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麻原が「子供を苛めるな。ここにいるI証人は類い稀な成就者です」オウム事件

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裁判記録を読んでわき上がってきた「オウム事件」 魚住 昭
 「ジャーナリストの目」週刊現代[2011年2月26日号]
 この10数年、書こうかどうか迷いつづけてきたテーマがある。オウム真理教が引き起こした地下鉄サリンなど一連の事件の深層である。教祖らの裁判は終わっても、オウム事件には訳の分からぬことが山ほど残っている。
 その一例を挙げよう。教団がサリンを生成しているのを警察がつかんだのは地下鉄サリン事件(1995年3月)が起きる約半年も前だった。山梨県上九一色村(当時)で異臭騒ぎが起きたため調べたところ、第7サティアンの側溝からサリン分解物質が見つかった。94年6月の松本サリン事件への教団の関与を示す決定的証拠である。
 にもかかわらず警察は強制捜査に踏み切らず、地下鉄サリン事件を招いてしまった。なぜ警察はこんな奇妙な行動をとったのか。私の知る限り、まだ誰もその謎を解明していない。
 89年11月の坂本弁護士一家殺害事件も教団の犯行を疑わせるデータが多数あった。翌年2月ごろには実行犯の1人が坂本弁護士の長男の遺体を埋めた場所の地図を神奈川県警などに匿名で送った。同県警はいちおうその場所を捜索したが、なぜか遺体は見つからなかった。
 それから5年後の95年9月に遺体が発見された時、遺体があった場所の地下約70センチから、錆びたスプレー缶が出てきた。5年前に神奈川県警が捜索した際、地表面に碁盤の目のように線を引いて区分けするために使ったラッカーだった。
 神奈川県警は「たまたま遺体近くまでしか掘り起こさなかったため発見できなかった」と釈明したが、約40平方?の狭いエリアなのに、その一部しか掘らないのはあまりに不自然だ。もしかしたら警察は事件を握りつぶしていたのではないか。
 オウム事件の裁判記録を読むと、そんな疑問が次々と湧いてくる。事件の首謀者とされた麻原彰晃の人物像もそうだ。報道では麻原は自らの罪を免れるため、元弟子たちに責任をなすりつけようとした男である。
 だが、実際に責任逃れをしようとしたのは元弟子たちのほうだろう。麻原は彼らの悪口を一度も言っていない。彼らから糾弾されても気にせず、彼らをかばう姿勢を崩さなかった。
 麻原弁護団は元弟子たちの暴走で事件が起きたことを立証しようとした。そのため元弟子たちの証言の矛盾を追及した。すると彼らは言い逃れができなくなって窮地に陥る。そんな場面になると、たいてい麻原が「子供をいじめるな」と言いだし弁護側の反対尋問を妨害した。
「ここにいるI証人(地下鉄サリンの実行犯)はたぐいまれな成就者です。この成就者に非礼な態度だけではなく、本質的に彼の精神に悪い影響をいっさい控えていただきたい」
 読者には信じがたい話だろうが、それが麻原の一貫した主張だった。彼は自分の生死には無頓着で、元弟子たちの魂が汚されることをひたすら恐れていた。裁判記録には、そうした麻原の宗教家としての姿勢がはっきりと描かれている。
 としたら、なぜ麻原の教団は凄惨極まりない事件を次々と引き起こしたのか。先ほど触れた警察の不可解な動きや、元弟子たちの教団内での確執、それにオウムの教義の変遷の歴史を丹念に調べていけば、謎は自ずから解けていく。私は最近そう思うようになった。
 折から麻原の親族が2度目の再審請求をした。松本サリンや地下鉄サリンの実行犯・遠藤誠一の控訴審での新証言をもとにしたものだ。遠藤は両事件とも「(刺殺された教団ナンバー2の)村井秀夫が独断でやったと思う」と述べている。別の死刑が確定した元弟子は、麻原から指示されたという自らの法廷証言を一部否定する手紙を書いた。
 事件の真相が関係者の口からじわじわと漏れ、検察が作った壮大な虚構が崩れる兆しが見えだした。遅ればせながら、私も本格的な取材に踏み切ることにした。近いうちに本誌でその結果をお伝えできると思う。
