この世は美しい
     人の命は甘美なものだ----」
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〈来栖の独白〉
>どうしてあなたなどを恐れることがあるだろう。あなた以上の悪人がここにいるのだから。
>人に語ることは、自分に問いかけることなのだ、と、はっきりと感じた。人に語ることは、教えることではない。それは、人にたずねることなのだ。
 親鸞のこの告白は、そのまま私自身のものだ。誰に対しても私は心の裡で語りかける、「あなた以上の悪人がここにいる」と。
 そんな私だから、イエスの言葉に涙し、ついて行こうと思ったのだ。
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世間でさげすまれている人たち=彼らこそ私の師であり、兄であり、友であった。彼らとともに生きてゆく。2009-08-30 | 仏教/親鸞/五木寛之・・


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