〈来栖の独白〉
昨日、名古屋能楽堂からの帰路、三省堂へ寄り、弘中惇一郎著『無罪請負人』刑事弁護とは何か? (角川oneテーマ21) [新書] を買った。なぜともなく三浦和義さんのことなど思いだされてならないこの日頃であった。
弘中惇一郎弁護士の『無罪請負人』は、思いのほか多くの紙幅を「三浦さん」に割いている。夢中で読み、共感するところ多かった。裁判よりも、三浦氏の人柄について、弘中さんの受けた印象と私のそれとは全く一致しており、あらためて三浦さんが懐かしかった。三浦さんとの交流は彼のユーモアに彩られて常に明るく、勇気を与えられるものであり、民事訴訟について多くを教えられた。気遣いは行き届いており、応答は打てば響くようであった。三浦さんからは多くのものをもらったのに、私は何一つ三浦さんにしてあげられなかった。それが当たり前のように享けるばかりだった。辛くてならない。還ってきてほしい。以下『無罪請負人』より。
p145〜 2003年に最高裁で検察の上告が退けられて三浦氏の無罪が確定した。 無罪判決を底の方で支えたのは、私と三浦氏との信頼関係だったと思う。弁護人を引き受けた当初は、私は、周りから「長持ちするはずがない」と言われたりもした。 しかし、拘置所での面会、手紙のやりとりなどを通じて、私はそんなふうに感じたことは一度もなかった。三浦氏の考え方は合理的で気遣いが行き届いていた。いつも私は楽しく会話を交わすことができた。そればかりか、ずいぶんと元気を与えられた。
それにしても「三浦さん、何故死んだんだ! 死んではいけなかったよ!」という私の強い気持ち(自裁に対する無念と憤り)。それを弘中弁護士は[第三章 「殺された」三浦氏]のなかで、次のように書く。
p150〜 三浦氏の遺体は米国で荼毘に付され、神奈川県の自宅に戻ってきたお骨を私は夫人と支援者とともに迎えた。私は、たとえ自殺だったとしても三浦氏は殺されたのも同然だと思っている。日本政府に、米当局に、マスメディアに。 ロス疑惑は人権を蹂躙してきた犯罪報道についての反省をメディアに迫った。それまで報道は「表現の自由」そのものであり、人権を守りこそすれ人権と対立する事態など想定されていなかった。しかし、過熱取材・偏向報道が被疑者やその家族の人権を侵害するものとして批判にさらされた。
月刊「創」ブログ 2008年11月14日 22:30 創出版
三浦和義さんの死を悼み、独占手記を公開します。
ロスで謎の死を遂げた三浦和義さんについては発売中の月刊『創』12月号で詳しく報告していますが、その発売にあわせて、ここで『創』5月号に独占掲載した三浦さんのサイパンでの独占手記を公開します。結局、2月の逮捕後、公に三浦さんが発表したものはこれだけになってしまいました。三浦さんは白紙に自分で罫線をひいて原稿用紙を作り、その34枚の原稿を知人に託して編集部に届けてきました。手記には逮捕直後の不安な心境や、今後の闘いについての決意などが書かれています。逮捕後、膨大な報道はなされましたが、三浦さんが自ら直接心情を吐露することはなかったため、様々なメディアが独占手記を依頼しましたが、長年信頼関係にあった『創』を選んで発表してくれたものです。この手記は掲載直後に大きな反響を呼び、NHKを始め多くのテレビや新聞がニュースとして報じました。
その後、三浦さんは拘束場所が変わるなどしたのですが、その後の様子については、発売中の『創』12月号に現地で面会したジャーナリストの山口正紀さんらが詳しく報告しています。
なお三浦さんの死因をめぐっては、いまだに当局と弁護人側の意見が対立。既に11月3日に日本で葬儀が行われましたが、そこでの挨拶で、喪主である三浦さんの妻はいまだに「死因未確定」とされている現実を明らかにしました。この後、12月初めに改めて三浦さんを偲ぶ会が開かれる予定です。(月刊『創』編集部)
三浦和義独占手記「逮捕の瞬間、怒りで体が燃えるように感じた」
*おりなかった出国許可
群青色のサイパンの海が彼方から紅に染まるとすぐに闇につつまれ、鉄格子から見える風景が消えてゆきます。
僕が今、不当にも拘束されている所は、Department Of Corrections(通称:DOC)という、多分、刑務所と拘置所を兼ねたような施設です。
