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<中国インサイドストーリー> 暗闘---習近平が勝ち残った「世界一熾烈な権力闘争」

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中国インサイドストーリー G2ノンフィクション
暗闘---習近平が勝ち残った「世界一熾烈な権力闘争」

現代ビジネス2012年09月22日(土)g2 近藤大介(「週刊現代」副編集長)
 政敵を倒し、自らがのし上がるための自己主張、忠誠、謀略、密告、賄賂、裏切り・・・。中国の政治家は、上から下まで一年三百六十五日権力闘争に明け暮れる。
 極めて形式的な選挙しか行われないので、どんな手段を使おうが、権力を奪取したら「官軍」であり、負ければ粛清される運命にある。日本の政治家のように、「選挙に落ちたらまた次に」などという悠長な世界ではないのだ。政治家として身を立てようとしたら、文字通り、上がるか殺られるかの二つに一つなのである。
■幻に終わったクーデター
 2012年3月、重慶市党委(共産党委員会)書記の薄熙来(63歳)は、一気に勝負に出る決意を固めた。
 その1ヵ月前の2月6日、薄の腹心の部下だった重慶市副市長兼公安局長の王立軍が、亡命を求めて成都のアメリカ総領事館に駆け込むという事件が起こっていた。
 薄の夫人・谷開来の「愛人」と噂された、イギリス人のヘイウッド氏変死事件(2011年11月に重慶のホテルで変死)を調査していた王立軍は、谷夫人が主犯であるという捜査結果に至り、上司の薄に報告する。その結果、妻を助けようとする薄が逆に王立軍の公安局長職を解任し、王の殺害を図った。それで王は命からがら、アメリカ総領事館に逃げ込んだというわけだ。
 アメリカに亡命を拒否された後、国家安全部に拘束された王がすべてを暴露すれば、これまで着実に積み上げてきた薄熙来の政治生命は終わる。薄に残された時間は少なかった。
 ただし、薄には、彼なりの"勝算"があった。父親の薄一波・元副首相(2007年に98歳で死去)は、死の直前まで人民解放軍に多大な影響力を持ち、軍の将級幹部には現在も「薄一波人脈」がズラリと名を連ねている。かつて毛沢東主席が「銃口から政権は生まれる」という名言を吐いたように、230万の人民解放軍さえバックにつければ、現行の胡錦濤政権を一気呵成に転覆できると考えたのだった。
 3月8日、この日は、年に一度の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)の全体総会が開かれていた。天安門広場の西隣に位置する人民大会堂内の「万人大会堂」には、胡錦濤総書記(69歳)以下、2987人の全人代代表(国会議員に相当)が一堂に会していた。
 25人の中国共産党中央政治局委員の中で、ただ1人欠席したのが、重慶市党委書記の薄だった。体調不良を口実に、故宮の西隣に位置する最高幹部専用の職住地区「中南海」に潜んでいたのである。そこで彼は、中南海の防衛を任務とする人民解放軍の最強部隊「8341部隊」の幹部たちを前に乾坤一擲の大勝負に出たのだった。
 「諸君、いまこそ立ち上がれ! わが国を建国の父・毛沢東主席の理想の時代に戻すのだ。我々がいま人民大会堂を包囲すれば、私が重慶で実験してきたような理想の国家が創れる!」
 薄熙来がクーデターを画策している---この「絶密消息」(トップシークレット情報)は、すぐさま人民大会堂の胡錦濤総書記、温家宝首相(70歳)らのもとに入った。人民解放軍を統括する中央軍事委員会の主席でもある胡錦濤は即刻、「8341部隊長の解任」を宣言すると共に、北京衛戍区(首都防衛軍)に出動を要請。結局、薄のクーデターは未遂に終わったのだった。
 1週間後の3月15日、薄熙来は重慶市党委書記のポストを解かれ、4月10日には党中央政治局委員も解任。妻の谷開来は同日、殺人容疑で拘束された(8月に執行猶予つきの死刑判決が下された)。今年10月に開催される、第18回共産党大会で中央政治局常務委員、俗に言う「トップ9」入りが有力視されていた薄熙来の夢は、かくして潰えたのだった。
■次期「トップ9」の陣容
