「日本はモンスターなのか?」集団的自衛権議論で表面化する“日本性悪説” 日本を恐れているのは実は日本自身
JBpress 国際激流と日本 2014.05.14(水)古森 義久
日本は国際社会のモンスターなのか。いつまでも鎖につないでおかねばならない危険な犬なのか」――。
米国の学者が日本の憲法上の自国防衛への制約について述べた言葉だった。この言葉はいま現在、日本で展開されている集団的自衛権の行使容認をめぐる議論への考察にも当てはまる。日本の防衛や憲法への日本自身の姿勢が外部の目にどう映るかという指針である。
集団的自衛権は、自国の防衛や安全のため、あるいは国際的な平和維持や侵略阻止のために、他の国家と連帯して軍事行動を取る、という権利である。現在、日本以外のすべての主権国家が保有し、行使できることになっている
集団的自衛権は国連の安全保障活動の基礎でもある。国連加盟の諸国が集団で平和維持のために軍事行動を取るという、国連のそもそもの存在理由だとも言えるのだ。
しかし日本だけはこの集団的自衛権を「保有はしているが行使はできない」と見なしている。その理由は、憲法第9条だとされる。
*米国の集団的自衛権行使に守られている日本
日本が自ら集団的自衛権を拒むのだから、その権利とは一切無縁なのかというと、決してそんなことはない。日本の安全や平和は、同盟国の米国の集団的自衛権行使によって守られているのだ。日本はいわば集団的自衛権の全面的な受益者なのである。
ところが日本自身の集団的自衛権の行使となると、一切「ノー」なのだ。同盟国のためにも、自国の安全にとって最重要な他国のためにも、あるいは国際平和の保持のためにも、日本だけは他の諸国と協力しての軍事行動はどんな場合にも取らないというのである。
4月の米国のオバマ大統領の訪日では、日本の尖閣諸島が日米安保条約の適用範囲に入ると言明したことが最大の成果とされた。万が一、尖閣諸島に中国のような第三国が軍事攻撃をかけた場合、米国は日本と協力してその防衛にあたると米国大統領が誓約したのだ。
このオバマ大統領の言明を、日本のほとんど誰もが歓迎した。米国が集団的自衛権行使の意図を表明したことに対して、自国の集団的自衛権の容認には反対する朝日新聞や公明党という勢力までが高く評価したのだ。だが、他国には集団的自衛権を行使してもらうことを切望する一方、自国の同じ権利の行使はその容認の構えさえも反対するのは、なんという矛盾であり、自己中心的な態度だろう。国家として、他からもらえるものは最大限にもらい、与えることはなにもしないというわけだ。
*日本は侵略や攻撃をすぐに始める国なのか
日本国内における集団的自衛権容認を巡る議論を見ると、反対派からの「暴走を防ぐ」「歯止めをかける」「危険を防止する」「前のめりを阻止する」というような表現が目立つ。
では、それら「危険」「暴走」「阻止」「前のめり」といった言葉の対象は誰なのか。それは日本自身なのである。
国家の防衛をめぐる論議であれば、防ぐべき対象は自国に対する外部からの脅威だろう。つまり、自国に侵略や攻撃をかけてくるかもしれない敵のことである。「歯止め」や「阻止」という言動は、その外部の潜在敵に対してこそ向けられるべきであり、実際にどの国でもそのように捉えている。
だが、なぜか日本では、「歯止め」や「阻止」の対象となる「危険」は日本自身なのである。
これは、日本が日本自身を信用していないことを意味する。日本は、集団的自衛権の行使を解禁すると、外部に対しての危険な侵略や攻撃をすぐに始める、という認識である。
国際的見地からすれば、主権国家が自国の防衛を考えるときに、まず最初に自国を潜在脅威、潜在危険と見なし、その自国の防衛能力をがんじがらめに縛ろうとする、というのは、なんとも異常な行動と言うしかない。
日本では憲法改正をめぐる論議でも同様の反応が顕著である。憲法9条を改正すると、日本は歯止めを失い、軍国主義に走り、他国への侵略を再開する、というような主張が堂々と述べられるのだ。しかも日本人自身によってである。
日本はそれほど危険な国なのか。それほど自制のない国なのか。こうした疑問が起きるのは当然だろう。
*日本性悪説に疑問を呈したセルフ氏
そこで思い出されるのは、米国で開かれた日本の憲法改正に関するセミナーである。このセミナーにおける米国やイギリスの学者たちの意見の中に、まさにこの日本の特異性への面白い考察があった。