2月22日、お正月休みの代休をと、家内と共に4日間過ごしたサイパンから帰国するために、僕らは空港が混み合う前にチェックインしようと、午後1時半頃にターミナルに着き、レンタカーの返却手続きをしてノースウエストカウンターで搭乗手続きを済ませ、イミグレーションにパスポートを出して出国手続きを終えようとしていました。
出国管理官は右と左の2つのブースに。家内が右に、僕は左のブースの前に立ちパスポートをカウンターの前に置き、サングラスをとって素顔が管理官に見えるようにしました。パスポートの番号や名前をPCに打ち込む管理官。二度、三度と繰返していた。その時には、既に家内はその左ブースの後に立って出国手続きを完了していました。僕の片コト英語、「何故、時間がかかっているのですか? まだですか?」が通じず、管理官の説明でぼんやりとわかったのは、「......Mr.MIURAに用事がある人がいるので待つように......とPCに記録されている」というようなことでした。
その時点では、1984年に英国からギリシャに旅行した時にもあった要注意人物みたいな人とスペルが似ていて、何かの誤解から一時的にストップされているのだろうとしか考えられませんでした。ギリシャでは、30分位止められましたが、ミューラー何とかいうドイツ人(?)と間違えられたみたいで、日本国の旅券であることで直ぐに入国スタンプが押されましたが。
ところが、1時間ぐらい経過しても出国許可がおりないままで、ただ、「WAIT! WAIT!」というばかりでした。その内に、4〜5人の管理官らしき人が来て、僕に同行を求め、囲まれるようにして空港内のオフィスに連れて行かれたのです。
ショルダーバッグも全て家内に預けたまま、でした。持っているのはポケットのタバコとライターだけ、です。20人位が仕事するようなオフィスの中央の机の前に座らされ、「上の人がくるので待って下さい」というようなことを言われ、3〜4人に監視されるように座らされたままでした。
僕は英語が話せません。1984年1月まで雑貨やアンティークの現地買付・輸入・販売・卸の会社を経営していたので、海外への渡航歴は数十回もありましたが、物を買うには十余の単語を並べるだけで足りますし、ファッションの独占販売契約を締結した時には初めからアメリカからの輸出を担当してもらっていたアメリカ在住の日本人O氏に全て通訳してもらっていました。
その出入国管理官らのオフィスでも、単語を思いつく限り並べて文句を言ったりしていましたが、僕の言うことは8割方理解してくれたみたいですが、その回答たるや僕には全く何を言っているのか意味もわからず、イライラ感が募るばかりでした。
*連行され、その夜は倉庫のような部屋に
フライトの出発時間が迫りつつあることもあり、また、既にこのオフィスに来て3時間近くが経過していたことで、焦るばかりでした。そのうちに、家内からショルダーバッグが一人の管理官の手に届けられました。後日談ではバッグの中に家内の手紙が入っていて、彼女は僕が読んでくれたものと思い込んでいたようです。入っていた手紙の内容は、「このまま私もサイパンに残るから......必ず連絡をとるので安心して待っていて......」というものだったようですが、僕の手元には届くこともなかった手紙でした。
そうこうしているうちに、「上司が到着した......」というようなことを伝えられ、それから10分ぐらいして3人の男性が僕が座っている前に座り、話を始めたのです。
何と! 1988年に発行されたL.Aからの逮捕状で拘束するようなことを、通訳とはいっても殆ど和訳できない老人の口から伝えられたのです。30分くらいかけて聞いていると、ロス銃撃事件のことを言っているらしいとわかり、愕然としました。
単なるパスポートの勘違いどころの話ではなく、既に日本の最高裁で無罪判決が確定した件で逮捕するというのですから、本当に驚きましたし、怒りで体中が燃えるように感じました。今は2008年、それがなんで2003年3月に最高裁判所担当裁判官が全員一致で無罪判決を下した件で、再び逮捕されなければならないのか......!と。