 (了)
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〈来栖の独白〉
 魚住昭氏の本格的な取材を心から期待して待つ。苦難を強いる取材になるだろう・・・。
>麻原が「子供をいじめるな」と言いだし弁護側の反対尋問を妨害した。
「ここにいるI証人(地下鉄サリンの実行犯)はたぐいまれな成就者です。この成就者に非礼な態度だけではなく、本質的に彼の精神に悪い影響をいっさい控えていただきたい」
---胸を衝かれ、私は動揺する。この文脈が、何故とも知れず信じられるからだ。麻原氏の深奥からの叫びだ、と私の裡の何かが云う。 ◆オウム事件松本死刑囚の次女、2回目の再審請求を申し立て2010-12-28 
 松本死刑囚、棄却4日後再審請求…次女申し立て
 地下鉄・松本両サリン事件などで殺人罪などに問われ、死刑が確定したオウム真理教の松本智津夫死刑囚(55)の次女(29)が松本死刑囚の裁判のやり直しを求めて、東京地裁に2回目の再審請求を申し立てていたことが分かった。
 申し立ては9月17日付。4日前の同月13日には、次女が2008年11月に申し立てた1回目の再審請求を最高裁が棄却したばかり。間髪をいれない再審請求に対し、検察側などからは「執行の引き延ばし策では」との声も上がっている。
 関係者によると、次女は今回の再審請求で、両サリン事件などで殺人罪などに問われ、1、2審で死刑判決を受けた元幹部・遠藤誠一被告(50)(上告中)が自身の法廷で、松本サリン事件について「松本死刑囚に殺意はなかった」とする趣旨の供述をしたことなどが、再審開始に必要な「無罪を言い渡すべき新証拠」に当たると主張しているという。1回目の請求では、やはり遠藤被告が、地下鉄サリン事件について、「松本死刑囚の意思に反して行われた」などと供述したことを請求の理由にしていた。(2010年12月28日15時05分 読売新聞)
〈来栖の独白 2010/12/28〉
 遠藤誠一被告の「松本死刑囚に殺意はなかった」との供述を重く受け止めたい。
 オウム事件については、国民の大多数そしてメディアが、オウムの死刑囚・被告人を否定する様相だ。それが、裁判所の審理の杜撰を許している。 ◆地下鉄サリン事件から16年/「麻原は詐病やめよ」土谷正実被告死刑確定2011-02-17 
  中日春秋2011年2月17日
 とても印象深い裁判がある。地下鉄サリン事件で殺された女性の母親が訴えた。「目を開けてください。娘を殺された母はこんな顔をしています」▼ふてくされたように座っていた青年の目が初めて開いた。涙で顔をぐしゃぐしゃにした母親と目が合ったが、動揺が見えたのは一瞬だけだった。「サリンを造ったその両手を切り落としてください」。父親を殺された娘が叫んでも、表情は変わらなかった▼猛毒のサリンやVXガスを製造した土谷正実被告は、当時三十二歳。最高裁第三小法廷で一昨日、上告が棄却され、死刑判決が確定する。「被告の豊富な化学知識や経験なくしては各犯行はなしえない」。判決がそう指摘した通り、教団の武装化を支えた幹部の一人だ▼麻原彰晃死刑囚の「直弟子」を名乗り、反省のかけらもなかったその態度が、最近になって変わったと知って驚いた。極刑を恐れた教祖が、詐病に逃げ込んだと考えるようになったという▼地下鉄サリン事件から十六年。十人の幹部の死刑が確定、上告中の被告は二人だけになったが、生真面目な青年たちがなぜ、無差別殺人を犯したのかという素朴な問い掛けに十分答えるだけの検証がなされたのか心もとない▼サリン事件以降、「罪と罰の座標軸が変わった」 (森達也著『A3』)。日本社会を根底から変えた事件が急速に風化してゆくことを憂う。
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「麻原は詐病やめよ」=死刑覚悟、婚約者に思いも ―取材に土谷被告
とれまがニュース2011年02月15日
