12月5日[産経抄]
産経新聞 2012.12.5 03:08
1957(昭和32)年10月4日、ソ連が人工衛星の打ち上げに成功した。日本を含め世界中の人々が「人類初の快挙」に酔い、競って衛星の電波をとらえようとした。だがその一方で真っ青になっていたのが、冷戦状態にあった米国政府の首脳たちだった。▼単に衛星の競争に負けたショックではない。打ち上げに使った弾道ミサイルに衛星ではなく核を積めば、米国はたちまち脅威にさらされるからだ。国を挙げて「追いつき追い越せ」にかかる。その最中の1960年「米国の威信回復」をかかげて当選したのがケネディ大統領である。▼日本ではなぜか「ハト派」的イメージを持たれていた大統領だが、そんな「ヤワ」ではなかった。1962年、キューバにソ連がミサイル基地建設を進めていることがわかると、海上封鎖で対抗する。これがソ連にミサイル持ち込みを断念させたのだ。▼そう考えると、あの人工衛星が「強い米国」や「強い大統領」を生んだともいえる。だがそれから半世紀以上後の日本はどうなのだろう。北朝鮮がまた人工衛星名義のミサイル発射を予告した。4月の発射失敗から何とか立ち直ろうとしているらしい。▼野田佳彦首相は当然のことながら「断固とした対応」を指示した。しかし4月のさいに露呈した情報収集の甘さが改善されたのかわからない。イージス艦の黄海への派遣も中国、韓国に遠慮してか見送るらしい。少しでも「強い国」へと前進したかは疑問だ。▼しかも日本の安全を左右する重大事態なのに、公示された総選挙ではほとんど争点となっていない。尖閣をどう守るかもそうだ。「外交・防衛は票にならない」と言うのなら、北朝鮮や中国があざ笑うだけである。
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〈来栖の独白 2012/12/5 Wed. 〉
先日、野田佳彦首相は演説の中で「自衛隊という名称を変えようという主張がある。が、外国は日本の自衛隊を国防軍と思っている」と言った。
本日の中日新聞1面には「こんなに怖い選挙はない」と題して社会部長島田佳幸氏のコラムがあった。「憲法」について、以下のように書いておられる。
“2度と戦争をしてはいけない、というのは無論、戦争に少しでも近づくことがないようにせよ、というのが、先の大戦で途方もない犠牲を払って、日本が得た教訓だ。戦後の日本はその教訓の上に築かれている。その礎である9条を変えるというのは、とてつもなく重大な判断である。”
どうだろうか。考えてみたい。
先ず、野田氏の発言である。一国の総理がこれほど国際社会の動向に疎いのは、容認しがたい。日本人の多くは総理のように受け止めているのかもしれないが、現実はそうではない。国防軍を持たず、領土領海の守りをなおざりにする日本という国を、国際社会は真っ当な一人前の国家として認めてはおらず、北朝鮮に拉致された人たちには同情はしても、みすみす国民が拉致されるに任せた日本の守りの薄さ、国防意識の薄さを奇異な目で見、笑っている。これが国際社会と日本という国の現実である。いい笑いものだ。
ただただ「戦争をしない」「戦争に少しでも近づくことがないように」という理想は、9条を守りさえすれば実現する。9条を守り、手足を縛って他国の侵略に任せれば、戦争は回避できる。簡単なことだ。
そうして、他国の拉致や侵略に無抵抗を貫き、子孫たちに隷属日本を受け継がせればよい。「戦争だけは回避したい」というのであれば、隷属、植民地、属国・・・あらゆる惨状を極めるであろうこの国を子孫に送るしかない。中国によって侵略されたチベットでは、中国政府の政策に抗しての僧侶たちの焼身自殺が相次いでいる。
護憲を言い、あるいは「地球市民」「世界市民」を標榜する人たちのなかに、国際社会に対する認識がおよそ窺われないことを私は危惧する。
日本は、ひとり存在しているのではない。国際社会のなかで存在している。その国際社会には、中国のように断固民主主義を拒否する覇権国家がある。また、大国と見做され、発言力を有する国とは、核を保有している国であることは紛れもない事実である。それが、国際社会の現実である。
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◆ 「九条守れば攻撃されず。攻撃すれば世界中から非難される」〜世界の動向に疎い福島瑞穂氏の錯誤と無責任 2012-09-13 | 政治〈領土/防衛/安全保障〉