家内には一度も会えないまま、2人の刑事に連行され、車に乗せられて、この拘置所のようなところに連れてこられたのが6時前後でした。車中で全く初めての街並を走っている時に、頭の中では、あのロス疑惑として騒がれた当時、日米の捜査当局が十分に話し合ったうえで、日米合意のうえで裁判は日本ですることになったのではないか! それ故に、長い公判の過程でもアメリカから多くの捜査資料が提供され、日米の捜査当局と検察が合同したような形で公判を行ってきたのではないか! という思いが駆け巡りましたが、そういうことをこのサイパンの刑事らに説明できる筈もなく(僕の知っている数少ない単語では......)、言われるがままにDOCの門内に車で連行されてしまったのです。
手錠は一度もかけられませんでした。DOCの内部は50年ぐらいは経てきたような建物で、内部は肌寒い程にクーラーがきいていました。
指紋をとったり、写真撮影が終った後で入れられたのは3畳くらいの何一つないコンクリートの部屋。毛布を求めても「NO!」と言われるし、夕食を(昼食も)食べていない......と訴えても(係の看守を呼ぶ度に扉を叩けと言われていたので)、手が痛くなる程十数回呼んだのですが、全て「NO!」で、その日は空腹のまま床に転って寝るしかありませんでした。トイレも水も毛布も寝具も何一つない倉庫のような部屋で、憤りと疲れ、そして捨てられた犬のような有様に眠りは遠いものでした。
家内がどこにいるのか......、僕同様に不安に苛まれているのではないかと思うと眠れるわけもありませんでした。
そして、翌土曜日も一日中倉庫同然の部屋で寒さにふるえながら午前中は誰とも話すこともできず過ごしたのです。
*空腹なのに食事はのどを通らない
朝6時に突然ドア(鉄製)が開き、朝食を渡されました。発泡スチロールの20?くらいの正方形のお弁当のようなものに、小カップのコーヒー、大カップのジュース(赤色で何のジュースか...?)、3つに仕切られたお弁当にはライス、野菜の煮もの、ビーフの揚げものが。(イラスト参照)
半分も食べられませんでした。これ程の空腹なのに。
食事は、お昼まで置きっ放しでした。その間に食べればいい......という感じで。
午後になってようやく少し落着き、東京の弘中弁護士(銃撃事件の主任弁護人)に連絡をしたいと思い、電話をかけたい!と交渉するが、「カードがないから駄目」というような回答だったので、コレクトコールで......と言ったのですが、「コレクトコールはできない」と言われました。ならば、「クレジットカードで!」と言うと電話機を持ってきてくれ、預けた財布も持ってきてくれたので何回かクレジットカードコールを試みたのですが、英語でのオペレーターの指示が理解できず、結局つながりません。
看守と電話のことでやり合っている時に、家内から衣服や石ケン・歯ブラシの差入れがあり、それらを手渡された時には、一人じゃないんだ!と随分勇気づけられた思いでした。思わず目頭が熱くなってしまったものです。そして、その差入れの中には一番欲しかったPTIカードが16枚も入っており、このプリペイドカードを使ってようやく家内と連絡がとれたのです。その時点では、家内も何が起きたのかよくわかっているようで、少しホッとしました。
ようやく、少しずつ元気も湧いてきました。その日の夜は、色々なことを初めて落着いて考えられるようになりましたが、何故、日米捜査共助で日本で公判を受けさせられることになり、その上で十数年も綿密な裁判を受けさせられ、事実ありのままが全て法廷に出された上で無罪判決が三審制の法手続きを経て確定したのに、今再び二重に法的責任を問われることになるのか、それはいくら考えてもわかることではありませんでした。しかも、1988年に逮捕状がアメリカで出ていることも全く知りませんでしたし、そうであるならば、どうしてこれまで日本政府を通じて出頭を求めてこなかったのか......、まったくわからないことばかりでした。さらに、この18カ月間にサイパンには4回も来ているというのに、1988年に逮捕状が出ているなら、何故今までは問題にならなかったのか......?