2011年9月、ワシントンの「ウッドロー・ウィルソン国際学術センター」で「65年目の日本の“平和”憲法=変化の時か」と題されたセミナーが開かれた。パネリストは日本の政治や法律、あるいは憲法一般を専門とするアメリカ人とイギリス人の学者4人だった。聴衆側にも専門家がいて、討論に加わった。
パネリストたちがみな意見を一致させたのは、日本憲法9条の「国権の発動としての戦争の禁止」「戦力の不保持」「交戦権の禁止」などという規定が、全世界の各国の憲法の中で極めて異端だという点だった。集団的自衛権の行使の禁止も、この9条の規定を根拠としている。こうした日本の憲法に対し、「もうそろそろ改正の時期だ」という意見も出た。
だが、その一方で「日本の軍国主義志向を考えると、憲法9条は今後もずっと必要だろう」という主張も表明された。「今の日本は、古代ギリシャの猛将ユリシーズが柱に縛られた状態と言えるだろう」という声も出た。ギリシャ神話のユリシーズはオデュッセウスの別名で、世界を回り、異なる相手を次々に打倒した戦いの名人だった。日本もそんな戦いの名人だから、常に縛っておかねばならない、というわけだ。
その背後にあるのは、“日本性悪説”である。日本は国家も民族も潜在的、先天的に危険な軍事志向が強く、自衛のための軍事力も必ず侵略目的にそれを使うようになる、というような一方的な断定である。
ところがこのセミナーでは、そのような日本への指摘をはねつける反対の発言が出た。
「他国なら当然の防衛や軍事の権利を日本だけには認めるなという主張に従えば、日本は国際社会のモンスターなのか。いつまでも鎖につないでおかねばならない危険な犬なのか」
発言したのはスタンフォード大学の研究員やヘンリー・スティムソン・センターの上級研究員を務めたアジア研究学者のベン・セルフ氏だった。同氏は日本の政治や外交をも専門領域とし、慶應義塾大学への留学体験もある。
セルフ氏は次のようにも述べた。「全世界の主権国家がみな保有する権利を日本だけには許してはならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族と暗に断じて、永遠に信頼しないとする偏見だ。差別でもある」
セルフ氏のこの発言は、長年、米国側で主流だった「日本抑えつけ論」への批判だとも言えよう。米国においても、日本を普通の国、信頼できる国と見なして自衛の権利を正規に認めるべきだという意見が出てきたということでもある。
ところが肝心の日本側に、日本危険論、日本性悪論がなお消えていない。日本という国家や日本人という民族は遺伝子的にも侵略性が強いのだという前提に立つ歯止め論であり、暴走阻止論なのだ。日本の一部で声高に語られる集団的自衛権の行使容認への反対論は、そうした日本不信が土台になっていることを再度、認識しておこう。
◎上記事の著作権は[JBpress]に帰属します *強調(太字・着色)は来栖
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ 『憲法が日本を亡ぼす』古森義久著 海竜社 2012年11月15日 第1刷発行 2012-11-28 | 本/(演劇)
はじめに 国家が国民を守れない半国家
p1〜
○世界でも異端な日本憲法
「日本は国際社会のモンスターというわけですか。危険なイヌはいつまでも鎖につないでおけ、というのに等しいですね」
アメリカ人の中堅学者ベン・セルフ氏のこんな発言に、思わず、うなずかされた。日本は世界でも他に例のない現憲法を保持しつづけねばならないという主張に対して、セルフ氏が反論したのだった。
p2〜
だがその改憲、護憲いずれの立場にも共通していたのは、日本の憲法が自国の防衛や安全保障をがんじがらめに縛りつけている点で、世界でも異端だという認識だった。
p3〜
事実、日本国憲法は「国権の発動としての戦争」はもちろんのこと、「戦力」も「交戦権」も、「集団的自衛権」もみずからに禁じている。憲法第9条を文字どおりに読めば、自国の防衛も、自国民の生命や財産の防衛も、同盟国アメリカとの共同の防衛も、国連平和維持のための防衛活動も、軍事力を使うことはなにもかもできないという解釈になる。日本には自衛のためでも、世界平和のためでも、「軍」はあってはならないのだ。
○日本は「危険な」イヌなのか?