【金曜討論】「憲法9条」
産経ニュース2012.8.31 07:40
≪福島瑞穂氏≫
■尖閣で自衛権行使は疑問
−−9条の意義とは
「9条がなければ戦争ができる国になっていた。韓国の若者がベトナムに従軍したように日本も戦地に若者を送ったはずだ。韓国軍はベトナムで憎まれている。戦後の日本が戦争で人を殺さなかったことは誇ってよい。日本が今後、米国の利害に引っ張られて戦争への加担を強いられたときに、『NO』と断れるのが9条の効用だ」
●9条守れば攻撃されず
−−他国からの攻撃にはどう対応するか
「9条で『世界を侵略しない』と表明している国を攻撃する国があるとは思えない。攻撃する国があれば世界中から非難される」
−−中国政府に尖閣諸島を侵略される可能性はないか
「尖閣は民間人の所有だ。侵略は所有権侵害にあたり、領土侵犯に当たる。今(7月27日現在)のように経済的に両国の関係が密接ななか、中国政府は戦争という手段が取れるだろうか」
−−尖閣に自衛隊を常駐させる案が浮上している
「問題をこれ以上緊迫させるべきではない。尖閣は日本の領土であることは間違いない。日本には海上保安庁もある。自衛隊を置く必要はない」
●海外派遣は違憲状態
−−尖閣が攻められたとき、自衛隊を派遣することは自衛権の行使に当たるか
「刑法で正当防衛を認めているように日本にも個別的自衛権はある。四国や九州が攻撃されれば反撃は許される。しかし尖閣は人が住んでいない。個別的自衛権や9条の問題というより領土をめぐる問題として冷静に対処すべきだ」
−−具体的には
「国際的な交渉の舞台で解決を図るべきだ。侵略を未然に防ぐ外交努力も必要だ」
−−閣僚時代に自衛隊の憲法上の位置付けについて「合憲」との認識を国会答弁で示した
「社民党は自衛隊の存在について合憲か違憲か答えていない。外国にまで派遣できる状況は『違憲状態』と考えている。組織改編や規模の見直しは必要だ。ソ連崩壊後の北海道に今ほどの数の戦車を置く必要はあるのか。任務も災害救助などに比重を移すべきだ」
−−村山富市政権時に党は「合憲」と打ち出していた
「自衛隊、安全保障に関する党の見解は平成18年にまとめた社会民主党宣言で整理した。今もその見解が維持されている」
−−平和への思いを
「父は特攻隊の生き残りだった。子供の頃、終戦記念日に涙する父の姿を見た。戦争で傷つくのは父のような庶民だ。戦争に負けて手にした平和憲法や、戦争はしないという誓いは大切にしなければならない」
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〈来栖の独白2012/9/13 Thu.〉
>「9条で『世界を侵略しない』と表明している国を攻撃する国があるとは思えない。攻撃する国があれば世界中から非難される」
なんという手前勝手な思い込み、無責任であることだろう。正気とは思えない。こんな人に政治は預けられない。石原慎太郎氏は次のように言う。
“尖閣諸島への中国の侵犯に見られる露骨な覇権主義が、チベットやモンゴルと同様、まぎれもなく、この国に及ぼうとしているのに最低限必要な措置としての自衛隊の現地駐留も行わずに”
同様に藤原正彦氏は言う。
“「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と美しく飾ってみても、残念なことに「国益のみを愛する諸国民の権謀術数と卑劣に警戒して」が、現実なのです。”
憲法前文・9条が日本を守ってくれるなどと根拠のない楽観を決め込みたい人びとは、中国によるチベット侵略を思うとよい。チベットが果たして好戦的な国であったか。武器を蓄え、先制に出る国であったか。
日高義樹氏はその著『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』のなかで、日本人特有の主観・思い込みについて、次のように言っている。
“ 日本が現在に至るも世界の動向には疎く、日本の外で起きていることに注意しないまま、自分勝手な行動を取ることが多いが、こうした国民性は第2次大戦以前から変わっていない。
日米安保条約のもとで、アメリカがどう考えているかということに関わりなく、アジアの人々は、日本がアメリカの一部であり、日本の国土や船舶を攻撃することは、アメリカを攻撃することだと考えてきたのである。