でも、このような立場に置かれた以上、東京拘置所にいた十数年の原点、誰が何を言おうが、自分が何の犯罪にも関わってはいないのだから一番強いんだ!という強い思いがよみがえってきました。
現状の事情は全くわかりませんでしたが、その積年の自身の闘いの原点に戻った時、心の底から力が湧いてくる思いがしました。しかも、今回は日本の綿密な裁判で無実が明確になっている身ですから!
*弘中先生への電話、日本領事の面会
サイパン監獄での2日目の夜は、前晩に一睡もできなかった故か、しかも愕然とし、失望し、差入れがあったことや家内と電話で話せたことの喜び等でドッと疲れが出たせいか、9時頃に寝入ってしまったものでした。
3日目の朝に、弘中先生のご自宅に電話をしたところ、ようやく通話できたことは大なる喜びでした。僕は常日頃から周囲の人に言っていました、「僕が生命を預けて悔の残らない敬愛する男は3人いる。弘中惇一郎先生、喜田村洋一先生、岡樹延氏だ」と。3人の方々、いずれも20年以上の交わりであり、両先生共に法という尺度と同じく人情を明快に理解して下さる方で、その頭脳明晰さには僕自身とても及びがつかない先生方であり、また35年の交わりのある岡氏は男子としての生き方、人間的魅力が大の友人です。
この不可解な状況下で、弘中先生と連絡がつき、大いに励まされたことは僕に大きな勇気を与えてもくれ、また、カツも入れてくれました。心の底から、頑張らねば!という力が湧いてもきたのです。
その電話の直後、看守が3人来て、「日本領事が面会にくるが、会うか?」と聞かれ、そうか!ここにも領事がいるのだ!と、初めて気がつきました。といっても、「ジャパンコンサリート」と言われましたがその意味が全くわからず、看守の中に片コトの日本語がわかる人がいて、その人を10分位で探して連れてきてくれ、ようやく「日本領事」の意味がわかった次第でしたが......。
そういうやりとりを30分している時に、看守オフィスの窓を見た時、明らかに日本のマスコミ陣と一目でわかる方々が道路の向い側に蝟集しているのが眼に飛び込んできたのです。ゲッ! またあの騒ぎの繰返しか......と。今回自分の身が突然に不当なことで拘束されたこと=(イコール)マスコミが集まる......ことまでは今回のことの不可解さと衝撃が大きかっただけに結びつけて考えるまでには至っていませんでした。あーぁ...という思いでした。
日本領事とは、隣接するビル内で会うということでDOCもマスコミを避けてくれるようで裏口から車に乗せられ、一周して隣のビル(後で知ったのですが、分散している拘禁施設をまとめる為に、新築中の、しかも近々に引越す予定の建物だそうです)の裏口から入り、迷路のように続く廊下を2〜3分歩いて一室に入れられました。会議室のような部屋で5分程待っていると、2人の男性と女性の3人の日本人の方々が入ってこられ、日本領事のオフィスの......と紹介されました。
僕が一番に問うたのは、「一体、どうして僕が日本とアメリカ共同での司法手続きが終了している件で、サイパンで逮捕されなければならないのでしょうか?」ということでした。もちろん、当事者でないだけに明快な答えは返ってこなかったのですが(問う前から、聞かれた領事オフィスの方々も回答し得ない質問とはわかっていたけれど、聞かざるを得なかったのです......)、その外のことでは困難な局面に立たされた日本人をバックアップするという姿勢と親切な心配りと行き届いた質問があり、孤立感に苛まれていた僕は深い感謝の思いで一杯でした。特に、現在の居房のひどさと環境については早急に善処するようにDOCに申入れて下さるとのことには力を得た思いでした。
この席には看守も立会わず、サイパンで初めてかけられた手錠も外され、自由な雰囲気の中で2時間余とゆっくり話もできました。その席で、初めて「明日の1時からヒアリングがある」と聞かされました。ただ、それがどういう手続きになるのか、「当地で犯罪を行ったケースではないので、領事館としても初めてのこと故、全くわからない」ということ、また、領事オフィスは法的なアドバイスはできない......ということも説明してくれました。