現実には日本はその普通の解釈の網目をぬう形で自衛隊の存在を「純粋な自衛なら可能」という概念をどうにか認めているだけである。だが、イラクに駐留した自衛隊がいかなる戦闘も許されず、バングラデシュの軍隊に守ってもらわねばならなかったという異様な状況こそが、日本国憲法の本来の姿なのだ。
自縄自縛とはこのことだろう。いまの世界ではどの主権国家にとっても自国の領土や自国民の生命を守るために防衛行動、軍事行動を取るという権利は自明とされる。いや、自国や自国民を守る意思や能力や権利があってこそ、国家が国家たりうる要件だろう。国民にとっての国家の責務でもある。
だが日本にはその権利がない。その点では日本は半国家である。ハンディキャップ国家とも評される。国際的にみて明らかに異常なこんな状態がなぜ日本だけで続くのか。
「いまの日本は古代ギリシャの猛将ユリシーズが柱に縛られた状態ともいえるでしょう」
p4〜
「アメリカも日本が憲法を改正して集団的自衛権を行使できるようにすることを求めると、やがて後悔するかもしれません。悪魔がいったんビンから出ると、もう元には戻らないというたとえがあります」
日本を悪魔にまでたとえる、こうした趣旨の発言が続いたところで、冒頭に紹介したセルフ氏の言葉が出たのだった。
彼は次のようにも述べていた。
「全世界の主権国家がみな保有している権利を日本だけに許してはならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族と暗に断じて信頼しないという偏見であり、差別ですね」
p5〜
○アメリカによる押しつけ憲法
本書で詳述するように、日本国憲法は完全なアメリカ製である。しかも日本がアメリカの占領下にある時期にアメリカ側によって書かれ、押しつけられた。米側としては憲法での最大の目的は日本を二度と軍事強国にしないことだった。そのためには主権国家としての最低要件となる自衛の権利までをも奪おうとしていた。
p6〜
あの激しい日米間の戦争を考えれば、まったく理不尽な目的だったともいえないだろう。
しかし、日本側でも憲法は長年、国民多数派の支持を得てきた。とくに日本を世界の異端児とする憲法9条への支持が強かった。(略)
アメリカの政策や日米同盟に反対し、ソ連や共産主義に傾く左翼勢力がとくに現憲法の堅持を強く叫んだ。日本国憲法を「平和憲法」と呼び、それに反対したり、留保をつける側はあたかも平和を嫌う勢力であるかのように描いて見せるレトリック戦術も、左翼が真っ先に推し進めた。
アメリカがつくった憲法を反米勢力が最も強く守ろうとしたことは皮肉だった。だがこの憲法の半国家性をみれば、現体制下での国家の力を弱めておくことが反体制派の政治目的に会うことは明白だった。
p70〜
第3章 外敵には服従の「8月の平和論」
1 日本の「平和主義」と世界の現実
○内向きで自虐の「8月の平和論」
日本とアメリカはいうまでもなく同盟国同士である。だが、そもそも同盟国とはなんなのか。
同名パートナーとは、まず第1に安全保障面でおたがいに助け合う共同防衛の誓約を交し合った相手である。なにか危険が起きれば、いっしょに守りましょう、という約束が土台となる。
p72〜
日本では毎年、8月になると、「平和」が熱っぽく語られる。その平和論は「戦争の絶対否定」という前提と一体になっている。
8月の広島と長崎への原爆投下の犠牲者の追悼の日、さらには終戦記念日へと続く期間、平和の絶対視、そして戦争の絶対否定が強調されるわけだ。(略)
日本の「8月の平和」は、いつも内向きの悔悟にまず彩られる。戦争の惨状への自責や自戒が主体となる。とにかく悪かったのは、わが日本だというのである。「日本人が間違いや罪を犯したからこそ、戦争という災禍をもたらした」という自責が顕著である。