日本では国際主義がもてはやされ、国際社会では民主的で人道的な関わり合いが大切で、そうした関係が基本的に優先されると思ってきた。だがこうした考え方が通ってきたのは、アメリカの核兵器による抑止力が国際社会に存在していたからである。そのなかでは日本はアメリカの優等生として受け入れられてきた。
日本は、国際社会における国家の関係は好き嫌いではなく、損か得かが基本になっていることを理解しなければならない。国際社会における国家は、国家における個人ではない。国際社会というのは、それぞれの国家が利益を守り、あるいは利益を求めて常に混乱しているのである。国家は、世界という利益競合体のなかにおける存在単位なのである。当然のことながら、好き嫌いといった感情が入る余地はない。 ”
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『憲法が日本を亡ぼす』古森義久著 海竜社2012年11月15日 第1刷発行
はじめに 国家が国民を守れない半国家
p1〜
○世界でも異端な日本憲法
「日本は国際社会のモンスターというわけですか。危険なイヌはいつまでも鎖につないでおけ、というのに等しいですね」
アメリカ人の中堅学者ベン・セルフ氏のこんな発言に、思わず、うなずかされた。日本は世界でも他に例のない現憲法を保持しつづけねばならないという主張に対して、セルフ氏が反論したのだった。
p2〜
だがその改憲、護憲いずれの立場にも共通していたのは、日本の憲法が自国の防衛や安全保障をがんじがらめに縛りつけている点で、世界でも異端だという認識だった。
p3〜
事実、日本国憲法は「国権の発動としての戦争」はもちろんのこと、「戦力」も「交戦権」も、「集団的自衛権」もみずからに禁じている。憲法第9条を文字どおりに読めば、自国の防衛も、自国民の生命や財産の防衛も、同盟国アメリカとの共同の防衛も、国連平和維持のための防衛活動も、軍事力を使うことはなにもかもできないという解釈になる。日本には自衛のためでも、世界平和のためでも、「軍」はあってはならないのだ。
○日本は「危険な」イヌなのか?
現実には日本はその普通の解釈の網目をぬう形で自衛隊の存在を「純粋な自衛なら可能」という概念をどうにか認めているだけである。だが、イラクに駐留した自衛隊がいかなる戦闘も許されず、バングラデシュの軍隊に守ってもらわねばならなかったという異様な状況こそが、日本国憲法の本来の姿なのだ。
自縄自縛とはこのことだろう。いまの世界ではどの主権国家にとっても自国の領土や自国民の生命を守るために防衛行動、軍事行動を取るという権利は自明とされる。いや、自国や自国民を守る意思や能力や権利があってこそ、国家が国家たりうる要件だろう。国民にとっての国家の責務でもある。
だが日本にはその権利がない。その点では日本は半国家である。ハンディキャップ国家とも評される。国際的にみて明らかに異常なこんな状態がなぜ日本だけで続くのか。
「いまの日本は古代ギリシャの猛将ユリシーズが柱に縛られた状態ともいえるでしょう」
p4〜
「アメリカも日本が憲法を改正して集団的自衛権を行使できるようにすることを求めると、やがて後悔するかもしれません。悪魔がいったんビンから出ると、もう元には戻らないというたとえがあります」
日本を悪魔にまでたとえる、こうした趣旨の発言が続いたところで、冒頭に紹介したセルフ氏の言葉が出たのだった。
彼は次のようにも述べていた。
「全世界の主権国家がみな保有している権利を日本だけに許してはならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族と暗に断じて信頼しないという偏見であり、差別ですね」
p5〜
○アメリカによる押しつけ憲法
本書で詳述するように、日本国憲法は完全なアメリカ製である。しかも日本がアメリカの占領下にある時期にアメリカ側によって書かれ、押しつけられた。米側としては憲法での最大の目的は日本を二度と軍事強国にしないことだった。そのためには主権国家としての最低要件となる自衛の権利までをも奪おうとしていた。
p6〜
あの激しい日米間の戦争を考えれば、まったく理不尽な目的だったともいえないだろう。
しかし、日本側でも憲法は長年、国民多数派の支持を得てきた。とくに日本を世界の異端児とする憲法9条への支持が強かった。(略)