 3月に続く「大波」は、8月上旬に起こった。今度の震源地は、北京ではなく、北京の東250kmにある避暑地・北戴河で開かれた「北戴河会議」である。
 北戴河会議とは、渤海湾に面した河北省の北戴河で毎年夏に1週間ほど開かれている「非公式の最高幹部会」だ。北戴河は、20世紀前半にイギリス人が開拓した海沿いの避暑地で、1949年の解放後に中国共産党が接収した。毛沢東主席の趣味が水泳だったため、毎年夏に最高幹部たちが、静養を兼ねて北戴河に集まり政治談議を行った名残で、いまも連綿と続いている。
 北戴河会議の最大の特徴は、現役の最高幹部のみならず、すでに政界を引退した、かつての「トップ9」たちにも参加資格があることだ。このため、ボス格の元老である江沢民・前総書記(86歳)は、2002年秋の第16回共産党大会で総書記を胡錦濤に委譲した後も、この北戴河会議を拠点として権力を行使し続けた。そのため胡錦濤は、一旦は北戴河会議の廃止を決めたのだが、逆に江沢民の逆鱗に触れ、復活せざるを得なくなった経緯がある。 今年8月の北戴河会議の最重要議題は、10月開催の第18回共産党大会で選出する次代の「トップ9」及び中央政治局委員(通称「トップ25」)を内々に確定させることだった。
〈2012年10月までの現行「トップ9」〉
 1・胡錦濤 総書記、国家主席、中央軍事委員会主席
 2・呉邦国(71歳) 全国人民代表大会常務委員長(国会議長)
 3・温家宝 国務院総理(首相)
 4・賈慶林(72歳) 中国人民政治協商会議主席
 5・李長春(68歳) 精神文明建設指導委員会主任(文化担当)
 6・習近平(59歳) 国家副主席、中央軍事委員会副主席
 7・李克強(57歳) 筆頭副総理(国内経済担当)
 8・賀国強(68歳) 紀律検査委員会書記(紀律担当)
 9・周永康(69歳) 政法委員会書記、社会治安総合治理委員会主任(公安担当)
 中国共産党員8260万のトップである胡錦濤総書記は、会議に参加した最高幹部たちに、「新トップ9」の「人事案」を配付した。
〈2012年10月以降の「トップ9」案(年齢は10月時点)〉
 1・習近平 総書記、国家主席(2013年3月就任)、中央軍事委員会主席(就任時期未定)
 2・王岐山(64歳) 全国人民代表大会常務委員長(2013年3月就任)
 3・李克強 国務院総理(2013年3月就任)
 4・劉延東(66歳・女性) 中国人民政治協商会議主席(2013年3月就任)
 5・李源潮(61歳) 紀律検査委員会書記(紀律担当)
 6・劉雲山(65歳) 精神文明建設指導委員会主任(文化担当)
 7・張徳江(65歳) 政法委員会書記、社会治安総合治理委員会主任(公安担当)
 8・兪正声(67歳) 国家副主席(2013年3月就任)
 9・汪洋(57歳) 筆頭副総理(2013年3月就任)
 「最後がまかりならんっ!」
 「人事案」を一瞥するや、「汪洋」と記された箇所に難癖を付けたのは江沢民だった(詳細は後述)。
 「張高麗(天津市党委書記)同志に替えるべきだ。それに王岐山同志は筆頭副総理とし、『人大』(全人大)は兪正声同志に任せるべきだ」
 これに「江沢民の分身」と言われた曽慶紅・前国家副主席(73歳)も同調する。
 その後、北戴河会議は、胡錦濤派と江沢民派(習近平を含む)に分かれ、口角泡を飛ばしての侃々諤々の激論となったのだった。一説によれば、どうにも結着がつかず、「トップ9」を「トップ7」に減らしたとも言われる。
■「団派」と「太子党」の争い
 思えば、いまから5年前の07年の北戴河会議も大いに紛糾した。その年の秋に開く第17回党大会の最重要議題であった「第5代皇帝」、すなわち、毛沢東、?小平、江沢民、胡錦濤に続く中国の最高権力者の選定を巡って、胡総書記と江前総書記とが、互いに一歩も引かない展開になったためである。
 胡錦濤総書記は、彼にとって実の弟のような存在であり、「団派」(中国共産主義青年団出身で叩き上げの秀才グループ)のホープである李克強・遼寧省党委書記を推した。これに対し江沢民・前総書記と曽慶紅・前副主席は「太子党」(革命元老の子弟で構成されたサラブレッド集団)のホープである習近平・上海市党委書記を推した。
 両派がガチンコで対決し、最後は参加者全員で投票を行っている。その結果、習近平が勝利し、胡錦濤総書記→習近平次期総書記、温家宝首相→李克強次期首相という「第5世代の骨格」が固まったのだった。