ともあれ、明日の1時に裁判所で何らかの手続きがあるということがわかった次第です。また、マスコミが100人以上、日本から毎日のように入ってきている、とも知りました。領事オフィスの方々と話せたことは、逮捕以後、初めて心安らぐ一時でした。帰りもマスコミに気付かれることなくアッという間に入れたようでした。
*窓からはマスコミの人達の顔が見えた
DOCに帰ったら、10分もしないうちに部屋を変わるから私物を全て持ってついてきなさい......ということを身振り手振りで理解させられ、ついて行くと廊下の反対側のドアの鍵をあけて6室横並びの一番奥の部屋に入れられました。おおっ! トイレも水道もある、二段ベッドもあるし、マットも敷かれている!と大喜びしてしまいました。3日前はサイパンの最高級ホテルに泊っていたというのに(ツアー指定のホテルだけに料金は安く設定されていましたが)、比較するのは2晩を過ごした倉庫同然の部屋と、です。人間以下のランクから人として最低の生活がやっとできる......という思いが深くありました。日本領事館からの申入れの効果であったと思いました。それが、今、この原稿を書いている部屋です。
4畳半くらいの広さに二段ベッドとトイレ・水道があり、窓もついています。
この頃になるとDOCの看守らも表のマスコミの数と横暴さに気がつき緊張感が全員にただよっていることが、僕にも感じられました。廊下も自由に歩ける時間があり(1日2〜3時間ですが)、そのはずれの窓からはマスコミの人達の顔までもがはっきりと見え、彼らからは中の暗さのせいでしょうか、僕が見えていないことにも気がつきました。およそ60〜70人のカメラマンや記者がいるようで、中にはたむろしている駐車場にテントを張り始めている様子も見えました。
新居(?)での生活、拘束されてから4日目になりますが、相変わらず最大の障害は言葉が通じないことで、生活上の簡単な疑問があっても、相手も僕の英語では理解できないようですし、仮に理解してくれて答えられても僕には殆ど理解できない......。あーあ!です。
その後、今日に至るまでのことは少し箇条書きにしてみます。
*手錠と足鎖で法廷へ
★25日の裁判所
午前中に、ようやく家内の携帯にかけるやり方がわかり(前回はつながらなかったので、多分僕のサイパンの友人がアテンドしてくれているだろうと思って彼の携帯=サイパンナンバー=にかけて話ができたものでしたが)、直接かけてみると初めてつながり、会話もできました。家内がサイパンにいても、日本にかけるように011―81―90〜とダイヤルしなければならないとは思いもしませんでしたから。
その日の朝になってヒアリングは11時から、と聞かされました。10時45分頃に部屋から出され、裏側にあるオフィスに行くと、オレンジ色の上下つなぎの服を着せられ、両足には鎖(長さは30〜40?くらい)付きの足錠をかけられ、腰には鎖を回されての両手錠。アメリカン囚人一丁上り!という感じでした。
その周囲では看守ら7〜8人が声高に話し合っていました。何となくわかったのは、どのルートを通って裁判所まで行くか、誰が一緒に乗って行くか、ということのようでした。緊迫しつつある雰囲気でした。
又もや裏口から出たので、ほとんどの正門前に群がっているマスコミの人は気がつかなかったようです。
車の中でコマンダーボス(看守長?)が手振りで「顔を隠したいか?」という身振りも交えて聞いてきましたが(白いB4大の紙で)、僕は悪いことをしたわけじゃないから、日本人として堂々と前を直視して歩くという思いがあったので、必要ないということを単語ばかりを並べてわかってもらえたようで、頑張れ!と車内で握手を求めて下さったりもしました。
*フラッシュとカメラの照明がふりそそいだ
アッという間に(500m位しか離れていないところに裁判所はありました)裁判所。車から降りるや、(両側を男性と女性、3人がスクラムを組むようにして)フラッシュとTVカメラの照明が無数にふりそそいで来ました。
「三浦さん、体調はいかがですか?」
「三浦さん、今回のことをどう思いますか?」
「三浦さん、無罪確定のことで再逮捕されたことについての怒りは?」
