感動読み物 この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた 伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 前編 生き別れた父を探して
現代ビジネス 2014年06月11日(水)「週刊現代」 田崎健太ノンフィクション作家
何かあるとすぐ、ふてくされた。GMにも噛みついた。でも、誰よりも速かった。日本最速エースは周囲と衝突しながらメジャーを目指し、道を切り拓いた。だが、夢見た舞台で待っていたのは—。
ロサンゼルス市内の和食屋に現れた伊良部秀輝を見て、ぼくは想像していた人間とはずいぶん印象が違うと思った。
190?を超える身長、大きな上半身、顔つきはテレビで何度も見てきた伊良部だった。ただ、顔色が青白く、マウンドで打者と対峙していたときのようなふてぶてしさはなかった。
日付は'11年5月26日。引退後、ロサンゼルスで暮らしていた伊良部への取材は4時間にも及んだ。
一般的に伊良部は扱いづらい男と思われており、事実、資料集めをしていても、彼のインタビュー記事は数が限られていた。
千葉ロッテ・マリーンズからニューヨーク・ヤンキースへの移籍で揉めた際の、ふてくされた顔を思い出す人もいるだろう。ヤンキース時代にはオーナーだったジョージ・スタインブレナーから、緩慢なプレーを指して「太ったヒキガエル」と呼ばれて、臍を曲げたこともあった。
「勝手に俺の写真を使うな」
「お前、名刺を出せ。その裏に実家の連絡先も書け」
そう報道陣に食ってかかり、差し出された名刺を破ったり、ペンを奪い取って真っ二つに折って捨てたりした。ボールを投げつけたこともあった。
ところが、実際の彼は穏やかで饒舌だった。
「どうして軽く投げて、あんなに速い球が投げられるんですか?」
伊良部は帽子を飛ばし、腕をちぎれんばかりに振って投げるという感じではない。軽やかに投げているように見えるのだが、腕から放たれた球は時速150kmを超えていた。
ぼくの問いに伊良部はフフフと声を殺して笑った。
「途中までは軽く投げてますよ。力を入れるのは最後、ボールを放すときだけです。それ以外は力を入れても意味がないというか、腕のスイングが遅れたらいけないんで。技術的な話をしますと、できるだけ腕が見えないように、腕を隠す」
伊良部は右腕を背中の後ろから素早く振った。
「球の速さよりも球の出所が見えないほうがずっと大切ですよ」
野球の話は尽きなかった。少々、元気がないことが気になったが、頭の回転が速く、愉快な男だった。
ただ、一度だけ、彼が不機嫌になった場面があった。それは実の父親に関する質問をしたときだ。
彼は子どもの頃、実の父親と生き別れている。父親はアメリカ人だった。伊良部がロッテと激しく揉めてもアメリカ行きにこだわったのは、父親を探すためだと報じられていた。
「誰がそんなことを言ったんですか?」
伊良部の剣幕にぼくはたじろいだ。
「そういう報道が沢山ありましたが……」
「それは事実ではないです」
きっぱりと言い切った。
「だってぼくは本当の父親が名乗り出てくるまでは、自分の父親がアメリカ人だと知らなかったんですもの」
知らなかったんです、ともう一度繰り返した。
「アメリカに行って初めて知ったんです」
「どうやって本当のお父さんがアメリカ人だと知ったんですか?」
「いきなり父親だと名乗り出てきたんです。ぼくは確認しようがないから、母親に連絡したら、そうだって。ぼくがアメリカに行ったのは父親を探しに行くためではないです。誰がそんなことを言い出したのか分かりませんけれど」
「全く違うんですね」
「……面白いですね、ぼくがアメリカに行きたかった理由が父親に会いたかったからだなんて」
冷たく笑った。
伊良部の姿形は子どものころから周りと違っていたと聞いていた。この答えには納得できなかったが、話題を変えることにした。
翌日は撮影のために、西海岸らしいビーチへ行き、その後、野球用のグラウンドで、ぼくとキャッチボールをすることになった。
「本当に投げるんですか?」
彼は最初、乗り気ではなかった。それでも球の感触を確かめるように、ゆっくり投げ始めると、止まらなくなった。グローブから鋭い音がした。ずっしりと重い、鉛の感覚が手に残った。
カメラマンが「もういいですよ」と言ってからも、伊良部はしばらくキャッチボールをやめようとしなかった。ボールを投げることが楽しくて仕方がないようだった。
別れ際、「またロサンゼルスに来ます。話を聞かせてくださいね」とぼくは声をかけた。
「いいですよ。連絡ください」
伊良部はにこっと笑った。しかし、その約束は果たされなかった。この取材から約2ヵ月後、伊良部は自らの命を絶った。ぼくは彼にきちんと話を聞いた最後の人間となった—。
