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五木寛之著『百寺巡礼』/草木国土悉皆成仏/アニミズムだ、と近代では切り捨てられてきた

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五木寛之著『百寺巡礼』第4巻滋賀・東海
p64〜(第33番 延暦寺)
 「山にはいる」ということ。それは、日本人にとって古代から、特別な意味をもっていたのではないか。霊山というように、山にはなにか霊気がある。山岳霊場と呼ばれる場所は多い。たとえば、第2巻の北陸編で触れた白山や立山もそうだ。
 古代人は、山には山の神がいると信じていたのだろう。「山に霊が宿っている」という感覚は、こうして山中に身を置くと実感できる。
 山や森にも霊が宿り、命があるという古代からの信仰。それはアニミズムだ、と近代では切り捨てられてきた。しかし、日本人はむかしから山を拝み、樹木に注連縄をはって信仰の対象にしてきたのだ。
 チベットでもカンリンポチェ、ヒンドゥー語ではカイラスという山が「聖なる山」とされている。その周囲を仏教の五体投地という礼法で巡拝する人たちがいる。それも、山には霊が宿っている、生命があると考えられているからにほかならない。逆に文明人は、そういう感覚を失ってしまっているのではないか。
 ヨーロッパにおける登山は、人間が自然を征服するということの証明だった。たとえ、アルプスのように峻険な山々であっても、人間が知能と体力のかぎりをつくせば征服できる、というわけだ。人間の能力は偉大だ、と示すのが登山の意味だったといえるだろう。
 だからこそ、山頂に誇らしげに国旗などを立てる。あの国旗はまさしく、この山は人間に征服された、ということの表現だ。(略)
 日本人のむかしの登山はそうではない。富士登山なども、白装束に身を包み、「六根清浄」と声をだしながらのぼった。山にはいっていくことで、その霊気を自分の中に吸収し、自分の命をリフレッシュする、それが、山にのぼるということだったのである。(略)
 日本では古来、まず山に小さな祠のようなものができ、そこに神社ができ、そのあとに仏教がはいってきて寺が建った。そのため、自然に神仏習合のかたちをとっていることが多い。この神仏習合ということも、私にとってはたいへん興味深いものだ。
p79〜
 こんなふうに山中を歩きまわっていると、「自然と人間との共生」ということが肌で感じられる。ここでは猪や鹿などの動物もいる。野鳥もいる。草木も石も土もある。そして、それらすべてに命がある。谷からものすごい勢いで湧いてきたあの霧にも命がある。空の雲のたたずまい、風の吹き具合、枝の揺れ具合、なにを見ても命を感じるのである。
「生きとし生けるもの」というが、天台の思想では、命があるという意味だけででなく、石や土や山などにまで仏性があると考える。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、自然のすべてのもの、山も草も木も、けものも虫も仏性をもっているということだ。
 自然のすべては人間にとって友であり、そこには尊い命がある。
 回峰行者たちは、夜明けの山中が呼吸するなかを歩く。朝露を踏みながら疾走する。真言を称え、礼拝しながら、目に見えないものを見、聞こえない声を聞くのだろう。
p83〜
 日本の寺院はかつて神社と一緒に存在していた。人びとはそれを区別することなく拝んでいたのだ。とこrが、明治政府が神仏を分離するということをして、百年以上がすぎた。そのため、神仏を一緒にお参りする習慣が薄れてきた、と光永師は語る。
 つまり、神仏習合が後れたものとして批判されるようになったのは、ここ百年あまりの間にすぎない。それ以前は、神と仏を一緒にお参りするのがふつうだったのである。
 とはいえ、千日回峰で神社にお参りするのが重要な要素だ、というのは意外だった。
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生命といのち〈上〉 万物に「存在の価値」2011-07-10 | 読書
生命といのち〈上〉 万物に「存在の価値」
 奈良康明(なら・やすあき)
2011/07/09Sat.中日新聞 人生のページ
