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西村同門会研究能 重習曲「羅生門」  稀曲能「春栄」 2014/5/6 Tue. 13時〜 名古屋能楽堂

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西村同門会研究能
・2014/5/6 Tue. 13時〜
・名古屋能楽堂
 ワキ方高安流の若手が重習曲「羅生門」を素謡。シテ長田驍、ワキ飯冨雅介で稀曲能「春栄」。
・無料
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宝生流謡曲 「羅生門」
●あらすじ
丹後の国大江山で鬼神を退治して都へ帰った源頼光は、その時の面々を館に集めて、酒宴を催しいろいろ話し合っていた。この時頼光は一同に向って、近頃都で面白い話はないかと所望すると、先ず保昌の語るところは、近頃羅生門によなよな鬼が出て人を取るという噂があると。側にいた綱がこれを聞いて王城に近い所にさようなことはある筈がないと言い、口論の末、綱は頼光から印をいただいて、その夜ただちに馬にまたがってただ一人、二条の大宮から南に雨の仲を九条表に駒を走らせた。雨はますます烈しく、風も強く吹いて物凄く、駒もおののいて立ちすくみ進まない。綱は馬をおりて羅生門の石段に上がって印を立ておいて帰ろうとすると、俄に化生の者が現れ、後ろから綱の甲をつかんで引き戻すのであった。綱はたちまち太刀を振るって斬ってかかれば、鬼神はますます怒り狂うを、綱は少しも騒がず、遂に鬼神の腕を斬り落とし、恐れをなした鬼神は黒雲に隠れ去り、綱はめでたく武名をあげたのである。 (宝生流謡本より高橋春雄)

●謡蹟めぐり
羅生門 、東寺・西寺ほか  (平12・5記 高橋春雄)
 平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通りにあたる)と九条通との交差点にあたり、平安京の正面として羅城門が建てられていた。門は二層からなり、瓦ぶき屋上の棟には鴟尾(しび)が金色に輝いていた。この門は平安京の正面玄関であるとともに凱旋門でもあった。しかし平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し盗賊のすみかとなり数々の奇談を生んだ。その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅城門」は、この門の名を世界的に有名にしたが、今は礎石もなく、わずかに明治28年建立の「羅城門遺址」の碑が残るのみである。京都文化博物館には、羅生門の模型が陳列されており、往時の羅城門の有様を偲ばせてくれる。
   羅城門址碑 京都市南区 唐橋羅城門町  (平8.10)
   羅城門模型 京都文化博物館 京都市中京区菱屋町 (平6.11)
 平安遷都の後、羅城門の東には東寺、西には西寺が建立された。東寺は現在もその威容を誇り平安の景観を偲ばせているが、当時同じ規模といわれる西寺は現在「史跡西寺跡」のの石標を残すのみである。 曲中の二条大宮通りは徳川家康が二条城を築いたため消滅してしまった。
また渡辺 綱は、東京の三田綱町が生誕地で、三井クラブ庭内に渡辺 綱産湯の井戸がある。

●羅生門(らしょうもん)解説
能の曲目。五番目物。五流現行曲。観世信光(かんぜのぶみつ)作。春雨の夜、源頼光(よりみつ)(ワキツレ)の館(やかた)では酒宴が開かれている。羅生門に鬼が出るという噂(うわさ)の実否について、平井保昌(やすまさ)(ワキツレ)と渡辺綱(わたなべのつな)(ワキ)は激しく論争する。豪雨の中に実地検証に向かった渡辺綱(後ワキ)の兜(かぶと)を鬼神(シテ)がつかむが、渡辺綱は鬼神の腕を斬(き)り、鬼神は空に逃れ去る。シテが後半だけに登場し、しかも謡(うたい)がまったくないという異色の能であるが、前後の緊迫した対話、後段の闘争の対比が優れている。ワキ方で重く扱われ、上演はまれである。 [執筆者:増田正造]

●羅生門(らしょうもん)参考
 平安京の大門羅城門の後世の当て字。「らせいもん」とも読む。 羅城門は近代まで羅生門と表記されることが多かった。 (能) 羅生門は、 観世信光作の謡曲。 羅生門に巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝を謡曲化したもの。五番目物の鬼退治物。
 小説では、芥川龍之介の短編小説羅生門 がある。 『今昔物語集』の羅城門の老婆の話に基づくと言われている。 映画では、羅生門 (1911年の映画) - 1911年の日本映画。尾上松之助主演や、羅生門 (1941年の映画) - 吉田信三監督による1941年の日本映画と 黒澤明監督による1950年の日本映画等がある。これらは芥川龍之介の短編小説『藪の中』に基づくと言う。
 鍾乳洞では、羅生門岡山県新見市草間にある国指定天然記念物で貴重な古い鍾乳洞の痕跡。