その自責は、ときには自虐にまで走っていく。(略)そして、いかなる武力の行使をも否定する。
p73〜
8月の平和の祈念は、戦争犠牲者の霊への祈りとも一体となっているのだ。戦争の悲惨と平和の恩恵をとにかく理屈抜きに訴えることは、それなりに意義はあるといえよう。
○「奴隷の平和」でもよいのか
だが、この内省に徹する平和の考え方を日本の安全保障の観点からみると、重大な欠落が浮かび上がる。国際的にみても異端である。
日本の「8月の平和論」は平和の内容を論じず、単に平和を戦争や軍事衝突のない状態としかみていないのだ。その点が重大な欠落であり、国際的にも、アメリカとくらべても、異端なのである。
日本での大多数の平和への希求は、戦争のない状態を保つことへの絶対性を叫ぶだけに終わっている。守るべき平和の内容がまったく語られない点が特徴である。
「平和というのは単に軍事衝突がないという状態ではありません。あらゆる個人の固有の権利と尊厳に基づく平和こそ正しい平和なのです」
この言葉はアメリカのオバマ大統領の言明である。2009年12月10日、ノーベル平和賞の受賞の際の演説だった。
p74〜
平和が単に戦争のない状態を指すならば、「奴隷の平和」もある。国民が外国の支配者の隷属の下にある、あるいは自国でも絶対専制の独裁者の弾圧の下にある。でも、平和ではある。
あるいは「自由なき平和」もあり得る。戦争はないが、国民は自由を与えられていない。国家としての自由もない。「腐敗の平和」ならば、統治の側が徹底して腐敗しているが、平和は保たれている。
さらに「不平等の平和」「貧困の平和」といえば、一般国民が経済的にひどく搾取されて、貧しさをきわめるが、戦争だけはない、ということだろう。
日本の「8月の平和論」では、こうした平和の質は一切問われない。とにかく戦争さえなければよい、という大前提なのだ。
その背後には軍事力さえなくせば、戦争はなく、平和が守られるというような情緒的な志向がちらつく。
2010年の8月6日の広島での原爆被災の式典で、秋葉忠利市長(当時)が日本の安全保障の枢要な柱の「核のカサ」、つまり核抑止を一方的に放棄することを求めたのも、その範疇だといえる。
自分たちが軍備を放棄すれば他の諸国も同様に応じ、戦争や侵略は起きない、という非武装の発想の発露だろう。
p75〜
○オバマ大統領の求める「平和」との違い
平和を守るための、絶対に確実な方法というのが1つある。それは、いかなる相手の武力の威嚇や行使にも一切、抵抗せず、相手の命令や要求に従うことである。
そもそも戦争や軍事力の行使は、それ自体が目的ではない。あくまでも手段である。国家は戦争以外の何らかの目的があってこそ、戦争という手段に走るのだ。
戦争によって自国の領土を守る。あるいは自国領を拡大する。経済利益を増す。政治的な要求を貫く。
こうした多様な目標の達成のために、国家は多様な手段を試みる。そして平和的な方法ではどうにも不可能と判断されたときに、最後の手段として戦争、つまり軍事力の行使にいたるのである。それが戦争の構造だといえる。
だから攻撃を受ける側が相手の要求にすべて素直に応じれば、戦争は絶対に起きない。要求を受け入れる側の国家や国民にとっては服従や被支配となるが、戦争だけは起きない、という意味での「平和」は守られる。
日本の「8月の平和論」はこの範疇の非武装、無抵抗、服従の平和とみなさざるを得ない。なぜなら、オバマ大統領のように、あるいは他の諸国のように、平和に一定の条件をつけ、その条件が守られないときは、一時、平和を犠牲にして戦うこともある、という姿勢はまったくないからだ。
オバマ大統領は前記のノーベル賞受賞演説で、戦争についても語った。「正義の戦争」という概念だった。