 東日本大震災はひどい出来事だった。天災に人災が加わり、人々の生活基盤が崩壊した。家族を失った人も多い。私たちの心が痛んでいる。亡くなった方の冥福を祈り、一日も早い復興を願っている。
 生命の尊いことは言うまでもない。モノや金は失われても回復できるが、生命は戻らない。人間の「生きる」ことの原点だし、それは他の動物たちも同様であろう。人間が生きものの生命をことさらに奪っていいものかどうか。これは文化の問題で世界各地域で事情は異なっている。
  *
 インドでは伝統的に不殺生の徳が強く説かれ、今日に至っている。生きものを殺したくないという理由から菜食主義の人も少なくない。仏教では肉食は認めているが、ことさらに生きものの生命を奪うことは誡められているし、放生会(ほうじょうえ)の伝承も古い。捕獲された生きものを殺すことなく自然界に戻す習慣は、功徳を積む行為であるとともに、生きものの生命尊重の象徴的姿勢でもある。日本では神道にも取り入れられている。
 人間中心主義の西欧では放生会などという習慣はないのではないだろうか。『創世記』には神は人間を創り、空行く鳥、地を行く獣、水ゆく魚を「治めよ」(新共同訳)と言っている。人間が恣意的に動物を殺していいということではなく、それなりの宗教的背景がある言葉のようだが、しかし近代至るまで、歴史的に、動植物そして自然を「征服」し、動物を人間利益のために殺すことを認める1つの根拠となっている。それだけに、動植物、自然を壊すことの弊害は早くから自覚されたし、環境問題への自覚が出てきたのも西欧が先である。
  *
 先日、アメリカ人の青年と話す機会があった。どんな動物にも「生きる権利」があるし、そのライフ(生命)を奪う権利は人間にはない、だから自分は肉食をやめて菜食に切り替えた、と言う。それでは米や麦、野菜などのライフ(いのち)は奪っていいのか、と私は訊いたら、植物にライフはないから殺してかまわない、という議論になった。
 はしなくもここに西欧と東洋、日本の生命に関する意味内容の違いが浮き上がってきた。比較文化の問題として面白いし、実践上の問題もある。
 日本の文化伝承には「生命」と「いのち」と仮名で書く2つの「ライフ」(life)がある。英語で話しているとライフしかないから話がややこしい。日本人にとっては、漠然としてはいても、どんなものにも「いのち」がある、ということは理解しやすい。「いのち」は生命ではない。「ビール瓶にもいのちがある。そのいのちを大切にしてリサイクル」という新聞への投書も読んだことがある。
  *
 かなり以前のことだが、感激したシーンに出合ったことがある。あるマンションの小さな花壇で幼児をあやしていたお母さんがいた。花壇に足を踏み込み、花に手をかけた坊やに、母親は言った。「お花を折ると、お花ちゃんが痛いって泣くわよ」。花に痛いと感じる神経があるかないかという話ではない。折り取られようとして「痛い」と感じるのは、花ではなく、母親の心である。植物にも人間的感情を及ぼす日本人的な情感といえよう。
 万物にいのちを認めるのは、おそらく、古代日本のアニミズムに根拠があるのかもしれない。しかし、それ以上に中国の「自然」観の影響が強いのである。「自然」とは、英語のnatureではない。元来は「自ずから然ある」という形容詞で、人為の加わらない万物の在りようを示すものだった。中国人はそこに美的・宗教的価値を認めていた。万物があるがままの「在り方」に、いわば、「存在の価値」を認めていたのである。
 日本語の「いのち」とは万物の「在る」ことそのものの価値をいうものと言っていい。「もったいない」という言葉は、物事の経済的・実利的価値が無駄に失われることだけをいうのではない。存在の価値、いのちが無駄に失われることをいうものである。
<筆者プロフィール>
なら・やすあき
 1929年、千葉県生まれ。東大文学部卒、同修士課程修了。カルカッタ大学博士課程留学。駒澤大学前学長。 ◆ペリカンの受難/口蹄疫/人間中心主義思想の根底に旧約聖書/ネット悪質書込みによる韓国女優の自殺2010-06-17 | 仏教/親鸞/五木寛之・・
余録:ペリカンの受難