●渡辺 綱 
 平安時代中期の武将。天暦7年〜万寿2年(953〜1025)嵯峨源氏の源融の子孫で、通称は渡辺源次、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。頼光四天王の筆頭と言われ、武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子。 摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺 綱(わたなべ の つな)、あるいは渡辺 源次綱(わたなべ の げんじ つな)、源次 綱(げんじ つな)と称し、渡辺氏の祖となる。
 大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。 その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。
 九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。先祖の源 融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名。その直系長男が勤務医として京都府に在住している。 兵庫県川西市西畦野の小童寺の境内に綱の霊廟がある。

●源 頼光(948〜1021)の四天王
 源頼光と共に活躍した以下の4人の家臣のこと。渡辺綱(わたなべのつな)・坂田金時(さかたのきんとき)・卜部季武(うらべのすえたけ)・碓井貞光(うすいのさだみつ)。大江山の酒呑童子を退治したことなどで知られている。

 ◎上記事の著作権は[宝生流謡曲名寄せのページ]に帰属します 
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春  栄 (しゅんえい)
●あらすじ
増尾の春栄は宇治の合戦の際に囚の身となって伊豆三島の囚人奉行高橋権頭家次の陣屋につながれています。家次は春栄が自分の死んだ息子に似ているので養子にしたいと考えますが既に斬罪の判決が下っていて今は刑の執行を待つばかりです。 そうしたある日、春栄の兄増尾太郎種直が家次の館を訪ね、春栄に面会を申し入れます。春栄は兄の来訪を喜びますが、肉親と知れては同罪になると恐れて、家来の者だと言い張ります。兄は弟と一緒に殺される覚悟で来たので、それでは情けないと言って腹を切ろうとします。ここに至って春栄も翻心し互いに名乗りあいます。委細を見ていた権頭は兄弟愛に涙を催します。そして種直に自分が春栄を貰いうけたい由を話していると、鎌倉から囚人の断罪を命じられ、すわや最期と覚悟していると、再び鎌倉より赦免が伝えられ、一同は喜び種直は舞を舞い、春栄は家次の養子となって共に鎌倉に立ち出でます。 (「宝生の能」平成 10年12月号より)

 春栄、これは観世流では滅多に出ない曲の一つなのですが、宝生では割と上演されているようです。上掛ということで共通点も多い両流ですが、観世流で滅多に演じられない曲が、宝生流では普通に演じられるというのも不思議な感じがします。
 この曲の他にも、呉服、志賀、禅師曽我などもそうですね。さてこの春栄、子方がシテの弟という珍しい設定のためか、子方の技量が求められるところです。
 まず囃子無しで子方を先頭にワキ、アイの一行が登場し、子方がワキ座へと進む一方で、ワキとアイは一度鏡板を向いてクツロギます。その後あらためてワキが常座に進み、アイが後ろに控える形で、ワキは「高橋権の頭」と名乗ります。本来であれば名乗り笛で登場するところでしょうけれども、子方が先頭に立つため名乗り笛が吹けず、囃子無しの出となるわけです。
 聞いたところでは、昔は、鏡板にクツロイだ後に常座へ出るときに、名宣笛の一部を吹いたとかいう話もあるそうです。
 ワキの言葉で、宇治橋の合戦に勝利した際に多数の捕虜を捕らえたが、自分も春栄という幼い人を生け捕りにした。その旨を報告したところ処刑せよと命ぜられたことが示されます。 宇治橋の合戦というと、源三位頼政が平家に敗れて近くの平等院で自害した戦いを思い浮かべますが、このあとで登場するシテが春栄を探して伊豆の国府へ向かうという設定ですので、頼政の話では辻褄が合いません。
 ここは、木曾義仲と、鎌倉の頼朝に遣わされた範頼・義経とが戦った宇治川の戦いを想定しているようで、春栄は義仲方、高橋権の頭は鎌倉方の奉行ということでしょうね。