 このような流れに加え、今年3月の「薄熙来のクーデター未遂」と、8月の「北戴河の激論」という「2つの大波」を経て、何とか10月の党大会開催にこぎつけたわけである。今年だけでも、中国の政界では水面下でこのような暗闘が立て続けに起こっていたのである。
 その第5世代の新体制の最大の特徴は、ナンバー1の習近平総書記と実質上のナンバー2である李克強首相が、近年の中国において形成された2つの実力派集団、すなわちサラブレッド集団の「太子党」と、叩き上げ秀才集団の「団派」という、それぞれ互いに反目しあうグループの代表格だという点であろう。
 中国の現代政治史において、政治用語で言うところのコアビタシオン(ねじれ状態の政権)はこれまで例がなかった。革命第1世代の毛沢東主席と周恩来首相、第2世代の?小平と胡耀邦・趙紫陽総書記、第3世代の江沢民総書記と李鵬・朱鎔基首相、そして第4世代の胡錦濤総書記と温家宝首相といった具合に、ナンバー1とナンバー2は、常に一心同体と言える間柄で構成されていたからだ。
 ところが今回ばかりは、習近平と李克強という、出身背景も派閥も政治哲学もまったく異なる「水と油」のような2人が「二人三脚」で進んでいくことになる。言ってみれば第5世代は、「呉越同舟政権」なのである。
■習近平は「1割皇帝」か?
 なぜこのような複雑な構図になったのか。それを説明するには、?小平の時代にまで遡らねばならない。
 現在の中国の政治家は、胡錦濤、温家宝ら第4世代も、習近平、李克強ら第5世代も例外なく、?小平という中国最大最強の指導者が敷いた路線を忠実に歩んでいるに過ぎない。その?小平は、悠久の中国史を研究し、賢帝と呼ばれる歴代皇帝たちの統治手法を真似た。
 それは一言で言えば、門閥出身者の子弟(革命元老の子弟)と、科挙に及第した農村出身の俊英(叩き上げの秀才)とを、宮廷内(中南海)でうまく使い分けながら、国家運営を進めていくというものだ。
 ?小平は70年代末から改革開放政策を推進してきたが、当時は革命第1世代や第2世代という「祖国解放戦争体験者」(革命元老)が現役だった。そんな中で?小平は、「現代版科挙」の制度を整備する。具体的には、1980年に胡耀邦を総書記に据えて以降、中国共産党の青年組織である中国共産主義青年団(共青団)の強化を命じたのである。
 教育者の顔も持っていた胡耀邦は、?小平の指示に従い、全国の有為な若者を選抜して、共青団で徹底した幹部教育を施した。その時見出された代表格が、1982年に選抜された、当時39歳の胡錦濤だった。彼らはその後、「団派」と呼ばれるようになり、中国政界において一大勢力を築いていく。
 だが、革命世代プラス団派という?小平の前期の統治手法は、革命世代と若者たちとが全面衝突した1989年の天安門事件をもって挫折してしまう。そこで?小平は、革命第1世代と第2世代を全員引退させ、彼らの子弟から成る「太子党」に切り替えた。この太子党を団派と競わせることでバランスを取ったのである。
 その象徴的人事が同年、上海市党委書記だった江沢民を北京に呼び寄せ、三段跳びでトップ(共産党総書記)に据えたことだった。江沢民自身は太子党とは呼べないが、上海で江沢民の秘書的存在だった曽慶紅を北京に同行させたため、広い意味では太子党の部類に入れてよい。
 曽慶紅の父・曽山は革命元老の一人で、商業部長など4つの大臣を歴任し、?小平とも親しかった。この曽慶紅・前副主席こそが、その後現在に至るまで「太子党のドン」として中南海に君臨するのである。その意味では、江沢民時代とはすなわち、江沢民・曽慶紅時代だった。
 ?小平時代の後期(1989〜1997年)は、この太子党と団派を互いに切磋琢磨させながら切り拓いていく、まさに歴代の賢帝たちが行ってきた「理想形」を築いた。この巧みな人事按配によって、中国は安定し、経済成長を加速させたのだった。
 だが、1997年に?小平が92歳で死去すると、「第3代皇帝」に就任した江沢民は、太子党(及び歩調を合わせる「上海閥」)を重用し、団派を徹底的に弾圧した。それでも胡錦濤が2002年に晴れて「第4代皇帝」に就任できたのは、「胡錦濤を後継者にせよ」という?小平の「遺訓」があったから、そして江沢民が「5割皇帝」に過ぎなかった点が大きい。