 米ルイジアナ州の州旗にはペリカンの巣の中の親鳥と3羽のヒナが描かれている。よく見ると親鳥の胸の上には、三つの赤い点が見える。これは親鳥が自らのくちばしで胸を傷つけ、したたる血をヒナに与えている様を描いているのだという▲実はこの図柄、中世ヨーロッパから伝わる「敬虔(けいけん)なペリカン」という由緒ある紋章らしい。ペリカンは死んだヒナを自ら流す血で蘇生させるといわれ、「自己犠牲」を表すシンボルとなり、キリストの受難図にも描かれた▲ルイジアナが「ペリカンの州」と呼ばれるのは、初代州知事が沿岸に生息するペリカンを見て、この図像を州章に用いたからという。だが今その生息地からは「親鳥もヒナや卵も姿を消していく」との悲痛な声が聞こえる▲米南部沖のメキシコ湾で続く原油流出による生態系への影響が深刻化している。油はすでにルイジアナ州はじめ4州の沿岸に漂着、漁業や観光に大きな損害を与えているばかりでなく、ミシシッピ河口近くの海や湿地からは油まみれのペリカンの映像が伝わってくる▲ペリカンの保護と油の洗浄を行っている現地の保護施設では、運び込まれる鳥の3割はすでに死んでいたという。巣に残されたヒナや卵も全滅は免れそうにない。もちろんペリカンの悲劇はルイジアナの海と沿岸の全生態系を襲っている惨事のほんの一端にすぎない▲オバマ大統領が来週4回目の現地視察を行うのも、海鳥のショッキングな映像が被害の深刻さを全米に印象づけたことと無縁でなかろう。血を流す図そのままに、身をもって生命の海の危機を告げるペリカンの受難に人類はどう応えるのか。
毎日新聞 2010年6月10日 0時06分
............
中日春秋
2010年6月17日
 米国の作家、故マイケル・クライトン氏がつくり出した物語『ジュラシック・パーク』は映画にもなり世界中で大ヒットした▼約(つづ)めていえば、遺伝子操作で現代に蘇(よみがえ)らせた恐竜たちが人を襲う、といったお話。暴れ回るのは、どこかから突如、現れた怪獣ではない。人間が科学技術で誕生させながらコントロール不能になった存在。それは人類が抱える根本の恐怖のような気もする▼今、米国ルイジアナ州沖のメキシコ湾で暴れているのは、恐竜ならぬ原油だ。英石油大手BPの海底油井の流出事故は、発生から既に二カ月近くになるのに、まだ汚染が止まらない。様々(さまざま)な流出防止の策がとられたが、失敗続きだ▼深い海の底に、深い深い穴を掘り、何とか石油を吸い出せたのは科学技術のゆえ。だが、いざ、止めようと思った時、それを止められないのだ。この制御不能の油井を、BPの技術者が事故直前のメールで、「悪夢の油井」と呼んでいたなどと聞けば、一層、不気味さが増す▼かつて、インターネットを「ついに人類はスイッチを切れない“装置”をつくってしまった」と表現した人があったのを思い出す。確かに、あれも、もう、誰にも止められない▼科学技術がわれわれの暮らしに多大な恩恵をもたらすのは疑いない。だが、同時に、いくつもの潜在的な「制御不能の恐怖」も引き受けているのかもしれない。
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〈来栖の独白2010/06/17〉
 1991年の湾岸戦争。海岸に接していた大規模石油基地が爆破され、大量の重油が海に流れ出したことがあった。この際にも、多くの無辜の生物が油に翼を奪われ、いのちを落とした。
 地球は、宇宙は、ひとり人類だけのものではない。声なき声の多くの生物のものでもある。
 五木寛之氏は『天命』(幻冬舎文庫)のなかで次のように言う。
 “たとえば、環境問題は、これまでのヨーロッパ的な、キリスト教的文明観では解決できないのではないでしょうか。
 欧米の人たちの考えかたの伝統のなかには人間中心主義というものがあります。この宇宙のなかで、あるいは地球上で、人間が神に次ぐ第一の主人公であるという考えかたです。
 これはルネサンス以来の人間中心主義の思想の根底にあるものですが、主人公の人間の生活に奉仕するものとして他の動物があり、植物があり、鉱物があり、資源がある。水もあり、空気もあると、考えるわけです。
 そうした考えのなかから生まれる環境問題の発想というのは、やはり人間中心です。つまり、われわれはあまりにも大事な資源をむちゃくちゃに使いすぎてきた。これ以上、水や空気を汚し樹を伐り自然環境を破壊すると、最終的にいちばん大事な人間の生活まで脅かすことになってしまう。だからわれわれは、もっとそうしたものを大切にしなければいけない。----これがヨーロッパ流の環境主義の根源にあるものです。(略)