等々......数十人が一斉に大声で怒鳴って問いかけてくる上、歩いても歩いてもマスコミの人ばかりがいてフラッシュを雨あられの如く降りそそがれて眼が痛くなる程でした。ようやく法廷に入った時には、あーあ助かった!という思い。もちろん僕はそれらの問には一切答えず、前を直視し決して下を見ることなく堂々と(但し、足の鎖に不自由しての、ペンギン歩き?)歩いたつもりです。
廷内には領事オフィスのSさん(女性)、Yさん(男性)が、前列には家内と長男のY君の顔が眼に飛び込んできました。空港で別々にされて以来、家内と初めて顔を合わせることができたわけです。二人の顔を見て思わず胸が熱くなってしまいました。僕の席の直ぐ後に仕切りを間にして家内がいるので少しだけ話し始めた途端、廷内に入っていた記者らが家内を後から取囲むようにして二人の会話に耳をそばたてていたので、それ以上は話をしませんでした。
僕の席の横には50〜60歳の日本人が座り、「通訳です」と名乗られました。「よろしくお願いします」と言っているうちにワイズマン判事が入廷。起立して迎え、判事の言葉で全員が着席。僕と通訳の横にはアメリカ人(白人)が一人座りました。「私はアダム・ハードウィック。国選弁護人です」と通訳を介して紹介されました。そして、通訳の方が言われるには、今日のヒアリング(形式は全く日本の公判と同一)は弁護人についてのことだけ......と説明されました。進行するにつれ、検事に対して話すワイズマン判事の言葉も検事の答弁も何も通訳してくれないことで、何がどういう風に進行しているかわからない僕が再三再四、いや何度も通訳に説明を求めても答えてくれないことで言い合いをしていることに判事が気が付いたようで、法廷を中断して新たな通訳を探してくれることになり、一時間程一般の人が入れない奥の廊下で待機しました。
*カメラマンが殺到し大混乱に
新たな通訳の堀口さんは古武士然とした方で、進行やそれぞれの方の発言をきちんと通訳して下さったので助かりました。ワイズマン判事は、「あなたには国選弁護人(パブリック デフェンダー)はつけられない」と言われましたが、僕は旅行中の身であり、元より何の収入も資産もないことから、「是非共、国選弁護士をつけて下さい」と発言して求めたところ、熟慮してくれたようで、階下にある「パブリック デフェンダー審査会(?)」みたいなところで審査の上、再決定するとのことで、その場は閉廷しました。
ところが、法廷から地下にある(?)そのオフィスに向うべく一歩廊下に出たところにマスコミのカメラマン方が殺到して大混乱状態になり僕も転倒されそうになってしまったことで、看守ら7〜8名が防戦して走って元の法廷に逆戻り。その際、先頭を歩いていた女性のキャプテン・カブレラさんはカメラマンらに腕を負傷させられたとのことでした。
全く進歩がない連中だと、僕も怒り心頭!! これじゃ26年前と何ら変わっていないじゃないか!と。僕は僕なりに日本人として恥ずかしくない礼節ある態度でこの4日間、民族の誇りを強く意識して誰に対しても接してきたつもりだっただけに、マスコミの狂乱さを目前にして、あまつさえ裁判所内での暴力同然の行為にア然としたし、同じ日本人として恥ずかしい限りでした。
そんな彼らが問いかける
「三浦さん、健康状態はどうですか?」
「移送に同意されますか?」
「これからどうしますか?」
等に答える筈もなく、同じ日本人として恥ずかしさでいっぱいでした。
法廷から裏の通路をあわただしく10人余の看守らが先の様子を窺いながら先導して、マスコミとは一切会わないようにして、ようやく「審査会オフィス」に入ることができました。その間コマンダーボスがしきりに、「ムーブ、ムーブ、ゴー、ゴー!」と掛け声を発しながら早足で進む様は、まるで映画の一シーンのようでした。
それから3時間余、僕と家内は調査官に数百の質問を浴びせられましたが、収入があるのは家内だけに、そのほとんどに家内が具体的な数字を挙げて答えていました。調査官と通訳の堀口さんが会話している時も多くあったので、その間には家内ともゆっくり話ができたことで励まされました。
DOCに帰ってきたのは丁度夕食時で、この時より廊下のテーブルで同じ棟の5人と共に食事をすることになりました。
*LAへの移送は拒否します!