「正義の戦争というのは存在します。国家間の紛争があらゆる手段での解決が試みられて成功しない場合、武力で解決するというケースは歴史的にも受け入れられてきました。武力の行使が単に必要というだけでなく、道義的にも正当化されるという実例は多々あります。第2次世界大戦でアメリカをはじめとする連合国側がナチスの第3帝国を(戦争で)打ち破ったのは、その(戦争の)正当性を立証する最も顕著な例でしょう」
オバマ大統領はこうした趣旨を述べて、アメリカが続けるアフガニスタンでの戦争も、アメリカに対する9・11同時テロの実行犯グループへの対処として、必要な戦争なのだと強調するのだった。
これが国際的な現実なのである。決してアメリカだけではない。どの国家も自国を守るため、あるいは自国の致命的な利益を守るためには、最悪の場合、武力という手段にも頼る、という基本姿勢を揺るがせにしていない。それが国家の国民に対する責務とさえみなされているのだ。
p77〜
だから「8月の平和論」も、この世界の現実を考えるべきだろう。その現実から頭をもたげてくる疑問の1つは、「では、もし日本が侵略を受けそうな場合、どうするのか」である。
日本の領土の一部を求めて、特定の外国が武力の威嚇をかけてきた場合、「8月の平和論」に従えば、一切の武力での対応も、その意図の表明もしてはならないことになる。
だが、現実には威嚇を実際の侵略へとつなげないためには、断固たる抑止が有効である。相手がもし反撃してくれば、こちらも反撃をして、手痛い損害を与える。その構えが相手に侵略を思い留まらせる。戦争を防ぐ。それが抑止の論理であり、現実なのである。
この理論にも、現実にも、一切背を向けているのが、日本の「8月の平和論」のようにみえるのだ。そしてそのことがアメリカとの同盟関係の運営でも、折に触れて障害となるのである。
p78〜
2 日本のソフト・パワーの欠陥
○ハード・パワーは欠かせない
「日本が対外政策として唱えるソフト・パワーというのは、オキシモーランです」
ワシントンで、こんな指摘を聞き、ぎくりとした。
英語のオキシモーラン(Oxymoron)という言葉は「矛盾語法」という意味である。たとえば、「晴天の雨の日」とか「悲嘆の楽天主義者」というような撞着の表現を指す。つじつまの合わない、相反する言葉づかいだと思えばよい。(略)
p79〜
日本のソフト・パワーとは、国際社会での安全保障や平和のためには、軍事や政治そのものというハードな方法ではなく、経済援助とか対話とか文化というソフトな方法でのぞむという概念である。その極端なところは、おそらく鳩山元首相の「友愛」だろう。とくに日本では「世界の平和を日本のソフト・パワーで守る」という趣旨のスローガンに人気がある。
ところが、クリングナー氏はパワーというのはそもそもソフトではなく、堅固で強固な実際の力のことだと指摘するのだ。つまり、パワーはハードなのだという。そのパワーにソフトという形容をつけて並列におくことは語法として矛盾、つまりオキシモーランだというのである。
クリングナー氏が語る。
「日本の識者たちは、このソフト・パワーなるものによる目に見えない影響力によって、アジアでの尊敬を勝ち得ているとよく主張します。しかし、はたからみれば、安全保障や軍事の責任を逃れる口実として映ります。平和を守り、戦争やテロを防ぐには、安全保障の実効のある措置が不可欠です」
p80〜
確かにこの当時、激しく展開されていたアフガニスタンでのテロ勢力との戦いでも、まず必要とされるのは軍事面での封じ込め作業であり、抑止だった。日本はこのハードな領域には加わらず、経済援助とかタリバンから帰順した元戦士たちの社会復帰支援というソフトな活動だけに留まっていた。(略)
クリングナー氏の主張は、つまりは、日本は危険なハード作業はせず、カネだけですむ安全でソフトな作業ばかりをしてきた、というわけだ。最小限の貢献に対し最大限の受益を得ているのが、日本だというのである。
