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五木寛之・[私訳]歎異抄 〜私はこう感じ、このように理解した

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五木寛之・[私訳]歎異抄 〜私はこう感じ、このように理解した
  PHP Biz Online 2014年04月16日 五木寛之(作家)《PHP文庫『私訳 歎異抄』より》
 歎異抄はふしぎな書物である。
 これまでにどれほど多くの評論、解説、訳がなされたことだろう。
 親鸞という人の思想と信仰は、一般にはこの一冊によって伝えられ、理解されたと言ってよい。人びとは、親鸞自身の手になる著書よりも、この歎異抄に触れることで親鸞思想に出会ったと感じたのではあるまいか。
 私もまたその一人だった。
 他人を蹴落とし、弱者を押しのけて生きのびてきた自分。敗戦から引き揚げまでの数年間を、私は人間としてではなく生きていた。その黒い記憶の闇を照らす光として、私は歎異抄と出会ったのだ。
 この書には、いまだに理解できないところも多い。それは当然だろう。親鸞その人の筆になるものではなく、第三者をとおして描かれた回想録であり、その著者の悲痛な歎きの書であるからである。
 『私訳 歎異抄』とは、私はこう感じ、このように理解し、こう考えた、という主観的な現代語訳である。そんな読み方自体が、この本の著者、唯円が歎く親鸞思想からの逸脱かもしれない。そのことを十分、承知の上で、あえて「私」にこだわったのだ。
 歎異抄は、私にとってはいまだに謎にみちた存在である。古めかしい聖典ではなく、いきいきした迫真のドキュメントである。この小冊子をつうじて、著者の熱い思いの一端でも再現できれば、というのが私のひそかな願いだった。

私訳 歎異抄

 阿弥陀仏とは、数ある仏のなかでも、わが名を呼ぶすべての人びとをもれなく救おうという誓いをたて、厳しい修行のもとに悟りをひらいた特別の仏であるとされる。 阿弥陀とは、Amitayus(アミターユス:永遠の時間)、Amitabha(アミターバ:限りなき光明)を意味し、その誓いを本願、その名を呼ぶことを念仏という。

<歎異抄 序>
 ああ、なんということだろう。つくづく情けないきわみである。胸がはりさけそうだ。
 それというのも、わが師、親鸞さまの説かれた教えが、最近ではすっかりまちがったかたちで世間にひろまっているからである。
 親鸞さまは、そんなことはおっしゃらなかった。このわたしが、この耳できき、直接に教えていただいたのだから、まちがいない。
 ほんとうの信心とは、どういうものか。正しい信心とはどのようなものか。
 わが師は、それをはっきりと教えてくださったのだ。そのお声、そのお顔は、いまもまざまざとわたしの心にきざまれている。
 いま世間で説かれている念仏の教えは、親鸞さまのお考えとはちがう。それでいいのか。いや、このままでは、この先、親鸞さまの信心が、まちがったまま世の中にひろまり、人びとを迷わすことになりかねない。やがては念仏の教えそのものに疑いをもつ人すらでてくるだろう。
 親鸞さまの師、法然上人のお説きになったのは、易行の念仏、ということだった。貧しい者も、字の読めない者も、誰でもがやさしく行うことのできる教えである。これを易行という。
 しかし、どんなに入りやすく広い門でも、そこへ行くための正しい道筋を教えてくださる善き案内者の声に耳をかたむけることが必要だ。くれぐれも自分勝手に親鸞さまの教えをねじまげたり、見当ちがいの解釈でおしとおしたりしてはいけない。なによりも大事なことは、親鸞さまのおことばをそのまま正しく受けとることである。
 そういうわけで、お亡くなりになった親鸞さまがわたしに直接お話しくださったさまざまなことのなかで、いまもはっきりと耳の底にのこっている大切なことばのいくつかを、ここに書きのこすことにしようと思う。
 これは念仏という一つの道を、ともに歩まれるみなさんがたの迷いや疑いを、なんとかとりはらいたいという切なる気持ちからである。