*「大リーグで親父を探す」
伊良部は少年時代を、兵庫県尼崎市で過ごしている。ボーイズリーグ『兵庫尼崎』でバッテリーを組んでいた高島正春は、中学1年の時、伊良部の家へ泊りに行ったときのことをはっきりと覚えていた。6畳ほどの小さな部屋が二間あるだけのアパートだった。食事の前に一緒に銭湯へ行くことになった。服を脱いで裸になった伊良部は「見てみ」と股間を指さした。陰毛がきらきらと光っていた。透明に近い金色だった。
「実は俺のホンマの親父はアメリカ人やねん」
高島は一緒に住んでいる「父親」と伊良部が似ていないことは気がついていた。
「金髪のアメリカ人らしい。将来大リーグへ行って、親父を探すつもりや」
伊良部は中学生時代から、メジャーリーグの舞台に立つことを考えていたのだ。
その後、伊良部は野球留学で香川の尽誠学園高校に進む。一つ下の学年で、寮で同じ部屋だったのが、佐伯貴弘だった。
佐伯は後に横浜ベイスターズで活躍し、現在は中日ドラゴンズの二軍監督を務めている。
佐伯も高校時代、伊良部が「大リーグでやりたい」と言っているのを耳にしている。しかし、当時の高校球児にとってメジャーリーグは遠い世界だった。どうやって行くのだろうと佐伯は思っていた。
伊良部は高校2年生、3年生と連続して夏の甲子園に出場。'87年のドラフト会議でロッテ・オリオンズから1位指名を受けた。
しかし、伊良部は浮かない顔をしていた。
「ロッテに行くんですか?」
佐伯が尋ねると、「行かなしゃーないやろ」とぶっきらぼうな答えが返ってきた。ロッテは意中の球団ではなかったが、拒否すればメジャーリーグへの道が遠くなる。アメリカに行くためにロッテに入るのだと佐伯は理解した。
しかし—メジャーどころか、伊良部はプロでなかなか結果を出せなかった。160km/h近い速球を投げようが、プロの打者はストレートが来ると予測できれば、どれだけ速くともバットに当てることはできる。伊良部は変化球でストライクを取れず、ストレートを狙い打たれた。
プロ入り5年め、'92年シーズンは1勝もできず、0勝5敗で終わった。伊良部は野球を辞めることさえ考えるようになっていた。
転機が訪れたのは、'93年8月のことだった。香川県で行われた日本ハム戦で、伊良部は先発の牛島和彦に代わってマウンドに上がった。伊良部は牛島から球を受け取ると「ウシさん、ぼくのどこが悪いか見ていてくれませんか?」と頼んだ。
伊良部より8歳も年上だということもあって、二人に接点はなかった。ほとんど口を利いたことのない自分に話しかけてくるというのは、よほど切羽詰まっているのだなと牛島は思った。
その試合以降、伊良部は牛島の自宅に通い、酒を飲みながら野球の話をした。ときに、窓ガラスを鏡代わりに、シャドウピッチングをすることもあった。
「なんでウシさんの133km/hに詰まるのに、ぼくの155km/h、156km/hが打たれるんですか?」
伊良部の問いは直截的だった。体重移動、ボールを放すタイミングがすべて合うと「一番いいところでピチッとボールに指がかかって力が入る」のだと牛島は表現した。そのためには、フォームを一定にする必要がある。
「スムーズなフォームで投げると、体重移動が巧くいく。そうすると気持ち良く腕が触れる。違和感がない」
こうしたやり取りは毎晩2時、3時まで続いた。やがて伊良部は牛島の家を訪れる時に、パジャマを持参するようになった。伊良部が登板した試合のビデオを見ながら、打者の心理を解説することもあった。
*ヤンキースの黄金時代に
牛島の助けを借りて、伊良部は覚醒した。
翌'94年シーズンに15勝10敗、最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。'95年、'96年はそれぞれ11勝、12勝を挙げて、2年連続最優秀防御率を獲得。日本を代表する投手となった。そして'97年シーズン、念願のニューヨーク・ヤンキース入りを果たす。
このとき、ヤンキースは黄金時代を迎えようとしていた。特に、'98年シーズンのヤンキースは圧倒的な強さを見せつけた。2位のボストン・レッドソックスに22ゲームもの大差をつけ、114勝48敗というアメリカン・リーグ記録となる勝率で優勝したのだ。
ヤンキースの力の根源は盤石の投手陣だった。デビッド・コーン、アンディ・ペティット、デビッド・ウェルズ、オルランド・ヘルナンデス、そして伊良部。クローザーにはマリアーノ・リベラがいた。ワールドシリーズでもサンディエゴ・パドレス相手に4連勝、無敗でワールドチャンピオンに輝いた。
このシーズンのヤンキースは史上最強のチームと称えられている。経験ある選手と若手選手、パワーとスピード、登録選手25人が自分の役割を理解している、完璧に近いチームだった。