アメリカの政策や日米同盟に反対し、ソ連や共産主義に傾く左翼勢力がとくに現憲法の堅持を強く叫んだ。日本国憲法を「平和憲法」と呼び、それに反対したり、留保をつける側はあたかも平和を嫌う勢力であるかのように描いて見せるレトリック戦術も、左翼が真っ先に推し進めた。
アメリカがつくった憲法を反米勢力が最も強く守ろうとしたことは皮肉だった。だがこの憲法の半国家性をみれば、現体制下での国家の力を弱めておくことが反体制派の政治目的に会うことは明白だった。
p70〜
第3章 外敵には服従の「8月の平和論」
1 日本の「平和主義」と世界の現実
○内向きで自虐の「8月の平和論」
日本とアメリカはいうまでもなく同盟国同士である。だが、そもそも同盟国とはなんなのか。
同名パートナーとは、まず第1に安全保障面でおたがいに助け合う共同防衛の誓約を交し合った相手である。なにか危険が起きれば、いっしょに守りましょう、という約束が土台となる。
p72〜
日本では毎年、8月になると、「平和」が熱っぽく語られる。その平和論は「戦争の絶対否定」という前提と一体になっている。
8月の広島と長崎への原爆投下の犠牲者の追悼の日、さらには終戦記念日へと続く期間、平和の絶対視、そして戦争の絶対否定が強調されるわけだ。(略)
日本の「8月の平和」は、いつも内向きの悔悟にまず彩られる。戦争の惨状への自責や自戒が主体となる。とにかく悪かったのは、わが日本だというのである。「日本人が間違いや罪を犯したからこそ、戦争という災禍をもたらした」という自責が顕著である。
その自責は、ときには自虐にまで走っていく。(略)そして、いかなる武力の行使をも否定する。
p73〜
8月の平和の祈念は、戦争犠牲者の霊への祈りとも一体となっているのだ。戦争の悲惨と平和の恩恵をとにかく理屈抜きに訴えることは、それなりに意義はあるといえよう。
○「奴隷の平和」でもよいのか
だが、この内省に徹する平和の考え方を日本の安全保障の観点からみると、重大な欠落が浮かび上がる。国際的にみても異端である。
日本の「8月の平和論」は平和の内容を論じず、単に平和を戦争や軍事衝突のない状態としかみていないのだ。その点が重大な欠落であり、国際的にも、アメリカとくらべても、異端なのである。
日本での大多数の平和への希求は、戦争のない状態を保つことへの絶対性を叫ぶだけに終わっている。守るべき平和の内容がまったく語られない点が特徴である。
「平和というのは単に軍事衝突がないという状態ではありません。あらゆる個人の固有の権利と尊厳に基づく平和こそ正しい平和なのです」
この言葉はアメリカのオバマ大統領の言明である。2009年12月10日、ノーベル平和賞の受賞の際の演説だった。
p74〜
平和が単に戦争のない状態を指すならば、「奴隷の平和」もある。国民が外国の支配者の隷属の下にある、あるいは自国でも絶対専制の独裁者の弾圧の下にある。でも、平和ではある。
あるいは「自由なき平和」もあり得る。戦争はないが、国民は自由を与えられていない。国家としての自由もない。「腐敗の平和」ならば、統治の側が徹底して腐敗しているが、平和は保たれている。
さらに「不平等の平和」「貧困の平和」といえば、一般国民が経済的にひどく搾取されて、貧しさをきわめるが、戦争だけはない、ということだろう。
日本の「8月の平和論」では、こうした平和の質は一切問われない。とにかく戦争さえなければよい、という大前提なのだ。
その背後には軍事力さえなくせば、戦争はなく、平和が守られるというような情緒的な志向がちらつく。
2010年の8月6日の広島での原爆被災の式典で、秋葉忠利市長(当時)が日本の安全保障の枢要な柱の「核のカサ」、つまり核抑止を一方的に放棄することを求めたのも、その範疇だといえる。
自分たちが軍備を放棄すれば他の諸国も同様に応じ、戦争や侵略は起きない、という非武装の発想の発露だろう。
p75〜
○オバマ大統領の求める「平和」との違い
平和を守るための、絶対に確実な方法というのが1つある。それは、いかなる相手の武力の威嚇や行使にも一切、抵抗せず、相手の命令や要求に従うことである。
そもそも戦争や軍事力の行使は、それ自体が目的ではない。あくまでも手段である。国家は戦争以外の何らかの目的があってこそ、戦争という手段に走るのだ。
戦争によって自国の領土を守る。あるいは自国領を拡大する。経済利益を増す。政治的な要求を貫く。
こうした多様な目標の達成のために、国家は多様な手段を試みる。そして平和的な方法ではどうにも不可能と判断されたときに、最後の手段として戦争、つまり軍事力の行使にいたるのである。それが戦争の構造だといえる。