★LAへの移送問題
僕としては、日米の同意の元に日本で裁判をすることに決定し、13年余も日本の裁判を受けて、事実ありのままに無罪が確定したのですから、再び同じことでアメリカで裁判を受ける必要性もないと思うことから、LAへの移送は拒否します。僕が言いたいことはただ一つだけ、直ちに日本に帰国させて下さい!ということだけです。
★弁護人について
東京では弘中先生と喜田村先生がバックアップして下さるとのこと、サイパンでは最も優れた弁護士の一人であるMr.BURLINE、そして共同でMr.HANSON、Mr.FITZGERALDの3人が担当して下さることになり、また、LAでは東京・サイパンの先生方のつてでMr.MARK GEROGOSとそのスタッフが担当して下さるということに時間の経過と共にトライアングル体制が整ってきたのです。何もできない僕に代わって家内が支援してくれていることが、心ある正義派の弁護士の方々の活動を促して下さったようでした。
3カ国の弁護人がEメールで活発に情報を共有して下さって有効な活動をして下さっている......とのことには、僕個人が自身の歴史的事実として無実であり、どこの誰ともわからない銃撃犯人とは何らの関わりもないことから、至極当然の如くに事件の被害者でしかない僕の冤罪は明確になる!と、心強く思っています。
また、私選弁護人がついたことで、法廷通訳の堀口さんが立場上から通訳も代えなければならないということで、Mr.JIM DEVIESを紹介され、お願いすることができました。それまでの間、堀口さんには本当にお世話になり、豊かな人間性に教えられることも多く、良き人との出会いに深謝するばかりです。
そして、新たな通訳のジム・デイヴィス氏は法廷でのやりとりもそのほとんどを同時通訳の如きに伝えてくれますし、この中での生活上のことまでも心細やかに心配して下さり、精神的にも助けられています。
3月5日の公判では、バーライン先生とハンソン氏が堂々の論陣を張って下さり、逮捕手続きの不当性を強く主張して下さった姿には心打たれました。本当に良い先生に巡り会えたという思いです。
ロスでも、ゲロゴス先生が不当性の申し立てを精力的にして下さっているとのことで、バーライン先生も「ゲロゴス氏は優れた法律家だ」と語られていたことで随分安心させられましたし、心強くも思いました。
相変わらずの虚偽報道にあきれました
★マスコミ報道のこと
一部の報道は家内が3月18日から21日まで再びサイパンに来て、毎日面会した折に渡されて読みましたが、相も変わらずの虚偽報道が多いことにも呆れました。
僕は、この20年間一度もアメリカに行ったことはありませんし、サイパンがアメリカ領域(?)にあることも全く知りませんでした。また、アメリカから1988年に逮捕状が出ていることも全く知らされていませんでしたし、そんなことは思いもよらないことでした。
そして、この一年余、いくつかのTV局とロス疑惑問題をドラマ化しよう......とか、ドキュメンタリー化しようという話がきたり、僕自身数年前に映画製作のトップに就き製作したことを経験したことで、第三者の視点から創作ドラマとして身近な人間が犯人であったら......とか、国際的密輸組織がからむストーリーにしたら......とかのアイデアを求められるままに出したり、ある時は僕からアイデアを持ち込んで話したこともありましたが、それらのどれも25年という歳月が経過したことで素材の一つとして取り上げたいくつものストーリーの一つでしかありませんでした。
それらのストーリーの中には、ビルを占拠して個と国家の闘いのシチュエーションや男女の交わりを3Pや4Pに設定して......という、単なる作家としての立場からのアイデアを思いつくまま人に語ったことがあたかも事実であるかのように報道されているのですから、呆れるやら失笑するやら、怒りを覚えるやらで......名誉毀損もはなはだしいと思っています。
*ほとんど毎日本を読んでいます
★日々の生活
家内や友人から本が送られてくること、また、家内が3月19日に20冊近い本を旧友H氏から託されて差し入れてくれた為、ほとんど毎日日中は本を読んでいます。ベッドで横になりながら......。