伊良部は投手のリーダーであるコーンからこんな言葉をかけられたことがある。
「俺たちは車で言えば、タイヤみたいなものだ。一本でも空気が抜けていたら優勝できない」
先発投手陣を自動車のタイヤにたとえたのだ。最強チームで、1年間を通して伊良部は先発ローテーションを守り13勝を挙げた。アメリカで最も人気のある球団、ヤンキースの中心選手となった伊良部の名前は、広く知られるようになった。
〈伊良部はアメリカの軍人だった実の父親と生き別れになっている〉
そんな新聞記事がアメリカで掲載されて以降、何人か「自分が伊良部の父親である」という男が名乗り出てきていた。
遠征先のデトロイトで、通訳の石島浩太はクラブハウスの職員から「『伊良部に渡してくれ』と頼まれた」と厚い封筒を渡されたことがあった。ある老婦人が持ってきたものだという。
封筒には英文の手紙が添えられており、〈私の兄があなたの父親だと思います。二人が会える場所を作りたい。外で待っているので出てきてもらえますか〉と書かれていた。封筒にはモノクロ写真がいっぱい詰まっていた。伊良部はちらりと手紙を見てから、写真を見た。背格好、顔つきが伊良部によく似た大柄の男性が写っていた。
「似ているね」
のぞきこみながら、石島が感想を漏らした。
「くりそつですね」
伊良部は、けらけらと笑った。
「どうする?会ってみる?」
「いいです。これ、返しておいてください」
その後、ニューヨークポストの記者を通じて「私の弟が伊良部の父親かも知れない」という人物も接触を図ってきたが、名前と写真を一瞥しただけで会おうともしなかった。
*5月5日の記憶
石島の後を受けて伊良部の通訳となったジョージ・ローズは伊良部から父親の話を聞いたことがあった。
母が沖縄で暴力事件に巻き込まれたときに助けてくれたのが父だった。父はアメリカの軍人で、困っている人を放っておけないやさしい人だった—母から聞いたという話から、伊良部が父を尊敬している様子はうかがえたが、「会いたい」と口にしたことはなかった。
そして'99年春—フロリダ州タンパで行われていた春季キャンプにも、父親を名乗る人物から手紙が届けられた。球団職員から手渡された手紙を一読すると、伊良部は、何かが爆発したような、はっとした顔になった。
差し出し人は〈スティーブ・トンプソン〉。
母親から実の父親だと教えられていた名前だった。
伊良部はすぐに日本の母親に電話して、手紙の内容を確かめ、トンプソンと会うことにした。
トンプソンはボビー・バレンタインのインタビュー記事で伊良部秀輝という投手の存在を知った。
かつてバレンタインはロッテの監督を務めており、伊良部のことを名投手、ノーラン・ライアンになぞらえて「ジャパニーズ・ノーラン・ライアン」と評していた。一体、どんな投手なのだろうと思っていたのだ。
'97年7月10日、トンプソンはいつものように大好きなヤンキース戦にテレビのチャンネルを合わせた。アナウンサーが、この日が初登板となる伊良部の経歴を説明していた。
—5月5日。
その誕生日を聞いて、トンプソンの記憶が蘇った。
アメリカ軍の気象予報士だったトンプソンは、'66年から沖縄に駐屯していた。'68年から'69年に掛けてベトナム戦争に派遣されている最中に、沖縄で付き合っていた日本人女性が子どもを産んでいた。その子の誕生日が5月5日だった。
あわててテレビに顔を近づけて、マウンド上の投手の顔をまじまじと見た。アナウンサーは伊良部が兵庫県生まれだと続けた。
「違う」
トンプソンは思わず声をあげていた。
(沖縄のコザで産まれたんだ)
伊良部の顔つきは、若き日の自分に似ていた。
「ジャパニーズ・ノーラン・ライアン」は99パーセント、沖縄で生き別れになった息子だ。トンプソンは思い悩んだあげく、キャンプ地に伊良部を訪ねることにしたのだった。
しかし、血を分けた実の親子の再会はとても劇的とは言えなかった。その再会は伊良部の心をかき乱し、思わぬ騒ぎを引き起こすことになる。(以下次号)
<筆者プロフィール>
たざき・けんた/'68年、京都生まれ。'99年に小学館を退社後、ノンフィクション作家に転身。伊良部の最後のインタビュアーとして彼の実像を伝えるべく日米各地で取材。『球童』(講談社)を上梓した
「週刊現代」2014年5月31日号より
◎上記事の著作権は[現代ビジネス]に帰属します
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◇ (動画)入団、結婚・・ ・http://www.youtube.com/watch?v=3D36
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