だから攻撃を受ける側が相手の要求にすべて素直に応じれば、戦争は絶対に起きない。要求を受け入れる側の国家や国民にとっては服従や被支配となるが、戦争だけは起きない、という意味での「平和」は守られる。
日本の「8月の平和論」はこの範疇の非武装、無抵抗、服従の平和とみなさざるを得ない。なぜなら、オバマ大統領のように、あるいは他の諸国のように、平和に一定の条件をつけ、その条件が守られないときは、一時、平和を犠牲にして戦うこともある、という姿勢はまったくないからだ。
オバマ大統領は前記のノーベル賞受賞演説で、戦争についても語った。「正義の戦争」という概念だった。
「正義の戦争というのは存在します。国家間の紛争があらゆる手段での解決が試みられて成功しない場合、武力で解決するというケースは歴史的にも受け入れられてきました。武力の行使が単に必要というだけでなく、道義的にも正当化されるという実例は多々あります。第2次世界大戦でアメリカをはじめとする連合国側がナチスの第3帝国を(戦争で)打ち破ったのは、その(戦争の)正当性を立証する最も顕著な例でしょう」
オバマ大統領はこうした趣旨を述べて、アメリカが続けるアフガニスタンでの戦争も、アメリカに対する9・11同時テロの実行犯グループへの対処として、必要な戦争なのだと強調するのだった。
これが国際的な現実なのである。決してアメリカだけではない。どの国家も自国を守るため、あるいは自国の致命的な利益を守るためには、最悪の場合、武力という手段にも頼る、という基本姿勢を揺るがせにしていない。それが国家の国民に対する責務とさえみなされているのだ。
p77〜
だから「8月の平和論」も、この世界の現実を考えるべきだろう。その現実から頭をもたげてくる疑問の1つは、「では、もし日本が侵略を受けそうな場合、どうするのか」である。
日本の領土の一部を求めて、特定の外国が武力の威嚇をかけてきた場合、「8月の平和論」に従えば、一切の武力での対応も、その意図の表明もしてはならないことになる。
だが、現実には威嚇を実際の侵略へとつなげないためには、断固たる抑止が有効である。相手がもし反撃してくれば、こちらも反撃をして、手痛い損害を与える。その構えが相手に侵略を思い留まらせる。戦争を防ぐ。それが抑止の論理であり、現実なのである。
この理論にも、現実にも、一切背を向けているのが、日本の「8月の平和論」のようにみえるのだ。そしてそのことがアメリカとの同盟関係の運営でも、折に触れて障害となるのである。
*古森 義久 Yoshihisa Komori
産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・論説委員。1963年慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日新聞入社。72年から南ベトナムのサイゴン特派員。75年サイゴン支局長。76年ワシントン特派員。81年米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。83年毎日新聞東京本社政治部編集委員。87年毎日新聞を退社して産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長などを経て、2001年から現職。2010年より国際教養大学客員教授を兼務。『日中再考』『オバマ大統領と日本沈没』『アメリカはなぜ日本を助けるのか』『「中国の正体」を暴く』など著書多数。
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関連: 『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著 2012年07月25日1刷発行
p1〜
まえがき
日本の人々が、半世紀以上にわたって広島と長崎で毎年、「二度と原爆の過ちは犯しません」と、祈りを捧げている間に世界では、核兵器を持つ国が増えつづけている。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に加えて、イスラエル、パキスタン、インドの3ヵ国がすでに核兵器を持ち、北朝鮮とイランが核兵器保有国家の仲間入りをしようとしている。