また、毎日1回フレッシャー(Fresh Air)という運動の時間があり、サイパンの陽光を全身に浴びてもいます。上半身裸になって陽にさらしていると30分もすると全身汗だらけです。1時間の運動時間は、ほとんど日光浴です。
朝・昼・夕の三食は5人の囚人方(みな確定判決で受刑中)とテーブルで集まって食べています。僕はアレルギーがあるので三食共パンにジュースや肉料理。廊下の壁に設置されたTVはケーブルTVらしく、一日中映画やニュースを流しています。1日20時間くらいはつけ放しで、夜は看守が観ているようです。
看守の人々は僕の事件の詳細がTVニュースや新聞で伝えられたことで、僕には割と親切で「ひどいめにあっているね!」という感じです。比してマスコミの横暴さがひどいこともあり、僕に対しては彼らマスコミに対する反感からか、より親切にしてくれるみたいです。同じ棟の4人も言葉が仲々通じない僕に同情してくれている風で、部屋の大掃除をしてくれたり、氷を口にしているのが好きな僕にみんなで自分の氷をわけてくれたりも......。数年から完全終身刑の人たちですが、気の良い人!という印象で仲良くさせて頂いています。
★手紙と面会
手紙は比較的自由に入手できますし、出せもします。これまでにマスコミの人ばかりですが40通くらいの手紙は入手しています(返事は1通も書いていませんが......)。
頂いた手紙で印象的だったのは、朝日新聞社のアエラ特派記者の斉藤さんからのものでしたが、返事は出せずのままです。この場を借りて深謝致します。
面会は、日本とは全く逆で、土・日・祝日のみで、30分間だそうで、持ってきた食事も一緒に食べられるようです。ただ、僕もそのシステムというか、許可範囲がよくわかっていないのですが、先日家内と息子が面会に来てくれた時は、弁護人が裁判所(だったと理解していますが......)からの面会許可をとってからの面会だったと聞いています。ですから、事前に家内からバーライン弁護人の通訳であるDAVIES氏を通じて弁護人に面会許可をとっておいてもらえば友人でも面会できるのだろうと思っています。
ともあれ、現在の僕は毎日元気で生活していますし、自身が潔白である事実を誰よりも知っているのですから、真実は何よりも強い!という闘志にあふれています。
日本男子として恥ない行動をとってゆきたい、と覚悟を新たにしています。
そして擱筆するにあたり、一人言葉も通じぬ異国の地で真実は我にありという気概だけしかない僕の心を支えてくれたのは、以下の方々であることを明記して謝意を表したいと思います。
日米サイパン3カ国の弁護士の先生方。通訳の堀口氏・DAVIES氏。サイパン日本領事オフィスのY氏、Sさん。グアムから応援にいらして下さったY氏。また、サイパン在住のKさんとN嬢には我ら夫婦共々お世話をかけました。そして、盟友山際永三氏、山口正紀氏、浅野健一氏、岡樹延氏、河村シゲル氏、荒井英夫氏、客野美喜子氏らからの家内経由の激励には大いに力づけられています。
送本下さるH氏のお力で読書もでき、そして家内と長男に支えられてきたこの1カ月であったこと、また多くの知人・友人らが支援の輪を広げて下さっていることにも深謝しています。
本当に皆さん、ありがとうございます。決して挫けることなく頑張ります!
08・3・23
サイパンの独居房にて 三浦和義
三浦さんの原稿は34枚。分量の目安をつけるために最初の何枚かは自分で白紙にケイを引き左端に行数を示す番号をふっていた。
イラストは三浦さん自筆。食べられなかった朝食
◎上記事の著作権は[月刊「創」ブログ]に帰属します 註.イラストはすべて「指定されたページ(URL)は見つかりません」(来栖)
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◇ 27年目のロス疑惑ー洞爺湖サミットー共謀罪
中日新聞夕刊(大野孝志 関口克己) 2008/03/07
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