 これに対し、アジアの思想の基本には、すべてのもののなかに尊い生命があると考えます。
「山川草木悉有仏性」という仏教の言葉があります。山の川も草も木も、動物もけものも虫も、すべて仏性、つまり尊いものを持っている、生命を持っているんだ、という考えかたです。
 そうした考えかたから出ている環境意識とは、川にも命がある、海にも命がある、森にも命がある、人間にも命がある。だからともに命のあるもの同士として、片方が片方を搾取したり、片方が片方を酷使するというような関係は間違っているのではないか、もっと謙虚に向き合うべきではなかろうか、というものです。こういう考え方のほうが、新しい時代の環境問題には可能性があると私は思うのです。
 つまり「アニミズム」ということばで軽蔑されてきた、自然のなかに生命があるという考え方こそは、遅れた考え方どころか、むしろ21世紀の新しい可能性を示す考えかたなのではないでしょうか。
 狂牛病の問題で、あるフランスの哲学者が、人間のために家畜をありとあらゆる残酷なしかたで酷使してきたツケが回ってきたのだと言っていました。人間のために生産力を高めようとして肉骨粉を与え、共食いさせた。そうした人間の業というものがいま、報いを受けているのだ、と。狂牛病の問題だけではなく、すべてに関して人間中心主義というものがいま、根底から問われていると思います。” 

 僅かに、卑見に相違するところがある。
>これはルネサンス以来の人間中心主義の思想の根底にあるものです
 と、おっしゃるくだりである。人間中心主義思想の根底にあるものは旧約聖書ではないか、と私は観ている。創世記は次のように言う。
 “ 神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
 神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
 そのようになった。 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
 神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
 そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。”〔創世記1.20〜1.31〕

 日本では、口蹄疫が大きな問題となっている。牛や豚の映像に接するたび、生き物の命を奪わないでは自らの命を養えない人間、人類の宿業を思わないではいられない。
「うし/しんでくれた ぼくのために/そいではんばーぐになった/ありがとう うし…」
ワクチン接種牛9百頭、共同埋却「牛は処分を察してか悲しい顔をする。涙を流した牛もいた

 いま一つ、言及したい。中日春秋の以下の件である。
>かつて、インターネットを「ついに人類はスイッチを切れない“装置”をつくってしまった」と表現した人があったのを思い出す。確かに、あれも、もう、誰にも止められない。科学技術がわれわれの暮らしに多大な恩恵をもたらすのは疑いない。だが、同時に、いくつもの潜在的な「制御不能の恐怖」も引き受けているのかもしれない。 
 ネットは、現代に生きる人々に欠かせぬツールとなった。しかし、人間の精神はこの科学技術に並んでいるだろうか。
 秋葉原無差別殺傷事件は、ネットに、遠因の一つがあったのではないか。韓国では、ネット上での誹謗中傷により死を選んだ女優もいた。
 匿名の裏で、完膚なきまでの誹謗中傷、或は他人の個人情報は得たいと企む卑しい心根。人間の闇が、科学技術について行けていない。 ◆電気を流した。「豚は一瞬、金縛りのように硬直して、聞いたことのない悲鳴のような鳴き声を上げた」
五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)より
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。

五木寛之著『天命』幻冬舎文庫
p64〜
 ある東北の大きな農場でのことです。