日本周辺の国々では核兵器だけでなく、原子力発電所も大幅に増設されようとしている。中国は原子力発電所を100近く建設する計画をすでに作り上げた。韓国、台湾、ベトナムも原子力発電所を増設しようとしているが、「核兵器をつくることも考えている」とアメリカの専門家は見ている。
このように核をめぐる世界情勢が大きく変わっているなかで日本だけは、平和憲法を維持し核兵器を持たないと決め、民主党政権は原子力発電もやめようとしている。
核兵器を含めて武力を持たず平和主義を標榜する日本の姿勢は、第2次大戦後、アメリカの強大な力のもとでアジアが安定していた時代には、世界の国々から認められてきた。だがアメリカがこれまでの絶対的な力を失い、中国をはじめ各国が核兵器を保有し、独自の軍事力をもちはじめるや、日本だけが大きな流れのなかに取り残された孤島になっている。
ハドソン研究所で日本の平和憲法9条が話題になったときに、ワシントン代表だったトーマス・デュースターバーグ博士が「日本の平和憲法はどういう規定になっているか」と私に尋ねた。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
私がこう憲法9条を読み上げると、全員が顔を見合わせて黙ってしまった。一息おいてデュースターバーグ博士が、こういった。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
これは非公式な場の会話だが、客観的に見ればこれこそ日本が、戦後の半世紀以上にわたって自らとってきた立場なのである。
このところ日本に帰ると、若い人々が口々に「理由のはっきりしない閉塞感に苛立っている」と私に言う。私には彼らの苛立ちが、日本が他の国々とあまりに違っているので、日本が果たして国家なのか確信が持てないことから来ているように思われる。世界的な経済学者が集まる会議でも、日本が取り上げられることはめったにない。日本は世界の国々から無視されることが多くなっている。
日本はなぜこのような国になってしまったのか。なぜ世界から孤立しているのか。このような状況から抜け出すためには、どうするべきか。
「初心に帰れ」とは、よく言われる言葉である。したがって、六十余年前、日本に落とされた原爆の問題から始めなければならないと私は思う。(略)
日本はいまや原点に立ち戻り、国家と戦争、そして核について考えるべき時に来ている。日本が変わるには、考えたくないことでも考えなければならない。そうしなければ新しいことを始められない。
私はこの本を書くにあたって、アメリカは何を考えて大量殺戮兵器である原爆を製造したのか、なぜ日本に原爆を投下したのか、歴史に前例のない無慈悲な仕打ちはどのように日本に加えられたのか、当時の記録に詳しく当たってみた。
原点に戻って、日本の人々に「考えたくないこと」を考えてもらうためである。
p22〜
核分裂は、フランスやイギリス、ドイツ、アメリカ、ソビエトでは普通に得られる情報になっていたため、そこから原子爆弾の製造という構想が出てくるのは当然だった。日本では、核分裂や放射能についての関心はあったものの、爆弾をつくる計画には至らなかった。したがってルーズベルト大統領が日本に対して原子爆弾を使ったとしても、報復爆撃を受ける懸念はなかった。
1930年代の日本は、満州で戦いを続ける一方で、1941年12月8日、真珠湾を攻撃して乾坤一擲の勝負をアメリカに挑んだが、このころアメリカでルーズベルト大統領をはじめ専門家たちが原爆をつくるために全力を挙げていることには、考えも及ばなかった。日本が現在に至るも世界の動向には疎く、日本の外で起きていることに注意しないまま、自分勝手な行動を取ることが多いが、こうした国民性は第2次大戦以前から変わっていない。
アメリカでは、核分裂の仮説が発表されるやいなや、軍事目的に使う動きが急速に高まっている。この恐るべき情報に気がつかなかったことが、真珠湾奇襲攻撃、そして原爆投下につながっていく。「真珠湾攻撃に対する報復として原爆を使った」というのがアメリカの嘘であるとすれば、アメリカの動きについてまったく情報がない、つまり無知であったことが日本側の犯した罪と言える。
ここで、1939年1月に核分裂の仮説が証明されて以後、1941年12月に日本が真珠湾を攻撃するまでの経緯について少し詳しく述べたい。すでに述べたように、アメリカ政府や軍人たちの間に、核分裂によって生じる莫大なエネルギーを軍事目的に使おうという熱意が、急速に膨れ上がった。