「安全保障の実現にはまずハード・パワーが必要であり、ソフト・パワーはそれを側面から補強はするでしょう。しかし、ハード・パワーを代替することは絶対にできません」
p81〜
となると、日本が他の諸国とともに安全保障の難題に直面し、自国はソフト・パワーとしてしか機能しないと宣言すれば、ハードな作業は他の国々に押しつけることを意味してしまう。クリングナー氏は、そうした日本の特異な態度を批判しているのだった。(略)
p82〜
しかし、日本が国際安全保障ではソフトな活動しかできない、あるいは、しようとしないという特殊体質の歴史をさかのぼっていくと、どうしても憲法にぶつかる。
憲法9条が戦争を禁じ、戦力の保持を禁じ、日本領土以外での軍事力の行使はすべて禁止しているからだ。現行の解釈は各国と共同での国際平和維持活動の際に必要な集団的自衛権さえも禁じている。前項で述べた「8月の平和論」も、たぶんに憲法の影響が大きいといえよう。
日本の憲法がアメリカ側によって起草された経緯を考えれば、戦後の日本が対外的にソフトな活動しか取れないのは、そもそもアメリカのせいなのだ、という反論もできるだろう。アメリカは日本の憲法を単に起草しただけではなく、戦後の長い年月、日本にとっての防衛面での自縄自縛の第9条を支持さえしてきた。日本の憲法改正には反対、というアメリカ側の識者も多かった。
ところがその点でのアメリカ側の意向も、最近はすっかり変わってきたようなのだ。共和党のブッシュ政権時代には、政府高官までが、日米同盟をより効果的に機能させるには日本が集団的自衛権を行使できるようになるべきだ、と語っていた。
p83〜
オバマ政権の中盤から後半にかけての時期、アメリカ側では、日本が憲法を改正したほうが日米同盟のより効果的な機能には有利だとする意見が広がり、ほぼ超党派となってきたようなのだ。
p158〜
第6章 防衛強化を迫るアメリカ
2 日本の中距離ミサイル配備案
○中国膨張がアジアを変えた
「日本は中国を射程におさめる中距離ミサイルの配備を考えるべきだ」---。
アメリカの元政府高官ら5人によるこんな提言がワシントンで発表された。20011年9月のことである。
日米安保関係の長い歴史でも、前例のないショッキングな提案だった。日本側の防衛政策をめぐる現状をみれば、とんでもない提案だとも言えよう。憲法上の制約という議論がすぐに出てくるし、そもそも大震災の被害から立ち直っていない日本にとって、新鋭兵器の調達自体が財政面ではまず不可能に近い。
しかし、この提案をしたアメリカ側の専門家たちは、歴代の政権で日本を含むアジアの安全保障に深くかかわってきた元高官である。日本の防衛の現実を知らないはずがない。
p162〜
中国は射程約1800キロの準中距離弾道ミサイル(MRBM)の主力DF21Cを90基ほど配備して、非核の通常弾頭を日本全土に打ち込める能力を有している。同じ中距離の射程1500キロ巡航ミサイルDH10も総数400基ほどを備えて、同様に日本を射程におさめている。米国防総省の情報では、中国側のこれら中距離ミサイルは台湾有事には日本の嘉手納、横田、三沢などの米空軍基地を攻撃する任務を与えられているという。
しかし、アメリカ側は中国のこれほどの大量の中距離ミサイルに対して、同種の中距離ミサイルを地上配備ではまったく保有していない。1章で述べたとおり、アメリカは東西冷戦時代のソ連との軍縮によって中距離ミサイルを全廃してしまったのだ。ロシアも同様である。
p163〜
だからこの階級のミサイルを配備は、いまや中国の独壇場なのである。
「中国は日本を攻撃できる中距離ミサイルを配備して、脅威を高めているが、日本側ももし中国のミサイルを攻撃を受けた場合、同種のミサイルをで即時に中国の要衝を攻撃できる能力を保持すれば、中国への効果的な抑止力となる」