 「5割皇帝」という聞き慣れない単語については、中南海に勤務する、あるベテラン官僚の解説を聞こう。
 「革命第1世代の核心である毛沢東は、国家の重要案件の9割を1人で裁断していたため、『9割皇帝』と呼ばれた。同様に、第2世代の核心である?小平は『7割皇帝』、第3世代の核心である江沢民は『5割皇帝』と呼ばれた。その点、第4世代の核心である胡錦濤は『3割皇帝』。第5世代の習近平は『2割皇帝』か『1割皇帝』だろうと北京の政界では囁かれている」
 07年の前述の北戴河会議で、「3割皇帝」の胡錦濤は、自らの後継者さえ決められなかった。同年10月に開かれた第17回共産党大会では、習近平が「トップ9」の序列6位、李克強が序列7位となったからだ。
 このように、反目する勢力の頭目がそれぞれ権力を分け合う「権力の二分」という点にこそ、次期中国の政治体制の限界がある。
■略奪愛で国民歌手と結婚
 ここで、第5世代のナンバー1とナンバー2になる習近平と李克強の人物像を追ってみたい。
 まず、「太子党」のホープである習近平だが、習の父・習仲勲(1913〜2002年)は、副首相や党中央宣伝部長、党中央書記処書記などの要職を歴任した革命元老である。1953年に習仲勲の次男として生まれた習近平は、文化大革命で下放された後、1974年に清華大学人文社会学院を卒業している。
 習の幼馴染みの一人は次のように証言する。
 「当時の幹部たちは文化大革命で皆、地方に飛ばされていたため、朝から晩まで幹部の子弟たちでつるんで遊んでいた。習近平は、同じく太子党だった薄熙来の弟分のような存在だった。寡黙で慎重な男で、いつも薄の後ろに影のようにくっついていた。軍属の女性歌手に憧れていて、後に習の夫人となる彭麗媛(有名歌手で現在は中国人民政治協商会議委員も務める)にも、若い頃から憧憬を抱いていた」
 その後の習近平の政治履歴で特徴的なのは、1985年から2002年までの17年間を、一貫して福建省で過ごしていることだ。年齢で言うと32歳から49歳までにあたる。
 習はその間、アモイ市の党委常務委員を皮切りに、アモイ市副市長、福州市党委書記、福建省党委常務委員、福州市委書記、福建省党委副書記、省長と、一歩一歩、福建省で地位を固め、福建人脈を築いていった。福建人脈とはすなわち、台湾海峡を隔てて相対する“台湾人脈”に他ならない。
 1987年には、憧れのマドンナだった彭麗媛との再婚を果たす。同じく幼馴染みが語る。
 「彭麗媛は今でこそ、2人の結婚を美しい純愛物語のように吹聴しているが、実際はドロドロの不倫略奪愛だった。それまで習近平は解放軍の将軍の娘を娶り、一人娘もいた。ところが、若い時分から憧れだった彭麗媛と親しくなると、家庭を捨てて彼女のもとに走った。
 山東省の田舎で母一人子一人で育った彭麗媛もまた、若くして軍属の有名歌手に成り上がったが、男性スキャンダルの噂が絶えず、『権力者に侍る』重要さを熟知していた。恐らく習近平と出会った時、『この男は出世する』と確信し、妻子持ちの習に走ったのだろう。だが結婚後も2人は仮面夫婦で、北京で独り暮らしを続けた彭麗媛は、習近平が住む福建省には寄り付きもしなかった。
 92年にようやく一人娘が生まれた時、習近平は尊敬する毛沢東にちなんで、習明沢と名づけた。その後、何度も離婚の危機を迎えたが、習が07年に中南海入りしてからは、元の仮面夫婦に戻っている」
 習近平は、02年に隣の浙江省に党委副書記として転任し、まもなく浙江省党委書記(省のトップ)に就いた。07年3月には、上海市のトップである上海市党委書記に就任するも、わずか7ヵ月後の10月に「トップ9」に抜擢され、北京へ向かったわけだ。上海で習近平の部下だった人物は、次のように語る。
 「普通は市のトップに立つと、幹部を一堂に集めて就任の挨拶をして終わりです。ところが習近平は、1500人もの市の幹部のオフィスに個別に赴き、一人ひとりに挨拶して回ったのです。それが終わると、今度は近隣の省を訪問し、挨拶して回りました。そしてようやく挨拶回りが一段落したと思ったら、中央に抜擢されて北京へ行ってしまったというわけです。今にして思えば、中央に飛躍するための腰掛けポストと完全に割り切っていて、ひたすら顔を売ることに専念したのでしょう」