当時のアメリカには、ヒットラーの迫害を逃れてヨーロッパからやってきた多くの学者たちがいたことはすでに述べたが、1940年4月、全米物理学研究協議会の会合で、アメリカの科学雑誌に核分裂の記事を野放しに載せるべきではないという決定が行われた。(〜p24)
p73〜
ゴッドフレー・ホジソンがその著『ザ・カーネル』の中で指摘しているように、山本五十六司令官の率いる日本帝国連合艦隊の真珠湾攻撃は、戦術的には大成功だったが、戦略的にはむしろ失敗だった。その証拠にルーズベルトは奇襲以前から原爆をつくり、日本を原爆で攻撃しようとしていた。つまり戦略という大きな枠の中では、山本五十六司令官は敵の罠にはまったと言っても言い過ぎではないだろう。
p91〜
それにしても、ワシントンの日本外交官は何と愚かだったのだろう。宣戦布告の全文をすべて翻訳したあとでアメリカ側と会い、宣戦布告を行ったとされているが、外交官が正常な判断力を持っていれば、「日本は宣戦を布告する」と一言伝えればよいと考えたはずである。喧嘩の理由はあとから告げれば済む、とは思わなかったのだろうか。
宣戦布告の通告がアメリカに手渡されたのが真珠湾攻撃のあとだったため、ルーズベルトは「騙し討ち」だったと非難した。だが以前、アメリカの軍事専門家に聞いた話だが、アメリカが領土を拡大するために、メキシコやスペインに仕掛けた戦いのほとんどが奇襲攻撃で始まったという。
日本はなぜ「軍事基地を攻撃しただけである」という主張を、東京裁判はじめ、アメリカや世界のマスコミに強く主張しなかったのだろうか。私は時折、ハーバード大学やハドソン研究所などの研究会の集まりで、この点を指摘することがあるが、アメリカの同僚たちは反論に困っている。
戦争は狂気を伴う行為である。そして戦争には多くの理由がある。そういったあらゆる理由を勘案しても、広島と長崎に対する原爆投下は正当化されるものではない。原爆が投下されてから60年余り経つが、これまで原爆投下が人体実験であったことを非難し、戦争犯罪であることを厳しく追及する動きはまったくなかった。原爆については、ただ祈るだけしかないと日本の人々が考えた結果である。
アメリカの人々は原爆を広島と長崎に落としたことについて謝罪していないと私は思う。アメリカのルース駐日大使が慰霊碑に献花したが、私が知るかぎりアメリカの人々は素直に日本に謝ろうという気はない。真珠湾の奇襲攻撃は罰せられなければならなかったと主張する人がほとんどである。
原爆についてアメリカのマスコミや学者たちが口にする「謝罪」は、きわめて抽象的な意味の謝罪である。とてつもない破壊兵器をつくり、使ったことに対して、人類と歴史に謝罪しているのである。人体実験の対象にされた日本人に謝罪しているのではない。
マンハッタン・プロジェクトで原爆が完成したころ、アメリカの良心的な学者たちが「原爆投下は必要ない」と主張したが、ルーズベルト、トルーマン、グローブス将軍らは、「奇襲攻撃を行った日本を罰し、同時に奇襲攻撃によって始まった戦争を1日も早くやめさせるためには原爆を投下しなければならない」と主張した。
アメリカ国民の60%はいまも、その主張を信じて、原爆投下は必要だったと考えている。その理由は、原爆が引き起こした酸鼻きわまりない被害について詳しく知らないだけでなく、原爆投下が軍事行動ではなく原爆の開発を続けるために必要な実験だったことを知らないからである。
p93〜
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」
原爆慰霊碑に刻まれたこの碑文の前で、日本人は60年あまり祈り続けてきた。被害者の霊を悼み祈るのは正しいことである。だが祈るのなら、この「過ち」とはいったい何だったのかを明確にし、祈ることによってそれが正されたかどうかを確かめるべきではないだろうか。
p243〜
日米安保条約のもとで、アメリカがどう考えているかということに関わりなく、アジアの人々は、日本がアメリカの一部であり、日本の国土や船舶を攻撃することは、アメリカを攻撃することだと考えてきたのである。
日本では国際主義がもてはやされ、国際社会では民主的で人道的な関わり合いが大切で、そうした関係が基本的に優先されると思ってきた。だがこうした考え方が通ってきたのは、アメリカの核兵器による抑止力が国際社会に存在していたからである。そのなかでは日本はアメリカの優等生として受け入れられてきた。