<一>
 あるとき、親鸞さまは、こう言われた。
 すべての人びとをひとりのこらずその苦しみから救おうというのが、阿弥陀仏という仏の特別の願いであり、誓いである。
 その大きな願いに身をゆだねるとき、人はおのずと明日のいのちを信じ、念仏せずにはいられない心持ちになってくる。そして「ナムアミダブツ」と口にするその瞬間、わたしたちはすでにまちがいなく救われている自分に気づくのだ。
 この阿弥陀仏のたてられた誓いに、差別はない。その約束は、老人にも若者にも幼子にもなんの区別なく、また世間でいう善人、悪人にも関係がない。ただ一つ、ひたすら信じる心こそ大事なのだとしっかり心得なさい。
 阿弥陀仏の本願というのは、この世で悩み苦しみ、そして生きるために数々の罪を犯しているわたしたちをたすけようという、真実の願いからたてられた約束である。
 その約束を信じるならば、ほかのどんな善行とよばれるものも必要ではない。念仏、すなわち仏の誓いを信じその願いに身をまかせてナムアミダブツととなえることこそ、究極の救いの道だからである。
 自分の愚かな心や、邪悪な欲望や、犯した罪の深さに怖れおののくことなどないのだ。阿弥陀仏のちからづよい願いと誓いのまえには、その光をさえぎる悪などありはしないのだから。
<二>
 あるとき、親鸞さまは、はるばる関東から訪ねてこられた念仏者たちをまえに、こう言われた。
 みなさんがたは、十数力国の国境をこえて、いのちがけでこの親鸞のところへやってこられた。そのひたむきなお気持ちには、わたしも感動せずにはいられません。
 しかし、さきほどからうかがっておりますと、あなたがたは、なにか念仏以外にも極楽往生の道があるのではと考え、それをわたしにおたずねになりたい一心から、ここへおいでになったように見うけられます。
 率直に申しあげるが、それは大きなまちがいです。わたしたちが救われて極楽浄土へ導かれる道は、ただ念仏する以外にはありえない。そのことのほかに、もっと大事な極意があるかもしれないとか、特別な秘法についての知識をわたしがもっているのではないか、などと勘ぐっておられるとしたら、それはまことに情けないことです。
 そういうお気持ちなら、奈良や比叡山などに、有名なすぐれた学僧たちがたくさんいらっしゃいます。そのかたがたにお会いになって、極楽往生のさまざまな奥義をおたずねになってはいかがですか。
 わたし親鸞は、ただ、念仏をして、阿弥陀仏におまかせせよという、法然上人のおことばをそのまま愚直に信じているだけのこと。
 念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。たとえ法然上人にだまされて、念仏をとなえつつ地獄におちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。
 そう思うのは、このわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であることを、つね日ごろ身にしみて感じているからです。
 ほかに浄土に救われる手段があり、それにはげめば往生できる可能性がもしあるというのなら、念仏にだまされて地獄におちたという後悔もあるでしょう。愚かにも念仏にたよったという口惜しさものこるでしよう。
 しかし、煩悩にみちたこのわたしにとって、念仏以外のほかの行は、とてもおよばぬ道です。ですから地獄は、わたしのさだめと覚悟してきました。
 阿弥陀仏の約束を真実と信じるならば、釈尊の教えを信じ、また善導の説を信じ、そして法然上人のおことばを信じるのは自然のことではありませんか。その法然上人の教えをひとすじに守って生きているこの親鸞なのですから、わたしの申すこともその通り信じていただけるのではないか、と思うのです。
 要するに、わたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。ただ念仏して浄土に行く。それだけのことです。
 ここまで正直にお話ししたうえで、みなさんがたが念仏の道を信じて生きようとなさるか、またはそれをお捨てになるか。その決断はどうぞ、あなたがたそれぞれのお心のままになさってください。
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<九>
 あるとき、わたしはこんなふうに親鸞さまにおたずねしたことがあった。
 「お恥ずかしいことですが、じつは念仏しておりましても、心が躍りあがるような嬉しさをおぼえないときがございます。また一日でもはやく浄土へ行きたいという切なる気持ちになれなかったりいたします。これはいったいどういうわけでございましょう」
 すると親鸞さまは、こう言われた。
 「そうか。唯円、そなたもそうであったか。この親鸞もおなじことを感じて、ふしぎに思うことがあったのだよ。
 しかし、こうは考えられないだろうか。それをとなえると、天にものぼるような喜びをおぼえ、躍りあがって感激する念仏であるはずなのに、それほど嬉しくも歓びでもないということは、それこそ浄土への往生まちがいなしという証拠ではあるまいか。
 よいか。喜ぶべきところを喜べないのは、この身の煩悩のなせるわざである。わたしたちは常に現世への欲望や執着にとりつかれた哀れな存在であり、それを煩悩具足の凡夫という。
 阿弥陀仏は、そのことをよく知っておられて、そのような凡夫こそまず救おうと願をたてられたのだ。そう思えば、いま煩悩のとりこになっているわたしたちこそ大きな慈悲の光につつまれているのだと感じられて、ますますたのもしい気持ちになってくるではないか。
 また、一日もはやく浄土へ往生したいと願うどころか、すこし体の具合が悪かったりすると、もしかして自分は死ぬのではないかとくよくよ心配したりする。これも煩悩のせいだろう。
 はるかな遠いむかしから現在まで、流転しつづけてきたこの苦悩の現世ではあるが、なぜか無性に捨てがたく感じられるというのも、そして、まだ見ぬ安らかな浄上を慕う心がおきないというのも、これもまた煩悩の焔のせいである。
 しかし、どれほど名ごりおしかったとしても、人はこの世の縁がつきはて、やがてどうしようもなく死んでいくときがくる。そのときわたしたちはかならず浄土に迎えられるだろう。
 はやく浄土へ往生したいと切に願わず、この世に執着する情けないわれらだからこそ、阿弥陀仏はことに熱い思いをかけてくださるのだ。
 そう考えてみると、ますます仏の慈悲の心がたのもしく感じられ、わたしたち凡夫の往生はまちがいないと、つよく信じられてくるのだ。
 そなたが念仏をするたびに躍りあがるような喜びをおぼえ、はやく浄土へ行きたいと常に願っているようなら、むしろそちらのほうが問題である。自分には凡夫としての煩悩が欠けているのか、浄土へ救われるのが後まわしになるのでは、と、心配になってくるではないか」
 そうおっしゃったのである。

<書籍紹介>
PHP文庫「私訳歎異抄」五木寛之私訳 歎異抄 五木寛之著
  親鸞を長編小説に描き、深くその教えに触れた著者が、『歎異抄』を平易かつ滋味深い言葉で訳す。構想25年の珠玉の書、ついに文庫化。
<著者紹介>
五木寛之(いつき・ひろゆき) 作家
  1932年(昭和7年)、福岡県生まれ。朝鮮半島で終戦を迎え、1947年に引揚げる。早稲田大学露文科中退後、1966年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、1967年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、1976年『青春の門筑豊編』他で吉川英治文学賞を受賞。
  主な著書に『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『蓮如』『大河の一滴』『他力』『林住期』『遊行の門』『人間の覚悟』『親鸞』、近著に『無力』『新老人の思想』などがある。
 ◎上記事の著作権は[PHP Biz Online]に帰属します
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「こころのよくてころさぬにはあらず」(歎異抄)と『イエスの涙』 2009-10-31 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之 
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