●謡蹟めぐり  三島大社 静岡県三島市 (元宝生流教授嘱託会本部理事長 高橋春雄氏 平8.8記)
 本曲の舞台は伊豆国三島となっている。「謡曲大観」によれば、本曲に登場する「春栄丸」「高橋権頭家次」「増尾太郎種直」などの人物は実在の人ではなく、本曲も架空の物語のようである。しかし、この曲は鎌倉時代を背景としており、鎌倉時代には三島大社に接する一帯に国府があったようである。本曲にも「名にのみ聞きし伊豆の国府、三嶋の里に着きにけり・・」とあり、また高橋権頭家次は三島で囚人の奉行をしていたとあるから、国府の役人であったと思われる。従って本曲の舞台は国府あたりと思われるが、現在国府址を示す遺物は何も残っていないようである。
また、三島大社については、本曲にも「古郷を去って伊豆の国府、南無や三嶋の明神・・」「伊豆の三嶋の神風も吹き治むべき代の始め・・」「三嶋の宮の御利生とふし拝み・・」等と何回も引用されており、本曲の舞台と考えることもできるので掲げてみた。 春栄は宇治橋の合戦で生け捕られたとあるが、曲中に「鎌倉よりの早打なり」などの言葉があるのをみると、この合戦は義仲と範頼・義経の合戦を想定したものと思われる。
  宇治橋に立って川下を見ると、流れも早く水量も豊かな宇治川の中央には橘島を配した素晴らしい景観が拡がり、この川を挟んで昔から何回となく戦いが繰り広げられたなどとても想像できない。しかし、この川の右手にある平等院には頼政が平家に討たれて自刃した跡という「扇の芝」があり、橘島には「宇治川先陣の碑」が建てられていて往時を偲ばせてくれる。この先陣争いでは名馬「するすみ」に乗った梶原景季と、名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱が争い、先陣は高綱がとり、義経軍が一斉に渡河して義仲軍を打ち破ったのであるが、本曲の春栄は義仲軍としてこの合戦に参加し、生け捕りになったものであろう。 宇治橋には中央に2メートルほど張り出した所があり、三の間と呼ばれている。古い時代、始めて宇治橋をかけるにあたって、宇治川上流に鎮座していた瀬織津比めの尊を橋上に奉祀したが、それ以来世に橋姫の神と唱えられるに至った。三の間と称するのはその鎮座の跡であるという。後に宇治橋の西詰の地に移し、住吉神社とともに祀られ、橋姫神社として現在に至っている。
 今から約400年前、豊臣秀吉が伏見桃山城にいた時、しばしば宇治へ視察に訪れ、橋のたもとにある通円茶屋という所で休息したが、その時差し上げたお茶がことのほか御意にかなった。主人より宇治川の水を使用した由を聞き、早速に千利休に命じ「三の間」より汲み上げるための特別の釣瓶を造らせた。橋守十一代通円をして宇治橋三の間より汲み上げる役を仰せつけられ、秀吉はその水を茶の湯に使われたという。春栄は宇治橋の合戦で生け捕られた。 宇治はまた源氏物語の舞台ともなっている。ことに「宇治十帖」と称される最後の十巻は、随一の主人公光源氏亡きあと、その子薫と孫匂宮という二人の男性に、落魄した八宮の姫君三人がめぐる恋がたり。主なる背景を宇治にすえ、艶やかさにもまして、いっそう哀しい恋のさやあてがしっとりと繰り広げられる。

●解 説  第15回久習會「春栄」
  能「春栄」. 宇治橋での合戦直後、伊豆の三島に捕虜となっている春栄という名の少年 をめぐる物語です。宇治橋ではしばしば合戦が行われ、ここに言うのは、おそらく承久の 合戦(一二二一年)を念頭において作劇されたのだろうかと考えられています。 宇治橋での合戦直後、伊豆の三島に捕虜となっている春栄という名の少年をめぐる物語です。宇治橋ではしばしば合戦が行われ、ここに言うのは、おそらく承久の合戦(一二二一年)を念頭において作劇されたのだろうかと考えられています。 少年、増尾の春栄丸(子方)は捕虜となって、伊豆の三島にて、高橋権頭(ごんのかみ)家次という奉行(ワキ)が預かっており、処刑の時が近づいています。そこに春栄の兄、増尾の太郎種直(シテ)が尋ねて来るのです。夢の中に幽霊が現れるといった夢幻能とは趣の違う作品で、いわゆる時代劇スタイルの能です。こうした能では、シテも能面を用いませんが、これを直面(ひためん)と言って、自身の顔を一種、能面に見立てて演技するのです。謡や囃子による音楽的な要素が重要である点は、他の能と変わりません。 (平成21年1月23日 謡曲研究会)

 ◎上記事の著作権は[宝生流謡曲名寄せのページ]に帰属します 

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