 土谷正実被告(46)は15日の上告審判決を前に、東京拘置所で複数回、時事通信の取材に応じた。オウム真理教(現アレフ)と絶縁したことを明らかにした上で、元代表松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(55)に対し、「詐病をやめ、事件について話してほしい」と訴えた。
 元幹部の多くが事件後、松本死刑囚への信仰を捨てる中、土谷被告は一審で自らを「尊師の直弟子」と呼ぶなど、最近まで、帰依を続ける数少ない一人とみられていた。
 土谷被告は取材に対し、松本死刑囚が公判で事件についてほとんど語らなかったことなどから、「帰依に迷いが生じ、日を追うごとに疑いが強まっていった」と告白した。
 不信感が決定的になったのは2006年末、松本死刑囚が公判で精神疾患の兆しを見せたという雑誌記事のコピーを読んでからという。同死刑囚を「麻原」と呼び捨てにし、「過去の公判から見て精神病のはずがない。弟子に責任を押し付けて詐病に逃げた」と非難。「宗教をかたり、個人的な思いから弟子に武器を作らせた。憤りを感じる」と話した。
 事件の犠牲者や遺族には、「『すみませんでした』としか言えないが、それでは軽過ぎる」と謝罪した。「死刑は覚悟している。最高裁判決に期待するものはない」と淡々と語る一方で、勾留中に知り合った婚約者の女性(36)のことを、「今の生きがい。彼女が生きる限り生き続けたい」と話すなど、複雑な心境ものぞかせた。(了)[時事通信社]
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オウム真理教:死刑確定へ 土谷被告の手記の要旨
◇土谷被告の手記の要旨◇
 一連のオウム事件の犠牲になられてしまったご遺族、被害者の方々へ心の底からおわび申し上げますと同時に、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
 95年に私は逮捕されました。その時点での私は、捜査が進むにつれ、もろもろの出来事が麻原死刑囚(以下、Aと表記)の説法通り「国家権力による陰謀」であることが判明していくことを期待していました。ところが逆に、捜査が進むにつれてAの言葉がうそであることが次々と暴露されていきました。
 私もとうとうAから気持ちが離れそうになったのでした。ところが、私がある宗教体験をし、それまで以上のはるかに強いAへの帰依心が芽生えてしまったのでした。そのため、私は初公判で職業を「麻原尊師の直弟子」と述べ、一貫して帰依を表明し続けていました。
 私に転機が訪れたのが、A法廷への弁護側証人としての出廷経験でした。私の期待に反してAは一言も証言しないまま、1審を終えてしまいました。このことで私に迷いが生じました。教団とのあつれきが生じ始めたのも、04年春ごろからでした。私はAには堂々と証言してほしかった。「Aは弟子をほっぽらかしにして逃げたのではないか」という思いが日を追うごとに強まっていき、Aへの帰依心は弱まり始め、埋めがたい溝がひろがり始めていました。
 Aへの帰依心がはっきりと崩れ始めたのは、06年暮れ、A裁判の1審判決日におけるAの挙動について記されている雑誌記事を読んだ時でした。「Aは詐病に逃げた」と思うしかなくなりました。
 97年に地下鉄サリン事件のご遺族の証言を聞き、非常にこたえました。帰依心が揺らがないよう懸命だった私ですが、やはりご遺族の証言には耐えられませんでした。ご遺族の証言に対して何と言えばよいのか、言葉が見つかりませんでした。「すいませんでした」では、あまりに軽すぎる。
 「自分自身の気持ちに素直でいれば良かったんだな」と私は悔悟の念にとらわれるのです。自分自身の考えでは上層部の指示や決定を「嫌だ」と思ったけども、「無心の帰依」「無智の修行」だと盲従し、一連の凶悪犯罪に加担してしまったのでした。
 私がAに望むことがあるとするならば、「詐病をやめて、一連のオウム事件に関連する事柄について述べてほしい」という一点に集約されます。
毎日新聞 2011年2月15日 20時55分

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