日本は、国際社会における国家の関係は好き嫌いではなく、損か得かが基本になっていることを理解しなければならない。国際社会における国家は、国家における個人ではない。国際社会というのは、それぞれの国家が利益を守り、あるいは利益を求めて常に混乱しているのである。国家は、世界という利益競合体のなかにおける存在単位なのである。当然のことながら、好き嫌いといった感情が入る余地はない。
日本人は感情的であるとよく言われるが、世界を感情的に捉えて、国家を理解しようとするのは間違っている。日本人が世界で最も好かれているという思い込みは、世界という実質的な利害共同体のなかで、日本がアメリカのもとで特別な存在だったからに過ぎないことを忘れているからだと私は思う。
p244〜
いずれにしてもアメリカの力が大きく後退し、アメリカの抑止力がなくなれば、日本は世界の国々と対等な立場で向き合わなければならなくなる。対立し、殴り合ってでも、自らの利益を守らなくてはならなくなる。そうしたときに、好きか嫌いかという感情論は入る余地がないはずだ。(略)
アメリカの核兵器に打ちのめされ、そのあとアメリカの力に頼り、国の安全のすべてを任せてきた日本人は、これから国際社会における地位を、自らの力で守ることを真剣に考えなければならない。
P261〜
私がこの本で提示しようとしたのは、核爆弾という兵器を日本に落としたアメリカの指導者が、日本を滅ぼし、日本に勝つという明確な意図を持って行動したことである。無慈悲で冷酷な行動であったが、日米の戦争がなければ起きないことであった。
原爆を投下された日本は、そうした現実をすべて置き去りにして、惨劇を忘れるために現実離れした「二度と原爆の過ちは犯しません」という祈りに集中するすることによって、生きつづけようとした。国民が一つになって祈ることによって、歴史に前例のない悲惨な状態から立ち上がったのは、日本民族の英知であった。
だがいまわれわれにとって必要なのは、原爆投下という行為を祈りによってやめさせることはできない、という国際社会の現実を見つめることである。すでに見てきたように、世界では同じことが繰り返されようとしている。
我々に必要なのは、祈りではない。知恵を出し合って、日本と日本民族を守るために何をしなければならないかを考えることである。それにはまず、現実と向かい合う必要がある。「原爆を日本に投下する」という過ちを、二度と繰り返させないために、日本の人々は知恵を出し合う時に来ている。
p263〜
あとがきに代えて--日本は何をすべきか
アメリカは核兵器で日本帝国を滅ぼし、そのあと日本を助けたが、いまやアメリカ帝国自身が衰退しつつある。歴史と世界は常に変わる。日本では、昨日の敵は今日の友と言うが、その逆もありうる。いま日本の人々が行うべきは、国を自分の力で守るという、当たり前のことである。そのためには、まず日本周辺の中国や北朝鮮をはじめとする非人道的な国家や、日本に恨みを持つ韓国などを含めて、常に日本という国家が狙われていることを自覚し、日本を守る力を持たなければならない。 (略)
p264〜
軍事同盟というのは、対等な力を持った国同士が協力して脅威に当たらねばならない。これまでの日米関係を見ると、アメリカは原爆で日本を破壊したあと、善意の協力者、悪く言えば善意の支配者として存在してきた。具体的に言えば、日本の円高や外交政策は紛れもなくアメリカの力によって動かされている。日本の政治力のなさが、円高という危機を日本にもたらしている。その背後にあるのは、同盟国とは言いながら、アメリカが軍事的に日本を支配しているという事実である。
いまこの本のまとめとして私が言いたいのは、日本は敵性国家だけでなく、同盟国に対しても同じような兵器体系を持たねばならないということである。アメリカの衛星システムやミサイル体制を攻撃できる能力を持って、初めてアメリカと対等な軍事同盟を結ぶことができる。もっとも、これには複雑な問題が絡み合ってくるが、国をまもるということは、同盟国に保護されることではない。自らの力と努力で身を守ることなのである。そのために、日本が被った原爆という歴史上類のない惨事について、あらためて考えてみる必要がある。
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