衝突しうる2国間の軍事対立では力の均衡が戦争を防ぐという原則である。抑止と均衡の原則だともいえる。
実際にアメリカとソ連のかつての対立をみても、中距離ミサイルは双方が均衡に近い状態に達したところで相互に全廃とという基本が決められた。一方だけがミサイル保有というのでは、全廃や削減のインセンティブは生まれない。だから、中国の中距離ミサイルを無力化し、抑止するためには日本側も同種のミサイルを保有することが効果的だというのである。
日本がこの提案の方向へと動けば、日米同盟の従来の片務性を減らし、双務的な相互防衛へと近づくことを意味する。アメリカも対日同盟の有効な機能の維持には、もはや日本の積極果敢な協力を不可欠とみなす、というところまできてしまったようなのである。
p164〜
3 アメリカで始まる日本の核武装論議
○中国ミサイルの脅威
アメリカ議会の有力議員が日本に核武装を考え、論じることを促した。日本側で大きくは取り上げられはしなかったが、さまざまな意味で衝撃的な発言だった。アメリカ連邦議会の議員がなかば公開の場で、日本も核兵器を開発することを論議すべきだと、正面から提言したことは、それまで前例がなかった。
この衝撃的な発言を直接に聞いたのは、2011年7月10日からワシントンを訪れた拉致関連の合同代表団だった。
p165〜
さて、この訪米団は、7月14日までアメリカ側のオバマ政権高官たちや、連邦議会の上下両院議員ら合計14人と面会し、新たな協力や連帯への誓約の言葉を得た。核武装発言はこの対米協議の過程で11日、下院外交委員会の有力メンバー、スティーブ・シャボット議員(共和党)から出たのだった。
p166〜
続いて、東祥三議員がアメリカが北朝鮮に圧力をかけることを要請し、後に拉致問題担当の国務大臣となる松原議員がオバマ政権が検討している北朝鮮への食糧援助を実行しないように求めた。
シャボット議員も同調して、北朝鮮には融和の手を差し伸べても、こちらが望む行動はとらず、むしろこちらが強硬措置をとったときに、譲歩してくる、と述べた。
p167〜
○日本の核武装が拉致を解決する
そのうえでシャボット議員は、次のように発言した。
「北朝鮮の核兵器開発は韓国、日本、台湾、アメリカのすべてにとって脅威なのだから、北朝鮮に対しては食糧も燃料も与えるべきではありません。圧力をかけることに私も賛成です」
「私は日本に対し、なにをすべきだと述べる立場にはないが、北朝鮮に最大の圧力をかけられる国は中国であり、中国は日本をライバルとしてみています」
「だから、もし日本が自国の核兵器プログラムの開発を真剣に考えているとなれば、中国は日本が核武装を止めることを条件に、北朝鮮に核兵器の開発を止めるよう圧力をかけるでしょう」
肝心な部分はこれだけの短い発言ではあったが、その内容の核心はまさに日本への核武装の勧めなのである。北朝鮮の核兵器開発を停止させるために、日本も核兵器開発を真剣に考えるべきだ、というのである。
そしてその勧めの背後には、北朝鮮が核開発を止めるほどの圧力を受ければ、当然、日本人拉致でも大きな譲歩をしてくるだろう、という示唆が明らかに存在する。
p168〜
つまりは北朝鮮に核兵器開発と日本人拉致と両方での譲歩を迫るために、日本も独自に核武装を考えよ、と奨励するのである。
日本の核武装は中国が最も嫌がるから、中国は日本が核武装しそうになれば、北朝鮮に圧力をかけて、北の核武装を止めさせるだろう、という理窟だった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ ようやく国際的な現実に追いついてきた憲法改正議論 国際激流と日本 古森義久 2012-12-27 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉
...........