■胡錦濤の忠犬はガリ勉
 一方の李克強は、1955年に、胡錦濤と同じ安徽省の農村で生まれた。77年に?小平が約10年ぶりに大学入試を復活させたことで、当時田舎で燻っていた22歳の李は、一念発起して北京大学法学部を受験、見事合格を果たす。
 北京大学時代の李を知る人物が、そのころの様子を語る。
 「李克強は、とにかく生真面目な学生だった。『これからは英語を話す者が中国の指導者になる』というのが口癖で、構内を歩いていようが食事していようが、英語の分厚い読本を片っ端から暗記していた。同様に、外国の憲法や行政学なども必死に勉強していた。李は本当に上昇志向の強い学生で、学生会長にもなっている。
 薄熙来の後妻に収まった谷開来とも同級生だったが、2人は犬猿の仲だった。『ミス北大』と持て囃された谷開来は、痩せ細った農村出身の李克強のことを『トウモロコシ』と呼んでバカにしていたし、李克強も谷開来のことを『生意気なブルジョア娘』と蔑んでいた」
 その李克強は82年に大学卒業後、一般就職はせずに、団派の登竜門である北京大学共青団書記に就任する。以後3年間、共青団で胡錦濤の下で働いたことが、李にとって大きな財産となった。李は共青団の活動の傍ら、北京大学経済学院で修士、博士を取得、92年には胡錦濤の後ろ盾を得て、37歳で共青団中央第一書記に就任。胡錦濤もかつて担った重責である。
 1998年に李克強は、初の地方勤務として、河南省に赴任した。初めは副省長で、翌年省長となるが、43歳の省長は当時の中国最年少だ。河南省で部下だった官僚が証言する。
 「鄭州(河南省の省都)に着任早々、省内の古都・洛陽で大火事が発生したが、李省長は右往左往するばかりだった。だがこの一件以来、李は政策の勉強漬けの日々となった。それまでの指導者は、どちらかというと利権目当ての人間が多かったが、李省長は利権や派閥づくりには無頓着で、省長というよりも勉強熱心な学生のようだった」
 2002年11月、胡錦濤が共産党トップの総書記に就任すると、すぐに李克強を河南省のトップである河南省党委書記に引き上げた。翌年3月、中国全土をSARS(重症急性呼吸器症候群)が襲い、河南省は特に甚大な被害を被った。だが、中央で胡錦濤が「SARSと戦う指導者」を演出し、胡錦濤時代の到来を国民に見せつけたように、李も河南省で「SARSと戦う党委書記」を巧みに演出し、省内での支持基盤を固めていくことに成功したのである。
 04年暮れ、李克強は、今度は東北の工業地帯である遼寧省の党委書記に転任した。胡錦濤総書記―温家宝首相が、国の最優先課題の一つとして進める「東北振興政策」の最前線を任されたのだった。遼寧省時代の部下の証言を聞こう。
 「とにかく胡錦濤総書記の動向だけを見ている人というイメージです。胡錦濤が北京で何か講話を発表すると、翌日すぐに幹部を集めて学習会を開く。そして北京からの指示を忠実にこなすことを部下に求めます。だから遼寧省で李書記が独自に進めた政策というのは皆無でした」
 筆者は一度、遼寧省大連市で李克強党委書記を見かけたことがある。2007年9月に、「夏のダボス会議」が大連で開かれた時だ。李書記を間近で見たのは、ほんの数時間だったが、まるで温家宝首相の秘書のように、かいがいしく振る舞い、また、温首相も世界のVIPと握手するたびに、一歩後ろに控えた李書記を紹介していた。その1ヵ月後、李書記は「トップ9」に抜擢され、北京へ向かったのだった。(文中敬称略)

      『g2(ジーツー) vol.11』32〜45ページより抜粋 つづきは本誌をお読みください

 
 近藤大介(こんどう・だいすけ)
 1965年埼玉県生まれ。東京大学卒業後、講談社入社。09年より今年5月まで、講談社(北京)文化有限公司副総経理。現在『週刊現代』副編集長。近著『「中国模式」の衝撃』ほか、東アジアに関する著書多数。08年〜09年、明治大学講師(東アジア論)。『現代ビジネス』『サーチナ』(日本語)、『経済観察報』『看天下』(中国語)、『アジア・インベスター』(韓国語)など、日中韓で連載を持つ
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