 かつてある少女の父親から聞いた話です。そこに行くまで、その牧場については牧歌的でロマンティックなイメージを持っていました。
 ところが実際に見てみると、牛たちは電流の通った柵で囲まれ、排泄場所も狭い区域に限られていました。水を流すためにそうしているのでしょう。決まった時刻になると、牛たちは狭い中庭にある運動場へ連れて行かれ、遊動円木のような、唐傘の骨を巨大にしたような機械の下につながれる。機械から延びた枝のようなものの先に鉄の金輪があり、それを牛の鼻に結びつける。機械のスウィッチをいれると、その唐傘が回転を始めます。牛はそれに引っ張られてぐるぐると歩き回る。機械が動いている間じゅう歩くわけです。牛の運動のためでしょうね。周りには広大な草原があるのですから自由に歩かせればいいと思うのですが、おそらく経済効率のためにそうしているのでしょう。牛は死ぬまでそれをくり返させられます。
 その父親が言うには、それを見て以来、少女はいっさい牛肉を口にしなくなってしまったそうです。牛をそうして人間が無残に扱っているという罪悪感からでしょうか。少女は、人間が生きていくために、こんなふうに生き物を虐待し、その肉を食べておいしいなどと喜んでいる。自分の抱えている罪深さにおびえたのではないかと私は思います。
 そうしたことはどこにいても体験できることでしょう。養鶏にしても、工場のように無理やり飼料を食べさせ卵をとり、使い捨てのように扱っていることはよく知られたことです。牛に骨肉粉を食べさせるのは、共食いをさせているようなものです。大量生産、経済効率のためにそこまでやるということを知ったとき、人間の欲の深さを思わずにはいられません。
 これは動物を虐げた場合だけではありません。どんなに家畜を慈しんで育てたとしても、結局はそれを人間は食べてしまう。生産者の問題ではなく、人間は誰でも本来そうして他の生きものの生命を摂取することでしか生きられないという自明の理です。
 ただ自分の罪の深さを感じるのは個性のひとつであり、それをまったく感じない人ももちろん多いのです。(中略)
 生きるために、われわれは「悪人」であらざるをえない。しかし親鸞は、たとえそうであっても、救われ、浄土へ往けると言ったのです。
 親鸞のいう「悪人」とはなんでしょうか。悪人とは、誠実な人間を踏み台にして生きてきた人間そのもです。「悪」というより、その自分の姿を恥じ、内心で「悲しんでいる人」と私はとらえています。(中略)
 我々は、いずれにしろ、どんなかたちであれ、生き延びるということは、他人を犠牲にし、その上で生きていることに変わりはありません。先ほども書いたように、単純な話、他の生命を食べることでしか、生きられないのですから。考えてみれば恐ろしいことです。
 そうした悲しさという感情がない人にとっては意味はないかもしれません。「善人」というのは「悲しい」と思ってない人です。お布施をし、立派なおこないをしていると言って胸を張っている人たちです。自信に満ちた人。自分の生きている価値になんの疑いも持たない人。自分はこれだけいいことをしているのだから、死後はかならず浄土へ往けると確信し、安心している人。
 親鸞が言っている悪人というのは、悪人であることの悲しみをこころのなかにたたえた人のことなのです。悪人として威張っている人ではありません。
 私も弟と妹を抱えて生き残っていくためには、悪人にならざるをえなかった。その人間の抱えている悲しみをわかってくれるのは、この「悪人正機」の思想しかないんじゃないかという気がしました。(中略)
 攻撃するでもなく、怒るでもなく、歎くということ。現実に対しての、深いため息が、行間にはあります。『歎異抄』を読むということは、親鸞の大きな悲しみにふれることではないでしょうか。

五木寛之著『いまを生きるちから』(角川文庫〉より
 いま、牛や鳥や魚や、色んな形で食品に問題が起っています。それは私たち人間が、あまりにも他の生物に対して傲慢でありすぎたからだ、という意見もようやく出てきました。
 私たちは決して地球のただひとりの主人公ではない。他のすべての生物と共にこの地上に生きる存在である。その「共生」という感覚をこそ「アニミズム」という言葉で呼びなおしてみたらどうでしょうか。


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